4.10 (水)6:40
もう何度目にあるか、数える意味もなくなるほどに通いなれた通学路。
左手の公園には、今日も朝からたくさんの人影が。
プードルだろうか、奇妙なほどにコケティッシュな子犬に引きずられるようにして歩む、こざっぱりとした身なりの老人。
機関車のようにしゅうしゅうと呼吸荒くウォーキングを続ける中年の婦人。
もはや見慣れた光景だが、公園の緑だけは、萌黄色の中にしっかりとした夏の緑の根を感じることができた。
少々強くなり始めた日差しの中、われらが主人公秋元真央はポケットに手を突っ込み、型には大きなエナメルバッグを抱えたままうつむき加減で通学の歩みを進める。
春先、初めて釘宮家に来て通学路を歩んだときには、桃と奈緒、二人の美しき姉妹と肩を並べたが
「一緒に暮らしていること、知られたくないから」
という桃の一言により、めいめいが時間をずらして登校することになった。
どうせ親戚同士ということにしてあるのだから関係ないのではないか、と真央は思ったが、その理屈はどうにも桃には通用しなかった。
奈緒も、声を大にして反対を申し出たが
「文句あるの?」
という、ぎょろりとした一瞥に奈緒も何もいえなくなった。
「ん、まあ、これが“でりかしー”てやつね」
朝のロードワークを終えて、まだぼんやりとするまぶたをこすりながら、あくび交じりの呟き。
イチョウの木立に囲まれた通学路をいけば、そこはいつもの十字路。
時折そこで丈一郎と合流しともに学園への道を行くこともあるが、今日はその姿は見えないようだ。
レッドがへばった坂道を、大またでずんずんと進む真央の目の前に、これも見慣れた学園の校地を区切る壁面。
ここに差し掛かる頃になると、もはや大勢の、同じブレザーに身を包んだ善男善女の姿。
いまだにこの人の波に慣れない真央は、意図的にぴりぴりとした雰囲気を身にまとい、足早にこの空間を一人過ぎ去ろうとする。
そんな中
「あ! 真央君じゃないですか!」
うしろでパタパタとなる靴音に振り返れば、
「おぉ、よぉ」
真央の目の前には、青いほどに黒くつややかな髪の毛。
そこに輝くのは、先日真央が丈一郎とともに選んだ小さな髪飾り。
「葵じゃねーか、早えーな」
「おはようございます! 生徒会の仕事があるもので、早く登校することになっていたんです!」
最大限の柔らかい笑顔と、抑揚の少ない穏やかな声で葵は真央に朝の挨拶。
そして葵はきょろきょろと周囲を確認すると
「……今日は、桃さんや奈緒さんはいらっしゃらないのですか?」
「……んー、まあな」
そういうと真央は面倒くさそうにあくびをした。
「なんか、一緒に暮らしてること絶対に知られたくねーっつーから。今後は登下校は時間をずらそう、ってことになったんだよ」
きらり、葵の目の奥が輝く。
葵にとって、これは大変幸運な情況だ。
「そうなんですか。じゃあ、こうして一緒に登下校できるのは、わたしだけ、ということでよろしいのですよね?」
ある意味では誘導尋問なのだろうか、少々後ろめたさを感じながらも葵は訊ねるが
「ん? まあ、丈一郎とか、レッドとかも、時間があえば」
こともなげに答える真央。
やはりこの少年、女性の細やかな気持ちに心を砕く繊細さは持ち合わせてはいないようだ。
そのことばに、少々不服そうな葵。
「そうですね、では明日もご一緒できるといいですね」
一体この少年には、どうすれば少しでも自分の気持ちが伝わるのだろう、やや途方にくれないわけでもなかったが、しかし、それは桃や奈緒にとっても同じだろう、スタートラインは一緒なのだ、と思うと葵は少し気が楽になった。
「真央君も、私をご覧になられたら、お声掛けくださいね」
そういって、半歩真央との間にキョリを地締め、右肩を真央の左腕に押し当てた。
「ほんじゃ、俺こっちだから」
礼拝堂へと向かう十字路の前、真央は教室とは逆方向の道を指差した。
「? 教室はこちらですけれど?」
やや拍子抜けしたような声で葵は疑問を口にする。
もしかしたら、まだ校地の見取り図が頭に入っていないのだろうか、とも思ったが
「いや、俺、朝練やってからいくわ」
そういってバッグを肩に掛けなおした。
「そうでしたか」
納得した表情の葵。
二人で教室に入れないのは少々寂しいが、仕方ない。
「それでは、私も生徒会室によってから教室に行くことにします」
そういって小さく手を振る。
「それでは、また教室で」
ふと見ると、葵の美しい髪が風に揺れ、そおなかに真央のプレゼントした髪飾りがちらちらとした小さな輝きを放つ。
ふと、ほんの一瞬だが、時間が止まったような感覚のくるいを覚えたが
「おぅ。ほんじゃの」
そういって、柄にもなくクールな様子できびすを返した。
「ふっ、ふ、ふうっ!」
