波乱の幕開け
「おい、紅露ノ機龍! お前だよな、成上がりは。死にたがりよぉ、Fクラスの分際でCクラス入りを狙ってんだろォ、だから今の内に挨拶してやろうと思ってなァ。生意気なんだよ、落ちこぼれ風情がァ!」
「…………」
十一月十日、午前八時。天気は快晴。抜けるような青空に、眩い朝日が遥か遠方の山陵から顔を出してから、約二時間が経過していた。
「おい、聞いてんのか!」
「…………」
機龍は、吐きそうになった溜息をぐっと堪える。思わず肩を竦めるという悪癖を何とか抑え込む。こういう状況の場合、自分のこの癖は鼻につく行為だということは、入学してからの約七ヶ月間で十分過ぎるほどに身に染みていた。
国立魔法学校付属桜峰高校の敷地内には、大小様々な付属建築物が建ち並び俯瞰図や全体図で見れば、高校というよりむしろ郊外型の大学キャンパスと言ったほうがしっくりきてしまうほどに茫漠とした広大さを誇る。
そして今、機龍がいるここは内部レイアウトが機械可変式の講堂兼体育館とは別にある二つの小体育館の内の一つの裏側である。しかしその様相は裏側というより裏庭という印象を受けた。
柔らかい下草に木登りがしやすそうな樹木が一本堂々と植えられており。今は葉を落としてしまったが夏場は綺麗な緑色の葉がその太い枝に生え、昼間は涼しいそよ風が梢を揺らして光が瞬く様を見ることができ、機龍はその夏の間の昼休みは毎日のようにここを訪れ、五限目が始業開始するぎりぎりまでその木の下で昼寝をしたものだ。
そして今も昼休み開始直後であるが機龍はまず昼食を取っていなかった。四限目が終わると同時に、目の前でガンを飛ばしてくるクラスメイトに連行され今に至っていた。
いかにもガラの悪そうな男子生徒が三人、さっきから機龍の回りをぐるぐると周回していた。洗脳魔法でも仕掛けるつもりかと思ったがそれは現実的に不可能だ。どこの魔法学校の生徒も術式構築演算補助装置、略称GDは登校してからすぐに事務室に預けることが義務付けられ、これに反した場合良ければ停学、悪ければ退学と厳しい処罰を下されるのだ。
生徒間でGDの所持を認められているのは、生徒会役員と風紀委員会役員のみである。故に機龍がこの三人組にGDで脅されることもないし、機龍がデバイスで脅すこともできない。
そろそろ腹の虫が騒ぎ出しそうなので、機龍は彼らの怒りを買わないように最新の注意を払いつつ言葉を選ぶ。
「取り敢えず訂正させてほしいんだがまず、Fクラスだったのは五月一杯までであって今はDクラスだ。俺もそう簡単にCクラス入りはできないだろうと思っているから、安心してくれ。そして成り上がりの件は、今年の四月に副会長が提案し会長が施行した『自由騎士制度』の原則に則り正式に昇格したのであって、そこには何ら不当な手段は用いられていない。以上だ」
「そんぐらい分かってんでだよ、馬鹿にしてんのか!」
「ですよねー」
剣山のように髪を突っ立てた瞳の鋭い男子に突っ込まれ、思わず苦笑して頬をぽりぽりと搔く。 問題はそこではないのだ。彼らはこの学校の生徒として少なくとも、機龍より自分のほうが優秀だと自負している。その認識は至極当然である。
機龍は入学試験でペーパーテストの成績は二位であったが、技能試験は最下位から数えたほうが早い順位だった。その成績で最低辺のFクラスに在籍されるのは必然であり、故にその生徒が僅か半年ちょいで二階級特進くらいしたのだから、反感を買われるのは当然である。
しかし理由はもう二つある。一つはこの学校に選民思想が流行病の如く蔓延していること、しかもこの流行は一向に去らない。だがそれも必然である。日本にある魔法学校は将来の戦略級魔法師を育成する場であり、クラス分けによって優等生と劣等生が明確にされているのだから、その思想が生まれるのも仕方のないことなのかもしれない。
魔法の才能は遺伝によるところが大きく、そして魔法は心理的要因が深く技能向上に関係している。つまり向上心と自尊心を育てる必要がある。故にクラスを分け、優等生と劣等生の区別を明確にしているのだ。
負けることに慣れてしまったら、自尊心を失くしてしまえば向上心は生まれない。そう考える機龍からすればこのシステムや選民思想に僅かばかりの不満しかない。
学校側はクラス分けによる魔法力向上と謳っているが、もちろん建前である。
もう一つの理由はDクラス在籍という事実だ。我が桜峰高校はどのクラスも個別指導を受けられるのだが、その質が格段に跳ね上がるのがCクラスからなのである。この差は尋常なまでに大きく、例えDクラスでトップの実力を誇る生徒であっても、Cクラスの底辺にすら勝てない。
つまりこのCとDの間に線引がされているのである。彼らは恐れているのだろう、近い内に自分たちが劣等生と同類になることを、さらに言えばいつか機龍がBなりAなりに上がり、自分たちが見下されるのではないかと。
