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    4.15 (月)17:30

 自分に対し深々と頭を下げ、そして感謝の言葉と学校へのとりなしを申し出るレッドの母親の姿を、真央は無言で見つめる。

 しばらく無言のままでいたが

「へっ」

 鼻の下を人差し指で書きながら表情を緩めた。

「なぁ、おふくろさんよ、そんなかしこまらなくていーよ。俺なんかに、そんな気ぃ使う必要なんかねーからさ」


「……でも……それでは申し訳が立ちません」

 申し訳なさそうな表情の母親。

「あなたは、私の息子を助けてくれたのですし、そのためにあなたの立場が不利になってしまったら……」


「なあ、おふくろさん、俺ってよ、おふくろさんの目から見てどう見えるよ?」

 唐突に訊ねる真央。

「まぁ、言いづらそうだから言わせてもらうけどよ、まあ、優等生には見えねーだろ? こんなん、中学校の時から慣れっこなんだよ。だから、いまさらこの程度のことどうってことねーんだよ」


「……い、いえ、そんなこと……」

 図星を突かれながらも、否定しきれずにしどろもどろになる母親に対し


「いーんだよ、別に。自覚してっからさ」

 ニィッ、不敵な微笑で応える真央。

「だからさ、別に俺のために学校に何かしてくれる必要なんて、いらねーんだよ。ただ、そういってもらえるだけでうれしーよ。ありがとな」


「……」

 その思わぬ申し出に、あっけに採られる母親。

 そして、ストン、再びソファーの上に腰をおろし、また一口コーヒーをすする。

 すると、フッ、そのやや小じわの目立ち始めた口元に、小さく微笑みを作った。

「……息子が言っていた通りの方ですね。秋元君は」

 そして、真っ直ぐに真央の瞳を見つめる。

「……すごく大きくて、格好よくて。ちょっと見た目は怖いけど、本当はすごく優しいって。最初、ボクシングを始めたいといったとき、ものすごく反対したんです。あのテレビのヒーローやアニメにばかり夢中になっていた息子がボクシングをやりたいと言い出すなんて、想像もしていませんでしたから。でも、今日あなたとお話して、息子がなぜそう言い出したのか、わかった気がします。息子は、そんなあなたにあこがれて、あなたみたいな強い人間になりたくてボクシングを始めたのでしょうね」


 母親らしい暖かく、包容力のある言葉に包まれた真央は、その着付けぬ衣をまとうような肌触りに居心地の悪さと、少々の照れを感じながら

「俺なんて、全然強くねーよ。リングの上ではともかくな」

 そういって、モジャモジャの頭がいっそう絡まりそうになるほどに、大きく頭をかく。

「むしろ、あんたの息子の方が、俺なんかより断然、何千倍もつえーよ。そして優しいんだよ。間違いなくな」

 そっぽを向き、斜に構えた様子で言った。


 その言葉に、困惑の表情を浮かべる母親。

「……息子が……ですか?」

 思いもよらぬ言葉だ。


 いつも仮構の世界にばかり没頭し、子どものころから一切のスポーツとは無縁で、引っ込み思案のまま体だけが大きくなったような息子。

 その息子が、息子を助けてくれた恩人よりもさらに強い、その言葉の意味が全く理解できなかった。


「ああ。あんたの息子はさ、ずっといじめられ続けても誰にもそれを訴えなかったのはさ、最初、怖くて何も言えねーんだと思ってたんだよ。だけど、違うんだ。あいつはさ、あんたを心配させたくなかったんじゃねーかなって思うんだよ」

 そういうと、真央も一口コーヒーを含む。

「あいつはさ、すげー優しいやつなんだよ。だから、つえー男になって、自分の力で自分の状況をぶっ壊してーと思ったんじゃねーかな。そんで、自分であいつらに自分の意見をきっちり言って、あいつらにぼこぼこにされても、意見を曲げなかったんだ」

 そして、再び母親に気持ちのいい微笑を向ける。

「そして、あんたに今回のことを全て打ち明けたのも、自分のためじゃねー。俺のために行動してくれたんだ。俺は、それがすごく嬉しいんだ。その嬉しさを届けてくれただけで、俺は十分だ」

