3.8 (土)16:45
「大豪邸じゃねーか!」
モルタル仕立ての白亜の外壁、芝生の茂る広い庭。
それまで真央が住んでいた広島の木造アパートとは雲泥の差があった。
「おおげさだな、真央君は」
ケラケラと笑う奈緒。
「そんなたいしたもんじゃないから」
「いやいやいや、こんな家今まで一度も見たことねーぞ!」
その言葉を聞いても真央はその言葉を受け入れることはできなかった。
メロンは果物ではない、きゅうりの仲間の野菜だ。
しかしどう考えてもそれは果物にしか見えない。
それと同様だった。
「ねえ君、あまり騒がないでくれるかな」
とつっけんどんな桃。
「何度も言うけど、ご近所の目もあるからあんまり騒がずに、上がるんだったらさっさと上がってもらえる?」
「どうぞどうぞ。おあがりくださいな」
それに対して奈緒はあくまでもフレンドリーだった。
「あ、じゃあ、お邪魔します」
他者の縄張りに侵入しようとする野生動物のような態度で、真央は二人の後について行った。
玄関は大理石で作られており、高級ホテルのロビーを思わせた。
その壁には大きな風景画が飾られており、その額はシックな輝きを放っていた。
真央は今まで履いたこともないようなふかふかしたスリッパを履くと、地平線でも見えてきそうな長い廊下を歩く。
いくつかのドアを素通りし、その中でも特に重厚な扉が開けられると、そこには地中海風にしつらえられた気品のあるリビングが広がっていた。
「とりあえず、ソファーに座ってて」
リビングの奥に見えるキッチンから桃の声が響く。
「じゃあまあ、遠慮なく」
真央が言われるがままにソファー腰を下ろす。
その柔らかさ、どこまでも沈みこんでいくかのようだ。
同じくリビングにいた奈緒が、白木作りの木箱を手に戻ってきた。
「真央君、よかったらこのお菓子食べて。おいしーよー」
その中から見えたのは、一つ一つ丁寧に紙で包んだチョコレートだった。
「あ、いただきます」
そのひとつをつまみ、口の中にほおり込む。
もぐもぐもぐ、しっかりと味わう。
おいしいのだろうが、どうも普段口にしているものとは風味が違うようだ。
「上品過ぎて味がわからん」
これがうまいのかまずいのか、真央にはわからなくなってきた。
そして再び周囲を見回す。
「なんだか映画のセット見てーだな」
「ま、確かにあたしと奈緒の二人で暮らすには、ちょっと大きすぎるかな」
紅茶の乗ったトレーを運び、桃がリビングに入ってきた。
「どうぞ」
カチャリ、桃はティーカップを真央の前に置いた。
「あ、どうも」
もはや真央にはそれ以外の言葉を口にすることができない。
「桃ちゃんの入れる紅茶ねー、すっごくおいしいんだよ」
奈緒は真央の隣に腰を下ろす。
桃もテーブルを挟んで二人の前に座り、紅茶を一口含んだ。
ふぅっ、と甘いため息が漏れる。
「さて、と。じゃあ、これからどうするか話し合おうか」
「えー、何でー?」
奈緒は不満そうな声を上げた。
「いまさら話し合うことなんてあるの?」
「あたしはやっぱり気が進まないよ」
話を振り出しに戻すかのような桃の言葉。
「男の人、しかもあたしと同年代の人が同じ屋根の下にいるなんて、気が進まないな」
「どうして?」
きょとん、とした表情で奈緒が言った。
「それは、その、いろいろと」
どう言ったものだろうか、桃はやや言葉に詰まった。
「えと、なんていうか」
もしなにか間違いがあったら、とは口が裂けてもいえない。
しかし
「何で?」
奈緒には桃の言わんとしていることを理解しかねるようだ。
「むしろ男の人がいたほうがいろいろ心強いじゃん」
「そういうことじゃなくて! 少しはあんたも警戒心を持ちなさいってこと!!」
苛立った桃は、ついにその真意を口に出した。
しかし、それでも
「失敬だなー。警戒心ぐらいちゃんとあるよー。だから毎日鍵を二重にして戸締りしてるんじゃん」
ニコニコと笑いながら奈緒はその無防備にたわわな胸を張る。
「ああもう、だめだこの子」
桃は目じりを押さえ、顔をしかめた。
「そういうことを言ってるんじゃないんだって」
「じゃあさー、もっと具体的に言ってよ。具体的にどんなことが危険なのー?ねえねえ、なにー?」
「はじめてあった男の人を、はいそうですかって信用できるほうがおかしいの!」
ばん、とテーブルをたたいた。
そして真央に対し
「とにかく、男の人が家にいる、あたしにはこれがやっぱり我慢できない! 理解して!」
「いや、桃さん、二週間程度でいいんだ」
と真央は頭を下げた。
この少年なりの、精一杯の誠意を伝えようとした。
「なにもずっと居候させてくれ、って言ってるわけじゃねーんだ。バイト先と下宿さえ見つかれば、いつでも出て行くよ」
しかし
「あたしはできない」
その言葉は話を断ち切った。
奈緒のためでもあり、そして自分のためだ。
そして、何より桃がこころに引っかかっていたこと――
「それにプロボクサーになりたいなんて人、女の二人暮らしの家庭には置いて置けない」
「あのさ」
その言い方は、真央の気持ちを逆なでした。
それまで居住まいを正していたが、さすがにその発言には反感を隠せなくなった。
「あんた、いくらなんでもそんな言い方はねーんじゃねーか?」
真央は確かに、言ってしまえば不良と呼ばれる時期もあった。
ボクサーに対し、世間ではあまりよくない評価をする人もいる、それは痛いほど知っている。
しかしボクサーを、ボクサーとしての自分を、まるで犯罪者予備軍のような目で見ることは絶対に許せなかった。
「ボクサーを、そんな色眼鏡で見て欲しくねーんだよ」
「そうだよ桃ちゃん。いくらなんでもそれは言いすぎだよ」
奈緒もなじるように桃を責めた。
「前からそうだよね? わたしがボクシングの話をすると、いっつも不機嫌になっちゃう。なんで? 何で桃ちゃんはいつもそうなの?」
桃も少々言葉が過ぎたことに気づいた。
確かに二人の言うとおりだった。
桃だって、ボクサーをそういう色眼鏡で見ているつもりはない。
しかし奈緒の言うとおり、ボクシングの話が出ると、こころがそれを拒否してしまう。
自分の嫌な部分が出てしまう。
今まさに、その部分を見せ付けられたような気がした。
「ごめん」
うつむいたまま桃は言った。
「こんな風に言うつもりは無かったし、君の事を悪く言ったつもりは無いんだけど……」
「桃ちゃん……」
いつになく弱さを見せる桃に、奈緒は戸惑う。
いつもだったら“うるさい!”の一言で済ませるような言い争い。
これほど弱弱しく見える桃は、初めてだった。
「あ、いや、俺も別に桃さんのこと非難したつもりは……」
戸惑ったのは真央も同じだった。
男を相手になら、喧嘩など数え切れないほどに経験した。
しかし、女性と言い争いになった経験は、ほとんどない。
そしてそれが、いかに気まずいものであるか、真央は今初めて知った。
重苦しい沈黙がリビングを包む。
――カチ、カチ、カチ――
時計の音がやけに大きく響く。
まるで三人は何時間もそこにそうしているかのような錯覚を覚えた。