この埋められ難い差がさらに選民思想の濃度を上げているのだ。DクラスからFクラスに在籍する生徒はいわば彼らの踏み台なのだ。下にいる生徒を卑下して自尊心を満たし、自信を与えることでさらに上を目指させ向上心を育てる。人間の本能ともいえる自己承認欲求を応用したシステムなのだ、この才能の篩分けは。
このシステムは人格的にまだ未成熟な少年少女には効果大であった。
D~Fクラスクラスの生徒は、技能向上を共にしている仲なので同情せざる負えない。だがそう悲観する必要もない、何故ならこの桜峰高校に在籍する生徒は皆エリートなのだから。努力を続ければレベルが低かろうが魔法関係の大学には進学できるし、魔法関係の中小企業くらいなら就職できるので、努力が水の泡になる確率は極めて低い。
要は機龍と違い、高望みをしなければ良いのだ。しかしそれでも世間から『国の役に立たなかった記憶魔法師』という烙印を押されるのは回避が困難だが。
「なあ、紅露ノくん。君、あの黒乃家の分家なんだろ。なら本家のご息女とも面識あるよね」
つんつん頭とは別の、体育館の壁に寄りかかった生徒が訊いてくる。今までつんつんが視界を埋めていたせいで見えなかった。彼は長めの前髪を搔き上げると少し熱っぽい声音で言う。
「良かったら紹介してくれないかな。僕たちクラスメイトじゃん。彼女すごい可愛らしいよぶはぁッ!」
一瞬で間合いを詰めるとその男の鳩尾に拳をぶち込む。魔法も使わない素手の一手だったが効果はあったようで、その男子生徒は機龍の肩口に倒れ込んで来て押し黙った。自分でも驚くほどのドスの効いた声で忠告する。
「おいよく聞け。黒乃家の娘に指一本でも手を出してみろ、軽く肋骨の二、三本持っていくぞ。分かったら返事をしろ、答えは、はいかYESだ。……おい聞いてんのか……あ」
完全に意識を刈り取られていた。憤りで思わず力を入れ過ぎた。数秒かけて他の二人が驚愕から回復し怒声を放つ。つんつん頭が地を蹴り拳を引いて突進してきた。
「なにしてくれてんだァ!! Fクラスの分際でぐはァ!」
「だから『元』Fクラスだと言ってるだろう、聞こえなかったのか?」
体が反射的に反応し瞬時につんつんの背後に回り込むと、その首元に鋭い手刀を喰らわす。意識を失ったつんつんが力なく顔面から地面に倒れ伏す。半円の軌道を描いた踏み込みにより、舞った枯れ葉が思い出したようにぱらぱらと地面に落ちる。その様を一瞥しつつ最後の一人に視線を飛ばす。
「ヒィっ!」
情けなくか細い悲鳴を漏らした彼は、腰を落としたと思った瞬間滑るような動作で接近してきた。慣れたような動作だった、だがしかし。
「遅い」
「っぐはぁ!」
突き出された手刀を難なく躱し、伸ばされたままのその腕を摑み自分のほうへ引っ張り、腰の回転も合わせて投げ落とす。そして仰向けにひっくり返った彼の顔面に拳を叩き込もうとする。
「ヒィィ!」
直撃する直前に寸止めする。拳圧により彼の前髪が揺れる。一魔法師として忠告しておく。
「魔法ばかりに頼り過ぎて体術の鍛錬を怠っているな。記憶魔法師を名乗るなら精々、護身術くらいは身に付けておくことを薦める」
それだけを告げて呆然とした表情の男子生徒を捨て置き、食堂へ向かう。今ので時間を十分も消費してしまい、昼休みはあと五十分しかない。腹の虫がついに鳴った。吐息混じりに呟く。
「……腹へった」
本棟、実験棟、実技棟の三校舎とは違う別棟の食堂兼カフェテリア兼購買に足を運んだ機龍は、購買で購入したツナパンと焼きそばパンを両手に抱えて、雑踏の中を縫うようにソファ型の四人用対面式テーブルに挟まれた通路を歩いて行く。
猥雑の様相を呈している広大すぎる食堂内の往来を行く生徒たちから視線を感じる。その過半数には敵意と嘲りが多分に含まれている。両側のテーブルに座る生徒たちから無邪気な悪意が零れ落ちる。
――あれが例の黒乃の分家……。
――最底辺のくせにいきがりやがって……。
――黒乃の分家だからって調子に乗ってるんじゃないか、死にたがりのクロスブリード風情が。
聞こえみよがしに囁き合う人の輪を無表情に通り過ぎていく。機龍はとある事情で身分を偽り、名門黒乃家の分家として名を通している。そして機龍に対する彼らの認識はFクラス生徒のまま固定されているらしい。
あの爆裂魔法師も言っていたが機龍は自由騎士という身分を持っている。犯罪者の逮捕や、パトロールなど武力を必要とする職務を名門白凰家から引き受けて報酬を得る魔法師のことをそう呼称する。
凶悪な犯罪者を相手取るため、就任前には任務中の負傷や死亡などは自己責任を取りなさいという旨の署名を書かされる。そんな物を書かされるほどの過酷な職務を行うため別名、死にたがりと呼ばれている。