 グッ、その拳に力がこもる。

「あいつが、レッドが自分の根性で勝ち取ったいじめからの勝利をよ、学校のおかげで勝ち取った、って風に汚したくねーんだ。だからおふくろさん、俺たちの男を立てるためにも、学校には何も言わずに置いてくれ。な?」


 その言葉を聞きながら、母親の頭は少しずつ垂れ始める。

 そして、その背中が少しずつ痙攣を始め、ついには嗚咽が漏れ始めた。

「……秋元君……本当に……本当にありがとう……息子は……隼人は、本当にいい先輩を持ったと思います」

 そして、ハンカチを取り出すと、もはや何も言うことが出来ずになき続けた。

 

 真央は、やはりそれをなすすべもなく眺めるだけであった。

 自分の母親といってもいいような女性がただ泣き続けるのを、ばつが悪そうにするほかなかった。

 その一方で、もし自分に母親がいたら、どのような気持ちになるのだろうか、とも考えた。

 その母親が目の前でこのように鳴き続けたら、やはりこのようないたたまれない気持ちになるのだろうか、などとぼんやりと考えた。




「……ぁあー……」

 泣きじゃくるレッドの母親を何とかなだめすかし、そして玄関から送り出した真央。

 いたたまれない空気に、今まで感じたことのない精神的疲労を感じ、肩をコキコキとならした。

 そして、桃や奈緒がやっているように、トレーに空になったカップを載せると

「……ったくよぉ、せっかくの楽しい近親生活だつーのによ……」

 ぶつくさとこぼしながらキッチンへと足を運ぶ。

 すると

「……これじゃあガッコいるよりも疲れる、って、うぉおおっ!」

 真央がすっかりその存在を失念していた、岡添絵梨奈の姿がそこにはあった。

「……よ、よぉ、悪ぃな、すっかりあんたのこと忘れてたぜ。あ、今な、コーヒー……」


 そういって新しいマグカップを取ろうとしたその刹那

 

 ぎゅっ


「……えあ?」

 真央はその背中に、熱くて柔らかい何かが密着したことに気がついた。

 そして後を振り返ると


「……ごめんなさい……」


 岡添絵梨奈が真央の背中に抱きついている姿が見えた。


 岡添の口からは熱い吐息が漏れ、そして真央の背中をこれもあんた熱い涙が濡らしている。


「……全部聞かせてもらったわ……本当に、本当にごめんなさい……私、本当に教師失格ね……あなたには、何とお詫びしたらいいか……」

 真央とレッドの母親との会話を、絵梨奈は漏らすことなく耳にし、そのやり取りから、絵梨奈が求めていた真相を全て把握したのだった。


 絵梨奈の心に激しい後悔と自己嫌悪が生まれ、そしてこの不器用な少年の持つ強さと優しさを知った。


 その瞬間、絵梨奈のこころの中で何か弾けた。


 母親の言う、他人との間に作っていた殻を、真央が打ち破った。

 絵梨奈の体の芯が熱くなる。

 キッチンに入ってきた真央の姿に、さらに体中が熱く火照る。


 しかし、一体何が起こったのか把握できない真央は、今までとは全く違う、緊密な密着を求めてくる絵梨奈の態度に混乱し、何とか体を引き剥がそうとする。

「い、い、いや! 待てよあんた、い、いや、先生! 岡添先生!」

 初めて絵梨奈を“先生”と呼ぶことで、その理性を取り戻させようとする。

 すると、図らずも真央と岡添が正面で、体を抱き合わせる形となる。

 以前身を持って実感した、柔らかく大きな胸のふくらみが真央のみぞおちの辺りに密着する。

「ほ、ほらな、先生! コーヒー今入れてやっからよ! だから……」

 

 しかし絵梨奈は、酩酊したような、催眠にかけられたようなとろんとした、潤んだ目で真央の目を見つめる。

 そして、真央の右足に自身の足を絡めていく。

 やや開いた、浅く速い呼吸の漏れる美しい口元が、少しずつ真央に近づいてくる。


 その柔らかい肢体、そして改めてみた美しい顔に魅了され、真央は全身の力が抜けていくような感覚をおぼえる。

 真央の顔や体も、熱い絵梨奈の吐息にさらされ、熱を帯びてくるのがわかる。

 パンパンッ!

