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世界最強の剣聖令嬢、眼鏡の迷宮設計士に一目惚れして即求婚しました~敗北に興奮しているだけだと誤解されていますが、あなたの顔がメロすぎるのです~

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/06/26


「あなた、私に勝ったわね。結婚しましょう」


 私がそう告げると、目の前の青年は左手で銀縁眼鏡の位置を直し、整いすぎた顔を少しも崩さずに答えた。


「お断りします」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 胸の中で、今まで倒してきたどの魔物よりも巨大な何かが崩れ落ちた。


 世界最強の剣聖と呼ばれる私、オフェリア・アルランティアが、人生初の求婚を断られた瞬間だった。




 ◇◆◇




 話は3時間ほど前に遡る。


 王都の冒険者ギルドが主催する、迷宮踏破大会。


 最深部に置かれた到達証明の札を、最初に手にした者が優勝者となる。


 共闘も、他の参加者が開いた道を利用することも禁止されていない。


 何を倒したかではなく、誰が最初に札を取るか。


 それが、この大会の唯一の勝利条件だった。


 参加者の大半は、王国内でも名の知れた冒険者だった。


 優勝者には、多額の賞金と王国公認の攻略者資格が与えられる。


 もっとも、私に賞金は必要ない。


 アルランティア公爵家の娘として金には困っていないし、攻略者資格がなくても、竜くらいなら一人で倒せる。


 参加した理由は単純だった。


 暇だったからだ。


「オフェリア様が参加なさるのであれば、優勝者は既に決まったようなものですな」


 開始前、王国最大の攻略隊を率いるエランクニス・ヴァルモント公爵令息が、当然のように私の隣へ立った。


 金色の髪を丁寧に撫でつけ、豪華な鎧には宝石までついている。


 迷宮の中で光れば魔物から見つかりやすくなるだろうに、本人は格好いいと思っているらしい。


「そうでしょうね」


 私は適当に答えた。


「ですが、迷宮攻略は一人では成り立ちません。あなたの剣は、正しい指揮官の下でこそ最大の価値を持つ」


「私の剣を振るのは私です」


「もちろん。しかし、剣には使い手が必要なように、使い手にも指揮官が必要です」


「私には必要ありません」


 エランクニスの笑顔が、わずかに固まった。


 彼は無能ではない。


 これまでに複数の固定迷宮を攻略し、王国最大の攻略隊を作り上げた実績もある。


 隊列を組み、魔物を正面から倒し、犠牲を抑えて進む。


 普通の迷宮であれば、それは正しい方法だった。


 けれど、自分が成功した方法だけが唯一の正解だと思っている。


 そこが面倒だった。


 私は強い。


 世界で一番強い。


 それを理由に近づいてくる男は多かった。


 自分の功績にしたがる男。


 私を妻にして、家の威光を高めたがる男。


 強い女を従わせれば、自分まで強く見えると勘違いしている男。


 全員、面倒だった。


「今大会が終われば、考えも変わるでしょう」


「変わりません」


「まだ始まってもいない」


「始まる前から分かることもあります」


 私はそれ以上相手にせず、開始地点へ向かった。


 開始の鐘が鳴り、巨大な石門が開く。


 数十人の攻略者たちが一斉に迷宮へ駆け込んだ。


 第1層では、何十頭もの鎧熊が参加者を待ち受けていた。


 私の前に立ちはだかったのは12頭。


 他の攻略者たちが足を止め、隊列を組み始める。


 私は剣を抜いた。


「邪魔ね」


 一振り。


 12頭の鎧熊が、まとめて壁まで吹き飛んだ。


 後ろから歓声が聞こえたけれど、振り返らない。


 第2層では、無数の毒矢が降ってきた。


 剣圧で全部落とした。


 第3層では、巨大な岩蜥蜴が通路を塞いでいた。


 首を一刀で斬り落とす。


 岩蜥蜴が崩れ、床が大きく揺れた。


 周囲の攻略者たちが息をのむ。


 けれど、一人だけ魔物を見ていない男がいた。


 通路の隅へ片膝をつき、床に散った砂を指先ですくっている。


 くすんだ灰色の髪。


 地味な旅装。


 細い銀縁の眼鏡。


 腰には剣を下げているけれど、柄にほとんど傷がない。


「今の一撃で、第3層の東側が沈みました」


 青年は床を見たまま言った。


「何ですって?」


「次に斬るなら、右側の壁へ衝撃を逃がさないでください。天井が落ちます」


「……あなた、私が岩蜥蜴を斬ったところは見ていた?」


「見ていました」


 青年が顔を上げた。


 眼鏡の奥にある澄んだ青い瞳が、真っ直ぐ私を捉える。


 はわわ〜〜〜〜っ!!


 顔!!


 何、その顔!!


 伏せていたときも整っているとは思ったけれど、正面から見るととんでもない!


 眼鏡が似合う!


 睫毛が長い!


 目が青い!


 鼻筋が綺麗!