記憶魔法師世界には元々、火や水や風などの属性魔法しか存在していなかった。しかし二年ほど前に魔法師界に技術のブレイクスルーとも言うべき革新が起きた。それが無属性魔法の確立である。
この魔法は机上の空論でしかなかったため、当時の魔法師世界には強烈な激震が走った。属性のない汎用タイプの魔法。その世紀の発明から派生して生み出されたのが振動系術式である。
この振動系術式を行使する者は羨望と嫉妬の的になる。大抵の魔法師には古臭い価値観が根付いてしまっているため、振動系術式なんてものは邪道であるという風潮がある。故に蔑称で雑種(crossbreed)と揶揄してクロスブリードと呼ばれている。
しかしそれだけではここまで注目されることはない。これは黒乃機龍という名の飛び級生徒であるが故の視線の殺到である。
自由騎士制度。これは引き受け達成した任務の難易度に応じて、報酬とは別にポイントを受け取り、その点数が規定された数値を越えた場合、クラスを昇格できるという不平等体制への救済策である。
この新しく施行された校則は、機龍にとって僥幸というほかなかった。実技の成績が低い機龍みたいな生徒には天から舞い降りた幸福であった。
これで自分はこの学校に入学した動機とあの約束を果たすことができる。彼女との約束の言葉を脳裏に思い出しながら、食堂の壁側の二人用テーブルの座席に腰を下ろす。
パンを食す前に機龍は、持っていた両手でなんとか抱えられるほどの小さな白い箱を取り出す。解錠した途端に内部から濛々とした冷気が溢れ出す。中には鮮やかなブルーの正方形の塊があった。表面には毛細血管のような幾何学模様が刻まれ、刻印から幻想的な光が漏れている。
取り出しそのまま齧り付き、もぐもぐと咀嚼する。触れている右手と口中に冷気とブルーハワイシロップ味が充満する。かっちりとした固形物であるが、噛み砕けば食感はかき氷のそれに似ている。
見た目ブロック塊のこの代物は魔法食と呼ばれ、魔法発動に必要不可欠な記憶の集合体である。基本的に魔法師はこれを食すことで記憶領域に記憶を貯蔵する。人間から記憶を抽出し、経口摂取できるように加工し、洗浄する。
この洗浄という工程は魔法食越しに摂取した記憶を、記憶野に保存した魔法師がその内包された映像を思い出さないようにするための過程である。中には凄惨な記憶なども含まれているため、才能に心理的要因が絡む魔法師にとってはそういう類いの記憶は脅威である。
未洗浄の魔法食を取り込んだことにより、その映像を想起してしまったショックで才能を容易にスポイルされ、魔法が使えなくなった件も過去に発生している。
通常、魔法食は料理などに混ぜて食するのが一般的であり機龍のようにこうして単体で食べる魔法師は少ない。機龍はとある体質のせいで、保有する記憶粒子が常時だだ漏れ状態なのである。だからこうして適度に魔法食を摂取しないと、たちまち記憶粒子が枯渇してしまう。そうなると魔法が使用できなくなる。
「っ。この味飽きてきたな。何か凄まじく苦いし。そろそろ苺味に変えようか」
二個目を頬張りつつ一人ごちる。魔法食は質によって味が異なる。生きた人間から抽出した記憶は味わい深い良質な味ではあるが、保存された記憶量はもう一方のより少ない。そのもの一方は死体から取り出された記憶であり、こちらは味はまずいが前者よりは記憶量が多く保存されている。機龍が食っているのは後者だ。
「……なんだかなぁ」
何の気なしに食堂を見渡して憂いを含めてしみじみと呟く。多くの生徒が席に座り食事をし、通路を行き交う雑然とした光景には明らかに規則性がある。ネクタイ及びリボンが黒色(一年)、赤色(二年)、臙脂色(三年)が入り混じる中で、左胸元にA~Cの文字が縫い止められた生徒たちが窓側、反対側の壁側にD~Fの文字を付けた生徒たちといった風に綺麗に分かれていた。
前者がこの学校のカリキュラムを万全に十全に享受できる優秀な生徒、後者が質の低い受講を余儀なくされる踏み台の劣等な生徒。誰に強制されたわけでもない、にも関わらず同類同士で密集し合うその光景には、不可視の格差が見える。
皮肉にも大きなガラス窓からは冬に近付く陽差しが差し込んでいるため、まるで日向の優等生と日陰の劣等生のような光景が顕現されていた。差別する側と差別される側、どちらも差別意識が強いことを行動によって如実に表していた。劣等扱いの彼らは敢えてその風潮に逆らうこともなく、弱肉強食の世界で生きる術を、知恵を、その体で披露していた。
機龍はただ単に視線の集中砲火から避難したかっただけなのだが、彼らは違うらしい。彼らの窓際を見るその目にはある種の諦観が滲んでいた。それらの目は時折こちらに羨望と嫉妬を含ませた視線を浴びせてくる。
「はぁ……」
