第1章3
「ありがとう…。そうだ、ウォルバン、一度聞いてみたかったの」
「うん?」
「あなたの国でも、名前には、由来があるのでしょう?」
「ああ。この国と、同じように」
「ヤンヒャンとウォリャンには、どういう由来があるの?」
「ヤンヒャンは…伝説では、太陽のような美しさを持つ女性であったという。美しく明るく匂い立つ太陽、太陽の香り、という意味の名前がヤンヒャンだ」
「綺麗な名前ね…ウォリャンは?」
「ウォリャンは、控えめに微笑む月のような美しさを表す、月の香り、という意味」
「月の香り、それじゃあ」
「そう、『月芳』という名前と、同じ。月のような優しい芳しさと美しさ」
「でも、私は、この名前は嫌いよ。『ウォリャン』は、とても素敵な名前だと思うけれど、『月芳』は嫌い…。私には似合わない…名前…」
君にとても似合っている、と続けようとしたウォルバンの言葉を遮るように、首を振って月芳が吐き出す。
ぴく、と、一瞬だけ、ウォルバンの瞼が震えたが、すぐさまそれを押し隠し、にっこりと笑って言った。
「私は、月芳と呼ぶのが好きなんだが…それも、嫌?」
「…いいえ…。ウォルバンに呼ばれるのだけは、好きよ。ウォルバンが呼ぶときは、私の名前だわ」
言って、月芳は、うつむいた。
「ヤンヒャンは、ウォリャンの名前を知っていたのかしら。ウォリャンがどうなったのか、ヤンヒャンは 知らないままなのよね、ずっと。知らないまま、幸せなのね…」
呟く月芳の言葉が、ほんの少し、苛む調子を含んでいたことにウォルバンは気づいたが、何も答えずにいると、お茶にしましょうと月芳は茶器の用意を始めてしまった。
差したばかりの簪が、動くに任せて、月芳の髪の上でしゃらとゆれる。
お茶が済めば、午後の講義の為に、教師がこの部屋にやってくることになっている。その前に月芳の髪を結い直してやらねばなるまい。少女から少年へと変わるために。
本来であれば、少女である月芳はそのままの姿でも構わないのに。
知らない方がいいこともあるのだ。この聡い少女は、知らないで良いことに気づいてしまって抜け出せないでいる。
たとえば、世継ぎを望む人々の声を。
強く賢い王子を求める、民草の願いを。
知らない方がいいことも、あるのだ。
少なくとも、それにとらわれて、動けなくなってしまうことがわかっているなら。
姿を隠したウォリャンはきっと、そのことを知っていたのだろう。頬がぞわりとうずくように痛む。
ウォルバンは月芳に気づかれないように、小さく一つ、息をついた。
お茶の時間はあっという間に終わり、わずかに残った時間で、ウォルバンは月芳の髪を結い直し、簪の替わりに小さな冠を乗せ、とめる。
鏡に映っている少年に見える己の姿をのぞき込んで、満足げに月芳はほほえんで言った。
「ありがとう、後は1人で出来るから。ウォルバンも、午後は訓練だろう? 気をつけていってくるといい」
月芳は姿の変化と同時に、言葉遣いも少年のものへと戻る。そして、なれた手つきで布を使い顔全体を覆った。目だけを出してあとはきれいに隠す。
「ああ、では。また明日、だな」
「ああ、また明日、ここで」
ウォルバンは軽く手を挙げて室を下がり、ぱたん、と扉を重ね合わせた。かすかに、衣擦れの音が聞こえる。もう、すっかり少年の姿になっているであろう月芳を思い浮かべて、ウォルバンは、また、一つ、息をついて、訓練場へと向かった。