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    4.20 (土)14:15

 ゴキィッ!


「がはっ!」

 強烈な左フック。

 赤いタンクトップを着た男は、顎を抑えながらキャンバスへと沈む。


「水野!」

「水野! しっかりしろ!」

 倒れた水野というボクサーのタンクトップと同じ色のジャージーを着た学生たちが、慌ててリングの上へと駆け昇る。 


 自身の背後に響く喧騒をよそに、少年はキャンバスに天井を仰ぐボクサーを振り返ることもなく、自らのコーナーサイドへと戻りグローブをはずす。


 身長は、およそ175センチくらいだろうか。

 青いタンクトップに包まれた肉体は、リング外からでもそうとわかるほどに引き締まっている。

 文字通りのボクサー体型だ。

 平均よりは高めの身長とそのリーチはほぼ同程度であろう。

 その目つきは鋭く、頬は彫刻刀でえぐったかのようなラインが走り、その少年の印象をいっそうシャープに、そしてクールに引き立たせていた。


「調子よさそうじゃねえか、神埼」

 リングサイド、ロープにもたれかかりながら訊ねる一人の学生。

 そのジャージーには、「拓洋大学」とかかれたロゴがプリントされている。

「一応そいつも今度の大学対抗戦に出場予定のやつなんだがな。2年も年上の大学生をこうも簡単にダウンさせるとはな」


「……内野さん……」

 その声のする方向を向くその目は氷の楊でもあり、見知らぬ人間であるならば凍え縮み上がるようなものであった。

「……いや、別に……」

 言葉少なく答えすその少年。

 少年はそれ以降無駄な言葉を口にすることなくヘッドギアをはずす。


「桐生先輩、タオル……」

 後輩が恐る恐る差し出すタオルに対しても


「……ああ……」

 その氷のような、しかしクールに整った顔に一切の表情を浮かべることなく応対する。

 そして、「拓洋大学」のジャージーを着る先輩、内野に対し

「……わざわざ東京から来てもらった先輩方には悪いっすけど、内野さん、ブロック大会のウォーミングアップにもならないっすよ……」

 タオルで体を拭きながら、何一つ飾ることのない言葉を口にした。


「何だとこの野郎!」

 その言葉を聞いた、同じく「拓洋大学」のジャージーを着た学生が

「内野先輩の、主将の後輩だからって、言っていいことと――」

 聞き捨てならんとばかりに食って掛かるが


「やめとけ」

 後ろ手に内野はその仲間を制した。

「別にこいつに悪気なんかねえよ。ただ単純に、思ったことを口に出しただけだ。その証拠に、見ろよ――」

 リングから下ろされた、相手選手を指差す。

「見たろ? あいつだって高校時代は全国大会出場経験があるのによ。それがあんな、いとも簡単にナックアウトされてんだ。あいつの言葉に何一つ嘘はねえだろうが」


「……くっ……」

 忌々しそうに拳をしまう学生。


「悪かったなぁ、神崎ぃ」

 にやりと笑い、ポンと神崎桐生の肩に手を置く内野。

「お前の高校戴冠記録を伸ばすためにも、って思って群馬まで遠征に来たんだがなぁ。学連の選手を全く寄せ付けずに一方的にのしちまうなんざ、やっぱりお前みたいなやつを天才って言うのかもしれねーな」


「……いや、別に……」

 表情一つ変えずに、全く相手に対しての関心を示していないかのように神崎は応える。

「……俺、これでも内野さんには感謝してますから。先輩にこの学校に誘ってもらわなけりゃ、俺なんて高校もまともに通えない様な家庭環境っすから。今奨学金貰ってこんな学生やってられんのも、内野さんのおかげっすからね。だから、大学生の練習くらい、いつだってつきあいますよ……」


「言ってくれるじゃねえか」

 内野は苦笑した。

「この群馬県内に、同年代じゃスパーリング相手もいねえだろうって思って、まあ親心で合宿組んだつもりだったんだがな。お前にしてみりゃあ、俺らの練習に付き合ってくれてた、ってところなのかねえ」 

 

「……まあ。そんなところっす……」

 けだるい雰囲気を身にまとい、神崎はペットボトルの水を一口含んだ。

「……そこに転がってる人には悪いっすけど、俺、実力勝負なら誰にだって負けるつもりはないすから……」


「そいつぁ、国体のことを言ってるのか?」

 腕組みをしながら、訊ねる内野。

「まあ、国体は実力以外のいろんな要素が絡み合ってるからな。このボクシング王国群馬でも、前橋教駿館の存在は圧倒的だ。この上毛商業はなんだかんだで群馬じゃ弱小校だからな」

 自分自身の出身校を、自嘲気味に語る。

「だがな神崎、お前は高二ですでに高校二冠を達成してるんだ。それに、この間の『ボクシング・ライムス』でも、あれだけでかでかと特集がされてたんだ。いくらなんでも、お前を選ばない手はねえだろ」


