3.8 (土)17:20
「ああ、もう!」
その沈黙に耐えかねたかのように奈緒が勢いよく立ち上がる。
「難しく考えるのはやめよーよ!」
そして桃を見下ろした。
「桃ちゃんには真央君がそんな悪い人に見える?」
「引ったくりにしか見えないって警察に突き出そうとした人、誰だったっけ?」
沈黙に疲れた桃が、冷静に突っ込むが
「それはそれ、これはこれよ!」
奈緒は暴論ともいえる言葉を口にした。
「奈緒、あんたそれってかなり無茶苦茶だよ」
呆れたような返答を返す桃だったが
「とにかく! 真央君がいなかったら、あのおばあさんのバッグ取り返すことで来たと思う?」
奈緒は拳を握りしめて力説する。
「身を挺しておばあさんのバッグを取り戻そうとした人が、そんな悪い人なはずないでしょ!?」
さすがの桃も言葉に詰まった。
「まあ、それはそうだけど」
自分自身も大変正義感の強い性質であり、それゆえに自分自身も引ったくりを追いかけた。
真央の行動を否定することは、そのまま自分自身の否定にもつながる。
さらに奈緒はたたみかける。
「それに、やっぱり約束は約束だもん。悪いのはお母さんなんだから。真央君は何一つ悪くないもん。それに、広島から出てきたばかりで身寄りもない人を追い返すなんて、かわいそう過ぎるよ」
奈緒の言葉を聞くが早いか
「お願いします!」
真央はソファーから飛び降りると、その場に土下座した。
「ちょっとやめろよ!」
桃は慌てて真央に近寄る。
「そんなことされてもうれしくないよ!!」
しかしそれでも真央は頭を床にこすりつける。
「何もかもを捨てて東京に出てきたんだ。ここを追い出されたら、もうほんとに俺行くところねーんだ!」
そして土下座したまま顔を上げ、桃を見上げ絶叫する。
「いまさら、どの面下げて広島にもどれっつーんだよ? もう俺には、俺には帰るところなんてねーんだよ!」
その言葉に、嘘はなかった。
子どものころから暮らしてきた、広島。
真央にとっては、そこにはたくさんの思い出があった。
男が一度決心をし、そして世界チャンピオンになるという夢を実現するために故郷を捨ててきたのだ。
もはや、真央は故郷喪失者であるといってよかった。
「ああ、ん……」
桃は親指の爪を噛んだ。
真央はいい奴だ、それは間違いない。
それは桃も十二分に理解している。
女性に対する接し方から見ても、何か間違いを犯そうとするタイプではないだろう。
しかし、ボクシング――
それだけが唯一の障壁だったが、床に沈み込まんばかりに頭をこすりつける真央の姿を見るに見かね
「まったくもう!」
もはや桃に選択の余地はないようだ。
「これじゃあたしが悪者みたいじゃないか!!」
「え? それじゃあ桃ちゃん……」
奈緒の顔がぱあっと明るくなった。
「いい? 」
ビシッ、桃はひざまずく真央に人差し指を突きつける。
「期限はあたしたちの春休み終了まで! それを過ぎたら、下宿先が決まっていようがいまいが、アルバイト先が決まっていようがいまいが、絶対に出て行ってもらうからな!」
いつもの自信に満ち溢れた桃の姿がそこにあった。
「「やったー!」」
真央と奈緒は手を取り合って喜んだ。
「桃ちゃん大好き! 愛してるよー!」
奈緒は桃に飛びついて頬に熱烈なキス。
やはり、奈緒にとって桃は頼りがいのある、優しい憧れの姉だ。
それを改めて実感することができ、心の底から喜びが湧き上がる。
「やめろよ!」
その奈緒の口づけを、力いっぱい弾き返そうとする桃。
「あたしは自分の妹にキスをされて喜ぶような、そんな趣味は持ち合わせていないんだからな!」
しかし、その言葉とはうらはらに、桃の顔は赤く上気する。
結局あたしはこの子に逆らえないんだな、と仕方なく思う反面、その妹の姿を見ると自分の選択は間違っていなかったのかな、とも思えてきた。
ふと気が付くと、立ち上がった真央が桃の目の前に。
彼、やっぱり大きいな、それが初めて並んでみた時の思いだった。
「ありがとう、桃さん」
真央がごつごつとした両手で桃の手を取る。
何の下心もない行動だったが、すごくきゃしゃなんだな、真央は思った。
それに逆らうことなく、桃はその手を真央に任せた。
自分のほほが、少しづつ赤くなっていくのを感じる。
「俺がプロになったら、少しずつこのお礼はしていくから」
この感謝をどのように表現したらいいか、この故郷を失い、余分な金もなく、そして人間関係に対しとことん不器用な少年には思いもよらなかった。
だからこそ、これはこの少年にとってのまごころだった。
それは、桃にも痛いほど伝わった。
しかし桃にしても、それを素直に受け取るには荷が重い。
奈緒と違い、好意を受け取り、その喜びを素直に表現できる性格ではないのだ。
「そういうのは期待してないから」
桃はその手を振りほどき
「四回戦ボーイにお礼をしてもらうほどこの家は困っていないよ」
それが精一杯の強がりだ。
「……」
嬉しさの反面、真央は何か違和感を感じる。
ボクシングが嫌いだ、といっている反面、なぜ四回戦ボーイなどという言葉が出てきたのか。
アマの実績のない、デビューしたてのグリーンボーイは、4ラウンドまでの試合しか許されていない。
当然ファイトマネーもろくにもらえるものではない。
ボクシングを嫌っているはずの、しかも女性の口から出てくる言葉だとは思えなかった。
「またまた桃ちゃん、照れ屋なんだからー」
ニヤニヤしながら奈緒が言った。
「奈緒!」
「冗談だって」
奈緒はからかうように笑った。
「えへへへー」
しかし、真央はもともと頭のいい人間ではない。
その直観を深く考えるだけの力を持ち合わせていない。
美しい姉妹の、微笑ましいやり取りを見つめていたら、そのような違和感など消し飛んだ。
自分にも姉妹が、いや兄弟でもいればこのような暖かな感覚を覚えたのだろうか。
なぜか、真央の胸がジワリとしみるような感覚を覚えた。
「さ、冗談はもういいから」
桃は窓の外が薄暗くなっていることに気がついた。
「そろそろ夕ご飯の支度をしないとな。いくら春休みだからって明日みんなそれぞれ忙しいんじゃないか? あたしは明日部活があるし。奈緒だって同好会があるんじゃないか?」
先ほどまでの沈黙もどこへやら、すっかりいつもの桃に戻っていた。
「そういえばそうだね」
桃の様子に安心した奈緒は、時計に目を移す。
「なんかいろんなことがあったなー。ほんとあっという間の一日だったね」
「そうだな」
真央は腕組みをして頷く。
「さすがの俺もパトカーに連れ込まれそうになったのは初めてだぜ」
そう言って大げさに顔をしかめた。
「ま、その原因の大半は奈緒のせいだけどな」
桃は奈緒をじろりと睨み、チクリ、再び釘をさす。
「ほえ? あ、そうでしたー」
ペロッと奈緒は舌を出した。
「えへへへへー」
桃も、そして真央も逆らうことのできない、あの最上の笑顔だった。




