4.14 (日)9:00
――ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン――
耳をつんざく、重金属の音。
電車が頻繁に行き来する、薄暗く湿っぽい鉄橋の橋脚の下。
「待ってたぜ」
真央と丈一郎、二人の姿を認めた林田が、卑しい笑いを浮かべながら言う。
「思ったよりも早かったじゃねえか、よっ!」
ガンッ、その足で地面に転がるレッドの腹をけり上げた。
「がへっ!」
もはや立つこともできないほどに痛めつけられたレッドは、その痛みに反応することもできない。
「レッド君!」
その生々しい暴行の様子に、丈一郎は悲鳴のような声をあげる。
そして、怒りを込めて林田の顔をにらみつける。
「一体、一体彼が何をしたっていうんですか? たとえ何があろうと、一人の人間をここまで痛めつけるなんて、何があったって許されないはずだ!」
その両目には、うっすらと涙がにじんでいる。
その奥歯が、痛いほどにぎりぎりと噛みしめられる。
あの日、トイレでレッドが痛めつけられているのを目撃し、そして助けた。
強くなって自分の力で壁を打ち破りたい、その純粋な気持ちを丈一郎は眩しく思い、そして一週間足らずではあるが同じ志を持つものとして練習に打ち込んできた。
そのレッドが、ここまで無残な、みじめな目にあわされている、それが丈一郎には何よりも悔しかった。
そして、生まれてこの方経験したことがないほどの怒りが全身にこみあげてきた。
「あーん? このブタ野郎が何だって?」
そう言うと松岡は、レッドの胸倉をつかんで立たせ
「おらっ! 欲しけりゃ返してやるぜっ!」
真央と丈一郎のもとにけり返した。
言葉もなく、地面に滑り込むようにして倒れるレッド。
「レッド君!」
その体を抱き留めようとするもかなわず、無残に倒れこむレッドを、丈一郎はその背中をただ抱きしめてやるしかできなかった。
「ひどい、ひどすぎる……どうして……」
その背中に縋り付くようにして、ただ悲痛な声をあげた。
「よう、レッド」
そのレッドの頭部近くに、真央は片膝を下ろす。
「なかなかいい表情になったじゃねえか? いてえか?」
柔らかい笑顔で、優しく声をかける。
その声に反応し、よろよろと顔を上げるレッド。
「ま、マー坊先輩、丈一郎先輩も……」
その二人の存在に、安どの表情を見せるレッド。
その顔には、幾筋もの鼻血の跡が見える。
「……はい。死ぬほど、いたいです……」
「そうか」
そう言うと、再び真央は優しくレッドにほほ笑みかける。
「きちんとあいつらに伝えたか? 痛いって。こんな目にあうのは、もう嫌だって」
「……はい……」
そう言うと、レッドは血だらけの口を広げ、ニィッと笑う。
「……はい……けど、伝えたらこんなんなっちゃいました……」
「そうか」
その表情に、真央はこの上なく暖かい、優しい微笑みで返した。
「辛かったな。けど、お前きちんといえたんだな」
そして、レッドの頭を何度も優しく撫でる。
「よく頑張ったな。自分の力で立ち向かったんだもんな。レッド、お前、格好いいぜ」
「うぉらぁ! てめえらだけで話――」
――ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン――
松岡のその話の語尾は、電車の重金属音でかき消される。
その松岡の存在を無視して、真央は悠然と立ち上がる。
「あとは俺に任せとけ」
そして、パンパンと膝についた砂埃を払い
「さてと、こいつらかたづけっからよ。お前はそこでちっと休んどけや」
そしてポケットに手を突っ込み、林田と松岡を睨みつける。
「ここまでやっといて、もうお遊びじゃぁ済まされねぇからな。てめーら覚悟しとけよ。絶対にゆるさねえからな」
その真央の言葉を聞くと、林田と松岡は蛇のような卑しい笑いを浮かべた。
「それはこっちのせりふだ。俺らのおもちゃのこのブタが付け上がって生意気言うようになったのは、そもそもてめーのせいなんだからよ」
「それに見ろ、この腕」
松岡は、すっ、包帯を目の前に掲げる。
「てめーの頭ぶん殴っちまったせいでこんなんになっちまったんだからな? 俺にもおめーの骨折らせろよ。つーか俺にはその権利があるんだよ」
そして林田はニヤニヤ笑いながら
「あー、木下さん? 例の連中、来ましたよ」
コンクリート製の橋脚の裏に声をかける。
「あ? ようやくか?」
橋脚の裏から声が返る。
そして、ゆらゆらと一人の男が真央と丈一郎の視界に現れる。
その男は、坊主頭に派手な柄のよれよれのシャツ、そして色あせたジーンズに雪駄をはいている。
そして、その後に、見慣れない複数の男たち。
「なんだ、本当に二人だけじゃねーか。しかも一人は女見てーなやつじゃねえか、情っけねーな」
そういって、バシン、乱暴に林田の頭を張った。
その男、木下は手にもった缶ビールを一口ふくむ。
卑屈な様子で林田は木下に頭を下げると、真央と丈一郎に向かい
「この人はな、俺の中学校時代の先輩なんだよ。そんで他の人たちは木下さんの舎弟だ」
と言い放つ。
数の上で圧倒的な優位に立った林田は、情けないほどに尊大な様子だ。
「今からてめーらはよ、俺らにふくろにされんだ。そこに転がってるブタみてえにな」
「安心しろ。今回気の済むまでボコったら、それで勘弁してやるよ」
松岡が続けて、早く二人を殴りつけたいという衝動を抑えながら言う。
