3.8 (土)19:00
「さ、できたよ」
桃はソファーに座る真央に声をかけた。
「こんな時間だから大したもんできないけどさ」
「あ、うっす」
その声に従いダイニングへ向かう真央。
テーブルの上には
「うぉー、うまそー」
きちんとルーを別に盛り付けた欧風ビーフカレーに、クルトンと焼きアスパラガスを乗せ、塊のパルメザンを手ずから削ったシーザサラダ。
きちんと炒めた玉ねぎで作ったオニオンスープ。
大したものでははないと桃は言うが、高級ホテルのような豪邸のリビングで食べるそれはまさしく高級ディナーだった。
「桃ちゃんってね、ご飯作るのすっごく上手なんだよ」
トレーを持った奈緒がリビングに戻る。
その様子は、自分の姉を胸を張って自慢している、という風だった。
「見た感じモデルさんみたいで家事一切できなさそうなんだけどね」
「何言ってんの。奈緒はもう少し家事を覚えなよ」
同じくリビングに入って来た桃はがテーブルに腰を下ろす。
「そうは言うけど、わたしは桃ちゃんみたいに器用じゃないし……」
ややいじけたような表情を奈緒は見せ、奈緒もテーブルに着く。
勉強も家事もスポーツも、何でもできる美しい姉。
自慢ではあるが、その姉の存在は奈緒にとってはコンプレックスでもある。
何をやっても桃にはかなわない、と考える奈緒にとって、日々の生活は、それを常に見せつけられているようなものだったから。
「要は慣れだよ。もっと積極的に家事をやらないと」
カチャリ、食器をテーブルに置きながら言う桃。
自分は姉であり、母親代わりでもある。
しっかりとその成長に対し責任を持たなければ、その自覚の上での発言だった。
「はーい」
しぶしぶ返事をする奈緒だった。
「それでは約3週間、新しい仲間を迎えましたことをお祝いいたしまーす」
先ほどとは、うって変わって明るい笑顔を見せる奈緒。
この切り替えの早さ、根っからの明るさは天性のものだ。
「いやー、照れるなー」
真央が恥ずかしそうに頭をかく。
「それではー! 我が家の大黒柱!」
そう言うと奈緒は大きな笑顔を見せ
「釘宮桃さんより一言、お願いいたしまーす!」
桃をびしっ、と指さした。
「え? あたし?」
戸惑いがちに桃は自分を指差す。
「うん」
にっこり笑う奈緒。
「わーい」
両手を可愛らしくぱちぱちと叩く。
一瞬困ったような表情を見せた後
「ったく、しょうがないなあ」
コホン、咳払いを一つ。
「では、今日はいろいろありましたが、とにかく秋元真央君を歓迎いたします」
「歓迎しまーす!」
奈緒が繰り返した。
「ありがとございやっす!」
真央ががばっと頭を下げた。
「加えまして、真央君の世界チャンピオンという夢がかなうことをお祈りいたしまして」
「「お祈りいたしまして」」
真央と奈緒の声が一つに揃う。
「いただきます!」
「「いただきます!」」
「うめえ!」
カレーを口にした真央は叫んだ。
「こんなうまいカレー初めて食べたわ!」
「ちょ、ちょっと君、大げさすぎ」
不意に真央の口をついて出た言葉。
初めてぶつけられたそのストレートな感情表現は、桃を戸惑わせた。
「あー、桃ちゃんもしかしてまた照れてるの?」
にやにやと奈緒が茶化す。
「奈緒!」
とは言いつつも、赤らんだその頬は誤魔化しようがない。
いつも奈緒と二人で食事をしていると、何を食べてもいつも通りの反応しか返ってこない。
こころに響く新鮮なコミュニケーションは、短期間の同居生活に、少しだけの安心感をもたらした。
「いや、ほんとだって」
ガツガツガツ、豪快にスプーンを運ぶ。
「俺、じいちゃんと二人暮らしだったから、女の人の料理なんて食べた記憶すらねーからな」
「ってことは、真央君ってさ」
スプーンを持つ手が止まる桃。
「ご両親は……?」
「ああ。死んだ」
ガツガツガツ、一方の真央の手は相変わらず忙しそうだ。
「母親と父親、両方な」
事もなげに、あくまでもそれがどうした、といわんばかりの様子だ。
「あ、ごめん」
