【続編】小さい雀を選んだら
短編「小さな雀を選んだら」の続編です。
先に本編を読んでいただけますと幸いです。
昔から、こんな言い伝えがある。
森の奥深くには、雀たちが暮らす隠れ里がある。
雀たちは、恩を受けた相手へ、感謝のしるしとして――その者にとっての宝物を授けてくれるのだという。
**
「まあ、あれをご覧になって?」
広場を歩いていた貴婦人たちが、揃って街道の先へ視線を向ける。その視線の先を歩いていたのは、一人の女性と、小柄な少年だった。
「……エレノア?」
隣町を訪れていたヴィヴィアンは、思わず目を見開いた。見間違えるはずがない。
かつて貴族でありながら騎士団に所属し、誰よりも人望を集めていた女。
自分より称賛されることが許せず、公爵家の権力を笠に着て王都から遠ざけた因縁の相手だ。
そのエレノアが今、見知らぬ少年と親しげに肩を並べて歩いている。少年はふんわりとした茶色の髪を揺らし、露店を見つけるたびに足を止めては目を輝かせていた。
「あっ! エレノア、あれ食いてぇ!」
「さっき食べたばかりでしょう?」
「甘いもんは別腹だ!」
「もう……仕方ないわね」
呆れながらも温かく微笑むエレノアに、少年は嬉しそうに破顔する。
その微笑ましいやり取りに、周囲の町人たちも自然と目を細めていた。
「あの雀さん、本当に可愛いよねえ」
「エレノアさんにだけは、すっかり懐いてるみたいだ」
「雀の獣人なんて初めて見たよ」
「滅多に人里へ降りてこないって聞くものね」
――雀の獣人。
その言葉に、ヴィヴィアンの耳がぴくりと跳ねた。
(雀の……獣人ですって?)
確かに、エレノアと一緒にいる少年を注視してみれば、雀の羽を思わせる茶髪の襟足が小さな尾羽のように跳ね、愛らしい羽耳が覗いている。何より、羨ましいほどに整った顔立ちだ。
周囲から惜しみない羨望と親しみのこもった視線を集めながら、エレノアの隣を歩く少年。
ヴィヴィアンはギシリ、と手にしていた高級な扇子を握り締めた。
(どうして……どうしてあの女ばかり!)
(惨めに落ちぶれさせたはずなのに!)
(どうして今さら、そんな珍しい『もの』まで手に入れているのよ!)
嫉妬は、あっという間に黒い炎となって胸を満たした。
やがてヴィヴィアンは口元だけを意地悪く吊り上げ、くつくつと低く笑った。
「……いいものを見たわ。私もその雀の里へ参りましょう」
(エレノアの連れている雀よりも、ずっと立派で格好いい雀を手に入れて差し上げますわ)
**
数日後。
ヴィヴィアンは公爵家が誇る精鋭の護衛を引き連れ、鬱蒼とした深い森へ足を踏み入れていた。
「確か、この森の奥に雀の里があるのだったわね?」
「はい。公爵家の情報網によれば間違いございません」
護衛隊長が恭しく地図を広げる。
しかし、森へ入ってからすでに数時間が経過していた。
一行は同じ景色の中を、ただぐるぐると歩き続けている。
「……おかしい」
護衛の一人が険しい顔で眉をひそめた。
「先ほど、この幹に目印の傷を付けたはずです」
指し示された大樹には、確かに剣で刻まれた真新しい傷跡が残っていた。
明らかに別の道を選んだはずなのに、また同じ場所へ戻ってきてしまっているのだ。
「『迷いの森』という噂は、本当だったようです」
護衛隊長が警戒を強め、腰の剣に手をかける。
ヴィヴィアンは苛立たしげにパチンと扇子を閉じた。
「たかが森でしょう。もっと奥へ進みなさい。」
護衛たちは周囲を警戒しながら、再び歩みを進める。
だが、どれほど歩こうと深い木々が行く手を遮り、まるで森そのものが自分たちを拒絶しているかのようだった。
その時――。
――グオオオオォッ!!