この学校に機龍の心休まる場所は皆無である。しかしそれも仕方のないことだ。歴史が浅く邪道と罵られる目立つ魔法に身分に躍進の数々、これで目立たないわけがない。思わず肩を竦ませつつ三個目の魔法食を手にしたところで、機龍の眼前に一人の男子生徒が現れた。
「んぁ?」
赤色のネクタイにスーツのような黒色の制服、そして胸ポケットの表面にはBの文字。しかし彼はただの二年生ではない。一際目を引くのは左腕に付けられた「風紀」の文字が刻印されている腕章である。風紀委員であることは明白だった。どうやら校内の巡回中のようだ。
機龍はもしかしてさっきの一方的な展開を見せた小競り合いを知られたかと思い、いつもの癖で僅かに腰を浮かせ逃走の準備をする。無属性魔法の移動と加速の複合術式なしとはいえ、走力には絶対の自信がある。
その動きを察知したわけでもなかろうが、長髪を後ろで束ねた痩せた風紀委員は、機龍を見下ろしながら唐突に口を開く。
「その手に持っている物はなんだ?」
その声には憤りが含まれ、注がれる視線には微かに敵意が滲んでいた。機龍はその態度を訝りつつも返答する。
「ブロックタイプの魔法食ですが、見てお分かりになりませんか」
先輩なので使い慣れない敬語を使ってみる。機龍の言葉が勘にさわったのか、風紀委員の顔がぴくぴくと引きつる。刺のある視線をこちらに向けつつ、活力のないその顔を歪めて、ビシッと人差し指を俺の手元に突き付ける。
「校内での魔法食の摂取は立派な校則違反だ! よって直ちにそれを没収する」
「はぁ!」
あまりの物言いに機龍は思わず音を立てて椅子から立ち上がる。こちらを煩わしそうにじろりと睨む風紀委員を睨み返し、怒気を滲ませた声を張り上げる。
「横暴だ! 先輩は魔法食を取り上げることの意味を明確に理解しているんですか!」
機龍の叫び声に周囲の生徒が反応し、一斉に視線を向けてくる。しかしその集まる視線は完全に意識の埒外だった。二人は視線をかち合わせて睨み合う。
記憶魔法師にとってデバイスと魔法食は必須ツールであり、それらは魔法師であることを証明するために必要不可欠な物だ。その内の片方を取り上げると目の前の男は言ったのだ。
黒乃機龍は劣等生だろうと魔法師の端くれだ。それに風紀委員の言葉には誤りがある。故に叫ばずにはおれなかった。怒りが湧き上がるが、それでもなんとか抑制した声で指摘する。
「確か校則には食堂などの飲食が認可されている場所であれば、昼休みの時に限り摂取を許可すると表記されていた筈です。疑いになられるなら携帯端末で校則事項を確認してください」
「私が間違っていると? 踏み台風情が私に指図するなァ! いいからさっさとそれをこちらに渡せ!」
憤慨に顔を歪めた風紀委員は目にも止まらぬ早さで胸元に手を伸ばしてくる。避けることは容易かったが、機龍は敢えて棒立ちのままその手に胸倉を掴まれた。
険悪な雰囲気を察して周囲の生徒がぞろぞろと席を立ち、二人から距離を置く。その光景を視界の端に捉えていたら自然と怒りが静まった。頭の中の冷静な自分が、無益な波風を立てる必要はないと囁く。
機龍は家系という名の身分上、不用意に目立つことは禁止されていた。故に下手に抵抗はしないほうが身のためだ。ここは素直に謝罪し大人しく持参した魔法食を引き渡すべきだ。放課後にでも妹のところへ貰いに行けば済む話である、
そう結論付けた機龍は取り敢えず謝罪の言葉を口にしようとしたその時。掴まれた衝撃で僅かに胸元が揺さぶられ、かけていたネックレスが飛び出す。照明の光をはね散らすハートのチャーム。
それを見た風紀委員は憤怒に満ちた両目を怪訝そうに細め、嘲笑うかのように呟く。
「ハートのネックレスとはこれまた女々しい男め」
含み笑いを漏らしつつ、胸元から手を離しネックレスを摘まみ取ろうと指を触れさせた。直後に機龍の口から鋭い叫び声が迸った。
「それに触れるなッ!!」
激情に駆られるまま右手を振り抜く。普通なら相手のその手を叩くなりする筈だが、右斜め上へと半ば振り上げられたその手は無意識に拳を形作っていた。そしてその腕の軌道は、体に染み付いた裏拳のそれと完璧に合致していた。
そして尚且つ半ば自動的に足払いをかけ束の間、風紀委員の両足は地面を離れる。しまったと思った時には遅く、振り抜かれた拳は驚愕を貼り付けたその顔面を殴り飛ばし、少し宙に浮いていた風紀委員をそのままぶっ飛ばした。
憤激のままに放たれた裏拳は重心移動と腰の捻りも合わせた戦闘仕様であったため、それを不意打ちで受けた男は放物線を描いて宙を飛び、その細身の体は食堂を通る十字路の真ん中に落下した。ろくに受け身も取れなかったようで、その体は大きく床を跳ねた。
喧騒とした食堂全体の空気が凍り付く。水を打ったかのような痛い静寂が食堂中に満ちた。スプーンか何か落ちたのかどこかで金属質な音が大きく響いた。時が止まったような沈黙が流れる。
機龍は呆然と小さく口を開けつつ割れた声で呟いた。