桃は申し訳なさそうに頭を下げる。
「変なこと聞いちゃったかな」
考えてみれば、16歳の少年が故郷を捨てて上京してくるのだ。
普通の状況ではないことはわかるはずなのに。
「いや、なんでそんなことで謝んだよ」
ガツガツガツ、しかし真央は何一つ気にするそぶりは見せない。
「お袋なんて、いたことの記憶すらほとんどねーんだから。いたっていなくたって同じだって」
「じゃあさー」
もぐもぐもぐ、小動物のようにサラダを口にする奈緒。
「いつからおじいちゃんと暮らすようになったの?」
いつものように、心に浮かんだ疑問を素直にぶつける。
「ん、親父が死んでからかな」
ガツガツガツ、皿はあっという間に空っぽになった。
「えと、お代わりいいか?」
「どうぞどうぞ、召し上がれー」
そう言うと奈緒は真央から皿を受け取り
「作ったのは桃ちゃんだけどねー」
一言残し、にっこり笑ってキッチンへと向かう。
そして大盛のカレー皿をもってリビングに戻り、それを差し出した。
「召し上がれー」
「サンキューな」
真央は満面の笑みでそれを受け取った。
「あれ?」
ふと奈緒はいつもと違う桃の様子に気づく。
「桃ちゃん今日はあんまり食べないね。」
「そ、そう?」
ぱくぱくぱくぱくぱく、急にスプーンの回転が上がる。
「いつもどおりだと思うけど」
「桃さんって」
がつがつがつ、真央の腕は止まることはない。
「小食なんだな」
「そ、そそうかな?」
真央の顔から視線をそらす桃。
「ああ」
がつがつがつ、豪快にカレーを頬張りながら
「意外と」
これまた思ったことをストレートに表現した。
「意外と?」
桃のスプーンの回転が止まった。
「それはどういう意味?」
がつがつがつ
「いや、だって、そんなに」
がつがつがつ
「ガタイいいのに」
ガチャン!
ビクッ、奈緒の体が硬直する。
「も、桃ちゃん、そんなに毎日叩いたらテーブル壊れちゃうよ」
と桃をなだめようとするが
桃は聞く耳を持たず
「ご馳走様」
そういうと自分の食器を残したままイスから立ち上がった。
「あー、桃ちゃん、自分の食器は自分で片付ける約束でしょ」
咎めるように奈緒は言ったが
ギロリ、と鋭い目が二人を刺した。
「そこの無駄飯喰らいにやらせれば?」
そういうと桃はリビングを後にした。
「あちゃー」
奈緒は頭を抱えた。
リビングに流れる凍てつく空気。
真央はいたたまれなくなり
「奈緒ちゃん、俺またなんかまずいこといったかな」
真央は、なぜ自分の発言が桃の機嫌を損ねてしまったか理解していないようだ。
「ううーん」
なんともいえない表情を見せ、首を傾げて見せた。
「真央君って、女の子のきょうだいとかいる?」
「いや」
グラスに注がれた水を飲み干すと
「さっきも言ったけど、きょうだいどころか、お袋もいねーよ。ばーちゃんも早くに死んじまったからな」
「やっぱり」
腕組みをして奈緒はうんうんと頷いた。
「で、高校はたぶん男子校でしょ」
「ああ、よくわかったな」
なぜわかったのだろうか、奈緒の意外な洞察力に真央は感心した。
「えへへへ、まあ、なんというか…」
奈緒は苦笑いしながら頬をかいた。
「……表現の……問題?」
「表現?」
奈緒の真意を測かね、真央は疑問の表情。
「うん。なんていうか、その……」
自分自身も人のことを言うことはできないので、言いたくはないんだけれど、といったようなニュアンスを込め
「女の子に対してはもう少しデリカシーのある言葉を選んだほうがいいんじゃないかなー? なんて」
「でりかしー?」
初めて耳にした言葉を、真央は口の中でおうむ返しに繰り返した。
「でりかしー、ね」
真央にはその言葉の意味がよくわからなかった。
なぜ桃が自分に対し腹を立てたのか、そして自分の発言のどこに怒らせる要因があったのか、真央にはまるで理解できなかった。
しかし、そのでりかしーというものに気を使って話しかけなければならない、とにかく女ってのはめんどくさい連中だな、ということは理解できた。




