4.9 (火)15:30
「……やっぱり、新入会員、誰も来ないね……」
丈一郎がため息混じりに呟く、そこはボクシング同好会の部室。
一時間ほど前、同好会の、桃いわくの“三バカ”トリオは、盛大な失態をやらかした。
部活動体験希望の新入生は、各部室に行ってその申し出を行うことになっている。
しかし案の定、誰一人としてボクシング同好会の部室の扉を叩くものはいなかった。
ブレザーとワイシャツを手早く脱ぎ捨て、先ほどの鮮血の跡色濃いタンクトップに再び袖を通す。
「しかたねーだろーが。んなもんいまさら言ったってどうにかなるもんでもねーだろーがよ」
こちらはあっけらかんとした様子のわれらが秋元真央。
さっそく練習用のウェアーに身を包み、手馴れた様子でバンデージを巻いている。
「あんなモンでびびっちまうようなやつらにボクシングなんかできっこねーんだからよ」
しかし
「まあそうだけどさ」
ボクシング同好会会長は、それでも後悔の念を払拭できない。
「僕と奈緒ちゃんは、この同好会を部に昇格させようと思ってずっと頑張ってきたのにさ。なんだかすごくむなしい気分だよ」
響くため息は、なんともやるせない響きだった。
「まあそういうんじゃねえよ」
そういうと真央は丈一郎の肩に腕を絡める。
「結局はよ、ボクシングなんて個人競技、自分自身との戦いなんだよ。おまえ自身が強くなるために、それが部だろーが同好会だろーが、関係ねえんじゃねえか?」
「それはそうだけど……」
それでも丈一郎は不服そうだ。
「同好会を復活させた奈緒ちゃんの気持ちも考えるとね……とてもじゃないけどそんな風には言ってられないよ……」
丈一郎は一年前のこの日のことを思い出す。
ボクシング自体に興味はあったが、自分がボクシングを実践するなんて思っても見なかったあの頃。
やけに人懐っこい、かわいらしい顔の中学生に声をかけられ、ある意味では流されるままに加入した同好会。
そして、いつの間にかどっぷりとボクシングの魅力にはまって言った自分。
一人で同好会を立ち上げ、そして何度断られようと会員を集めようとし続けた奈緒の気持ちを考えると、軽々しく真央の言葉に同意することはできなかった。
「大丈夫だって。チャンスはいくらでもあるって」
肩を組んだまま、ニイ、っといつもの不敵な微笑を作る真央。
「今年俺らが、俺とお前の二人がインターハイとか全国大会に出ればよ、それだけですげー宣伝効果じゃねえか? だからくよくよ悩むよりもよ、ガンガン練習して全国目指そうじゃねーか」
「ええ? 全国?」
真央の広げた大きすぎる風呂敷に、丈一郎はしり込み。
「マ、マー坊君ならともかく、僕なんてそんな、全然……」
「まあ、俺みたいに楽勝っつうわけにはいかねーだろうけどよ」
そういうと丈一郎にこつん、小さく額を合わせる。
「西山大附属っつうスパーリングの相手も見つかったことだしよ。全国常連校のあいつら以上に練習していけば、間違いなく全国出られる、っつうことじゃねえか」
あまりに近い距離にある真央の顔に、少々顔を赤らめながら
「マー坊君……」
丈一郎は租の目を真っ直ぐに見つめ返す。
「ははは、そうだね」
丈一郎は、そのあまりにも前向きな真央の様子に、ようやく悩みを吹っ切る。
何を自分はくよくよと悩んでいたのだろう、もともとが奈緒と二人きりで一年間練習し続けていたじゃないか。
しかも今は真央という心強い仲間がいるんだ、そう考えることで、ようやくいつもの前向きさ、ひたむきさを丈一郎は取り戻す。
「わかったよ。とにかく今は、うん、例え無理だとしても、全国大会出場を目指して頑張るよ!」
といつもの小さなガッツポーズを作った。
「ぎゃはははは、相変わらず大げさなんだよ、おめーは」
豪快な笑いも、いつも以上の豪快さが感じられる。
「よっしゃ、ほんじゃあ、いつもの“孤独なトレーニング”に戻ろうじゃねえか。とにかく公式戦初勝利、そして全国大会出場を目指そうじゃねえか」
そういって、ばちん、バンデージを巻いたこぶしで左手のひらを叩いた。
「うん!」
丈一郎が懇親の笑顔でそれに応じたその時――
ガタガタ、ガラリ、建て付けの悪い扉が、廃線直前の地方鉄道のような音を立ててこじ開けられる。
「みんなー! ビッグニュース! ビッグニュース!」
いつもを凌駕するような、とびっきりの笑顔で、まるで跳ね飛ぶウサギのように入室してきたのは、聖エウセビオ学園ボクシング同好会の立役者でありマネージャー、釘宮奈緒だった。
「おう、奈緒ちゃん」
その微笑ましい様子に、ついつい表情が和らぐ真央。
「あ、奈緒ちゃん。どうしたの? そんなに興奮して」
同じく、負けないくらいの愛らしい笑顔を返す丈一郎。
その言葉に、鼻息荒く胸を張る奈緒。
「へへーん、じ・つ・は……」
「「じ・つ・は?」」
きょとんとして言葉を合わせる真央と丈一郎に対し
「じゃじゃーん!」
その言葉と同時に、のそりと部室に入る影が。
「ついに! ボクシング同好会に! 新規会員様がご入会でーす!」
「「うぉおおおお! マジか!?」」
猛ダッシュで扉に駆け寄る二人の目の前には――
「「……」」
二人の目は点になる。
「……君は……」
「……お前かよ……」
ため息をつく二人をよそに