森の深部から、鼓膜を震わせる凶暴な咆哮が轟いた。
直後、樹木が激しく揺れ、何本もの大枝が叩き折れる破壊音が響き渡る。
「魔物です! お嬢様、お下がりください!」
護衛隊長が即座に抜剣する。
茂みを蹴破って現れた数体の魔物に対し、公爵家の護衛たちは手際よく陣を組み、瞬く間に討伐してみせた。
最後の一体がドサリと地に伏した、その瞬間だった。
それまで重く立ち込めていた深い霧がすっと晴れていく。
「……これは」
護衛隊長が息を呑んだ。
鬱蒼とした不気味な森が途切れ、目の前には温かな陽だまりに包まれた美しい里が広がっていた。
青々と茂る畑、せせらぐ小川、質素ながらも温もりのある家々。そして物陰から、安堵の表情を浮かべた里人たちが次々と姿を現す。
「助かった……」
「魔物が里に入り込む寸前だったのね……」
「ありがとうございます、旅のお方!」
やがて人だかりを割り、白髪の老人がゆっくりと歩み出た。
深く頭を下げ、静かに言葉を紡ぐ。
「旅のお方。この度は、我が里を魔物の脅威から救ってくださり、誠にありがとうございました」
(ここが、雀の隠れ里......!)
ヴィヴィアンは尊大な微笑を浮かべ、優雅に顎をしゃくった。
「ふん、礼には及ばないわ。公爵家の剣技をもってすれば当然のことよ」
長老は静かに首を振った。
「いいえ。受けた恩は返さねばなりませぬ。どうか、お礼をさせてください」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、ヴィヴィアンの笑みが深まる。
「あら、話が早くて助かるわね。それなら私にも、エレノアに授けたような……いえ、それ以上にふさわしくて格好いい『雀の獣人』を頂戴。少し前に来たでしょう? 女の剣士が」
周囲の里人たちが一瞬だけ息を呑み、目を丸くした。
だが、長老だけはぴくりとも表情を変えない。
「……承知いたしました」
長老がポンと静かに手を打つ。
すると頭上から羽音が響き、二羽の雀が舞い降りた。
一羽は丸々と肥えた、愛らしい小さな雀。
もう一羽は、胸を張った堂々たる大きな雀。
ヴィヴィアンは一瞥しただけで鼻を鳴らした。
「ハッ、比べるまでもないわね。もちろん、そっちの大きな方にするわ!」
指差された瞬間、大きな雀の体が柔らかな光に包まれる。
光が収まり、そこに現れたのは――一人の青年だった。
……ただし。
背丈こそ高いものの、背中は丸まり、長い前髪が顔の半分を覆っている。さらに頬には薄汚い無精ひげが生え、お世辞にも「格好いい」とは言い難い風貌だった。
ヴィヴィアンはあからさまに不機嫌そうに眉を寄せた。
「……ちょっと待ちなさいよ」
「エレノアの連れていた雀は、もっと愛らしくて見目麗しかったわ。これは一体何の冗談?」
青年は何も言わず、ただ陰気に一礼するだけだ。
長老だけが、穏やかに言った。
「その者が、貴女様がお選びになった雀にございます」
「ふざけないで! 交換しなさい!」
「私はもっと格好良くて、綺麗な雀が欲しいのよ!」
長老は静かに首を横に振る。
「申し訳ございません。お礼の品ーー私どもからお渡しできる『宝物』を選べるのは、一度だけにございます」
「なっ……! こちらは魔物から里を救って差し上げたのよ!?」
ヴィヴィアンが詰め寄るが、長老は柔らかく微笑んだまま、静かに言葉を返した。
「誠に感謝しております。……ですが、これ以上のお望みには、お応えすることができません」
その物腰はどこまでも穏やかだ。だが同時に、絶対にこれ以上の一線は越えさせないという絶対的な拒絶が込められていた。
ヴィヴィアンは扇子の骨が折れんばかりに握り締め、チッと舌打ちをする。
(……まあいいわ。ここでこれ以上揉めても時間の無駄ね。雀の獣人は警戒心が強いと言うし、とりあえずこいつを連れて帰ればいい。また日を改めて来ればいいだけのこと)
そう自分に言い聞かせ、あっさりと答えた。
「……フン、分かったわ。今回はこれで妥協してあげるわ」
長老は静かに頭を下げた。
「感謝いたします」
そして長老は、その深い眼差しをまっすぐにヴィヴィアンへと向けた。
「旅のお方。……最後に一つだけ、お約束いただきたいことがございます」
「何かしら? 手短にしなさい」