「やっちまった」
しん、と静寂に包まれた食堂に――。
「……きゃあああああ!!」
機龍の呟きが引き金になったかのように、周りのテーブルの女子生徒たちの凄まじい悲鳴が響き渡った。
それが合図だった。大音量の叫び声が凍った空気を急速に溶かし激震させた。ある者は倒れた風紀委員に駆け寄り、またある者は風紀委員長を呼んでこいと叫び、機龍の周囲にいたDクラス以下の生徒たちが一斉に罵詈雑言を浴びせてくる。耳を聾するほどの悲鳴、怒号、絶叫、罵声が飛び交い、食堂は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
鍛えられた危機回避能力を有する本能がけたたましく警鐘を鳴らす。一瞬の硬直を即座に解いた機龍の脳は、瞬時にこの場から脱出するための経路を導き出し、そして愕然とした。
脱出経路は一本しかない。機龍の今いるこの場所は食堂の最西端、対して出口はここから直線に十字路を突っ切ることで到達できる最東端。全くの真逆である。それはつまり、未だ床に突っ伏すあの風紀委員を越えて行かなければならない。
窓を突き破って遁走しようと思ったが、それは物理的に不可能だ。あれは厚さ二百ミリの防弾ガラス、それこそ「怒」の記憶を媒介にした物理干渉魔法を使わなければ粉砕できない。
突然の暴動に騒然となる食堂内には、幾重にもひしめく人波が形成されていた。
「っ!」
考えている暇はなかった。機龍は騒音に突き動かさるように、床を蹴って駆け出す。ほんの数秒で十字路の中央に差し掛かったところで、駆け寄った生徒に肩を支えられてなんとか立ち上がった風紀委員はその助けを払いのけ、怨嗟の叫び声を放った。思わず足を止めてしまう。
「許さんぞ、グローブアマランスの分際でッ!! 格の違いを教えてやる!!」
三白眼ぎみに落ち窪んだ目に憎悪を滲ませ、後ろで纏めた長い髪を振り回しながら機龍に向かって右手をかざす。その手首には爆裂魔法師の炎伍が使用していたのと同様の、腕輪形状のデバイスが装着されている。風紀委員がそれに左指を走らせた途端に、チカリと眩い朱色の記憶粒子の光が漏れる。
術式構築の展開と魔法の発動の際に漏れ出るパレティクルの波動である。技巧に優れた魔法師ほど漏出パレティクル光は少ないが、流石はBクラス。漏れ出る光が少なめである。
GDの表面に緑色の魔法陣が出現する。あれは風属性魔法独特の色合いである。赤色のパレティクル光は、攻撃魔法を発動する際に出る光だ。その風紀委員は口先だけではなかった。
グリモワールの使用による術式構築の手際、照準を定めるスピード、風紀委員に選出されているだけはある実力者だ。前者も後者も明らかに魔法師同士の戦闘に慣れている者の動作だった。
その事実を認識した瞬間、意思と関係なく身体が劇的に反応し弾かれたように躍動する。中腰のまま滑るような踏み込みで先輩の懐に飛び込み、抱き込むようにしてその細身を投げ下ろす。投げ落とされ俯せにひっくり返った先輩の左手首を摑み、肩口を膝で抑え込む。
「……ふっ」
詰めていた息を軽く吐く。耳朶を叩くざわめきが一瞬で消えた。再びの静寂が食堂内を包む。咳き一つとしてなかった。
機龍は風紀委員を組み伏せたまま内心で後悔していた。頭に血が上ると抑制が全くできなくなる点と自衛行為の焦点が完璧に相手を無力化することに置かれている点のこの二つは自分でも意識はしていて、自省を心掛けてはいるのだが。
しかし後者は反射的に攻撃ができるよう訓練をした結果なので、どうしようもなかった。足かけ四年間の鍛錬で研鑽された過剰防衛とも言える行為は、高度な対人戦闘スキルを要求される自由騎士にとっては決して大袈裟な行動ではないのだ。
特に機龍の『特異体質』を考慮すれば過剰なくらいがちょうど良いと言える。
風紀委員は足と腰を伸ばし未だ沈黙している。機龍はこれからの先行きに不安を感じ途方に暮れた。その、刹那。
唐突な寒気と耳鳴りを聴覚と触覚が捉え、視覚が自分の周囲の空間の歪みを感知した。気圧による現象。魔法発動の前兆。
「ッ!!」
反射的にその場から後方へ飛び退る。するとその現象は霧散するように収束した。空間の揺らめきも嘘のように消えていた。突如、静寂が周囲のざわつきに破られる。先ほどまで荒れ狂っていた人垣が入り口へと通ずる廊下に沿って綺麗に左右に分割される。まるで花道のようにまっすぐに開けたその通路を毅然とした足取りで闊歩して来る生徒が一人。
その生徒は投げ飛ばされて受け身を取り損ない、意識を朦朧とさせた様子の風紀委員を抱き起こして無理やり立たせた。ふらつく足で立つその風紀委員の虚ろな目が現れた生徒を視認した時、焦点を取り戻す。急速にその老けた顔を蒼白にさせ、軍人のようにピシっと直立する。
