4.15 (月)18:45
「ったくよお、なんでいっつも俺ばかりこんな目にあうんだよ……」
春の初めの夕暮れ時、ポケットに手を突っ込んだまま、やりきれなさそうにぶつくさとこぼす真央。
「おれは何一つ悪くねーってのによ……マジであん時は死を覚悟したぜ……大体、葵もわりーんだからな。ああいうとき桃ちゃんをとめられるの葵くらいだっつーのによ、一緒んなってキレてたら話にならねーだろーが」
「え、ええ、そうでしたかしら?」
とぼけるように、言葉を濁して視線を宙に泳がせる葵。
「でも、そもそもあの状況を拝見したら、誰だって……ねえ……」
その顔は少々赤らんでいるようにも見える。
大人の色香を無自覚にも発する岡添のあられもない姿を目にしたとき、混乱と怒り、そして嫉妬が葵から理性を奪い去っていた。
「ですが、結局は誤解が解けたのですから、よかったじゃないですか。岡添先生に感謝、ですね」
とにっこりと微笑む。
真央に対する死刑にも似た“お仕置き”が執行されるその直前、岡添が正気を取り戻して桃と葵、二人に対して取り成しを行ったのだ。
“謹慎の様子をうかがいに来ていたのだが、ふとした拍子で転んでしまい、その結果ああいう結果になったのだ”と、幾分かの、いや大幅なごまかしを含ませながら。
「岡添先生は、見たところ男性に対してアレルギーをお持ちのようですし、まあ、信頼に足る情報と言ったところでしょうか」
その後岡添は丹念にスーツの上着を着込み、胸元を隠しながらそそくさと帰宅していった。
もちろん、ことがそこに至った本当の事実に関しては内緒のまま。
「……ったく、あの先生もちゃんと最後まで説明してけっつーんだよ。奈緒ちゃん納得させるのにどんだけ手間かかったって思ってんだよ……」
その後、桃の長い長い説得で部屋から出てきた奈緒にも同様の説明を行い、これも何とか納得をさせることができた。
しかしその過程で、結局は今回の謹慎に至るまでの一件の真相が三人に伝わることとなり、真央の努力は水泡に帰してしまった。
誤解により“お仕置き”を執行される寸前まで行ったことに加え、そのことが真央にはいっそうの不満だった。
「……大体よ、丈一郎はどうしたんだよ。あいつが葵たちを止められなかったからこういうことになったんじゃねーか」
やり場のない憤りを、その場にいない丈一郎へとぶつける真央。
「川西君は、真央君に合わせる顔がないって今日釘宮家へ来ることをご遠慮なさっていました」
苦笑いしながら答える葵。
思いもよらぬ形ではあるが、桃たち三人は、最も知りたかった真相を知ることができた。
葵自身はいささか不本意ではあるが、真央と丈一郎、そしてレッドの気持ちを尊重し、今回は学校の決定に従うべきだということで結論を落ち着かせた。
「ったく、あの野郎……」
吐き捨てるように言う真央。
「謹慎と停学解けたら、絶対一発ぶん殴ってやる」
そういう真央は今、葵と二人きり、いつもの道を歩いている。
桃の命令により、葵を家に送り届けなければならないのだ。
「大体な、葵たちも悪いんだぜ? 俺の説明なんか一切聞かねーんだからよ」
「……それは申し訳ないとしか言いようがありませんが……」
やや顔を赤らめていう葵だったが
「でも、真央君こそ私たちに本当のことをお話しいただければ、今回のような誤解は生まなかったはずですのに」
不満そうに顔をそむける葵。
そこには、自分だけ蚊帳の外におかれた悔しさ、そして桃と違い少年たちのこころ、真央自身の心を理解することができなかったという嫉妬が交じり合っていた。
「……ん、それに関しては……まあな……」
ばつが悪そうに頭をかく真央。
それは確かにその通りだったかも知れない。
言ったところで、どうせ理解してもらえるはずもない、そういった先入観がこのような複雑な状況を生んでしまったのだ。
その様子を見て、口元に手をやり小さく微笑む葵。
「なぁんて、冗談ですよ。それが“男の約束”なんですよね?」
そういうと真央の腕に寄り添うように頭を預ける。
「本当に不器用なんですから。男の人って。ううん、真央君だからかもしれませんが。レッド君のプライドを立てるために、自分自身を犠牲にしたのですよね? そんなお話聞かされたら、私だって何も言えません。いえるわけないじゃないですか」
自分自身を説得するかのように葵は言う。
「……」
真央は無言でその話を聞き、そして歩を進める。
その無言の横顔を眺めながら、葵もまたそれに合わせて歩む。
すると、左手にいつも登校時に目にする公園が見えてくる。
春の霞にぼやける町の灯、そして水銀灯は、葵の目にこの上なく幻想的な光景として映った。
「そういえば、真央君はこの公園、歩いたことはありますか?」
「んー?」
その声に促され、その左手に目をやる真央。
「あーんと、そういや一度もなかったかもな。朝のランニングするときも、ここは素通りするだけだったしな。結構でけー公園みてーだけど、犬散歩するばーさんとか居て、なんか俺みてーなのがガチでランニングするって雰囲気じゃなかったしな」
「それなら」
そういうと葵は真央の腕にしがみつき
「まだお時間は早いようですから、もしよろしければご一緒に公園をお散歩してみませんか?」
普段見せることのない甘い表情で真央を誘う。