「どうか……その『ハヤテ』を、大切になさってください」
初めて明かされた青年の名。
ヴィヴィアンはちらりとハヤテを一瞥する。相変わらず前髪の奥でボサッとしており、パッとしない。
「ええ、ええ。大切にすればいいのでしょう? 約束してあげるわ」
長老は、どこか哀愁を帯びた笑みを静かに浮かべた。
「……ありがとうございます。その約束だけは、どうかお忘れなきよう。ハヤテ、旅のお方を森の出口までお送りしなさい。」
**
里を後にすると、深い森は再び重苦しい静寂に包まれた。
先頭を歩くハヤテは、ヴィヴィアンたちの重い荷物を背負い、大きなリュックを軽々と肩へ担いで黙々と足を進めていく。
ヴィヴィアンはその猫背な後ろ姿を一瞥すると、隠そうともせず露骨に大きなため息をついた。
「……本当に外れを引いた気分だわ」
ハヤテは振り返りもしない。ただ淡々と足元を見据えたまま、低く落ち着いた声で応えた。
「森の足場は不安定です。どうぞお気をつけて」
「ふん、あなたに心配される筋合いはありませんわ」
鼻で笑い、ヴィヴィアンはパッと扇子を広げて風を煽る。
「ねえ、喉が渇いたわ。何か冷たいものでも持ってきてくれないかしら?」
ハヤテは何も言わずに道を外れ、近くの小川へと向かった。
大きな木の葉を丁寧に丸めて器を作ると、そこへ澄んだ清流を汲み、両手で差し出す。
「どうぞ」
ヴィヴィアンはそれを受け取り、一口飲むなり「不快」と言わんばかりに顔をしかめた。
「なによこれ、ぬるいわ」
そのまま、口をつけた葉を無造作に足元へ投げ捨てる。
「……もっと冷えた冷水はないの?」
「このあたりでは、ここが最もきれいで冷たい湧き水ですよ」
「ぬるいものは飲みたくないわ......」
ハヤテは静かに目伏せると、地面に落ちた葉を拾い上げ、優しく土へと埋め戻した。
だが、その様子を見ても、ヴィヴィアンは何の興味も示さない。
さらにしばらく歩き続けた頃。
険しい急斜面の登り坂に差し掛かると、ヴィヴィアンは露骨に不機嫌そうな顔で足を止めた。
「はぁ……疲れた。足が痛いわ」
そして、持っていた自らの手荷物を当然のようにハヤテへ押し付けた。
「これも持ってくれる?」
「……承知いたしました」
見かねた護衛たちが慌てて制止の声を上げる。
「お、お嬢様! それは我々が持ちます」
「あら? いいじゃない」
ヴィヴィアンは冷ややかな一瞥で護衛の言葉を遮った。
「本人が持つと言っているのだから」
ハヤテは反論一つ口にしない。
黙って追加の荷物を受け取り、両肩に重い負荷をかけたまま、再び先頭に立って歩き始めた。
その健気な背中を見送りながら、護衛の一人が小さく耳打ちする。
「……不平不満どころか、眉一つ動かさないな」
「気味が悪いほど素直だが……少し不憫だな」
**
日が傾き、森に不気味な影が伸び始めた頃。
ハヤテは足を止め、周囲の地形を確認した。
「今日はここで野営にしましょう」
ヴィヴィアンは周囲を見回し、眉をひそめた。
「こんな場所で寝るの?」
「日が落ちれば、森はさらに危険になります」
ヴィヴィアンは小さく肩をすくめる。
「あなたは雀でしょうから、こういう森での野営には慣れているのでしょうけど、私達は違うのよ」
「……申し訳ありません」
「まあ、しょうがないわ」
公爵家が携行していた上質な保存食は、想定外に迷いの森を彷徨ったせいで、すでに底を突きかけていた。
護衛たちはスカスカになった荷袋を覗き込み、困惑したように顔を見合わせる。
「……干し肉もパンも、もうほとんど残っていないな」
「もう少し持ってくるべきだったな……」
ハヤテはその様子を一瞥すると、一言も発さずにすっと深い茂みの奥へ消えていった。
それから小一時間ほど経った頃。
戻ってきた彼の腕には、熟した木の実や可憐な山菜、そして小川で獲ったばかりの瑞々しい魚が大量に抱えられていた。
ハヤテは慣れた手つきで素早く火を起こすと、手際よく魚を焼き、山菜のスープを煮立て、あっという間に温かな夕食を用意した。
「すごい……!」
「これほどの食材を、こんな短時間で集めて調理までするなんて……」
護衛たちはハヤテの圧倒的な野営技術に、心からの感心を寄せる。
しかし、ヴィヴィアンだけは差し出された木の皿を見た瞬間、露骨に嫌悪感を露わにして眉をひそめた。
