第1章1
「ねえ、ウォルバン、いつものお話、してくれる?」
人払いがすんだ静かな部屋の中で、月芳はいつものようにウォルバンにせがんだ。
13歳という年齢にしては落ち着いて見える黒目がちの目を笑みの形に緩め、髪が崩れないように振り向こうとする。髪を結い上げていた少年の手の中で、動きにつられてわずかに引っ張られた黒いつややかな髪が、きゅ、ときしんだ。
ウォルバン、と呼ばれて手を止めた少年は、こちらも同じほどの年頃。焼き煉瓦のように日に良く灼けた肌に少し堅そうな癖のある黒い髪、理知的な瞳がとても印象的だ。
「もう何度も話したから、覚えてしまっているだろう?」
苦笑しながら言うウォルバンに、月芳はなおも言いつのる。
「ええ、でも、やっぱり聞きたい。とても悲しくて、とても素敵なお話なんだもの」
ウォルバンは知っている。月芳がなぜこんなにもその物語のことがすきなのか。
物語の内容は、月芳の国に伝わるものとほとんど変わらない。
ただ一点…結末が違うのだ。
どうやら物語の終わりを、月芳は長い間、不満に思っていたらしい。だが、ウォルバンからその物語とは異なる結末を聞いて、そちらのほうがよいとたいそう満足したようなのだ。
「悲しくて優しくて、なんだか、胸にすとん、って、落ちてくるの」
目を閉じて、うっとりとそう呟いてうつむいた白いうなじが見えるように、高い位置で結い上げた月芳の髪に、かわいらしい蝶の細工が施された簪を挿してやりながら、「気のせいだよ」と、何に対する否定かわからない言葉をかけて、それでも、ウォルバンは話し始めた。
幾度も、幾十度も、月芳に語って聞かせた、ウォルバンの生まれた国の伝説の、それは、いまからちょっとだけ、昔のお話。
「昔、昔、そう、まだ虎がたばこを吸っていた頃の話」
この不思議な導入の部分は月芳のお気に入りだから、ウォルバンはけして省略しない。
「天の神が治める天上の国は、それはそれは美しく、神々は幸せに暮らしていた。しかし、神の息子は、ある日、下界を眺めながら、父に、言った。
『人の世は、今はまだ、あのような暗闇に覆われていますが、地上にも天上と同じく、光り輝くような美しい国が生まれればどれほどすばらしいことでしょう。』と。
神はこの言葉を聞いて、この息子ファヌンを地上に遣わせた。しばらくすると、ファヌンの元に、同じ洞窟で姉妹のように仲良く暮らす一匹の虎と一匹の熊が訪れ、人になりたいとしきりに願い出た。人にして欲しい、そして、あなたの妻にして欲しい、と。
ファヌンは、彼らに蓬一握りと、大蒜20個を渡して言った。
『お前たちは人になりたいというが、しかし、人を食うものが人になるというわけにはいかないのだ。さあ、これをやるから、持って帰って人の代わりにこれを食べ、100日間、太陽の光を浴びずに過ごせば、人になれるだろう。』
2匹は大喜びで洞穴の住居に帰り、その日から、毎日蓬と大蒜を食べて暮らした。
日の光が射してくれば、大きな体を精一杯縮めて二人で洞穴の奥の奥へ隠れ、たった一握りの蓬と大蒜が20個ばかりで膨れぬ腹を抱えて眠れぬ夜をいくつも越した。
100日目、熊は美しい女性の姿を手に入れた。
その顔は、輝く太陽のよう。しなやかな手をそろえてファヌンに大礼をしたその指先は美しく朱に彩られ、白い肌に良く映えた。ファヌンは熊をヤンヒャンと名付け、自らの妻とした。
ところが、100日を過ぎても、虎は現れない。不思議に思ったファヌンが、ヤンヒャンに尋ねると、ヤンヒャンは、『実は、お腹がすいていて、最後の10日ほどのことは良く覚えていないのです。虎姉と二人、お腹がすいた、お腹がすいたと、唸り、暴れ、外に行って食べ物を探そうかと幾度も思いながら、さりとて、日の光を浴びることもできないので外に出ることは出来ないまま、朦朧として過ごしてきたのです。』と言う。
さては、約束の日まで辛抱しきれなかったのかと、ファヌンは、虎を見限って、女性の姿となり今や自分の子どもを身ごもったヤンヒャンと共に人の世を治めるため山を下り、人の国を築き、二人の間に生まれた子が、その初めての王となった」