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    4.20 (土)14:20

 1630年、本国の迫害を逃れイングランドより清教徒たちが、約束の地を求めて大西洋を渡った。

 その翌年、プリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。

 古くは、ショーマット半島と本土とは、狭い地峡だけでつながっており、半島はマサチューセッツ湾とチャールズ川河口のバックベイに囲まれていた。

 初期に移住してきたヨーロッパ人は、この地域を「トリマウンテン」、すなわち三つの山と呼んでいたが、後に、一部の有力な入植者らの出身地であったイングランドのリンカンシャー郡ボストン市の名前をとり、現在に至るまでこの地はボストンと呼称されている。

 

 鈍く赤みがかったレンガの色は、その街の雰囲気をあたかも旧大陸の中世的な街並みのようでもある。

 絵葉書をそのまま現実世界に顕現させたようなその地、ビーコン・ヒルのエーコン通りに面した一軒のカフェのカウンター席に、レイバンの大きなティアドロップをかけた大柄な男がくつろいでいる。

 見事に剃り上げられた頭部と、荒々しさを感じさせながらもきれいに整えられた口ひげは、無言で腰掛けるその男の内面をいっそ雄弁に語っていた。

 身にまとう仕立てのスーツには一切の派手さはないが、しかし、それが確実に一流のテーラーの手によるものであることは、誰の目に見ても明らかだった。

 その手もとには、氷の入ったタンブラーと、栓の空けられたシュウェップスのトニックウォーター。

 現役中は一切のアルコール、そしてカフェインを摂取しないという彼の意志の硬さを示すものだった。

 おそらくこの世界中のスポーツ選手の中で、最も多くの現金を手にした男である。

 その人物が、取り巻き一人引き連れずたった一人で、ありふれたカフェでくつろいでいる。

 それゆえだろうか、人影まばらなこのカフェにおいて、誰一人彼の存在を詮索するものは存在しなかった。


 そんな中

「隣、よろしいですか?」

 眼鏡をかけた、いかにも如才のない一人の黒人男性が口元に小さな笑みを作り語りかける。


「……あんたは……」

 レイバンをやや下へ傾けるその男。


「『リングサイド』誌のジェームズ・ウォルターバーグです」

 そういうとジェームズ・ウォルターバーグ、ジミーは右手を差し出す。

「こんなところでお会いできるとは光栄です、チャンプ。ミスター・フリオ・ハグラー」


「……ジミーか。こんなところまでご苦労なこった」

 そういうと同じく右手を差し出し、力強くジミーの右手を握り返す。

「ネッドがいろいろ世話になったな。いや、むしろ俺の方が礼を言うべきか」

 そう言うと、タンブラーに注ぐことなくトニックウォーターのボトルを直接口につける。

「……むっう……」

 こみあげる炭酸に口元を硬直させながら

「アリアンを探し出してくれたのはあんたと、あの……えぇと、あの騒々しい……」


「チャールズ・ブライトマン、チャーリーです、チャンプ」

 ジミーはフリオの隣に腰かけながら、カウンター越しに

「すまないが、ブレンド」

 言葉少なく注文した。

「私自身は大した役には立ってはいませんよ。しかし、あなたとチャーリー、アリアン・オニールの間を繋ぐことができたという点におけるというならば、その感謝の言葉、受け取らせていただきます」


 その言葉を聞くと、フリオはふぅ、とため息をつく。

「回りくどい言い方が好きだな、インテリってやつは。あんたは素直に俺の感謝を受け取ればいいんだ」

 そしてまたひと口トニックを飲むと

「……むっ……」

 小さなしゃっくりをして再び口を開いた。

「ところで、こんなところまでお忍びの世界ボクサーを追っかけるなんて、いったいどういう了見だ? まあ、大方ネッドがアリアンを探す交換条件として俺の居場所を教えたってところだろうがな。用件を言ってくれ」


 眼鏡の奥に、目を光らせてジミーは言う。

「話したいことと、聞きたいことが」


「まず話せよ」

 トニックに口をつけながらフリオは言った。


「それでは」

 胸元から小さなメモ帳とペンを取り出すと、ジミーは質問を開始した。

「あのロバート・ホフマンが手がけている元オリンピックメダリスト、スン・シャミンがマカオにおけるノンタイトル戦で初黒星を喫しました」


「そうだったかな」

 何と言うことはなしに首を傾げるフリオ。

「プロモーターは同じだとはいっても、ほとんど面識がないからよくはわからないんだ」


 しかしそのフリオの言葉に一切構うことなく

「新興のアジア市場、特に中国、日本市場を開拓するために契約を結んだスン・シャミンの敗北は、ロバート・ホフマン氏のアジア戦略に大きなダメージとなったというのが、我々業界での見方です」

