第五話 弟子は魔本の適合者
ミカゲ工房から西に約五十キロメートル。魔獣の森を抜け、平野をしばらく行くと、魔導国家オズワルドの街がある。
魔導とは魔を導くこと。つまりは先駆者。魔道の研究が大陸一進んだ、魔道学術院を中心に据える国家である。
その街の一角、とある大貴族の邸宅でのことだ。
部屋に響くのは、静かに怒る当主、デクーロ=エレクトロの声。
「あの奴隷が逃げ出して、早三ヶ月。お前たちは無能この上ないな……」
「しかしデクーロ様っ! 奴隷を連れて行ったと思われる魔族の工房は、危険度極高の魔獣の森の先! 危険度は実にB+級! 我らの兵の平均闘級はE級からD級、C級に届いている者でさえ僅か三名です!!」
闘級とは、その者の戦闘能力に応じて割り振られる等級である。能力の希少さや利便性に左右されることもあり、一概に闘級=強さ、とは言い切れないが、おおよそ強さの目安と言っていい。
闘級はSからFまでの級位が存在する。
F級は戦闘慣れした一般人程度の実力。E級は訓練された兵士程。D級はその中でも一際強い者。C級は熟練の戦士レベルで、一般的な人間の闘級限界とされている。
B級は一つの壁だ。
B級になると大型の魔獣を一人で討伐できる程の実力を持ち、C級との大きな壁が存在する。なれるのは才覚ある選ばれた者のみであり、一人で一個小隊を越える戦力を持つと言われる。
A級は更に大きな壁だ。
A級になれるのは極々一握りの天才鬼才たち。その数は大変少なく、約十億人はいるとされる大陸内において、僅か三百人弱。大半が固有能力持ちであり、実力は一騎当千。
S級は例外的な闘級であり、A級の中でも歴史に名を連ねるような偉人クラスの存在である。大陸内でも二十人いるかいないか。
魔獣の森は危険度B+級である。つまり、B級の者ですら死の危険が付きまとう超危険地帯。
平均闘級EからDの兵士たちでは、入った直後に魔獣の餌食だ。
当主であるデクーロ卿と相対する部下の男は、兵に指示を出す指揮官であった。しかし、どんなに知略を尽くし、脳髄を沸騰させるが如く頭を回したところで、無力な兵士たちは圧倒的な魔獣の力の前に散っていった。
正直、もう限界である。
「ふん。もう良いわ。兵を引かせろ。既に貴様ら兵士には期待してはいない……」
デクーロ卿の言葉に、俯いていた顔が上がる。そしてまた勢いよく下げた。
「ありがとうございますっ!! 聞いたか、すぐに指示を出せっ! 捜索隊は撤退だ! 怪我人は救護班に回せ!」
「はっ!」
指揮官は脇に控えた部下に指示を飛ばし、魔獣の森に向かっている部隊へと撤退の命令を飛ばした。
「あの奴隷は、逃がして置けぬ。あれは私の所有物だ。しかし、貴様らは無能だ。だから有能な者に頼むことにした」
「有能な者、ですか……」
指揮官とて、自尊心はある。無能無能と蔑まれては、波立つ感情の一つや二つあった。そもそも、危険度極高の魔獣の森を超えろ、と言うのが無茶な命令なのだ。その中でも、指揮官は果敢に指示を飛ばし、兵士の命をできるだけ助けようと努めてきた。
握られた拳に血が滲む。しかし顔には出さない。
相手は大貴族。それも大戦時の伝説、十王が一人であり、〝帝王〟の名を冠する〝雷帝のイヴァン〟の血族だ。二百年の年月が経てど、権力は健在。自分が歯向かおうものなら簡単に消されてしまう。世間的にも、物理的にも。
ゆえに、黙って耐える。
デクーロ卿の言葉が続く。
「魔族如きに、私の所有物を奪う権利はない。――それが〝魔本の適合者〟であるなら尚のこと」
逃亡奴隷、アイゼンが追われ続ける理由はここにある。奴隷一人を捕まえるのに、捜索隊まで出すのは異例である。そもそも奴隷は、首に刻まれた奴隷紋による激痛で動けず、逃亡半ばにして捕まるのが常である。
異例尽くしの案件であり、それにはそれぞれ相応の理由がある。
一つ。逃亡奴隷アイゼンが奴隷紋の激痛に耐えうるだけの強靭な精神力を持っていたこと。
一つ。逃亡の先、偶然にも街に出てきていた魔族、ミカゲ出会ってしまったこと。
一つ。その奴隷が〝魔本の適合者〟であったこと。
魔本。