「……お肉は?」
「この辺りでは大型の獲物は見当たりません。夜の森へ深く入れば狩れますが、危険ですので」
「まあ、残念ね」
ヴィヴィアンは大きなため息をつくと、魚の身を不機嫌そうに箸先で突き刺した。
ハヤテはその様子を横目に、静かにパチパチと音を立てる焚き火へ薪をくべ続けるのだった。
**
翌朝。一行は再び歩みを進める。
鬱蒼としていた木々が徐々に薄くなり、森はようやく終わりを告げようとしていた。
ハヤテは、天を衝くほどに聳え立つ一本の巨大な大樹の前で足を止める。
「着きました」
ヴィヴィアンが見上げる。
「……なによ、ただの木じゃない」
その幹は雲に届かんばかりに高く、まるで人が登るために作られたかのように、太い大枝が交互に階段状へ張り出していた。
「森を抜け外の街道へ出られる道は、この大樹を登るルートしかございません」
「面倒な道ね。もっと平坦な道を用意できないの?」
文句を吐き捨てるヴィヴィアンに対し、ハヤテは黙って足場を確かめ、一行が足を滑らせないよう安全に導いていく。
やがて頭上を覆っていた最後の青葉をくぐり抜けると、視界が一気にひらけた。
目の前には、夕日に染まる圧倒的な緑の海と、彼方まで真っ直ぐに伸びる一本の街道。
「ふん……ようやく不快な森からおさらばね」
ヴィヴィアンが扇子で顔を仰ぎながら、忌々しそうに振り返る。
ハヤテは、沈みゆく夕日を背に、静かに深く目を伏せるのだった。
**
茜色に染まる真っ直ぐな街道を前に、ヴィヴィアンは大きく息を吐き出した。
「はぁ……やっと森から戻ってきたわね。こんな酷い思い、もう二度としたくないわ」
護衛たちも安堵したように胸を撫で下ろし、ガチガチだった肩の力を抜く。
「これで……無事に帰れそうですね」
案内を終えたハヤテは、静かに一行へ向き直ると恭しく一礼した。
「……それでは、私はこれで失礼いたします」
ヴィヴィアンは露骨に眉をひそめた。
「は?」
「森の出口までお送りする。それが、私に託された役目ですので」
当然のように告げられた言葉に、ヴィヴィアンは呆れ果てたように高笑いした。
「ハッ、何を馬鹿なことを言っているの? あなたは私が選んだ雀でしょう?」
「ええ」
「だったら、私の公爵家へ着いて来るのが当然じゃない! あなたはもう私のものでしょう?」
ハヤテは怒ることもなく、穏やかに首を横へ振った。
「私は確かに、貴女様に選んでいただいた雀です」
そう前置きすると、琥珀色の瞳を一瞬だけ伏せ、静かに言葉を繋ぐ。
「ですが――長老との『約束』を、お守りいただけませんでした」
ヴィヴィアンは扇子で口元を覆い、鼻で笑い飛ばす。
「約束? 何のことかしら……ああ、『大切にしろ』っていう? きちんと大切にして差し上げましたでしょう?一体何が不満だというの?」
ハヤテは彼女を責めることもなく、ただ静かに微笑んだ。
「……私には、十分分かりました」
その、瞬間だった。
ふわり――と、一陣の心地よい風が吹き抜ける。
ハヤテのボサボサの長い前髪が揺れ、うっとうしかった髪が一瞬でさらりと綺麗に整っていく。
薄汚く見えた無精ひげは光の粒となって空気中に溶けて消え、丸まっていた背筋は隙のない美しい所作で真っ直ぐに伸びた。
夕日に照らし出されたその素顔に、ヴィヴィアンも護衛たちも、息を呑んで固まった。
涼やかで凛とした眉。
吸い込まれそうなほど澄んだ、琥珀色の瞳。
すっきりと整えられた、綺麗な茶色の短髪。
無駄のないしなやかな体躯と品格ある立ち姿。
先ほどまでとは、まるで別人のような美丈夫がそこに立っていた。
「……え」
ヴィヴィアンの口から、素っ頓狂な声が漏れる。
これこそ――これこそが、ヴィヴィアンが求めていた理想の雀獣人だった。 エレノアの隣にいたスズさえ霞むほどに。
「あなた……その姿は……!?」
ヴィヴィアンの困惑と焦燥を前に、ハヤテは困ったように優しく目を細めた。
「こちらが、本来の私でございます」
ヴィヴィアンは慌ててハヤテへと一歩踏み出した。
「ま、待ちなさい! そんな姿だったのなら――最初から、もっと……ッ!」
ハヤテは静かに首を横に振る。
「私には、貴女様が私を『大切にしてくださった』とはどうしても思えませんでした。……今回は、ご縁がなかったようです」
