4.15 (月)13:10
「……事情は承りました……」
理事長室に、抑揚のない抑えた声が響く。
重厚な机にひじを立て、口元で指を組む岡添理事長は、それまで閉じていた目を開いた。
「……確かに、あなたの言うように、秋元真央君が三年生に対して暴力を振るった、ということに間違いはないようですね」
「……そのようです」
眉間にしわを寄せ、沈痛な面持ちで岡添女史は応える。
「生活指導の先生方の取調べによると、日曜日、三年生の林田君に対し、顔面を右拳で殴りつけたとのことです。秋元君は、普段から林田君と険悪な仲であり、日曜日に呼び出しをかけて決闘まがいのことをしたとのことです」
瞳を閉じ、眉間にしわを寄せ搾り出すような声で
「何でこんなことに……やんちゃな子だとは知っていたけど、こんなことする子だとは思わなくて……」
「あなたが取り乱してどうするんですか」
あくまでも冷静に、やや突き放すようなトーンで理事長は呟く。
「事実は事実です。この後、会議が開かれて、職員会議での了承の後、彼の処遇は決定するでしょう。あなたは教員として、きちんと彼の指導に当たりなさい」
長年の教育者としてのキャリアにもよるのだろう、その言葉には侵しがたい威厳が込められていた。
「……はい……しかし……」
岡添女史は何かを言いかけようとし
「……いや、でも……何でもありません……」
急展開の事態に心が乱され、いつになく気持ちが弱っていたのであろう、何かを言いかけ、急に思い直したように口をつぐんでしまった。
その様子を鋭く見つけ、凍りつくような視線で
「何かいいたいことがあるのですか?」
岡添女子の心を面向くような言葉を理事長は口にした。
「……い、いえ、その……」
その剣幕に押され、ますます口ごもってしまう岡添女史。
すると
「……ねえ、絵梨奈」
その言葉のトーンが、急に変化する。
それまで“岡添先生”と呼んでいたその言葉が、急に“絵梨奈”、すなわち実の娘を呼ぶその呼び方に変化した。
それまで突き放すような態度で紡がれたその言葉が、やや柔らかい、まさしく母親が子どもに呼びかけるようなそれに変化している。
「私があなたを彼の担任にした理由は、前に話したわね。あなたには、この学校の経営の最高責任者になってもらう必要がある、そのために、あなたに現場を知ってもらうために教員にした、と」
「……理事長……」
その突然の変化、そして、理事長と教員以前の、母と子と言う関係で語るその言葉は、岡添女史の心を揺さぶった。
理事楊は眼鏡をはずし、なおも語りかける。
「あなたは、昔からそうだったわね。周りの視線ばかり気にして、私の前でもみんなの前での優等生を気取って。その結果、あなたは他人との間に壁を作って、めったに自分の意見を口にしようとはしなかったわね」
そして、そらすことなくじっと娘の目を見つめて言う。
「秋元君、生徒たちと触れ合う中で、いいこと悪いこと、いろんなことを経験して自分自身の殻を破って欲しいの。それは教員としてだけではなく、人間として必要なことなの。さ、あなたがさっき言いかけたこと、きちんとお母さんにお話なさい」
岡添女史は、静かに目を閉じ、そして再びきっと目を開け、母親の目を見てしっかりとした言葉で語る。
「私には、あの秋元君が理由なく暴力を振るうような子には思えないの。最初は、そりゃあ最初はすごく乱暴で怖い子だと思ったけど。だけど……」
胸に手を当て、そしてさらに語った。
「……だけどね、例え実際に暴力を振るったという事実があっても、きっと何か隠している事情があると思うの。おかしな話だけど、西山大附属で熱心にボクシングの練習に打ち込む秋元君を見て、そう思えるようになったの。お母さんこの間“あなた自身が彼と触れ合い、そして感じたことを素直に心に受け止めなさい”って言ってよね? 私は、少なくとも私は彼を信じてあげたいの」
「……」
その言葉を黙って聞いていた母は
「そう」
柔らかく笑って言った。
「それでいいの。あなたはたくさんいる教員の一人だけど、秋元君の担任はあなたしかいないの。他の先生方が何と言おうと、担任だけは生徒の味方をし続けなければならないわ」
すると娘の顔は、決意と自信に満ち溢れたものに変わる。
母の言葉、自分に対する期待の込められた言葉をはじめて耳にした。
その期待に答え、そして一人の教員として、担任として秋元真央のこころに寄り添ってあげなければ、そう考えた。
「私午後から授業ないから、秋元君の家に言ってこようと思います。そこで、彼の口から一体なんでこんなことになったのか、しっかり聞いてみようと思います」
颯爽と踵を返し、理事長室の出入り口へと向かう。
そして、くるり、再び母親を振り返り
「ありがとう、お母さん」
「言ったはずです」
その口調は、いつもの実に機能的で抑制の効いたトーンへと戻っていた。
「学校では、理事長と呼びなさい、と」
その言葉に、娘は年相応の若者が持つ、はつらつとした笑顔で応えた。
「……言ったじゃないか。僕の口からはいえないって」