魔神が書き記した書物とされ、適合者に絶大な力を授けるとされる書物である。どの本にも魔術の根幹に関わる内容が記載され、その全てが暗号文で書かれている。解読は難しく、おおよその内容は解読できても、細部までは分からない現状である。
適合者には書かれた内容に準じた力が授けられる。それは魔神の力の一片。
だからこそ、デクーロ卿は魔本を隠し部屋へと保管した。
仮に見つかっても、適合者以外にはただの意味不明な書物。仮に奴隷が価値に気付いて持ち出そうにも、奴隷紋によって逃げられない。仮に適合者であっても、覚醒まで時間が掛かる。その間に拘束すれば良かった。
今となっては、その予想全てが甘かったと言わざるを得ない。
アイゼンは適合した瞬間にその場に倒れ、監禁された。ここまではデクーロ卿の思惑通りだ。
しかし彼女は、適合者が出たことに慌てる屋敷の騒ぎに乗じて逃げ出したのだ。逃亡の手口は牢番を誘ってからの一撃。鍵を奪って逃走。元々従順な奴隷だっただけあり、牢番の警戒も薄かった。
「まさか逃亡するとはな。あの従順だった娘がよ。あの娘、日頃から逃亡の機会を計っておったな……従順だったのは演技か。強かな娘よ」
アイゼンが適合した魔本の題は〝魔力の奔流〟。序章七冊と呼ばれる代物であり、魔術の基礎が書かれた七冊の一つだ。
基礎ゆえに、応用が利き、多様な分野での魔術研究に大いに貢献するだろう力の書だ。
一瞬だと言え、適合者が自分の手の内にあったのだ。魔神の力の一片を手にしていたのだ。そう考えると考えるだけ、アイゼンを逃がしてしまった事が悔やましかった。
「あれは文字通り金の卵。逃してなるものか。魔神の力は私のものだ。逃亡もここまで。ピリオドを打とうじゃないか。刺客は既に差し向けた。闘級はなんとA級の強者よ」
「A級ですか!?」
「くくく。しかもかの戦闘国家ワノクニの剣士サムライよ。泥棒魔族がどんな手を使って魔獣の森を超えているかは知らんが、その守りもA級の前に無力。金の卵が我が手中に戻って来るのは時間の問題」
部屋にデクーロ卿の笑い声が響いた。
彼が差し向けたワノクニの刺客は、ミカゲ工房を目指し魔獣の森を行く。
◆
午前中の実践修行対フドーを終え、昼食を挟んで午後の修行。
鉄御影モードのフドーとの修行は今日で最後になるそうだ。この三ヶ月で基礎技術が完成したとお師匠様は言う。今日からは応用。しかし基礎が落ちることの無いように、基礎技術を常に意識しろ、とのこと。
……私は今、闘級で言えばどれほどになるのだろうか。お師匠様の〝経験〟の刻撃は大きく影響しているとは思いますが。
「今日は魔力の使い方を教える。言っても、魔術じゃない。魔力循環による身体強化だ」
「おー」
「魔力循環の技術は闘級のC級のB級を隔てる壁だ。これを知って、身に付けることでB級の壁を越える事ができる。アイゼンちゃんは今、その段階にある」
「ふぁえっ?」
変な声が出た。
現在私はC級とB級の境にいる。つまり、私は今、熟練の戦士程の実力があると言われているわけで。
「いやいやいや。まじですか」
「まじですよ。俺の鍛錬を舐めるんじゃあない。鍛えることに関して、俺の右に出る者はいない」
「いや、でも、たった三ヶ月ですよ?」
「三ヶ月も、だ。君は三ヶ月、体力面と技術面、徹底的に叩かれ、そして薬効湯で回復するサイクルを繰り返した。本来なら身体が持たないが、薬効湯で回復させ。そして技術や戦闘経験を通常の何倍もの密度で叩き込んだ。既に一般的な限界レベルの戦闘力を手に入れているのさ」
「お師匠様、何者ですか……」
「はっはっは。ただの引退した老兵だよ。見た目は幾分か若いがね」
それでも信じられない私。
お師匠様はその様子に気が付き、「試してみるかね」と、森の茂みの中へと入って行った。
しばらくすると、熊の魔獣を一匹抱え上げた状態で戻ってきた。熊の魔獣は必死に抵抗するが、お師匠様の規格外の腕力の中では無力であった。
「どれ。――刻撃〝隆起〟――」
祝詞と共に戦鎚で地面を穿った。
威流しによって拡散する破壊痕。破壊の波が広がると同時、割れた岩盤は音を立てて隆起し、私たちを囲うように岩石の檻を作り出した。
お師匠様は熊の魔獣を片手で抱えたまま、戦鎚を消失させ、代わりに空中に投影した魔術陣から一本の刀剣を取り出した。