シュンシュンシュン、バンデージでがっちりと固められたこぶしが空を切り裂く。
ジャブ、フック、ストレート、一通りの動きを繰り返す頃、真央の目の前に様々な影が見え隠れする。
自分お姿の中に、その時々により様々なボクサーのスタイルが浮かんでは消え、彼ら、まさしくシャドウ(影)と拳を交える。
そのスピードは徐々に上がり、それはもはやボクシングではない、ダンスのような装いを見せる。
体中に汗が吹き出る。
体をひねるたびに息が上がる。
それでも、ボクサーはたった一人で影と踊るのだ。
「あっらぁっ!」
ズゥン、渾身の右フックが、へヴィバッグにめり込む。
何ラウンドかのシャドウを終えた後、そのテンションをそのままサンドバッグへとぶつけていく。
力を込めて叩くと、それと強盗の力が体に押し返されてくる。
サンドバッグとは、一方的に重い砂袋をたたくことではない。
砂袋から、叩き返される事と同義なのだ。
「っふうぃぃ」
へたり込みたい欲求を抑えながら、軽いシャドウであえてその呼吸の乱れを押さえつける。
そして、汗にまみれた上半身のタンクトップを脱ぐ。
春先の霞のような湯気が、無割と真央の体から立ちのぼる。
ボクシングをしていて、真央が最も幸福を感じる瞬間でもある。
そしてウ日にタオルを巻きつけながら、完全に呼吸が落ち着いたことを確認しリングのエプロンにもたれ込む。
「あーっ」
ふぅ、小さくため息をつく。
「ちっとやべえな。こんなに追い込んどいて、俺まともに学校の授業受けられるのか?」
今までの真央だったら、まちがいなく学校をサボって部室でいびきをかいていることだろう。
しかし、今までとは違う。
自分が好き勝手な行動を取れば、身元保証人ともいえる釘宮家に迷惑がかかってしまう。
そのような義理に反した王道は、真央にはとてもできない相談だ。
「……しょーがねーな。そろそろ行くか……」
気が進まない重い腰を上げ、真央は汗にぬれたタンクトップとタオルを肩に掛け、上半身裸のまま部室を出た。
「……っつっても、シャワー室まで行く時間ねーからな、っと……」
きゅっ、きゅっ、きゅっ、メタに使われることのない、部室の前にあるホースのすえられた蛇口の線をひねる。
そして
「っひょぉー! 気持ちいー!」
子どものような声を上げ、その冷たい水に体の火照りを癒し汗を流す。
「……いよいよ今日から授業だね……」
「……あーあ、もう一回春休みになればいいのになー……」
女子生徒の黄色い声。
同じく朝練を終えた生徒達が、身なりを整えて教室への道を歩くところだ。
「……でさー、今度うちのクラスに来た転校生なんだけど……」
A組の生徒なのだろう、真央のことを話題にしていたその矢先――
――じゃばじゃばじゃば、無造作に蛇口の水を浴びる、屈強な上半身裸の男の姿が。
「ん?」
その女子生徒たちの存在に、真央も気付く。
もしかして、同じ学年の同級生だろうか、ここは葵の言うとおり、きちんとした人間関係を築けるように、挨拶くらいはしておいた方がいいかもしれない。
じゃばじゃばと頭に水を垂れ流したまま
「よ、よお。じゃねーか、おはよう、ございます」
とたどたどしく挨拶をする。
「「……」」
夫たるの女子生徒は身を凍らせていた。
今まで彼女達が接してきた男子生徒は、どちらかといえば線が細く、優等生タイプだった。
しかし、気になっていた転校生、ワイルドな印象は追ってはいたが、よもやここまでとは思いもつかなかった。
しかし一方で、その無駄な贅肉一つない、彫刻のような肢体が朝日に輝いているその美しさに、見とれもした。
体を硬直させながらも、視線だけは真央の体の隅々を、鼻息荒くなめまわすように見つめていた。
返事がないことに、真央は戸惑いを覚える。
なぜ返事がないのか、桃との一件からは何一つ学習はしていないのだろう。
「ああ、んと」
咳払いを一つ、そしてやや大きな声で
「おはよっ! ございまっす!」
びくん!
その言葉に我を取り戻す少女たち。
「ひゃっ!?」
「お、おはよう、ございます!」
そして少女の一人が
「え、と、秋元、君、だったよね」
「ああ。つーか俺のことしってるってことは、A組の生徒か?」
ホースを投げ捨て、ぷるぷると顔を振りタオルを手に取る真央。
「あ、俺のこと秋元君、なんて呼ばんでいーよ。マー坊って呼んでくれ。そうみんなにもいっといてくれ」
そういうと、にいっ、と笑顔を返した。
その後、真央は体を拭いて制服に着替えると、教室に入る。
真央が教室に入ると、女子達がいっせいに真央に視線を集める。
「?」
その異様な雰囲気に、真央はやや戸惑ったが、手前の席の丈一郎の姿を認める。
そしてその背中をバシン、と叩く。
「あ」
その衝撃に、丈一郎も真央の姿を認める。
「マー坊君、おはよう」
へにゃり、柔らかい笑顔を返した。




