第2章
「これはこれは、ゆっくりのお越しで」
訓練場でかけられた言葉に、ウォルバンは少しばかり目をやったが、そのままついと視線を戻す。
「まあ、あなたにとっては、訓練も、遊学の一環にすぎませんからねぇ」
「さすが、お気に入りは違うねぇ」
「おいおい、隣国の王子様だぞ。その言い方は、失礼ってもんだろ…」
「王子様、こちらの国はお気に召しましたか。遊学にいらっしゃったはずが、すっかり馴染んだご様子で…」
「毎日の訓練ですっかり灼けてしまって…ああ、これは、もともとでしたか、失礼」
音だけは上品な笑い声と共にウォルバンに向かってかけられる言葉には、嘲りと揶揄が満ち、ほんの少しの羨望も混じっている。
毎日毎日、飽きもせずに、同じような言葉をかけてくる貴族の子弟たちには、心底辟易していた。
ろくに訓練もせず、剣も使えず、矢の番え方すら知らぬくせに、何かというと、ウォルバンを「遊学」「特別待遇」と貶める。
何も、知らないくせに。
王子付きの隣国の王子。
小さな小さな山間の国がこの大きな国に攻め込まれないでいるために送った「友好の証し」としては、破格の扱いだろう。「友好」が続く限り、国と国との間の平和は守られる。
「特別待遇」を揶揄される度に、ウォルバンは、自分の存在する意味を思い知らされるのだ。初めてこの地につき、冷厳王…月芳の父に相対した時、はっきりと告げられた言葉の意味するところを。
「友好は、お前の命の限りだ」
命の限り。
王子付きの自分は、王子に何かがあっても、生きては居られまい。
王子の傍仕えは、次の王となるべき存在を守り抜くことが仕事なのだ。
それは、つまり、次に自分を縛る存在を、自分で守ることに他ならないのだとしても。
とうに国に帰ることはあきらめている。
いくら守ってみたところで、自分が国に帰れなければ、王に連なる者はおらず、国がどうなるかはわからない。
それでも。
もうおぼろげにしか思い出せなくなってきている小さな国のために、ウォルバンにできることといえば、出来るだけ、長く長く、「友好の証し」でありつづけることだけだった。
国に住む人々と…最後までウォルバンを手放すことを拒み続けたが、ついに民を取らざるを得なかった父であるホラン王のために。
ウォルバンは、すっかり手に馴染んだ剣の柄を握りしめると、鋭く振り下ろし、訓練を始める。
未だぴーぴーとうるさい子弟たちが目の端に映る。先刻、笑顔で大丈夫と笑った月芳と同年代の彼らのその無知さ加減にいつになく腹立たしさを感じたが、無視を決め込んで、剣を振る。
慣れたこと、慣れたことなのだから…だが。
「…まあ、あの“姫様”にはお似合いだろう」
その言葉は、聞き逃せなかった。
「…姫ではなく、王子だ」
「なに?」
「…あの方は、王子だ」
「王子! あれが王子様! 城の奥に閉じこもってめったに出てこない、まるで深窓の姫のようなあれが?」
「だまれ」
「おい、聞いたか、このウォルバン王子は、男女の別もつかないらしい」
「月芳様、などと男名を付けられても、王子らしいことなど何1つできないというウワサの“姫様”なのにな」
なんと馬鹿なことを、と嘲笑と侮蔑の視線が注ぐ。
何も、知らないくせに。
さっきよりも、強く胸の中で呟く。表に出たくとも出ることを制限されており、出るわけにはいかない。
王子を望む人々の声を知るからこそ、姿を現すことはないのだ。
ほかに、選びようもない。年を重ねれば重ねるほど、緩やかに丸みを帯びる体は、人々の望む姿とはほど遠いと、月芳自身が誰よりも感じているのだ。
そんな少女の胸の裡の、ほんのわずかでも、この男たちが知っていたら。
そうしたら、そんな言葉など絶対に出てくることなどないであろうに。
ウォルバンにとっては、生き抜くために守ることを余儀なくされただけの月芳であったが、目の前で一人悩みを包み隠そうとしている姿を毎日見て過ごしてきたのだ。
何も感じないでは居られなかった。知らないで居れば、よかったが、ウォルバンは知ってしまったから。
わからぬ者に対しての憤りは、ぶつけどころもなく。
ウォルバンは、ただ、「王の御子なのだから、間違いなく王子だ」と低く絞り出すように言うと、目の前の馬鹿どもの笑いを断ち切るかのように、素振りを再開した。
いつか、本当にこの声を断ち切って、誰にも、もちろん、月芳にも、届かぬようにしてやろうと思う。
聡明で優しい月芳が、当たり前に簪を差して王の傍に立てるように、悩みの元を断ち切ってやろう。
「友好の証し」であることは国を守る手段だけれど、孤独なはずの「友好の証し」としての自分に、居るべき場所を与えてくれた月芳のために、ただの飾りではない友好を、それ以上の親愛を、返せるものならば返したい。
そのためには己が強くある必要がある。身も心も――。
素振りの音は、日が落ちて、星がいくつか瞬いても、止むことはなかった。