第1章2
ここまで話すと、ウォルバンの前に、冷たい茶の入った茶器が差し出された。馴れたように蓋をあけ、ゆっくりと中身を飲み干す。桂皮と黒砂糖を煮溶かし、干し柿を浮かせたその飲み物も、ウォルバンの国の飲み物だった。
甘露は喉を潤し、声の通りが格段に違ってくると言われている。飲み終わった茶器を、月芳の持つ盆に戻すと、月芳がニコリと笑って先を促した。ここからが素敵な部分なのだから、良い声でお話ししてね、と念を押すのも忘れない。
ウォルバンは、ゆっくりと続けた。
「この国に伝わっている言伝えは、ここで終わっている。しかし、実は、虎はただ逃げ出した訳ではなかったのだ。これは、私が父から聞いた、私の国に伝わるその先の話だ。
人の世を治め始めてしばらくたったある日、ファヌンは一度空に還ることとなった。妻にしばしの別れ告げ、身にまとっていた人の世の服をすべて脱ぎ、身を清めて、初めて降り立った山へと向かった。山の頂上まであともう少しと言うところで、ファヌンは洞窟を見つけた。
そこは、かつて、虎と熊とが、日の光を避けながら100日を過ごした場所であった。よく見ると、入り口は左右が深くえぐられ、避けている。無数に走る溝は、獣の爪痕のようにも思えた。4本の爪痕、そして5本の爪痕――ああ、これは恐らく空腹に耐え切れずに、虎と熊とがたててしまったものなのだろうと、ファヌンは思った。
と、向こうから、よろよろと何かが歩いてくる姿が見える。両の腕が押さえている頬からは、鮮血が止めどなく溢れている。よく見れば、後ろ半身は毛に覆われ、前の半身はまばゆく白い女の身体だ。背面を覆う毛にも、血がこびりついては居たが、それは、かつての縞模様をとどめていた。
ファヌンの前に、どぅとくずおれると、虎は言った。
『申し…わ…けありません、あと1日でしたが、私は…我慢できずに…背中に日の光を浴びてしまいました…。少しずつ、人になっていっていたのに…申し訳、ありません…折角…』
言いながら、ファヌンを見上げ、熊妹はどうしましたかと聞く。熊はヤンヒャンという名を与えられ、我が妻となり、今は息子と人の世を治めているのだとファヌンが応えると、虎の目から涙が滂沱として流れた。
そう、そう、よかった、と押し出すように呟く。
その傷はどうしたのだと問うファヌンに、虎は、ほんの少し目を閉じて、そして、答えた。
『実は、あと1日というところで、腹が減って腹が減って、自分で爪を立ててしまいました。』
恥ずかしそうに、爪の折れてしまった両の手を隠した。
ファヌンは、虎の顔をじっと眺めた。妻である熊…ヤンヒャンの明るい太陽のような美貌とはまるで違うが、暖かな月の思慮深さに満ちた美しい顔に、5筋の川のように刻み込まれた傷跡から、未だ乾かぬ血が溢れ流れ出している。
ファヌンはその傷を見てすべてを悟った。
洞穴にある4本の…爪痕――。
背中だけ、獣のままの、美しい娘――。
ファヌンがそっと傷跡に触れると、瞬く間に血が止まった。背をなでると、ゴワゴワした毛が滑るような白い肌に変わっていく。腕の後ろに手を這わせて、爪の折れた4本の指を順になでてやり、裏側にある隠れて普段は見えない1本も丁寧になぞると、虎はついにすばらしく白い肌をもつ女性となった。最後に、もう一度頬の傷跡に触れたが、そこはついにふさがることは無かった。
構わないかと問うファヌンに、ありがとうございます、と虎は答えた。ファヌンは虎に、ウォリャンという名を与え、自分と一緒に、空にゆくかと聞いたが、ファヌン様はいずれヤンヒャンの元に戻られる御身である以上、自分がついて行くわけには参りませんと、ウォリャンはこれを拒んだ。せめて国に来ないかと問うファヌンに、ウォリャンは、ただ、一言、いいえ、と、それだけ答えた。
己のこの傷を見れば、聡いヤンヒャンはすべてに気づいてしまうだろうから、と。
そこで、ファヌンは、山の向こうに住む若者と夫婦になるよう言い残して、空へと還った。
人となったウォリャンが、ファヌンの言葉の通り山を越えると、そこには小さな小さな国があった。ウォリャンは、その国の王と結ばれ、子をなしたが、頬に五筋の傷を持つ王妃の話が人々の口から口へと伝えられて山の向こうにいる大切なヤンヒャンに伝わることを恐れて、ある日、いずことなく姿を消したという」
一気に話し終わると、ウォルバンは、月芳の様子をうかがった。
月芳は、少し眉を寄せて困ったような泣きそうな顔をしたが、すぐに笑って言った。
「優しい虎なのね、ウォリャンは」
ウォルバンも、満足そうに、にっこり笑う。
この話は、ひどくわかりにくいのに、月芳は、初めて聞いた時からきちんとその内容を理解して泣いたのだ。
ウォリャンは優しすぎる、可哀想だと。ただ大切に守られているだけのヤンヒャンが許せないと、まだ幼い月芳に泣かれ、同じくらいに小さかったウォルバンは、しどろもどろになりながら、ウォリャンはヤンヒャンが好きだったから知られたくなかったのだ、大切な妹のヤンヒャンに幸せになって欲しかったのだと、懸命にあやしたものだ。そういうと、ヤンヒャンはずるい、と、月芳は、また盛大に泣いたのだが。
そんな、遠い昔を思い出しながら、今ではすっかり大人びた月芳を眺め、少しだけこぼれていた涙を拭いてやった。