その様を認めたその男子生徒は機龍に視線を滑らせる。端正な目元から棘々しい視線が放出される。食堂内の全生徒の視線を集めながらその男子生徒は名乗る。
「風紀委員長の赤神悠真だ。紅露ノ機龍、君のことはよく知っている。何か問題を起こすのではないかと懸念していたが、まさか風紀委員に手を上げるとは予想外だ」
芯の通った少年のような清冽な声だった。張りのある美声は流水のように透き通り、空間に染み渡る。
長身痩躯を黒のブレザーとスラックスに包み、剛毅に整った顔立ちの切れ長の目を鋭く光らせる。スラっとした体軀は制服の上からでも案外がっちりとした印象を与える。それは無駄のない筋肉質な肉体をしていることを示していた。
きりりとした眉根の下の瞳は鮮やかな真紅で、髪も同色のさらさらとした清潔さを漂わせる赤髪。高い鼻梁に鼻筋の通った怜悧な容貌。涼やかな若侍のような印象を受ける容姿をしていた。
ネクタイの色は赤、そして腕には紅の腕章。機龍はこの生徒の姿を見るのは初めてであった。しかしその名前はよく知っていた、というより魔法師なら誰もが知っている有名人である。
――赤神……。火属性魔法を開発し世に広めた赤神家の直系の血を引く者か。
記憶魔法師世界には現在、属性魔法と無属性魔法を合わせた八つの基本属性魔法が存在する。
火属性魔法の赤神家。
水属性魔法の青天家。
風属性魔法の緑光家。
土属性魔法の黄昏家。
雷属性魔法の白凰家。
氷属性魔法の黒乃家。
毒属性魔法の紫音家。
この八つの名門が記憶魔法師世界のトップ7に君臨している。この国では優れた血を持つ魔法師の家系は慣例的に色を含む苗字を持つ。俗に色付き(カラーズ)と呼ばれ、また純色の七傑とも言われている。
その中でも白凰家、黒乃家、赤神家は御三家と呼ばれ、赤神家は最有力と見なされている二つの家に近々仲間入りするだろうと噂されている。そうなれば真の意味で御三家が成立するということだ。
詳しい事情を隣の右頬を真っ赤に腫らした風紀委員から聞いた赤神は、より一層刺々しい声と視線を機龍にぶつけてくる。
「風紀委員の校則違反忠告に逆上し、暴力を行使してさらに逃亡を図り、挙げ句には風紀委員を無力化するという暴虐。これはクラス降格の処罰を検討しなければならない」
「なっ!? ちょっと待ってくれ、その風紀委員の証言はデタラメだ!」
「言い訳とは見苦しいぞ」
あまりの罰則にしゃがれた声で反論するも、赤神は聞く耳を持とうとしない。
風紀委員は校則違反者を取り締まる組織である。主な活動は魔法使用に関する校則違反者の摘発と、魔法を使用した争乱行為の取り締まり、あとは校内の見回り等。確かに機龍の行動はやり過ぎであっただろう、しかし魔法は使用していない。
クラスの降格は退学の次に重い懲罰である。別にこの場ですぐに処罰が下るわけではないが、赤神は風紀委員長であり、懲罰委員会に出席した際は強力な発言権を持つだろう。下手をすれば半年間停学なんてことも成りかねない。
機龍の心境を読んだかのように赤神は、おもむろに右腰のホルスターから小型拳銃を模したGDを抜き、「銃口」をこちらに照準する。深紅の塗装をされたそのGDは、風紀委員や炎伍が使用している最も普及しているGDよりも攻撃魔法の発動に優れている。
魔法師はGDに座標、出力、持続時間などの数値を入力することで、術式を構築し魔法陣に通過させることで魔法を発動させる。腕輪形態の汎用術型は多様性に優れているが、それ故に演算による負担が術者に大きくかかる。対して特攻術型は名の通り攻撃重視の一点に設計されたこともあり、使用者の負担を軽減するサブアシストが備えられ、より高速での魔法の発動を可能する。
「とりあえずご同行を願おうか、紅露ノ機龍。反抗はしないことを薦めるよ」
澄ました顔で引き金に軽く指をかける。その時一瞬だけチカッと銃身から光が漏れた。赤色のパレティクル光、その輝きは瞬き一回より早く霧散する。
魔法師同士の戦闘において、相手のGDから漏れ出るパレティクル光の視認をできるかどうかはかなり勝敗に関わってくる。何故なら流出する光で相手が発動する魔法が読み取れるからだ。
赤色は攻撃系、青色は移動系、緑色は防御系、白色は治癒系と分類されている。従って戦闘は基本、暗い場所で行った方が双方有利かつ不利であり、陽の光が差すこの場でその一瞬の煌きを見て取れたのは、機龍が日頃から対人戦闘を行っているからである。
ざわめく人垣の半分から機龍へ非友好的な視線が投げかけられ、対して赤神には感嘆や賞賛の声が男女関係なく囁かれる。
「出るのか『オリジナル』の爆裂魔法っ!」「流石にこんなところじゃ出さないだろ」「けど出力を抑えれば大怪我にはならないでしょ、まあグローブアマランスが怪我しようがどうでもいいけど」「Aクラスエースの実力を思い知れ」
圧倒的にアウェイな空気が機龍に押し寄せる。もう半分、D~Fクラスの面々はただ息を潜め成り行きを傍観している。
