プロローグ・後編
鈍色の剣尖が機龍の肩口を軽く抉った。焼けるような痛みと共にわずかに血が飛び散る。
小さく舌打ちを漏らし、反射的に相手の頬を斬り付ける。相手が攻撃の手を緩めたその一瞬で漆黒のコートを翻しつつ、バックダッシュして大きく距離を取る。
詰めていた息を大きく吐き出し、気息を整える。相手から視線を外すことなく、痺れるような痛みを広げる傷口に左手を添える。ちらりと見た手にはべったりと赤黒い血が付いていた。
痛みの鬱憤を込めて相手を睨め付ける。相手もまた頬に走る切り口に指を添えて出血を確認した後、睨み返してきた。戦慄く口元から獰猛な犬歯を剥き出し、右手の曲刀が天井の薄明るい照明を受けて鈍色に光る。
敵は黒装束を着込んだ巨軀の壮年の男だ。機龍の頭二つ分ほど高い位置にある顔から、ぎらぎらと輝く目で見下ろしてくる。そして機龍の顔を凝視したかと思えば、その無精髭の生えた頬に嘲笑の笑みを刻み、わざとらしく舌なめずりした。こちらも嘲笑を返しつつ一言告げる。
「敵の前で舌なめずりするなんて、三下のやることだぜおっさん。そんなことしてると、お仲間みたいにぶった斬られることになるぜ」
「ッ、黙れ小僧ッ! その年で自由騎士をやるたぁ調子乗ってんじゃねぇぞッ! そんなに死にたきゃあの世に送ってやるぞ餓鬼ッ!!」
壮年の男はどら声で啖呵を切り、右手の片刃曲刀を引いた。
機龍もその動きに合わせて右手に握った片手用の両刃直剣を握り直し、体の正中線に構える。
男の声が薄暗い広大な地下に残響を引いて殷々と響き渡る。地上へと通じる階段から冷たい風が吹き寄せてきて、天井の照明を揺らす。仄かに瞬くオレンジ色の光が、床の夥しい量の血溜まりにちらちらと反射する。
風鳴りが耳に届いたその瞬間、機龍は床を蹴った。コートを翻し間合いを詰める。遠間からの機龍の予備動作を一切察知させない突然の疾走に驚いたのか、男は目を見開き一瞬遅れて、体の前に空いた左手をかざす。右手の指を左手首に滑らせた途端、眩い赤い閃光が迸る。術式構築の際に漏れる記憶の欠片たちである。
その直後に、機龍の四十メートルほど前方の空間が歪んだ。それと同時に急な寒気と耳鳴りが機龍を襲う。その現象は明らかに魔法発動の前兆だ。今ならまだ回避が間に合う。
しかし機龍は構わず突っ込む。機龍の暴挙とも言える行動を見た男のその顔には、怪訝な色が浮かぶ。しかしそれも一瞬、威勢よく歯を向き、機龍を睨み据えた男の手首から放たれる光が、より一層その輝きを増す。
そしてその手首に塡められたグリモワール・デバイスの表面に赤い複雑な紋様が浮かび上がる。
機龍がその陽炎のように歪んだ空間に差し掛かったその瞬間、猛烈な爆発が起きた。肌を焼くような爆風が眼前で吹き荒れ、機龍を襲う。超高熱が皮膚の下の筋肉まで燃焼させ、顔を爛れさせるほどの大火傷が俺に刻まれ――
「なん……だと……!?」
ることはなかった。男の視点からは、機龍がまるで至近距離で発生した業火の帳を切り裂いて、飛び出してきたように見えたことだろう。機龍は背後で爆破の余韻を感じつつ、男の懐に飛び込んで袈裟斬りを見舞う。
「くおッ!!」
男は咄嗟に後退して斬撃を回避した。漆黒の剣先が男の鼻先を掠め、血飛沫が噴出する。眼前に血球が無数に浮かび上がる。その後、男の苦悶の表情と苦痛の悲鳴が続く。
「ぐあああぁぁぁぁッッ!!」
男は断末魔のような声をまき散らしながらも、さらに後方へ跳躍して距離を取る。しかし機龍がすかさず間合いを詰めて来ると、男は軽い恐慌状態に陥った表情をしながら、曲刀を左手に持ち替える際に左指を右手首に走らせる。そして右手をかざし、そこから今度は緑色の眩い光を解き放つ。今度は半透明の魔法陣が浮かぶ。
「おっりゃっ!」
男の目前まで接近した機龍は軽く片足を撓ませる。記憶選択、術式構築、魔法陣通過、展開。直後に黒いブーツが光り輝き、青色の閃光を放出させる。靴底に大きな半透明の魔法陣が出現した。機龍は走る勢いそのままに跳躍し、床から四メートルほどの高さまで身を躍らせ、落下の勢いも合わせて漆黒の剣を振り下ろす。
「頭に乗るなァ! 自由騎士ッ!!」
凄まじい咆哮を上げた男に振り下ろされた黒い刀身は、甲高い音を立てた。全力で斬り下げられた片手剣は、仄かな緑色の燐光を纏わせる巨大な無色透明の壁に阻まれた。それが防護壁だと瞬時に察知した機龍は、術式構築演算補助装置に記憶粒子を流し込む。
送り込まれた記憶粒子に呼応して、黒剣から放たれた眩い鮮紅色の閃光が地下の闇を切り裂く。黒曜石から削り出されたかのような刀身を這うように半透明の幾何学模様が浮かぶ。黒い刀身が瞬時に音叉のように微細に揺れ始め、耳をつんざく異音を撒き散らす。だが次第に刃の高周波振動に伴う異音は、徐々に可聴域を超えたクリアなそれになる。
