第3章2
月芳の口からも声が漏れたが、そちらを見る前に、王は手を振り上げ、ウォルバンの左の頬を殴り飛ばした。それほど背は高くないが、良く鍛えられ、屈強な筋肉に覆われた腕から放たれる一撃に、ウォルバンの身体が軽く吹っ飛ぶ。
まだ衣を掴んだままだった月芳は、「きゃ」と声を上げて手を離し、おろおろと、ウォルバンと父を順に見比べる。
転がったままのウォルバンの襟首を掴んで強引に引き起こすと、冷厳王は、ウォルバンの目に自らの目を合わせ、言った。
「忘れたのか? 『命の限り』と言っただろう?」
答える言葉を、ウォルバンは持たなかった。
「崖の向こうから敵は来ない。だが、崖のこちら側からは……」
す、と城を指して冷厳王は言う。
「敵が来ないとでもいうのか?」
冷厳王の目は、睨むでもなく、蔑むでもないが、浅はかな行動に怒りを覚えているようだ。大切な、月芳の身を危険にさらしたウォルバンへの。
「申し訳……ありません」
襟を掴まれたままで、ひどく息がしにくい喉から、声を絞り出す。このまま、襟を絞められれば、命の「限り」が来てしまいそうだった。
「父上、やめてくださいっ、ウォルバンが、ウォルバンが、息が出来ずに死んでしまう!私が連れ出したんです。私が紅葉をみたいと言って…ウォルバンのせいではないのです、父上…父上!」
ふ、と襟がゆるんだ。引き起こされたのと同じくらいあっけなく、襟を離され、解放されて、ウォルバンは激しく咳き込んだ。ひゅぅひゅぅとなる喉から、空気が大量に入ってきて苦しい。
「あまり、失望させるな」
咳の止まらないウォルバンを見下ろし、冷厳王はその一言だけを残して立ち去った。
後に残されたウォルバンに、月芳が駆け寄って、背中をさすりながら、幾度も幾度も謝った。
「ごめんなさい…ごめんなさい…私が、紅葉が見たいと言ったから……。痛かったでしょう…父上があんなこと…本当に、ごめんなさい…。私のせいで……」
ぱたぱたと涙がウォルバンの背中に落ち、丸く滲みていく。
まだ溢れようとする咳を飲み込み、ウォルバンは月芳を見て微笑んだ。
「謝らないで、月芳。大丈夫だ。ごめん、君も怖かっただろう? きちんと守ってあげられなくて、冷厳王の大切な大切な子を危険な目に遭わせて…王が怒るのは当然だよ。ここの環境を甘く見ていた私自身の無能さに、自分でも腹が立つくらいだ」
「それは、私が言ったからで……」
「それは違う、月芳。ここを選んだのは私だ。この山は、後ろが切り立っているから、敵は攻めて来れないと、安全だと思ったが、考えが浅かった。いつもあの城にいて、少し考えればわかりそうなものだったのに。王は、わかっていたのだろうね。気をつけろと、警告してくださったんだよ。あれは――王の傍仕えの三人だったのだな」
襲ってきた三人の顔を思い浮かべると、確かにどこかで見たような気もするのだ。時折、冷厳王に呼び出され、状況を聞かれる。そのときに傍にいた者だったかもしれない。
月芳が不思議そうな、少し困ったような顔をして自分を見ていることに気づき、ウォルバンは続けた。
「きっと、王は、私が君の友にふさわしいか、試したかったのだろうね。君の傍にいて、君を守れる程の力量になったのか。『遊学』の効果を知りたかったんだろう」
もっとも、残念ながら落第のようだけど、と、付け加えると、座り込んだままの月芳の手を取って歩きだした。
「ウォルバン」
小さい小さい声で、月芳が呼ぶ。
「ん?」
「国に……帰り…たい?」
不安そうに月芳が聞くので、「いや、傍にいたい」とウォルバンは答えた。
帰りたくないのか、と言われれば、帰りたい気持ちは強い。父を支え、国を豊かで明るいものにするために力を尽くしたかった。断片的に思い出す国は、どこもかしこも美しかった。ウォリャンの子どもの子どもの、そのまた子どもたちが暮らす国。
「ウォルバン?」
「私はね、月芳。君の傍で、君の友達でいたいから帰らない」
俯いて、嬉しい、と聞き取れないほど小さい声で呟いて、月芳はウォルバンの土にまみれた服の裾を握りしめて泣いた。
土と擦り傷からにじみ出た血で汚れた右手を、ごしごしとお尻の部分に擦りつけてから、ウォルバンは俯いたままの月芳の頭をぽんぽん、と叩いて言った。
「次は、怒られないように、頑張ろうと思う。一緒に、ね」
国を思う切なさは、胸に深く付けられた傷から流れ出す。
その傷を付けた男は、確かに月芳の父親だけれど。
知らない方が、良いこともある。――自分のこの想いは知られてはならない。
ウォリャンも、きっと、そう言うはずだと、ウォルバンは思った。