先ほどの岡添の姿に当てられたのだろうか、葵は自分でも驚くほどに大胆な行動を取っていた。
葵のその思いもよらぬ行動に
「あ? ちょ、ちょっと待てよ」
混乱し、体を引き留めようとした真央だったが
「ほんの少しだけ。いいではありませんか。ね?」
これもまた思いもよらぬ強引な力で引っ張る葵。
真央はその勢いにあらがうすべもなく、そのまま公園の中へと引っ張られていった。
「春になったとはいっても、さすがにまだ夜は肌寒いですね」
ベンチに腰掛け、隣に座る真央に話しかける葵。
「制服の中に着込むカーディガン、まだまだ手放せそうにないかもしれません」
「ああ、そうだな」
リラックスしてしみじみとつぶやく真央。
強引に連れてこられた公園ではあったが、目の前に広がる大きな池、その奥に見える街並みの明かりは、思いのほか真央のこころの緊張を解きほぐしていく。
「こうやって、少しづつ夏に近づいていくんだろうな」
「ええ」
そういって、気付かれぬように少し真央の近くに体を寄せる葵。
やはり今日は少し大胆すぎるかもしれない、胸の鼓動を耳にしながらそう考えた。
蚊帳の外にされたこと、以前から感じていた桃と真央の心のつながり、そして岡添の姿、様々な感情が渦巻く中、葵はどうしても大胆にならざるを得なかったのだ。
「……私、実はまだ納得が行きません。いかに男同志の約束とはいえ、やっぱり学校に言うべきだと思います。そうすれば、真央君も不利益をこうむることがありませんし、レッド君に対するいじめもなくなると思います。レッド君が自分の力でいじめに対する勝利を得た、という形にしたいという気持ちはわかります。ですが、やはりそれは筋が違うように私には感じられます」
「もういーんだってそんなことは。何度も言わせんじゃねーよ」
そうつぶやくと、真央はもしゃもしゃと頭をかく。
「俺にとっては、こんなことなんでもねーことなんだよ。だからよ、お願いだからここは俺らの男ってものを通させてくれよ」
「まったく不器用なんですから」
その言葉を聞くと、葵は小さくため息をつき、そして柔らかく笑う。
「でも、何と言っていいかはわかりませんが、真央君らしいのかもしれませんね」
そして、きゅっ、真央の制服の袖を強く掴む。
「不器用だけど、強い人。本当に、強い人だと思います」
「……」
その言葉を聞く真央は、無言のまま夜風にさざ波を立てる池を見つめる。
左手に、葵の存在を強く感じる。
いつもならば女性の存在を意識すると体を硬直させてしまう真央ではあるが、その心地よい夜風と夜景に当てられたせいであろう、いつもよりも落ち着いた様子で呟いた。
「俺なんか、全然強くねーよ。全然な」
いつもとは違うその口ぶり、その様子に
「……真央君?」
戸惑いながら葵は言葉をかける。
その葵の様子にも構わず、真央はまるで自分自身に言い聞かせるかのように言葉をつづける。
「俺はよ、結局俺自身に負けたんだよ」
そして、その両の拳を固く握りしめる。
「あいつらをぶちのめしたいっていう欲望にな」
そう言うと、街の明かりを遠くに見つめながら
「俺はよ、プロボクサーになるって決めたとき、もうぜってー路上の喧嘩みてーな真似はしねーって、心に決めてたんだ。だけどよ」
そう言うと、この男の普段の様子からは考えられない、まるで弱弱しい子犬のように肩を落とす。
「だけど、俺は負けたんだよ。怒りに。レッドは、あんなにぼこぼこにされても自分を曲げなかったっつーのによ。俺ぁその自分自身の誓いすら守れなかった。もしかしたら、俺は一生こんな風にして自分に負け続けて生きていかなきゃなんねえのかな、って思うと、なんだかな、すげーやるせねー気持ちになっちまった」
「で、でも、この間真央君は三人のひったくりをあっという間に倒したというじゃないですか」
いつもとは違う巣の様子に戸惑いながらも、葵はとりなすように言う。
「今回も、レッド君のために拳をふるったのですよね? レッド君のプライドを守るためにもそうしたというのなら、私は立派な行動だと思います」
「立派な行動、ね。そんなもんじゃねーよ。暴力は暴力でしかねえ」
自分自身の身を切りつけるような、鋭い言葉を自分自身に向かって吐く
「まあ、ばーさんの荷物ひったくった連中ぶちのめす時は、俺ん中にも正義感っつうものがあったって気がするよ。年上相手だしな。だけどな、今回はほぼ同年代の連中を、一方的にぼこぼこにしたってだけの話なんだよ、正義とか、そんなん全く関係なくな。それに――」
と寂しげにに呟いたかと思うと、自嘲気味のニヒルな笑みを口元に浮かべる。
「それに、本当にこれでよかったんだろーか、って考えてたんだよ。レッドのお袋さんの前ではカッコつけちまったけどな」
「……」
葵は無言でその横顔を見つめる。
それは、いつぞやの満月の晩に見せた、ガラス細工のように繊細な、儚げな表情を葵に思い出させた。
「最初っから無理やりにでもレッドの奴を先生のところに連れていけばよ、レッドの野郎、あんなにぼこぼこにされなくても済んだんじゃねーかな、って思ってたんだ」
徐々に、真央の顔から、強がるようなニヒルな笑みすらも消えてゆく。
「あいつがこんな目にあったのは、全部俺のせいなんだ」




