4.26 (金)16:30
「うらぁああああああ!」
ドン、ドンドンッ、パンチンググローブに包まれた重い拳がヘヴィーバッグをキシキシと揺らす。
「ふん! ふん! ふぁあっ!」
ジャブにストレート、ボディーフックにアッパーカット、ありとあらゆるパンチを、複雑なコンビネーションに乗せて繰り出す真央。
「っらあっ!」
ズンッ!
全体重を乗せた右ストレートが、弾丸のようにバッグへと突き刺さる。
――カンカンカァン――
タイマーに内蔵されたゴングの音が、三分間の終了を告げる。
「……っはあっ、っはあっ、っはあっ……」
真央は、サンドバッグにクリンチするかのようにもたれかかる。
「……はあっ、はあっ、はあっ……」
同じく、サンドバッグの前で呼吸を整えようとする丈一郎。
「……な、なんか、最近、気合、入ってるね……ま、マー坊君……」
底知れぬスタミナを誇る真央が、ここまで呼吸を乱す光景を、丈一郎は珍しそうに眺めていた。
「……ぶはあっ、はっ、はっ、は……」
その巨体が、姿見の前で崩れ落ちる。
レッドは真央の言いつけを守り、ただひたすらにロープワークとステップ、そして左ジャブを繰り出し続けていた。
「……で、で、でも……す、すごいっす……自分がジャブを、一発出すまでに……さ、さ、さ、三発は……はあっ、はあっ、パンチ、出てましたから……」
すると真央は
「……ま、天才だからな……」
と呟き
「っらあっ!」
ズン!
右フックをバッグの側面に叩き込む。
ギシギシ、ミシミシと音を立て、サンドバッグはゆらゆらとゆれた。
「……けどよ、まだ、まだまだ……たんねえよ……こんな……こんなもんじゃあよ……っかあっ!」
ズン!
今度は右アッパーをバッグに叩き込む。
「おつかれさまー、10分間の休憩でーす」
奈緒は三人にタオルと、ドリンクの入ったスクィージーを配って回った。
「はい、マー坊君も」
「サンキュ」
そういうと、真央はタオルとスクィージーを受け取った。
すると、タオルを首にかけ
「わりぃ、ちょっと行ってくるわ」
そして、ロードワーク用のスニーカーに履き替えた。
「ちょっと10分間だけダッシュ行って来るわ」
「え? 何言ってるの?」
ぎょっとした表情で訊ねる丈一郎。
「休憩の時はしっかり休まなくちゃだめだって、マー坊君いってなかったっけ?」
「そ、そうだよ、マー坊君!」
慌てて奈緒も言葉をさしはさむ。
「何か最近、ほとんど休憩していないじゃん! いくら試合が近いといっても、追い込みすぎじゃない? やっぱり休むときは休んでおいた方が……」
「まあな。だけど、これは俺の問題だ」
そういって、振り返ることなく部室のドアを開ける。
「心配する必要はねーよ。自分の体調くらいは、自分でしっかり把握してっからよ」
そして、勢いよく外へと飛び出して言った。
「……ねぇ、最近マー坊君、様子おかしくないかなぁ……」
ストレッチをしながら、丈一郎は奈緒に訊ねる。
「早朝のロードワークに、朝練、そして通常の部活。それだけじゃなくて、その後でみんなが帰った後も自主練してるでしょ、マー坊君。しかも、オフの日だって自分だけ練習してるし。いくらなんでも普通じゃないよ」
「……実は、わたしもそう思うんだ……」
心配そうな表情の奈緒。
「こんな無茶な追い込み方、プロだってしないよ。いくらなんでもオーバーワークだよ。試合が近くて、追い込みたいって気持ちはわかるんだけど……」
「た、確かにそうっすね」
鏡の前で、真央に言われたとおりの構えを作るレッドも言った。
「も、もともと、見た目おっかない人っすけど、最近は特に、練習中は鬼気迫る表情って言いますか、なんだか、怖くなるときがあります……なにか、言い知れようのないものを、爆発させるみたいにぶつけているようにしか……」
