4.15 (月)19:10
「でも、本当にびっくりしちゃったよー」
カフェオレ用の、大き目のマグカップを両手に包みながら奈緒は言う。
「帰ってきたら、岡添先生とマー坊君が……」
と、頭の中にあの瞬間の光景がよぎり、顔がぽおっと上気するのを感じる。
「……ま、まあ、誤解だったんだよね! うん! マー坊君が、あんなことするはずないもんね!」
と、ややぬるくなったカフェオレを一気にごくごくと飲み干した。
「……うん。まあ、そうだね、まあ――」
その向かいに座り、入れたまま湯気も立たなくなったコーヒーカップを見つめる桃。
「――少なくとも、マー坊は、ね」
「んー?」
きょとんとして訊ねる奈緒。
「それ、どういう意味ー?」
「……」
あの瞬間桃は、あの男性アレルギーの塊ともいえる岡添からなんとも言いようのない艶めいた気配を感じ取っていた。
その言葉通り、間違いなく真央自身にその気はなかったのだろう。
しかし、岡添から感じ取ったその艶は、岡添のこころのとからだの変化をいやおうなく桃に見せ付けていた。
意識してはいないのかもしれないが、おそらくは葵も、そして奈緒もこころのどこかで感じ取っていたはずだ。
“だけど、気をつけてね。あれだけかっこいい男だもん。ライバルはたくさんいるって思っておいた方がいいよ”
何度頭を振るっても、丈一郎の言葉がこころから離れない。
「……ま、日曜日に何が起こったか知ることできたんだからいいんじゃない? へんな誤解も解けたしさ」
話を切り替えるようにお茶を濁した。
「うーん、でもやっぱり理解できないなぁ」
葵と同様、やや不満そうに小首をかしげる奈緒。
「悪いのはその三年生なのに、なんでマー坊君がその罪を全部かぶっちゃうんだろ。やっぱり、わたしは納得できないなー」
「まあ、ね」
その妹のかわいらしい仕草を見て、小さく微笑む桃。
自分自身でもやや納得のいかないところだ。
この高校生になったばかりの少女にはなおさら理解など望むべくもないだろう。
「でも、少なくとも男の、というか、マー坊の言い分も理解できないわけじゃないだろ? だからさ、ここはあいつの好きなようにさせてやったらいいんじゃないの」
そういって、ようやくコーヒーカップを手に取る。
「あたしらはさ、結果はどうあれ、あいつらのことを信じてあげようじゃないか」
「……んー、それでもやっぱり釈然としないなー」
さらに不満をこぼす奈緒。
静かに瞳を閉じ、その消し飛んでしまったコーヒーの香りを何とか捕らえようとする桃。
「まあまあ、そこは言ったじゃん。私たち女には理解しがたい部分だって。だからさ、あんなバカな連中のことほっとくつもりで……」
「ちがうよ」
真剣な表情で、真っ直ぐに桃を見つめて口を開く奈緒。
「え、えっと……何?」
今まで見たことがないような、大人びたその声のトーンとその表情に、戸惑いの声をあげる桃。
「さ、さっきも言ったとおりの――」
「また桃ちゃんだけなの。マー坊君の気持ち理解できてたの」
じっと瞳をそらすことなく、そのこころを推し量ることもできないような様子で桃を見つめる奈緒。
「あの練習試合の時もそうだよ。リングに立ったときのマー坊君の気持ち、理解できていたのは、わたしだけじゃなくって葵ちゃんもだけど、誰もいなかったもん」
そして、一瞬の躊躇の後
「桃ちゃん以外は」
その言葉は、鋭い刃のように桃のこころに突き刺さる。
「……そんなこと……」
胸の鼓動の高鳴りが、桃から言葉を奪い去る。
「それだけじゃないの。あの時、リングに立つ直前のマー坊君ね」
そして、小さく瞳を閉じる。
それが再び開かれた時、その目は美しく、艶めいた潤みを見せる。
「言ったんだ。“俺ああいう女、嫌いじゃなあよ”って」
どきん、今度は、その早まる鼓動が急ブレーキをかけられたかのように凍りつく。
「えっ!? それって、どういう……」
その桃の様子を見て、小さくため息をつき俯く奈緒。
「やっぱり、悔しいなあ。なんだか二人って、すごく似てると思うの。なんだか、すごく――」
そして小さくうなずき口を開く。
「うん。なんだか、すごく心が通じ合ってるみたいに見えるの。それがね、すごく悔しいの。私たちにはわからない、二人だけの世界にいるみたいで。きっと葵ちゃんもそうだと思う」
その言葉に
“今日、真央君の心を本当に理解できていたのは、奈緒さんでも、川西君でも私でもありません。桃さん、あなただけでした”
桃は葵の言葉を思い出す。
さらに奈緒は続ける。
「わたしね、こういう気持ち初めてなの。なんだか、桃ちゃんもマー坊君も大好きなのに、二人が一緒にいると、二人のことが嫌いになっちゃうの。それでね、そういう私自身が、すごく嫌いになっちゃうの」
その両目から、小さく涙が伝う。
「やっぱり、おかしいよね。桃ちゃんもマー坊君にも、嫌われちゃうかなー」
その様子を、桃は無言で見つめていた。
ほんの数週間前まで、子どもだとばかり思っていた妹の奈緒。