火属性魔法の爆裂系術式に対し、機龍は無属性魔法の振動系術式で対抗した。爆発相手には敵わないが、この魔法は防御魔法にこそ真価を発揮する。
ばきっ、と氷に罅が入るような音を伴って堅牢な防護壁に円周状の亀裂が走る。
「ふっ……!」
男の嘲笑が聞こえたと思ったその時、高速で刻まれ続けたその亀裂のスピードが格段に落ちる。機龍は即座にこの防御魔法が、「哀」の記憶を媒介にして発動されたものだと勘付いた。触れる刀身越しに機龍にデバフ効果を与えているのだ。
「ぎひっ!」
淡い緑色の粒子が付着した透明な壁の向こうの男が嗜虐的な笑みを浮かべる。空中で動きを止められた機龍は無防備だ。
「甘いッ! うおおおおおあああ!!」
機龍は絶叫しながらさらに腕に力を込め、片手剣形態のグリモワールデバイス『絶剣』にありったけの記憶粒子を送り込む。「怒」の記憶を媒介にして発動された振動系術式が堅固な壁を斬り刻む。壁が軋む音を聴覚が捉えた瞬間に、防護壁がガラス塊を割り砕くような大音響をまき散らして破砕される。
砕かれた壁の先の男は顔に驚嘆を貼り付けたまま、口を戦慄かせ言葉を零した。
「ま、まさか貴様………『双竜』の片割れの魔法師殺しか!?」
解き放たれた漆黒の尾を引く剣閃が、そのまま男の胴体に吸い込まれる。黒色の刀身が左肩口から滑り込み肉を切り裂き、斜め下へと深い裂傷を刻み込みながら右腰へと抜ける。
噴き上がる紅の鮮血が暗闇に大輪の花を咲かす。裂かれた内部の臓物が地面に落ちるのと、男が断末魔の悲鳴をまき散らしながら後ろへ仰け反り、倒れたのはほぼ同時だった。
「はっ…………」
詰めていた息を吐き出し、吸い込もうとして辺りの空気が埃っぽいことに気付きやめた。不気味なほど静まり返った地下に満ちた静寂が戦闘終了を告げる。
機龍は絶命し瞳孔が開いたまま男を無感情に一瞥し、すぐに踵を返す。コンクリートの床に落ちていた剣と同色の鞘を拾い上げ腰に下げる。そして剣を左右に切り払って血痕を吹き飛ばし、左腰に吊るした鞘にチン、と鳴らして納刀する。
再び軽く息を吐きつつ周囲に視線を巡らす。ブラッククロームの床には死屍累々と死体が転がっている。その数は軽く二桁を超えていた。地下室は屍山血河の様相を呈している。赤黒い血液がリノリウムの床を蚕食していく。
皆が鋭利な刃物に切り裂かれてすでに事切れていた。ある者は首を斬り飛ばされ、ある者は四肢を切断され、ある者は惨たらしい断面を晒して肉体を分断されている。
それらを無感動に眺め、心中にこれといった感慨を浮かべることなく任務終了を呟く。
「違法にデバイスを製造していた爆裂魔法師・炎伍及び『迦楼羅会』の構成員、二十人は自由騎士・黒乃機龍が投降を薦めたにも関わらず、攻撃してきたため、捕縛を諦め自己防衛を取り、全員を殺害。……帰るか」
何の気負いもなくそう告げ、地上へと続く階段を登る。迦楼羅会のアジトから出て空を見上げる。曇りのない夜空に白く冴えた満月がぽっかりと浮かんでいた。
「迦楼羅…………か」
呼び慣れた、しかしもう言うことはないと思っていた名前を呟く。自分の声に哀愁が滲んでいることに気付き、嘆息する。
アスファルトの亀裂から生えている雑草を踏みしめながら、青白い月光の下を歩いていき、程よい所で立ち止まりブーツ形状のグリモワールに記憶粒子を送り込もうとし、
「うん?」
素早く背後を振り向く。しかしそこには薄汚れ、壁面に罅が走るくたびれた二階建ての建築物がそびえ経っているだけである。冷たい夜風で下草が揺れ、ついでとばかりに頬を撫でていく。数秒間辺りを見回した機龍は首を捻りつつ、足元を発光させる。
「気のせいか?」
誰かの視線を感じた気がした。しかしそれは少なくとも敵意ではなかった気がするので無視した。殺意というよりむしろあれは、
「好奇、いや羨望か?」
我知らず呟きながら真実を明かせず、少々後ろ髪が引かれる思いを残しつつ、おもむろに両手を地面に付き尻を上げて、短距離走者のような姿勢を取り前方を見据えて短く叫ぶ。
「GO!」
ブーツタイプのデバイスで「怒」の記憶を媒介にした無属性魔法の移動と加速の複合術式を構築し、出力する。靴底から漏れ出るように広がる半透明の魔法陣。地面を踏み込み夜の空気を裂いて、夜道を爆走する。耳元で空気が唸り、風圧が顔を叩き、髪が靡く。
左右の景色が前から後ろへ高速に流れていき、猛烈に疾走する。ほとんど地に足をつけず、飛んでいるに等しかった。一歩一歩のスライドが長く、その速度は時速六十キロにまで達しようとしていた。路面との摩擦でブーツの底から火花が散る。その速度を維持したまま遠方の街の煌めく明かり目掛けて、風もかくやという速度で駆け続けた。