 唇の形までメロい!


 メロすぎる、この顔!!


「聞いていますか?」


「もちろんよ」


 何一つ聞いていなかった。


「次に攻撃するときは、左側へ力を逃がしてください」


「分かったわ」


「左です」


「分かっているわ」


 危ない。


 一瞬、右と左が分からなくなった。


 世界最強の剣聖が、眼鏡の似合う男に見惚れて方向を間違えたと知られてはいけない。


「あなた、名前は?」


「ルカ・フォルスターです」


 ルカ。


 名前まで可愛い。


 好き。


「迷宮設計士をしています」


「迷宮設計士?」


「迷宮の構造を調べ、攻略路や避難路を設計する仕事です」


「素晴らしい仕事ね」


 何をする仕事かは、今聞いたばかりだけれど。


「オフェリア様、先を急がなくてよろしいのですか?」


 後ろからエランクニスが追いついてきた。


「その男は?」


「ルカよ」


「名を聞いたのではありません。所属です」


「今、本人が説明したでしょう」


 聞いていなかったのか。


 顔がいい男を前にしているのに、もったいない。


「迷宮設計士です」


 ルカが淡々と答えた。


「設計士?」


 エランクニスが眉を上げる。


「剣も満足に扱えない者が、攻略大会に何の用だ?」


「魔物を全部倒さなくても、迷宮は進めます」


「臆病者の考えだな」


 ルカは左手で眼鏡を押し上げた。


「あなたは第1層で鎧熊を3頭倒すため、隊員12名で4分20秒かけました」


「被害を出さずに倒した結果だ」


「固定迷宮では、正しい方法です」


 ルカはあっさり認めた。


「ですが、今は競争です。オフェリア様は12頭を1秒で倒した。正面から魔物を倒すことしか考えないのであれば、あなたの隊はオフェリア様一人より遅い」


 容赦がない。


 けれど、相手の実績まで否定してはいない。


 ますます気に入った。


「貴様」


「先を急ぐのでしょう?」


 ルカはエランクニスを見ず、床へ小さな金属球を落とした。


 球は真っ直ぐ転がらず、途中から左へ曲がった。


「今の一撃で床が傾き、迷宮の構造がずれました。中央通路は間もなく閉じます」


「最深部は上だ。中央の階段を進むのが最短だ」


「入口から見れば、そう見えるように作られています」


「何?」


「この迷宮は、上へ登る者を外周へ誘導する構造です。中心へ行くには、一度下へ降りる必要がある」


 ルカは壁の苔を指でなぞった。


「苔の根が上ではなく、右へ向かって伸びている。水も同じ方向へ流れています。この階層そのものが横倒しになっているんです」


 私にも分かる。


 迷宮を読む横顔まで絵になる。


「下へ進めばいいのね?」


「いいえ。今はまだ下へ行ってはいけません」


 ルカは天井を見上げた。


「約4分後、先ほどの衝撃で支柱がずれます。その瞬間だけ、下へ続く通路が中心部と接続する」


「4分間、ここで待つの?」


「その間に、次の魔物を倒していただければ」


「私に?」


「左側へ力を逃がして」


 ルカが指した先から、2頭目の岩蜥蜴が現れた。


 私は言われたとおり、左へ向けて斬った。


 衝撃で壁が震える。


 しばらくすると、通路の奥から石が擦れる音が響いた。


「今です」


 ルカが駆け出す。


 床だと思っていた石板が沈み、その下から螺旋階段が現れた。


 エランクニスたちが驚いている間に、私はルカを追いかける。


「最初から分かっていたの?」


「迷宮は侵入者を追い返すため、最短経路を普段は切り離しています。ですが大きな衝撃を受けた直後だけ、構造を立て直すために通路をつなぎ直す」


「私の攻撃を使ったのね」


「はい」


「私が従わなかったら?」


「別の道を探していました」


「私なら従うと思った?」


「正しい理由があれば、聞いてくださる方だと思いました」


 キュンッ!!


 会ったばかりなのに、私が力だけの女ではないと見抜いている。


 顔だけではない。


 頭もよく、見る目もある。


 螺旋階段の先には、最深部へ続く細い通路が伸びていた。


 途中で地竜が現れる。


 通路いっぱいに広がる巨体。


「倒すのに何秒かかりますか?」


 ルカが尋ねた。


「10秒」


「5秒でお願いします」


「分かったわ」


 全力で踏み込み、地竜の首を落とす。


 5秒もかからなかった。


 けれど、倒れた地竜の体が通路を塞いだ。


「しまったわね」


「問題ありません」


 ルカは地竜の尻尾を見た。


「尻尾の下に排水路があります。地竜が守っていたのではなく、温かい風が出るから眠っていただけでしょう」


 排水路の鉄格子を私が斬る。


 人一人が通れる穴が現れた。


「ここを通るの?」


「先に僕が入ります」


「抱えるわ」


「必要ありません」


「私が抱えたいの」


「競争中です」


「それとこれとは別でしょう?」


「同じです」


 結局、私はルカの腰を抱えたまま、排水路へ飛び込んだ。


「自分で降りられます!」


「こちらの方が早いわ」


 そして合法的に抱えられる。


 近い!