 淡々と、事実を事実として、一切の虚飾を加えることなく語った。

「そこでお聞きしたいことがあります。それは、今あなたがなぜここにいるかという点と深くかかわっています」

 まるで実験の結果を冷静に観察する科学者のように、ジミーは訊ねる。

「あの莫大な人口を抱えるアジア市場の開拓には、何よりも日本市場の開拓が必要不可欠です。利に聡いホフマン氏は、すでに数年前、あなたを使ってそれを実行しようとしたが、失敗してしまいました。そう――」

 一瞬の躊躇の後、ジャーナリストとしての使命を遂行するため、冷静に言葉を選びながら口を開く。

「ブンブーン相葉の、あの不幸なリング禍によって」


「……」

 ジミーの顔を一切振り返ることのないレイバンの奥に潜む視線からは、その感情を一切読むことはできない。

 受け取り様によっては非礼といわざるを得ない質問にも、一切の反応を示すことはない。

 フリオは、あくまでもその言葉に耳を傾けることに徹していた。 


 緊張感に押しつぶされそうになりながらも、努めてクールにジミーは言葉をつづける。

「我々の調べによると、あなたはニホンの、トーキョーに拠点を作りましたね。それもかなり大々的なものを。物件の名義を調べてみれば、それはあなたではなく、アップグレード社のものだった。これは、水面下で進む、フリオ・ハグラーの日本再上陸戦略が絡んでいるということなのではないですか」


「……」

 相変わらずの無口、無表情のままその言葉を聞いていたフリオだが、不意にニィ、と口元に笑みを浮かべる。

 そして、おもむろに

「ジミー、あんた、イチロー・スズキは好きか?」

 と訊ねた。


 その唐突な質問にジミーは

「イ、イチロー・スズキ、ですか」

 と戸惑うそぶりを見せたが

「ええ、まあ」

 とすぐに自身を取り戻し、その思うところを言葉にした。


 フリオは口元の髭をさすりながら言葉をつづける。

「あの国はな、ニホンという国は不思議な国だ。イチローと俺は、アメリカ国内では同程度の知名度を誇っているつもりだが、あの国に行けばあちらはスーパースターで、俺なんか単なるロッポンギでたむろしている不良外国人の一人にしか見えねえだろうよ」


「そんなことは……」

 取り繕うかのようにジミーは口を開くが


「ああ、別にフォローを入れる必要はない。俺自身がイチローを尊敬しているしな」

 これまた事もなげに軽く言った。

「だからこそ、だ。こっちでロードワークの度にファンやあんたらジャーナリストに騒ぎ立てられるよりは、ロッポンギの不良外国人としてほっとかれた方が、幾分もトレーニングに集中できるだろうよ。それに――」


 ぴくん、ジミーのジャーナリストとしての勘が、その一瞬の貯めに何かを嗅ぎ取る。

「それに……それにいったい何ですか」


「もう俺も、相当なロートルだ。あんたがあの記者会見で言ったように、投資の回収の時期がいつ来てもおかしくない年齢だ。だからこそ――」

 カウンターの上に置かれた拳、その両拳に、巨大な力が込められる。

「これが最後のチャンスなんだ」


「最後の……チャンス」

 眉間にしわを寄せ、訊ねるジミー。

「ロバート氏の年齢を考えれば、自身の手でアジア市場を開拓するという夢の実現が最後である、というのであれば、わかります。しかし、あなたにとって最後のチャンスというのは、いったいどういう――」


「最後は最後、すべてはすべて、だ」

 ジミーの言葉を遮るようにして、フリオは言った。

「ネッドの言葉ではないが、すべてには終わりが来る。俺とて、いつまでも戦い続けるわけにはいかない。引退問ものを考えなければいけない。しかし――」


「しかし」

 真剣な表情で返すジミー。


 そのあまりにも硬質な反応を笑い飛ばすように、フリオは小さく笑う。

「インテリのあんたにはわかりにくいかもしれないが、ボクサーがなぜボクシングを始めたか、その一番の根本的な部分とも関わっているのさ」

 フリオは両手を固く握り、拳を作りファイティング・ポーズを作る。

「あるものはどん底かの生活から這い上がるために。あるものはスポーツとしてのボクシングの魅力に取りつかれたために。しかし俺は、“男”になるためにボクシングをしているんだ」


「“男”……ですか」


 “To be a man”