「よ! よ! よ! よろしく おねぎゃじまじゅ!!」
ぴんと気をつけをし、目を閉じてろれつ回らぬ様子で叫ぶ一人の生徒。
やや小太りの、眼鏡をかけたその姿には見覚えがある。
「ぼ、ぼ、ぼくしぶどうこうかい、に! い、い、い、いれてぐだじゃい!」
「おめーはあん時のガキじゃねーか」
ふう、肩を落としてため息をつく真央。
「は、は、はい! きょ、きょ、きょうは、ほんとうに、お世話になりました!」
“ガキ”と呼ばれた少年は、あの時、三年生のトイレで暴行を加えられていた少年だった。
「あー、もう三人とも顔見知りなんだねっ!」
嬉しそうに飛び跳ねながら微笑む奈緒。
「んーとね、この子はね――」
奈緒の紹介に対し食い気味に
「じ、じ、自分は、せ、せ、瀬川隼人って言います! ボクシングどうこうかいに入会希望っす! よろしくお願いしまっす!!」
まん丸な体を硬直させながらその少年、瀬川隼人は絶叫の如く自己紹介。
「あのね、同じクラスになったことはないんだけど、瀬川君は中学校から聖エウセビオに入学したんだよー」
うれしそうに紹介を続ける奈緒。
「今まで部活には入ったことなかったんだけど、今日の部活動紹介見て、入ろうって決めたんだってー。ね? 結果的には大成功だったんじゃない?」
「あー……えっと……なんていったらいいか……」
その言葉を聞いても、苦笑いを浮かべるしかない丈一郎。
入部の決め手になったのは、おそらくは部活動紹介ではない。
むしろ、あの“トイレでの一件”であろう。
すると丈一郎は、優しく言葉を選びながら、瀬川少年に語り掛ける。
同級生の奈緒にあの一件を知られるのは、きっと瀬川少年のプライドを傷つけてしまうだろう、それを恐れたからだ。
「ねえ、えっと、瀬川君、だっけ。わかっていると思うけど、ボクシングってきついし、何より痛いと思うけど、それでも大丈夫かな?」
「か、か、覚悟はしています!」
一生懸命に言葉をつぐむ瀬川。
「じ、じ、自分は、お、お、お、お二人みたいに、つつつ、強い人間になりたいと思って、ボクシングを始めたい、そう考えました!」
「いや、そんな……僕なんか全然……」
“二人のように強くなりたい”その強い二人の中に自分自身が含まれたことには驚きつつも、少々嬉しさを感じた丈一郎。
「だけど、スポーツやったことないんだよね? 本当にきついと思うけど、本当に大丈夫なんだよね?」
最後の念押しをすると
「絶対頑張ります!」
瀬川隼人の真っ赤な丸い顔は、さらに紅潮した。
「そっか、だったら大歓迎だよ」
へにゃっ、柔らかい微笑で右手を差し出す。
「僕は川西丈一郎、僕だって素人同然みたいなものだけど、一緒にがんばろうね」
「あ、あ、あ、ありがとうございます!」
その手をぎゅっと握り返すと、上半身が千切れんばかりにお辞儀を繰り返した。
「……あーんと」
その様子を、いつものようにもじゃもじゃ頭を掻きむしりながら眺めていた真央。
「一つ聞きてーんだが」
「は! ははは! はひ!」
真央の言葉に、再び体を硬直させる瀬川。
「な、な、な、なんなりと!」
鋭い、今にもとって食わんばかりの目で瀬川を睨みつけ
「おめえよ、もしかして、ボクシングで腕っ節鍛えて、そんであの連中に仕返ししようなんざ、考えてんじゃねえだろうな?」
「ひっ!」
ヘビに睨まれたカエル、硬直の中にかすかな震えを瀬川は感じた。
もしかしたら、この人を、憧れの人を怒らせたかも知れない、それが瀬川の体をいっそう硬直させる。
「? あいつらって、だれー? 何の話ー?」
きょとん、話が飲み込めない奈緒は疑問を口にする。
「あのさ、マー坊君……」
いいにくそうに話をさえぎろうとする丈一郎。
その件に関しては、丈一郎自身も違和感を感じていた。
ボクシングは路上の喧嘩ではない。
「……その気持ちは、わかるんだけど……」
何よりも、真央自身がそれを一番嫌っていることは、丈一郎もよく知っていた。
もしそれを混同し、復讐のためのスキルを得ようとするならば、それはお門違いであり、ボクシングを冒涜する行為に等しい。
しかし、せっかく入部を申し出てくれた瀬川の気持ちも汲んでやりたい、丈一郎はそう考えていた。
「……」
歯を食いしばり、何もいえなくなる瀬川。
その両目からは、かすかに涙が零れ落ちそうになっている。
すると、真央は瀬川の肩に腕を絡ませ
「嫌いじゃねーよ。そういうの」
ニィッ、と笑った。
「ガンガン鍛えて男磨けばよ、あんなやつらに絡まれることもなくなるぜ。それに、そのうち路上の喧嘩で勝つなんかよりも、もっとすげー景色見せてやれっからよ」
「……マー坊君……」
丈一郎は、眩しそうにその光景を見つめる。
そうだ、あの一ヶ月前、初めて真央とあったとき、そのときの自分を思い出すようだ、丈一郎は考えた。
「えへへへー、よかったねー、瀬川君」
話の成り行きは全く見えなかったが、とにかく真央が瀬川を受け入れてくれたことに、奈緒は無邪気な喜びと微笑を見せた。
「よろしくな、えーっと、瀬川、か」
ニィッ、肩を組んだまま右手を差し出す。
パァァッ、瀬川のまん丸な顔は、大きく花開く。
「よ、よ、よ、よろしくおねがいしまっす!」
力強くその手を握り返した。