その奈緒が、おそらくは自分自身の気持ちの変化に戸惑い、涙を流している。
その成長に桃は目を見張り、と同時に、今まで以上にこの妹をいとおしく思えた。
「あたしはさ、むしろ奈緒や葵の方が羨ましい」
フッ、小さく口元を緩める桃。
「別にフォローするつもりじゃなくって。こころからそう思ってるよ」
「え?」
いつもの、かわいらしくきょとんとした表情で訊ねる奈緒。
「どういうこと?」
「あたしはさ、何だかんだで考え方が男なんだよ。だから、マー坊、マー坊だけじゃなくて川西君、レッド君の考え方がわかるんだと思う」
先ほどの奈緒の真っ直ぐな視線、そして言葉に答えるように、同じく真剣な表情で口を開く。
「あたしにしてみれば、真相がわからない中で、混乱しながらとにかくマー坊たちのことを心配できた、あんたや葵が羨ましく思えたんだ。あたしはさ、なんか悟ったようなことばっかり言ってて、なんだかすごく自分が冷たい人間に思えてきたんだ。こういうとき、女の子なら――」
両腕で自分自身を抱きしめるような仕草を取る。
「――女の子なら、何を差し置いたって、相手を心配してやるんじゃないかなって。そういう素直な気持ちを出せること、すごく女の子らしくって、あたしは本当に羨ましくなったんだ。あんな、女の意地とか言っちゃったけどさ。あれは、あたしの精一杯の強がりなんだ。マー坊たちを、あいつらを気遣ってあげられなかったあたし自身のさ」
今までこころの中に思っていても口に出すことのできなかった、素直な気持ちを吐露した。
「……そっか、初めてわかったよ。桃ちゃんの気持ち……」
その言葉を聞くと、ようやく奈緒の表情が、いつのも柔らかいものに変わった。
先ほどまで見せていた、びっくりするほどの大人びた表情は、どこかへと消えていた。
「なんか、やっぱりきょうだいなんだねー、私たち。正反対だけど、すごく似てるんだなって、そう思った。うん。だけど――」
顔を上げ、桃に向かってあのかわいらしい、大きな微笑を向けて言った。
「だけどね、マー坊君はあげないからね! えへへへへへー」
「え!? ちょ、ちょっと! 奈緒! あんた一体……」
慌てふためく桃を置き去りにして
「わたしね、マーボ君が大好き。だからこれからは、葵ちゃんも桃ちゃんも、わたしにとってライバルだから。今日は、わたしたちのライバル記念日」
一瞬、先ほどまでの大人びた歩油状を取り戻し、そしてまた幼いかわいらしい表情に戻る。
「あー、でも、桃ちゃんが自分の気持ちに気がついていないなら、それはそれでいいのかもー。だって、ある意味桃ちゃんが一番の強敵だしねー」
「あ、あのね、奈緒。あたしにはそんなつもりないから!」
顔を真っ赤にして否定する桃。
そして咳払いをして
「あのね、この際だからはっきり言うけど、あたしもマー坊のこと、うん、好きだよ。だけど、それってあんたの言う好きとは違うから」
と断言する。
そして、思い出したようにコーヒーカップを手に取り、一口すする。
「うまくいえないけど……なんていうか……うん、できの悪い弟を見ている感じかな。男として好き、って言うよりは、きょうだいとして好き、って言う側面が強いと思う。曲がりなりにも、一つ屋根の下で暮らしているせいなんだろうね。いまさら、あいつのことを一人の男としては見れないよ」
ため息交じりの言葉を口にした。
「きょうだい、ってことは……」
小首をかしげ訊ねる奈緒。
「同じきょうだいの、わたしと同じような存在だってことー?」
「まあ、そういうことになるかな?」
視線を中に泳がせ、照れたように桃は言う。
すると
「あー、じゃあ桃ちゃんもマー坊君のこと大好きってことじゃんー」
とわざとらしくすねたふりをして見せる奈緒。
「だって桃ちゃん、私のことこころのそこから大好きなんだもん!」
フッ、そのかわいらしい仕草と言葉に、桃は
「バカなこと言ってんじゃないの」
そういって人差し指で奈緒の額を弾いた。
「あーん、いたいよぉ」
奈緒はおどけた様子で額を押さえた。
「さって、と」
壁にかかる時計に目をやる桃。
「夕飯の支度しなくちゃ、だね。このどたばたで、すっかり後回しになっちゃったけど」
「そいえばさー、今日って買出しの日じゃない?」
小首をかしげ口を開く奈緒。
「朝ごはん作るとき、食材がほとんどなくなりかけてたと思うんだけど」
「……そういえばそうだったね」
そういうと桃は立ち上がり
「時間も時間だからたいしたものは買えないけど、とりあえず今日の夕食分の買出しくらい入ってくるよ」
といってキッチンへと足を向けた。
「あー、わたしも行くー」
そういって奈緒も立ち上がりかけたが
「いいよ奈緒は。奈緒はご飯炊いておいて」
桃は奈緒を押しとどめた。
「あいつが葵を送り届けて帰ってきたときに、炊きたてのご飯を食べさせてあげよう。だから、奈緒はあいつが帰ってきたら、すぐにご飯を食べられるようにしておいて」




