4.9 (火)16:40
「よぉ、待ってたぜ」
部室の前、ロードワークのスタート地点。
圧倒的速さで丈一郎を置き去りにした真央は、早々とロードワークを終えていた。
そしていつものように、呼吸を整えながらも、シュン、シュンシュン、シャドウを軽々とこなす。
フッ、フッ、フッ、体をコントロールする浅い呼吸が丈一郎の耳にも心地よい。
「今日は、奈緒ちゃんも、いねえからな。ただひたすら、走るばっかだったから、楽だったんじゃねーか?」
徐々にスピードを落としながら、真央のもとに近づく丈一郎。
その呼吸は真央のものとは異なり荒く、体中に滴る汗はその運動強度の強さを示している。
「はあっ、はあっ、はぁっ、マ、マー坊君と、い、一緒にしないで、よ」
フラフラと歩きながら、これもいつもどおりファイティングポーズをとり、同じくシャドウを行う。
そして、乱れる呼吸を強いて腹筋で押さえつけながら、そのリズムを整える。
「確かに、ダッシュとかがない分、楽なんだろうけどさ、きっついことに、代わりはないんだからさ」
とは言いつつも、一ヶ月前と比較して大分真央のペースにはなれてきているようだ。
「うっし、丈一郎もかえってきたところで」
そういうと真央はシャドウの手を止め、軽い屈伸とストレッチを行い
「んじゃ、ま、いくか」
と再びロードワークのコースへと足を進める。
「? い、今、帰ってきた、ばかりじゃないの?」
唖然とした表情で、情況を把握できない丈一郎は訊ねる。
「またロードワークに行くってこと?」
タオルを肩に掛け、トレーナーを再び羽織ながら真央はこたえる。
「レッド拾いに行くんだよ。桃ちゃんならともかく、奈緒ちゃんにあの80キロの肉の塊、どうこうできる訳ねーだろが」
「そ、そっか」
慌てて丈一郎も再びトレーナーを身にまとう。
そして真央のあとを追った。
「確かレッド君まともに運動したことないって言ってたから、途中でへばっちゃってるかもね」
「そういうこった」
振り返ることなく言葉をかける真央。
「わかったんなら、さっさと行くぞ。どこでへばってるかわかったもんじゃねーからな」
「……すんませんっす……」
学校へと向かう大きな坂道を、よたよたと手を引かれながら、ずるずると体を引きずられるようにしてかろうじて前に進むレッド。
全身はすでに汗でどろどろになり、汗でぴったりと張り付いたその生地の下に、生白い素肌が浮かび上がっていた。
ひゅうひゅうと、脂肪に圧迫された喉もとから、隙間風の様な呼吸が漏れている。
「気にすんじゃねーよ。デブなおめーがこんなことになることなんざ、最初から織り込み済みなんだよ」
こちらも額に汗を光らせながら、懸命にレッドの手を引く真央。
「ごめんね、マー坊君」
シュンとして自転車を引く奈緒。
「途中までは何とか走ってはいたんだけど、もう後半からはほとんどとまっちゃうような情況になっちゃって。わたし自転車だったから、これ以上はどう仕様もなかったんだ……」
「気にしなくて、いいよっ!」
こちらも同じく大きなレッドの背中を押す丈一郎。
歯を食いしばりながら、もたれかかる肉隗を全身の力を使って押し戻す。
「マー坊君の、言うとおりっ! 僕だって! はじめてっ、マー坊君と走ったとき、ふらふらになっちゃったからねっ! せっかくできた後輩だもん! これくらい、当たり前だよっ!」
「とにかくよ、レッド。別にお前にインターハイ目指せなんて期待しちゃいねえよ」
と真央もこの男には珍しいような苦悶の表情を浮かべてレッドに語りかける。
「強くてかっこいいヒーローになるんだろ? まずは誰の力も借りずにこれくらいの距離走り通すくらいの体力をつけろ。わかったか?」
「……ふぁい……」
そういうとレッドは真央の手を振りきり、小さく胸元で腕を振って自力で走りはじめた。
ニィッ、その様子を見て口元を曲げる真央。
「よっしゃ、その意気だ! 根性見せろや、レッド!」
「んじゃあな、まずは……」
たっぷりと時間をとり休憩を兼ねたストレッチを行った後、真央はレッドを姿見の前に立たせた。
そして、汗で湿ったぶよぶよとしたレッドの右手を取る。
「まずは、ボクサーとしてのお前にとって一番大切な、拳の作りかたってぇものを教えてやるよ」
そういうと真央は、レッドの右拳の小指から薬指、そして中指人差し指と、丁寧に指を隙間なく折り曲げていく。
そして、指先が手のひらの先端にぴたりと吸い付くような形を作る。
「……仕上げは……こうだ」
最後の仕上げに、親指でふたをして押さえ込むようにして硬い拳を作り上げた。
「これがお前がリングに立ったとき、最後まで信頼してともに戦うための武器だ。普段は軽く握る程度でいいが、拳を相手に叩き込むとき、すばやくこの拳を作れるようにしておけ。いいな?」
「はいっ!」
そういうとレッドは、同じく左手も指を丁寧に折り曲げていき、お手本どおりに拳を作る。
「おおっ、レッド君って、拳でっかいね」
丈一郎が言うように、その拳は意外なほどに大きく分厚かった。