「家での様子はどうなの? 奈緒ちゃん」
丈一郎は、日常生活においてことなった点はないか訊ねたが
「……ううん、なんだか、家にいるときはむしろいつもよりも明るいくらいなんだけど……」
人差し指で唇を押さえながら、奈緒は首をかしげた。
「……なんだろ、何か悩みでもあるのかなぁ……」
――数十分後――
ガタリ、立てつけの悪い扉が軽々と開け放たれる。
「かっ、はっ、はっ、はっ……」
体中を汗にまみれさせ、呼吸も絶え絶えになりながら真央は戻ってきた。
それはちょうど、休憩時間が終わろうとするその直前だった。
「……ぃよお、ただいま……」
「マー坊君!」
奈緒は慌てて真央のもとに近寄る。
「最近どうしたの!? 追い込みすぎだよ! 無茶しすぎなんだから!」
そして、タオルを包み込むようにして真央の肩にかける。
「いくらマー坊君がタフだからって、無茶しすぎたら体壊しちゃうよ!?」
「そうだよマー坊君!」
立膝をつく真央の元に、同じく駆け寄り声をかける丈一郎。
「僕にオーバーワークはいけないって言ってたくせに、マー坊君こそ最近おーあーワーク気味なんじゃないの?」
すると真央は、その顔を見ることもなく
「大丈夫だよ。こんなもん大したこっちゃねえ。言ったろうが。俺の体は俺が一番よく知ってるってなぁ」
そして、なおの頭をわしわしと乱暴になで
「へっ、心配してくれてありがとな。だけどさ、なんか、今はとにかくボクシングやってねえと気が済まねえんだわ」
そういうと、ゴングの音も待たずに大きな姿見の前に立ち
「っしゃあ!」
気合十分、シャドウボクシングを開始する。
その様子を、レッド、丈一郎、奈緒の三人は、心配そうに眺めていた。
――カンカンカァン――
一ラウンド、そして練習時間の終了を告げるゴングの音が鳴り響く。
「お疲れ様ー」
奈緒は元気な声で叫ぶ。
「……っはあっ、っはあっ、っはあっ……」
丈一郎は16オンスのグローブを外し、そしてヘッドギアを脱着した。
「……はっ、はっ、はっ……」
おそらくは、今日の練習だけども丈一郎の軽く2倍近くは体を酷使していた真央も、大きく肩で息をしていた。
「……しゅう、しゅう、しゅう……」
首元にこびりついた脂肪が多少は減少したものの、それでも苦しそうにレッドも拳を下ろした。
「……そ、それじゃあ……集合!」
リングの上で、丈一郎が部員たちに主将として声をかける。
それに合わせて集まってきた部員たちに対し
「……そ、それでは、本日の練習を、これで終わります……よーぉ」
その掛け声に合わせ、部員全員が呼吸を合わせてパシンと手のひらをたたく。
恒例の、練習終了の合図だ。
「ねえねえ、マー坊君」
真央の肩にタオルをかけながら、奈緒が真央に語り掛ける。
顔を赤らめ、体をもじもじとさせながら
「……えっと、えとね……今日……もしよかったら、なんだけど、一緒に帰れないかな……」
と誘いをかけた。
しかし真央は
「……あーん、と……」
ばつが悪そうに、頭をもしゃもしゃとかき
「……わりぃ、俺もう少し追い込んでから帰るわ……」
そういうとふたたびウィンドブレーカーに身を包み、ロードワーク用のスニーカーに履き替える。
「……ねえ、マー坊君、最近本当に追い込みすぎだよ」
顔をしかめ、眉をひそめて丈一郎は言う。
「……今日くらいさ、皆で一緒に帰ろうよ」
しかし真央は
「……」
無言でドアをがたりと開けると、そのまま学園の街路の中へと消えていった。
「……そういうことでしたか……」
カフェ・テキサコの店内、初めてカフェ・テキサコに入店した葵は、ミルクティーを口に含みながら言った。