フリオの発したその言葉は、世界有数の有名大学を卒業したはずのインテリジェンスを混乱させた。

「ボクシングにおいてあらゆる栄冠を勝ち取り、そして莫大な富を築いたはずのあなたが、マチズモの象徴たるあなたが、“男”になるためにボクシングを」


「ああそうだ。金のためでもない。名声のためでもない。そんなもののためにリングに上がるなんて、不純な行為だ。俺は“男”になるためにリングに上がり続けるんだ」

 そう言うと、フリオは中空に背筋の凍りつくような右ストレートを放つ。

「あの夜の直後、俺は大切なものを失った。情けない話だが、それは今でも俺の中で小さなとげとなって俺を苦しめる。だからこそ――」

 ふっと肩の力を抜き、拳を解く。

「――だからこそ俺は、残りのボクサー人生のすべてをかけ、あの日失ったものを取り戻す。そのためには、あらゆるものを叩きつぶす覚悟はできている」


「あの日失ったもの……」

 そのフリオの気迫に押されながらも、何とか自分を冷静に保ち、ジャーナリストらしい冷静さでジミーは呟く。

 そして、その左手の薬指に、初めて輝く何かを発見した。

「……あなたは、確か離婚をされていたはずでは。再婚されたのですか」


「いや。これはただ、失ったものを取り戻すための決意、といったところかな」

 その言葉に、ようやく満面の笑みで答えるフリオ。

「俺たちはこれからニホン、トーキョーに発つ。俺は、大切なものを失ったその地で、その失ったすべてを取り戻すのさ。何年かかろうともな。まあ、合衆国との往復生活も、そのためならばどうということはない」

 そして、ジミーの肩に優しく手を置く。

「悪いが、このことは秘密にしておいてくれ。まあ、あのチャーリーに話すくらいなら構わんが。その代り、必ずあんた等には真っ先にスクープネタを提供することを約束しよう」


 ジミーは、右手の指で眼鏡を直しながら

「わかりました。私もお約束しましょう」

 そう言うと、小さくため息をつきそしてほほ笑んだ。

「私も、陰ながらお手伝いをしますよ。それはそうと、これからフライトの忙しい時期に、あなたは一人で一体、何をしているのですか」


「まあ……スタッフ兼友人を待ている、ってとこか」

 両手のひらを宙にあけ、やれやれ、といったしぐさをとった。

「ほかのスタッフ連中はもうとっくに空港にいるんだが、その男は長らく生きてきて飛行機に乗るのが初めてだというんでな。色々仕度に手間取っているらしい。だから、俺がそいつを――」


 カランカランコロン――

 店内に来客を継げるベルが響く。

 見ればそこには


「オーヤー、ミスター」

 古いウールのグレーのスーツ。

 毛羽立ちの目立つハンチング帽とは対照的なおろしたての真新しいピカピカのシューズ。

 両手に大きなボストンバッグを抱え、抜け落ち隙間だらけの歯が目立つ口元に満面の笑顔を作り、ベンジャミン、ベン爺さんが顔を出した。

「オーヤー、海外旅行なんて何分初めての経験ですから、オーヤー、ミスター。しかもそこが、あのゲイシャガールとサムライがいる国ですからね、オーヤー。なかなか仕度に手間取ってしまいましたよ、オーヤー」


「世界広しといえども、世界チャンピオンとの待ち合わせに遅刻するようなのは、ベン爺さん、あんたくらいなもんだろうよ」

 再びフリオは、やれやれといった具合に両手のひらを宙にあけ、ため息をつく。

 そして右腕の時計を確かめ

「まあ、プライベートジェットだ。時間の調整は何とでもなるだろうがな」

 そうつぶやいて立ち上がった。

 ふと、フリオは何かに気が付き、そして胸ポケットから何かを取り出しジミーに示した。

「すまないが、ジミー、これをポストオフィスで出してくれないか? 手数料は」

 さらにズボンのポケットからドル紙幣の数枚を取り出し

「手持ちがこれしかない。これで勘弁してくれ。エアメールだからなかなか面倒かもしれんからな」


 その様子を無言のまま眺めていたジミーは

「了解しました。あなたの旅のご無事をお祈りしますよ」


「オーヤー、何を言っとりますか、眼鏡のブラザー、オーヤー」

 真剣だが、どことなく、いやどう見ても滑稽な表情で言うベン。

「オーヤー、自慢ではないですが、オーヤー、ブラザー、わしはこう見えても生まれてこの方一度も事故を起こしていないのです、オーヤー。だから、このベン爺さんが乗って居る限り、飛行機であろうがなんであろうが、絶対事故は起こらんのですよ、オーヤー」


 その様子に

「失礼」

 ジミーはようやく相貌を崩し、クックックッ、小さく肩を震わせ笑う。


 フリオは天を仰ぎ、そして肩をすくめてため息をつく。

「そうかい。それは頼もしいな」


 その言葉を聞くと、ベン爺さんは胸をどんとたたき、そして南部の黒人老人らしい、愛嬌のある笑顔でその顔を皺くちゃにしていった。

「オーヤー、ミスター」

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