 真央は自分の頬を張り、正気を取り戻す。

「なあ、先生! もういいから、な? だからそろそろ……」

 

 しかし、絵梨奈のこころにそれは届いていない。

 ただひたすらにその体が真央を求め、密着の度合いを強めるばかりだった。


 全身に力が入らない真央は、後ずさりを続けるほかなかった。

 すると

「うぉああっ!?」

 フローリングに足を滑らせ、絵梨奈にソファーに押し倒されるような格好になった。

 

 絵梨奈は、今だ催眠術にかかった様なとろんとしたような視線。

 ついには真央の首に腕を絡ませ、その首筋に顔を当て始めた。

 熱い吐息は、今度は首筋や耳元に容赦なく襲い掛かる。


 なす統べなく、その状況に身を任せるしかない真央の耳に


 ガチャリ


「ただいまー、マー坊、ちゃんと謹慎してるか?」

「たっだーまー! マー坊君、リビングいるの? この靴、お客さん?」

「お邪魔します。真央君、どちらにいらっしゃいますか?」 

 桃、奈緒、そして葵、三人の女性の声が響く。


「やべーって!」

 この状況をあの三人、とくに桃に見られたらただではすまない。

 しかも、釘宮家の一つ屋根の下に男女二人がソファーで抱き合っている、デリカシー云々以前の、もはや何と言い訳しても聞き入れてはくれない状況にある。

「わーかったから! わかったから! 助けると思って! まだこの年で死にたくねーんだよ! だから――」


 ぱたぱたぱた、スリッパの音が廊下から響く。

「マー坊、リビングいるの? 何かどたばた騒がしいんだけど?」

「あ、コーヒーのにおいするー。ついでだからお茶にしよーよ」

「いいですね、ケーキも買ってきたことですし」


 死刑執行を待つ囚人のような気分で、真央は絵梨奈の服を掴み

「――とっとと! 離れろ! っつーんだよ!」


「きゃっ!」

 絵梨奈は小さく声を立てるとようやく真央から引きはがされた。


 ガチャリ、リビングの戸が開けられる。

「やっほー、マー坊君! ケーキ買って……」

 リビングに最初に足を踏み入れた奈緒の体が凍りつく。

 その視線の先に見えたものは――


 ソファからずり落ちるような体勢の真央。


 そしてスーツの上着がはだけ、ブラウスのボタンがいくつもとび、ピンク色のブラジャーとその豊満な谷間を見せ付け、そして潤んだひとみと乱れた髪でしなだれる絵梨奈の姿。


「どうしたんだ? 奈緒、マー坊は――」

「あら、真央君はいらっしゃらな――」

 遅れて部屋を覗き込んだ桃と葵、同じく二人も体を凍りつかせた。


「い! いやいやいやいや! 違うんだって! そういうんじゃ――」

 と慌てて頭を振る真央だったが


「最っ低!」

 今まで見せたことのない怒鳴り声を、顔を真っ赤にして叫んだのは奈緒だった。

「変態! 不潔! もう信じらんない!」

 そういうと、顔は一気に崩れ

「うわあああああああああああああん!」

 なきながら自室のある二階へと駆け込んだ。


 その泣き声に、我を取り戻した岡添。

 ふと見れば、自分があられもない姿で、異性にその下着と胸元を見せ付けるようにしていることがわかる。

「ぃやああああああああああああああ!」

 大声で叫ぶと、慌ててその胸元を隠した。


「ちょ! おっま! おい! ふざけんな! そんなことしたら……」

 ふと、真央はおそるおそる左手を振り返る。


 そこには、何一つ表情の読み取れない、生気のない目をした桃と葵の姿が。


 おほん、わざとらしく咳払いをする真央。

 そして、真剣な表情で

「……信じてくれる……約束だよな」

 その約束に一縷の望みを託した真央だったが


「マー坊、死ぬのと殺されるの、どっちがいいか選べ」

「うふふ、桃さん、それでは同じことではありませんか。苦しんで死ぬか、楽に死ぬか、どちらかを選ばせるべきだと思いますわ」


 その言葉を着た真央は、諦めのため息をつく。

「わかったよ。せめて楽――」


「「却下」」

 ユニゾンする二人の声は、真央にあらゆる希望を断念させた。

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