放課後のボクシング部の部室、奈緒と葵、そしてその二人に請われるままについてきた桃の三人が、丈一郎に事の顛末を語るように迫っていた。
レッドは部室に顔を出していない。
教室を覗きに行くと、今日は昼休みで早退したという言葉が返ってきた。
そのため、丈一郎一人がこたえることのできない問いかけをぶつけられるという状況になっている。
「でも! 昨日はレッド君を犬から助けようとしてたって言ってたじゃない!」
悲痛な叫び声の奈緒。
まるで自分が三人から疎外されたような、裏切られたような悔しさがそこにはにじむ。
「どうして本当のことを言ってくれないの? わたしはマネージャーだよ? 私にだけ内緒にするって、そんな……ひどすぎるよ!」
「同感です」
葵もうなずきながら同意する。
「ある意味では、私は部外者です。だから、私に対して口をつぐまれても、私からは何も言う資格はありません……」
同じく、悔しさをにじませながら葵は言った。
自分は同居人でもなくマネージャーでもなく、ましてや同じ苦楽を共にするボクサーでもない。
だからこそ、奈緒以上に疎外感を感じ、やりきれない思いを感じていた。
「ですが! いくらなんでも奈緒さんにまで秘密にするというのはひどすぎます!」
その苛立ちをぶつけるかのように、葵は丈一郎をなじる。
「同じ同好会の仲間なんですよね? 私に教える必要はありません。けど、奈緒さんにだけは教えてくださってもよろしいじゃありませんか!?」
「……」
その言葉を聞くと、丈一郎はグッと息を呑むしかなかった。
確かにその通りだ。
しかし、真央との約束をたがえるわけにはいかない。
義理と人情との間に、丈一郎は板ばさみとなり身動きが取れなくなっていた。
「……あのさ……」
しばらく無言でその状況を見つめていた桃が、ようやく口を開く。
「こういうと何だけど、こういうのってあたしたち女が口出ししちゃいけない類のことなんじゃないのかな」
静かに、しかしはっきりと桃は言った。
「どういうことですか?」
「桃ちゃん、意味がわからないんだけど」
困惑する奈緒と葵。
女性が口出しをしてはいけない類、その言わんとする意味が、全く理解できなかった。
「……女のあたしが言うのもなんだけど……それにあたしも何が起こったかさっぱり理解できないんだけど……」
腕組みをし、慎重に言葉を選びながらさらに語る桃。
「だぶん、だけどさ、きっとマー坊と川西君、それとレッド君との間の、いわゆる“男の約束”ってやつなんじゃない? あの川西君がここまで口をつぐむってさ、きっとそれくらい固い約束と決意があってのことなんじゃないのかな、って思うんだ」
そのこころを完全に読み取られた丈一郎は、もはや何も言うべきことがなくなった。
「……釘宮さん……」
桃はなおも続ける。
「めんどくさいよね、男同士の世界って。だけど、やっぱりそこにはあたしたち女が土足で入っちゃいけない世界なんじゃないのかな、っておもう。だからあたしたちにできるのはさ、あのバカ、マー坊を信じてあげることしかないんじゃないのかな」
諭すように、噛んで含めるように桃は言った。
「ったく、本当に面倒くさい生き物なんだからさ。男って。あたしたちは、大人の余裕を持ってそのバカな生き物を許してあげようよ、ってところかな」
「「……」」
その言葉を、二人は無言で聞くしかなかった。
その沈黙の中に、少しの嫉妬が混じっていたことを、二人な自覚し始める。
あのボクシングの大会の時もそうだ、真央の気持ちを完全に理解できていたのは、桃だけだった。
その悔しさが、葵と奈緒、二人をまたもや無口にした。
「だけど」
再び口を開く桃。
「かといって、このまま真相を知ることができないってのも、やっぱ腹が立つよね。男の世界ってものがあるかなんだか知らないけど」
そういって、男らしく胸をドン、と叩く桃。
「こっちには“女の意地”ってのもあるんだから。だからさ、部活終わったらみんなであたしんちに行こう。そこで、マー坊自身に真相を語らせれば言いだけの話しだ。それなら――」
有無を言わさぬ迫力を込めた微笑を丈一郎に投げる。
「――それなら、川西君の言う“男の約束”ってのも、守られるでしょう?」
その言葉、その剣幕に丈一郎は
「……あー……そうなんじゃ……ないかな……あはははは……」
と首肯するほかなかった。
「じゃ、けってーい、だね!」
いつもの元気を取り戻し、飛び上がるようにして言う奈緒。
「どんな手を使っても、マー坊君の口をわらせよう!」
「まあ、奈緒さんったら」
口元に手をやり、いつもの上品な笑いを浮かべる葵。
「ですが、それこそが“女の意地”ですものね。真央君に、どんな手を使ってでも真相を語っていただきましょうね」
その様子を、蒼白な表情で見つめる丈一郎。
「……ごめん、マー坊君……僕にはこの女の人たちを抑えることはできなかったよ……だけど……」
笑顔の裏に、言い知れない恐怖をたたえた三人の表情に
「……これが僕の限界だったよ……許してくれ……」