大衆を味方につけている赤神は周囲にちらりと目を向けると、小さく口元に愉悦の笑みを刻み、『それ』を顕現させて威圧してきた。
パレティクル光を利用した一種の威嚇行為。肉眼では見えない、だが記憶魔法師には知覚できる光、パレティクルの波動を身体から迸らせる。身の回りの空気を侵食するパレティクルの輝きは、赤神悠真という二年のエース候補の少年の記憶魔法力が卓越したものであることを示している。
そしてパレティクル光に晒された空間がぐにゃりと歪み、そこに突如として巨大な影が出現した。三メートルは超える巨軀は武者鎧に包まれ、その剛毅な人身の上には、猛る炎をような禍々しい炎髪を生やす鳥の頭が乗っかっている。荒々しい一対の有翼、鋭い嘴には横笛が添えられ、ぎょろりとした金壷眼が機龍を見下ろしている。
赤神家が先祖代々育てている人工霊《迦楼羅》は、赤神家の守護霊にして火属性魔法の原初である。守護霊は魔法発動に必要不可欠な魔法陣を生成する役割を担っている。しかし守護霊は一体しかおらず、それではGDの量産ができない。そこで複製が製作された。世に普及しているGDは、火属性魔法を発動する際にその迦楼羅の複製霊の力を借りて魔法を出力する。
しかし当然、その魔法は原初と比べれば威力が落ちる。故に悠真を炎伍と同格に見るのは危険である。爆裂系統術式は火属性魔法から派生したものであるが、赤神のその術式の破壊力は炎伍のと雲泥の差である。原初を使役しているということは、それだけ魔法師としてのレベルが高いことを示す。
赤神悠真は地位と実力の二つでこの学校のトップ4と目されている。
そんな男が現在進行形でこちらに銃口を向けている。さしもの機龍も冷や汗を流さずにはいられなかった。
「さあ、抵抗せずに僕と一緒に来てもらおうか。Dクラスの紅露ノ機龍」
「……っ」
含みのあるその言葉で群衆の半分には優越感が、もう半分には劣等感が満ちる。こんな状況でも差別思想が充満する。その現実に歯嚙みし、意を決して機龍が情状酌量の余地を要求しようとしたその時。
「丸腰の相手にGDを、それも特攻術型を突きつけて脅迫するなんて、いくらなんでもやりすぎじゃない? 彼の言い分も聞いてあげるのが人としての常識ではなくて? 赤神風紀委員長」
大声で張り上げられた声でもなかったのに、その声は食堂中に響いた。聞く者の身を竦ませてしまう、極北の地に吹き荒ぶ風のような、けれど極光の如く美しい声。神託の如く降り下ろされたその言葉に続いて、赤神のGDが弾き飛ばされ硬質な音と共に床を滑る。赤神は驚愕の表情でだだっ広い食堂の最奥を見上げる。
その視線につられて機龍も背後を振り返る。完全な無音の中、まるでそこが世界の中心であるかのように全員の視線が引きつけられていた。食堂の奥には何本もの支柱で支えられたラウンジが、床から三メートルほどの高さに設えられている。声の主はそのラウンジと地上を繋ぐ螺旋階段へ一歩を踏み出した状態で直立していた。
ラウンジの窓から差し込む逆光で、機龍はその顔を拝むことができなかった。だがしかし周囲の生徒たちは違ったようで、皆一様にその声の主にただ見蕩れていた。
静寂の空気を一瞬で支配した声は女のものだった。少女は白亜の花崗岩で精緻に造り込まれたその階段をコツン、コツンと硬質な音を響かせて降りてくる。廊下にまで密集していた生徒たちはそろそろと道を開け、束の間に花道が出来上がった。少女は左右から注がれる視線を意に介さず、悠然とした歩みで機龍に歩み寄ってきた。
機龍は次第にその顔が視認できるようになり、そして驚嘆した。
少女を見た瞬間、機龍の身体と精神が止まってしまった。束の間呼吸も忘れ、食い入るように見い入る。
端正な顔立ち。流れる髪は腰近くまであり、淡い桃色。校内の女子たちと同じ制服を着ているのにまるで違って見えた。そして何よりも似ていた、彼女に。瞳と髪の色は違うが、その顔は瓜二つだった。
少女が目前にまでが迫ってきたところで、掠れた声が漏れた。
「…………竜嶺……」
「……?」
機龍の囁き声を聞いた少女は、立ち止まり目の前できょとんと小首を傾げる。そして小さく口を開く。
「わたしの名前は白凰琴音よ。りゅうねではないわ」
「……あ、ああすみません。気にしないで下さい副会長」
入学からの半年間、機龍はひたすら自由騎士の任務に没頭していたため彼女の顔を見るのは初めてだった。しかしその名前を聞いて何故、周囲の人間がこれほどまで沈黙したのか合点がいった。
白凰琴音。赤神悠真と同じく記憶魔法師世界で知らぬ者はいないであろう有名人である。
理由はいくつかあり、まずその実力と地位。雷属性を擁する鳳凰家の娘であり、遠隔精密術式の分野で十年に一人の英才と呼ばれ、それを裏付けるように数多くのトロフィーを桜峰高校にもたらしていた。