「ま、このブタは相変わらず俺らのおもちゃだけどな。逆らうんじゃねーぞ? おめーらは素直に俺らにボコされときゃいーんだ。もし逆らおうものなら……」
「おぅ、おめーら下級生だよな、林田の」
缶ビールをもう一口含むその口からは、どうしようもない悪臭が振りまかれる。
「だったらよ、素直に俺らにフクロにされとけ。な? もし抵抗しようもんあら」
すでに口調はろれつが回っていない。
ぐびりと缶ビールを飲み干すと、それを川に向かって投げ捨てる。
「わりーけど、事務所来てもらうわ」
「……事務所……」
その言葉に、丈一郎は戦慄する。
もしかしたらとは思っていたが、この男は暴力団関係者なのではないだろうか、ただの子供同士の喧嘩ではない、もっと大きなことに発展してしまうのではないだろうか、丈一郎は息を飲んだ。
そして、ちらり
「……マー坊君……」
心配そうに真央を見つめた。
すると真央は
「なあ、林田だっけか? おめーに一つ聞きてーことあんだけどよ」
あくまでも真央は、表情一つ乱すことなく悠然と口を開く。
何一つ恐れを知らぬかのように。
「お前この学校に入学できるってことは、頭もいいだろうし家も結構な金持ちなんだろうけどよ。そんなお前が、何でこんな意味のねーことするんだ? こんな――」
ちらり、丈一郎に介抱されるレッドに視線を配り
「こんな、誰にも迷惑かけないような、優しいやつ一方的にぶん殴るなんてよ」
ペッ、林田は忌々しそうにつばを吐く。
「いらいらするんだよ。全部が。死ぬほどいらいらしたとき、そのブタが俺らの目の前にいた。ぶん殴ったらすっとした。だからずっとぶん殴り続けただけだ。理由なんてねーよ」
「何でもいいけどよ」
真央と丈一郎、二人のもとに木下が歩み寄っていく。
「俺も忙しいからよ、さっさとボコさせろ。なんだったら事務所行くか? さっさとしろ」
「……」
威圧をかけ続ける木下に対し、真央は至近距離まで歩み寄り、視線を跳ね返し続けながら口を開いた。
「事務所だぁ? だったら看板みしてみろ」
「か、看板?」
その言葉に、林田は困惑したような表情を見せる。
「か、看板なんてなあ、そりゃ事務所にいかねーと……」
「名刺でもバッヂでもみしてみろや? どうせンなもん持てる身分じゃねえだろ?」
低く、唸るような声で真央が畳み込む。
「だいたいてめーみてーなチンピラが、上通さねーで好き勝手に事務所なんて使えるわけねーだろーが!」
「え? どういうことっすか? 木下さん?」
木下の取り巻きの舎弟たちの間に同様が走る。
「木下さん、松成組の幹部候補なんじゃなかったんすか?」
「もしかして、あれ、嘘だったんすか?」
「うるせえ! あんなやつのいうことにいちいち反応してんじゃねえ!」
顔を真っ赤にして、ごまかすようなかんしゃくを林田は爆発させた。
ニィッ、真央は見透かすような微笑を浮かべる。
「よく考えろよ、こんなチンピラにでけー組がそう簡単に盃くれるわけねーだろうが。しかもてめーら簡単に看板口走りやがってよ。今このご時勢、看板口に出す意味知ってるか? もしほんとにそいつが松成組の盃もらってんならよ、俺らがこのことサツにうたったら、松成組の親分さんとこかっちりマル暴のガサ入れはいって体持ってかれるぜ? そしたらてめえ」
完全に相手を飲み込んだように真央はいった。
「よくてエンコ詰め、下手したら破門、まあそれで済めばまだいいほうかもな。ま、それもこいつが本当に成松の組員だったらって話だけどな」
――ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン――
またもや鉄橋を通る電車の音。
その爆音が、男たちの耳を支配する。
その言葉に、木下は全身をぶるぶると小刻みに震わせ、そして顔を真っ赤にして叫んだ。
「ごちゃごちゃいってんじゃねー! いいからてめーぁ俺らにぼこぼこにされればいいんだよ!」
――ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン――
「やってみろ」
右手人差し指で、ちょいちょいと煽るような仕草を真央は見せる。
「やってみろ。こいや、チンピラ」
「うがあああああああ!」
右拳を硬く握りしめた木下は、真央に向かって突進する。
――ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン――
全身全霊の力をそこに込め、真央の顔面にそれをめり込ませようと――
ゴッッ!
「がへぁあっ!」
「ああっ!」
「木下さん!」
「木下さん!」
――ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン ガガゴゴン――
木下の舎弟、そして林田、松岡の声、そして鉄橋を通る電車のきしむ音が響く。
木下の顔がねじ切れるように曲がり、半ば一回転するように後頭部から地面へと叩きつけられる。
その拳が真央の顔を捉える寸前に繰り出された真央の拳は、あっという間に後発の不利を覆し、カウンターとなって見事に木下の左頬を打ち抜いていた。
そしてそのまま、口と鼻から大量の血を噴出し、木下は地面へと這いつくばって気を失った。
「マー坊先輩……」
その様子を、何かまぶしいもの、太陽を仰ぎ見るかのようにしてレッドは見つめていた。
先ほどまでなり日々ていた、無機質な電車の金属音はすでに消え去っていた。