そう告げると同時に、彼の背中から大きな茶色の翼がふわりと広がった。
斜陽を受け、一枚一枚の羽が黄金色に眩しく輝き出す。
ヴィヴィアンは狂おしいほどの後悔と執着に突き動かされ、なりふり構わず手を伸ばした。
「待って! 待ちなさいハヤテ! 今度はちゃんと大事にするわ! 望むものは何でも与えてあげる! だから――!」
「申し訳ございません」
ハヤテはどこまでも穏やかに、しかし絶対に破れぬ境界線を引くように微笑む。
「……『宝物』を選べるのは、一度きりでございます」
それはかつて、隠れ里で長老が静かに告げた言葉そのままだった。
バサリ、と黄金の翼が力強く羽ばたく。
巻き起こる風に周囲の木々が大きくざわめき、舞い上がった落ち葉が二人を隔てる。
「お達者で」
最後に深く優雅な一礼を残し、ハヤテは大空へと高く舞い上がった。
その姿は茜色の夕焼けへと溶け込むように小さくなり、やがて一羽の大きな雀となって、二度と届かぬ森の深遠へと消えていく。
差し伸べた手が空を切り、ヴィヴィアンは呆然とその場に立ち尽くしていた。
「そんな……嘘でしょう……? あんな完璧な……あんな素晴らしいものが……私のものになるはずだったのに……っ」
あまりの光景に絶句していた護衛が、恐る恐る口を開く。
「……お、お嬢様。追いますか……?」
ハッと我に返ったヴィヴィアンは、般若のような形相で叫んだ。
「当然でしょう!! 今すぐあの里へ戻るわよ!! 力ずくでハヤテを連れ戻すのよ!!」
一行はなりふり構わず、慌てて来た道を逆走して森へと飛び込んだ。
しかし――。
先ほどまで確かに存在していたはずの、天を衝く巨大な大樹はどこにも見当たらない。
森の景色はどこまでも不気味に同じ木々が立ち並ぶばかりで、道らしい道も、里へ続く気配すらも完全に消え失せていた。
「そんな……」
「入り口が……どこにもない……!?」
護衛たちがどれほど森の中を探そうと、雀の里へ辿り着くことはできなかった。自分たちの足跡すら消え去った迷いの森で、惨めに疲れ果てるばかりだった。
ヴィヴィアンは真っ赤に染まる森の空を、ただ茫然と見上げ続ける。
先程まですぐそばにいた美しい青年の姿だけが、彼女の脳裏に焼き付いて離れなかった。
それ以来、ヴィヴィアンが雀の隠れ里へ辿り着くことは、二度となかったという。
**
隠れ里へ戻ったハヤテを、長老は穏やかな笑みで迎えた。
「おかえり、ハヤテ」
「ただいま戻りました」
ハヤテは静かに一礼する。
長老は、その表情を見つめながら小さく笑った。
「……どうじゃった?」
ハヤテは少しだけ考えるように目を伏せる。
そして困ったように微笑んだ。
「残念ながら、ご縁はありませんでした」
「……面倒をかけた」
長老は責めることも慰めることもせず、ただ静かに頷く。
しばらく心地よい沈黙が流れたが、やがて長老は空を見上げながら口を開く。
「しかし、お前もなかなかのものじゃったな。あれほど見事に姿を隠し通すとは」
ハヤテは困ったように微笑む。
「私を選ぶ方には、そうしようと決めているのです」
「……お前なら、どこへ出ても恥ずかしくない立派な雀なんじゃがのう」
ハヤテは照れくさそうに笑った。
「買い被りですよ」
「そうでもあるまい」
長老は目を細める。
「お前は里一番の働き者じゃ。誰よりも森を知り、誰よりも仲間を思っておる」
ハヤテは肩をすくめる。
「だからこそ、里を離れるわけにはいきません」
「そうかもしれんな」
長老は優しく笑う。
「……じゃが、わしはな、お前にも幸せになってほしいんじゃ」
その言葉に、ハヤテは少しだけ目を丸くした。
そして、どこか懐かしむように笑う。
「……ですが」
「うむ?」
「スズを選んだ、あの旅のお方でしたら。」
ハヤテは空を見上げた。
「一緒に旅をするのも、悪くなかったかもしれませんね」
長老は「あっはっは」と愉快そうに笑う。
「それはせっかくのチャンスを逃したのう」
「違いありません」
ハヤテもつられて笑った。
夕暮れの空へ、小さな雀たちが一斉に羽ばたいていく。その姿を見送りながら、長老は静かに呟いた。
「またいつか、お前を選ぶ旅のお方が現れるじゃろう」
ハヤテはその言葉に小さく頷き、夕焼け色に染まる空を見上げた。
その笑顔は、どこか晴れやかだった。
終