彼女の右手には銀色の拳銃形態のGDが握られている。赤神のGDはこれを使用して弾き飛ばしたようだ。実際その腕前は卓越しており、白凰の射撃位置は機龍のいる場所から目算でも百メートル近くはあった。
無属性魔法の遠隔射撃術式による記憶粒子そのものを弾丸として放出し、GDのみに命中させるその芸当。精緻な照準と出力制御は、射手の並々ならぬ技量を示していた。
白凰は不思議そうにしながらも機龍の隣に並び立ち、赤神たちと対峙する。その横顔は真剣味を帯び、はしばみ色の大きな瞳は冴え冴えとした光を放っている。もうひとつ彼女を有名人たらしめている理由はこの美しい横顔を含めた、文句のつけようがない可憐な容姿を持つことによるのだろうと思い、校内でもおそらく鳳凰ほどの美人は五本の指にも満たない数だろうと確信してしまった。
人の輪の中心に入り込んだ鳳凰は、静かに静寂を破った。
「公平な立場で処罰を決定するのが風紀委員長である、わたしはそう記憶しているのだけど。身内の証言だけを聞いて判断するなんて思慮に欠けるわ。赤神の御曹司は随分と浅慮な人なのね」
挑発するような厳しい声でそう言った白凰は、迦楼羅を具現化させたままの赤神に対抗するかのように鳳凰家の守護霊を顕現させる。活性化させたパレティクル光でその小柄な体を後光のように包み、威圧し返す。眩く輝くその光は一種の冒しがたい威厳を彼女に与え、なおかつ魔法を行使する者の目には瞭然たる、並みの魔法師を大きく上回る規模のパレティクル光が視認されていた。
その煌めく記憶粒子が巨大な人工霊を出現させる。こちらも迦楼羅と同等の体軀を持ち、荒々しい頭髪から二本の鋭利な牛の角が突き出ており、その下に畏怖を禁じ得ないほどに恐ろしい形相をした鬼のような容貌が続く。虎の革のふんどしを締め、宙に浮かぶ雷鼓を今にも打ち鳴らしそうである。
言わずと知れた雷神である。これが雷魔法のオリジナルであり、白凰琴音が使役する守護霊である。両者は既に当主の証とも言っていい原初を所持しているようだ。その証拠に双方の右手の甲には、オリジナルの所持者であることを示す幾何学模様の刻印が印されている。
鳳凰の遠慮の欠片もない言い草に赤神は僅かに眉を顰める。御三家なんて呼ばれてはいるが、この両家は少しばかり険悪な関係である。一体何が原因かは知らないが。
「身贔屓なんてしてるつもりはないけどね。仮に多少の差異があったとしても彼が暴力行為をしたのは事実だ」
澄ました顔でそう言いつつ傍らの風紀委員に目配せする。風紀委員は直立しながらこくこくと頷く。その様子を見て機龍は苛ついた。風紀委員の言には明白な悪意が混ざっているというのに。そんな機龍の心情を察したのか、鳳凰は宥めるように機龍の肩にその華奢な手を置き、強気な口調で言及する。
「わたしの目と記憶が正しければ、草部風紀委員は校則を誤って暗記しており、紅露ノくんがそれに気付いて指摘したにも関わらず、理不尽な逆ギレを起こし最後には禁止用語まで使用した。そして相手が何ら違反をしていないのに、攻撃魔法で事態の鎮静化を計った。確かに紅露ノくんにも落ち度はあるけど、原因は草部風紀委員の誤解である。わたしの言に間違いがあるかしら」
完璧な証言に草部風紀委員長は半ば驚愕しながらも悔しそうに唇を嚙み締め、機龍は唖然と鳳凰の横顔を見つめた。
彼女は口論から騒動までの一部始終を見ていたというのか。それなら何故もっと早く援護射撃をしてくれなかったのだと内心で情けなく批判する。しかしこれは驚嘆を禁じ得ない。食堂内は雑然としておりあのラウンジからでは、最初の方の口論を見聞きすることは困難のはずだ。魔法を使ったの一言で済む話ではあるが、偶然すぎる。まるで口論が起きる前から機龍を見ていたような言い草である。
「今回の件はわたしに一任してもらえないかしら。残念だけどわたしは、今の赤神風紀委員長の判断を信用できないわ」
厳かとすら言える硬質な声で率直な気持ちを述べる鳳凰。赤神は一瞬憎々しげに機龍を睨み付けたあと、粛々としかし押し殺したような声で言葉を返した。
「……確かに僕の判断は不公平極まりないものでした、申し訳ありません。裁定は鳳凰副会長にお任せします」
申し訳なさそうに頭を下げた赤神であったが、この謝罪はきっと鳳凰に対してなのだろうと機龍は直感した。釈然としないながらも機龍は密かに胸を撫で下ろす。少しばかり気が緩んでしまい小さく安堵の息を吐こうとした機龍に、鳳凰は告げた。
「それじゃあ機龍くん。処罰を決めるから一緒に食事をしましょう」
にこやかに微笑みながらとんでもないことをサラリと言った。
澄んだ声が静かな空間にやけに響き、数秒してから食堂内はまたもや阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。