「……わたくしも、実は最近おかしいな、と思っていたんです。いつも以上にお昼ご飯をお召し上がりなのに、頬がこけてしまって痩せて行っているようにしか見えなくて」
「でもねー、ちゃんと筋肉と体重は維持してるんだよ」
ちゅー、グレープフルーツジュースのストローを加えながら奈緒。
「朝ごはん身最近はものすごく食べているんだよ。でも、消費する分も多いから、だからこそ動けるんだろうけどねー」
「はあ、うらやましいなあ……」
はぁ、とため息をつくレッド。
レッドはダイエットのため、ストレートティーを注文していた。
「自分なんか一生懸命動いて、食事も制限しているのに、全然痩せないっす……」
「まあまあ、あの人は特別だから。マー坊君と比較しちゃ大変だよ」
と苦笑する丈一郎。
「でも、やっぱりマー坊君、最近おかしいと思う。なんていうか、すごくナーバスになってるというか、テンションがおかしいていうか。ねえ――」
そして、向かいの窓際の席に
「――釘宮さんもそう思わない?」
黙々とレモンスカッシュを飲む桃に語りかけた。
「……ていうか、なんであたしや葵までボクシング同好会の会合に参加しなくちゃならないんだ?」
じろり、丈一郎を睨む。
「あははっ、そ、そんなに睨まないでよ」
へにゃっとした例の微笑みを返し、その笑顔でごまかそうとした。
「やっぱりさ、マー坊君の気持ちを一番よく理解できそうなのって、釘宮さんだと――」
「「「それってどういう意味」」ですか」
三人の少女たちの声が重なった。
びくっ、その剣幕になれないレッドは、委縮して体を父こませる。
しかし丈一郎は手慣れた感じで
「あはは、ごめんごめん」
となだめに回った。
すると
「おやおや、皆さんいらっしゃい」
もはや常連客となった少年少女に、マスターが声をかけてきた。
「また新しい顔連れてきたんだねえ。これもまたかわいらしいこと……ところで、あのモジャモジャ君がいないじゃない? どうしたの?」
「いやー、ちょっといろいろありまして。えへへへへー」
ごまかすように苦笑する奈緒。
「そっかー、若いからこそいろいろあるんだねえ……」
とこちらもため息をつくマスター。
「いやねぇ、うちも長らく勤めてくれてるマキちゃんが、実家にしばらく帰ります、って言って長期休暇に入っちゃったんだけど……あんなにかわいくてよく働いてる子が――」
「おう親父! さっさとラガー持ってこいや!」
酒に焼けた、山さんの声が響く。
その声に、肩をすくめるマスター。
「……だからマスターって呼べっての……それに、たまにはギネスくらい頼んでみなさいよ……」
とブツブツこぼし、カウンターへと消えていった。
その姿を見送ったのち、丈一郎は話を元に戻す。
「とにかくさ、ここは釘宮さん、釘宮さんなら何かわかるんじゃないかと思って、来てもらったんだよ。このままだとマー坊君壊れちゃうよ。だからさ、ね、お願い!」
その様子を見て、真央はしぶしぶと口を開く。
「……川西君だってわかるだろ? こういう時のあいつは、絶対に自分の心のうちなんて口にしないんだからな」
「けど、このままじゃ……」
その両目を潤ませる奈緒は、桃の手にすがって言う。
「お願い桃ちゃん! どうしたらいいか教えて!」
桃は、例の奈緒の頼み顔には逆らえない。
「……ああもう……なんであたしが……」
目頭を押さえ
「わかったよ! 理由とか聞けないとしても、あいつをなんとかすればいいんだろ!?」
そして葵を見て、ため息交じりに言った。
「……ここはまた、葵に頼むしかないか……」
きょとん、葵は目をまん丸く開いて
「……私……ですか?」