「かなり質量がありそうだから、きっと重いパンチが打てるようになると思うよ」
「そうだな」
同意する真央。
「そのでかい拳は、最後までお前を守る武器になる。いつでも作れるように、時間を見つけて作る連取をしとけよ」
今までからかわれる対象でしかなかった自分の肉体が、初めて他人にほめられた。
それがなんだかこそばゆく面映く感じれれたレッドは、まさしくそのニックネームの如く顔を赤くした。
「……い、や、そんな……が、がんばりまっす!」
「んじゃ、お次はっと……」
がさごそとクラブバッグをまさぐる真央。
そして、包帯のように巻かれた布切れを取り出す。
「手ェ出してみろ」
その言葉に従い右手を差し出すレッドの手をくるりと返し、拳頭に布をたらして手早くそれをまいていく。
「じゃじゃーん、と」
「こ、これは……」
レッドの拳に巻かれていたもの、それは
「バンデージ、だよ。ボクサーのもう一つのパートナーだ」
そういうと、今度はレッドの左手を取り、同じくするすると布を巻きつける。
「こいつはな、お前のその拳を保護してくれる。それだけじゃなく、お前のご夫婦の威力も高めてくれるっつーシロモノだ。入部祝いだ。それお前にやっからよ。あとで、名前書いとけよ」
「い、い、いいんですか!?」
レッドの顔がぱあっと花開く。
憧れのヒーローの使っていたバンデージを引き継いだ、それがレッドにとって何よりも嬉しかった。
「あー、マー坊君ってやさしーんだー」
奈緒がにこにこと笑いながら声をかける。
「うっせえな。そんなんじゃねえよ」
苦虫を噛み潰したように答える真央。
「せっかくコーチ料入ったからよ、新しいの買うつもりだったんだよ。そんなモン中学校の頃から使っててぼろぼろだしな。まあ、リサイクルだ」
「……まったく、照れ屋なんだから……」
ニヤニヤと笑いながら、冷やかすように言う丈一郎を
「あ? なんかいったか?」
ぎょろり、と睨み返す真央だったが
「いやいや、なんでも」
そういうと丈一郎は、鏡の前でさっさとシャドウを開始した。
バンデージの巻き方を大方説明し終えた後、再びレッドを姿見の前に立たせる真央。
そして、気をつけの姿勢を作らせた後、その肩の力を抜かせ自然体を作らせる。
「その拳を作ったまま、お前の思うボクシングの構え、ポーズをとってみろ」
「は、はいっ!」
ようやく呼吸を整えたレッドは、言われたとおり、いわゆるボクサーの構えを取る。
「こ、こうっすか?」
ボクシング、イコール、拳のスポーツ、レッドはそう考え、腕を曲げて拳をかたの高さまで引き上げる。
しかしそれは、道見ても一昔前尾おもちゃのロボットのようにしか見えなかった。
「……えーっと、なんつーか……」
口ではうまく説明するのが難しいと思ったのだろう、真央は
「おう、丈一郎。お前が説明しろ」
そういって丈一郎をその場に呼んだ。
「オッケー。僕でいいなら」
そういって丈一郎はレッドの横に立った。
「まずはね、こう。こうやって半身を作るんだ。レッド君はオーソドックス、右利きだから、左足を一歩前に出して」
そういってレッドの体を調節し始めた。
「うん、そう。いい感じ。でね、足の力は抜いてさ。そうそう……」
「こ、こんな感じでしょうか……」
自身なさそうな声のレッド。
「……ちょっと、体を後にそらしすぎかな……」
丈一郎は首をかしげる。
「ジョン・L・サリバンみたいだね」
「ああ、そうだな。これじゃぁジョン・L・サリバンだ」
奈緒はむしろ嬉しそうに言ったが、真央は顔をしかめた。
ジョン・L・サリバンとは「ロンドン・プライズリング」時代の、最後のチャンピオンの名前である。
すなわち、ボクシングがベアナックルで行われた時代の、最後を飾る偉大なるボクサーである。
ベアナックルでボクシングが行われていた当時、ジャブという概念の存在しなかった時代でもあり、その構え方は拳を下げ、体は垂直に立てながらも顔はやや後へとそむけ、拳から身を守るというスタイルだ。
レッドの極端に体を後にそむけるそのスタイルを見た真央と奈緒は、その100年以上昔のボクサーの姿を図らずも思い出してしまった。
「ま、拳を避けるって意味では、結構合理的な構えなのかもしんねーが、やっぱり拳に体重を込めなきゃな」
そういうと真央は、全身に体重をかけた雄牛のごとき構えを取る。
「ジャック・デンプシー以降、ボクサーのスタイルっつーのはこういうクラウチングスタイルがメインなんだ。顔に拳をもらいたくねーって気持ちもわからんんでもねーがな」
そしてぽん、軽くレッドの巨大な腹をたたき、その体を折り曲げさせる。
「今日のところはまず拳と構えの作り方だけ覚えとけ。そのでっけー拳、どうやったら最大限の力を込めて叩きもめるか、そのためので練習だ。真剣にやれよ。わかったな?」
「はいっす!」
まだまだぎこちないが、ほんの少しだけボクサーに近づいたレッドは、気持ちのよい声を響かせて返事をした。