それをこちらに放って寄越す。私は難なく掴み取る。
「この熊は、危険度Cってとこだ。現在闘級C+級はあるアイゼンちゃんなら問題ない。ほれ」
言って、熊の魔獣を開放した。
そのままお師匠様は跳躍。岩壁の一つに飛び乗って、観戦体勢に入っていた。
熊の魔獣はこちらを警戒しつつ、戦闘態勢に入っている。
「うぉおおお……本当に無茶苦茶言いますね」
「はっはっはぁ。本当のとこ言えば、アイゼンちゃん既にレインボーリザードから逃げなくても倒せるんだよねぇ。走り込みにならないから言わなかったけど」
「コノヤロウ……」
眼前。体長三メートルはあろう熊の魔獣が唸り声を上げている。完全に警戒態勢だ。でけぇ。
全身に走る赤い模様は返り血を浴びたような印象を見せる。
「魔獣〝鮮血熊〟だ。なんと言っても肉がうまい。それ、倒せば今日の夕食だからなー。おっ、動き出したぞー」
「いきなり突進ですかっ」
岩壁の戦場の中、ブラッドベアーは私に対しての突進で戦いを開始した。
無論、躱す。ブラッドベアーは旋回し、豪腕を振るって攻撃してきた。鋭利な爪は、私の柔肌なんて簡単に切り裂くことだろう。
しかし、視える。
私は片刃の剣で一撃をいなす。そして反撃。通りざまにブラッドベアーの腹部を斬り付けた。
飛び散る鮮血。しかし、斬撃が浅いのか倒れる様子はない。
「はっはー。そんな一撃じゃ倒せんぞー」
「こっちは真剣を使うのが初めてなんですよっ」
「いいや、斬り方は教えてあるはずだ。木剣での練習を思い出せ」
襲い来る牙と爪。それらを防ぎ、躱し、反撃に斬り付ける。
観察からの予測は間欠泉の方が余程難しかった。攻撃の多様性、速さ、技術はフドーの方が上だった。
視える。動ける。
攻撃力は私の方が下だけど、こちらの攻撃は当たり、向こうの攻撃は当たらない。
負ける道理がなかった。
私は強くなっている。改めて強く実感した。
「そもそもフドーに叩き込んだ技術がD+級はあったんだ。それを上回るアイゼンちゃんがそれ以上じゃない訳がないんだよ。ま、フドー自体はそこに強固な防御力が加算されるからB級の強さはあるんだがね」
反撃の一閃。
身体を廻し、体重移動を意識し、剣の重さを利用して円の動きで引き斬る。斬り付けたのは体重を支えていた後ろ足。これまで以上に深く刃が食い込んだ。確かな手応え。
ブラッドベアーの体勢がよろめく。
私は岩壁を蹴って、高く跳躍。空中、剣を逆手に持って全体重を刃に乗せた。
体勢を崩したブラッドベアーの首筋に、私の剣が深々と突き刺さった。
「ほぅら、勝てた」
ぐぉおおおおおっ、と断末魔を上げた。地面を揺るがして巨体は崩れ落ちる。動く気配はもうない。
私は本当に魔獣を一人で討伐したのだ。
「あはは……本当に倒しちゃいましたよ、私」
まだ息が荒い。飲み込む唾の音がやけに大きく聞こえる。心臓がばくばくと高鳴ってる。じっとりと額には汗が滲み、初の本番戦闘の緊張が身体に残っていた。戦闘中には気にもしなかったが、終わってみて一気に緊張がのぼってきた気分だ。
深呼吸。
荒い呼吸を整えて、自分の倒した魔獣を見やる。私の何倍も大きな体躯がそこに横たわっていた。これは現実、現実なのだ。
「アイゼンちゃんは現在C+級。信じたかい?」
「信じるも何も、自分で立証してしまいましたからね」
「それじゃ、魔力の使い方に移ろうか。これももう邪魔だな――刻撃〝崩壊〟――」
お師匠様は隆起した岩壁を戦鎚の一撃の下砕き散らす。
一つの硝子細工が砕けるように散ったそれは、崩壊の刻撃の効果によって崩れ、残ったのは飛び散った土砂の小山だった。
……私がC+級なら、お師匠様はどれほどなのか。少なくともB+級以上。A級はありますよねぇ。
自身の強さを実感した後、それより遥かに強いお師匠様の強さに戦慄した。
◆
一方その頃。
「えぇい! ミカゲ工房とやらは何処にあるのだ!!」
魔獣を斬り倒しながら森を進むデクーロ卿の刺客。
「右か! 左か! あぁーもう駄目だ、分からないっ!」
彼女は森の中で迷子になっていた。
彼女はミカゲ工房に無事辿り着けるのだろうか。
「もういいっ、右だ。右に行くぞ。私は決めた。決めたのだ。もう知らんっ」
不安である。