「……興味ないっすよ、そんなもん……」

 ふぅ、小さくため息をつく神崎桐生。

「……そんなもん、大人同士が勝手に決めればいいでしょう。俺は、与えられたリングで、目の前にいる敵をすべて倒すだけのことっすから……」


「変わんねえな、お前は」

 腕組みをしたまま苦笑する内野。

「どうだ? 決心着いたか? うちの監督も、お前の事をえらく評価してくれているんだ。当然っちゃあ当然だけどな。寮費も学費も、全部特待扱いだ。一度、うちの大学に練習に来てみてくれよ」


 その言葉に、ピクリと反応する神崎。

「……当然そのつもりっすよ。あの拓洋大のボクシング部で活躍できれば、就職も間違いないでしょうからね。俺にとってのボクシングは、自分の人生のためのもの、まあ、就職活動みたいなものっすから……」


「ボクシングが就職活動、か。まあ、お前らしいな。お前にはその年で、もう守らなきゃならないものが、あるんだったな」

 すると内野も、ペットボトルの水を一口含んだ。

「まあ、俺もなんだかんだで拓洋大に職員として残ることが内定してるしな。俺ごときでそんなもんだ。お前だったら、自衛隊体育学校でも何でも、もしかしたらオリンピックに出てプロにだってなれるだろうよ」


「……プロには興味ないっす。そんな不確定なもんに人生かけるつもりはないっすから……」

 肩にタオルをかけたまま

「……ただ、どうしようもないほどにやさぐれていた自分に、生き方を示してくれたのはボクシングだけっす……」

 そしてしゅるしゅると、バンデージを緩めまとめ始める。

「……そう言った意味でも感謝してますよ。内野さん、あんたに。路地裏で喧嘩ばっかりしていた俺をボコして、ボクシングの道に引っ張り込んでくれた。そうじゃなきゃ俺は、今でもその辺のチンピラと変わりのない生活をしていたんだ。あんたには感謝しかないっすよ……」


「あんときのお前は、本当にどうしようもないクソガキだったからな」

 と苦笑する内野。

「まあ、お前の人生だ。プロになるかならないか、お前が決めることだからな」

 ため息交じりのつぶやきを口にする内野。

「俺は密かにな、あの“ミスター・パーフェクト”フリオ・ハグラーを倒して、ブンブーン相葉の仇をうてるのは、日本人ではお前なんじゃないか、と思っていたんだ。お前はまだまだこれから肉体も技術も伸びしろがたっぷりとある。今お前はウェルター級だが、もしかしたらミドル級にも……なんてな」


「……ブンブーン相葉っすか……」

 その名前を聞くと、神崎のその視線はいっそう鋭くなる。

「……そういや中学んとき、一緒に通ってたセキネ道場で古いVHS見ましたね。あの“マーベラスの再来”フリオ・ハグラーを唯一ダウンさせた日本人。本当にあの時は柄にもなく全身の血が沸騰するかのような興奮を覚えましたよ。ただ――」

 汗を十二分にすったタンクトップを脱ぎ捨て、一切の脂肪のない、筋肉の繊維も伸びやかな上半身があらわになる。

 そして、ヒュンヒュンヒュン、目にもとまらぬコンビネーションを繰り出していった。

「ただ感動したのは、その闘志だけです。技術的に見れば、お粗末この上ない。プロとアマの違いは十分知ってます。それにしても、っすね。悪いっすけど、いかに東洋太平洋チャンプだろうと、自分と一緒にされたくはない……」

 ブンッ、はやてのような左フックを宙に叩き込み、言葉を繋げる。

「……今は無理かもしれませんが、きちんと体を作り上げることができれば、あのフリオ・ハグラーだって倒して見せますよ……」


「頼もしいな。まあ、プロにならないとしても、俺はお前が残る高校5冠、全部獲得してくれるだろうと期待しているよ」

 その後輩のはねっかえりの強さ、その頼もしさに内野は頬をゆるめた。

「それはそうと、今日はもう上がりか? まあ、お前の相手を務められる奴は、水野がこの状態だからもういないのは間違いないんだが……」

 といいかけると、内野は納得したようにうなずいた。

「……そうだったな。お前には、もう守るものがあるんだったよな」


「……ええ。これからちょっと、ね……」

 全くの表情が感じられなかったその顔に、ようやく少年らしい微笑みがさす。

「……俺はもう、一人じゃないんだ。前みたいに、たった一人で踊るような人生じゃない。だから、何としても……」

 上半身裸のまま、左拳を強く握りこむ。

「……なんとしても、俺自身の人生、勝ち上がって見せますよ。この拳でね。そのためなら、何だってできますから……」

 そういって内野をはじめ年上の大学生に頭を下げた。

「……んじゃ、失礼します……」

 その悠然とした足取りに、2歳以上年上の大学生は恐れをなしたように道を開けた。

 大学生とはいえ、先ほど自分たちの仲間を圧倒的な力量でナックアウトしたこの少年に脅威を感じたかのように。


「ああ。またな」

 ただ、神崎の中学時代の先輩であった内野だけが、両目を細めてその後姿を見送っていた。

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