 眼鏡越しに驚いた青い目が見える!


 顔が近い!


 でも今は落とさないことに集中!


 恋と命の両方を、この腕で守るのよ!


「次の曲がり角で、腕を緩めてください」


 ルカが言った。


「なぜ?」


「排水路が2本に分かれています。右側へ移ります」


「私も右へ行くわ」


「オフェリア様の速度では曲がりきれません」


「なら、一緒に左へ」


「左は遠回りです」


「あなたを離したくないわ」


「競争中です」


 またそれを言う。


「合図します。3、2、1――今です」


 私は渋々、腕の力を緩めた。


 ルカは右側の壁へ足をかけ、そのまま細い分岐へ飛び移る。


 私は勢いを止められず、左側の管を滑り落ちた。


「ルカ!」


「どちらもすぐ最深部へ出ます!」


 声だけが遠ざかる。


 排水路の先から飛び出し、床へ着地した。


 広い石室だった。


 正面には、中央の足場へ続く短い階段がある。


 階段の上は、ここからでは見えない。


 人影もなかった。


 私が先に着いたのだと思い、階段へ足をかけた。


「こちらです」


 上から声がした。


 階段を駆け上がる。


 中央の台座の隣で、ルカが到達証明の札を手に立っていた。


「どうして右が近道だと分かったの?」


「曲がる直前、壁の水滴だけが右へ流れていました。空気も右側へ抜けていた。広い空間につながっている証拠です」


 何、この人。


 迷宮より頭の中の方が複雑なのでは?


 ルカは、私が開いた道を利用した。


 私は、ルカが見つけた道を利用した。


 そのうえで最後の分岐を見抜き、私より先に札を取った。


 規則上も、内容でも、完全に私の負けだった。


 なのに、不思議と悔しくない。


 むしろ胸が高鳴った。


 私より強い魔物を倒したわけではない。


 私とはまったく違う方法で、私より先へたどり着いた。


 顔が好き。


 頭も好き。


 眼鏡も好き。


 もう結婚したい。


「あなた、私に勝ったわね」


「競争ですので」


「結婚しましょう」


 そうして、冒頭へ戻る。


「お断りします」


「なぜ?」


「あなたが好きなのは、僕ではありません」


「好きだけれど?」


「生まれて初めて敗北したことに興奮しているだけです」


 違う!!


 全然違う!!


 敗北など、今となってはどうでもいい!


 あなたの顔!


 眼鏡!


 声!


 私を怖がらなかったところ!


 迷宮を一目見ただけで、すべて見透かしてしまう頭!


 全部好き!!


「敗北も嫌いではないわ」


 なぜそんな返しをした、私!!


 そこは違うと言い切りなさい!


「やはり」


 ほら〜〜〜!!


 誤解された〜〜〜!!


「一時的な興奮で、生涯の相手を決めるべきではありません」


「私は冷静よ」


「大会の熱が冷めても同じ気持ちであれば、改めて考えます」


「分かったわ」


「納得していただけましたか」


「それまで毎日求婚するわ」


「なぜそうなるんです?」


 ルカが初めて困った顔をした。


 困った顔までメロい。


 好き。




 ◇◆◇




 大会が終わった翌朝、迷宮が暴走した。


 王都近郊にあったはずの入口が巨大化し、周辺の町を丸ごと飲み込んだのだ。


 地面から石壁がせり上がり、民家も街道も迷宮の中へ消えた。


 取り残された住民は1,000人を超える。


 冒険者ギルドの緊急招集には、王国内の有力な攻略隊が集められた。


 会議室の中央には、町と迷宮の地図が広げられている。


 ルカはその上へ、色の違う8枚の半透明な紙を重ねていた。


「暴走迷宮には、大きく分けて8種類の成長形態があります」


「今、どれなのか分かるのか?」


 ギルド長が尋ねる。


「既に6種類は除外しました」


 ルカは6枚の紙を取り除いた。


「残るのは2種類です」


 エランクニスが腕を組んだ。


「何を根拠に除外した?」


 以前のように鼻で笑ってはいない。


 固定迷宮で実績を重ねてきただけあって、状況が普通ではないことは理解しているらしい。


 ルカは窓辺に置かれた水差しを指した。


「先ほどから、16秒おきに水面が揺れています。地下で迷宮壁が伸びている振動です」


 次に、机へ置かれた砂時計を見る。


「入口付近の壁は南へ伸びていますが、振動は北西から届いている。見えている入口と成長の中心が一致していません」


「残った2種類をどう区別する?」


「迷宮に飲み込まれた町の煙突を確認してください」


 窓の外には、迷宮の壁に囲まれた町の屋根がわずかに見えていた。


 煙突から出た煙は、真上ではなく地下へ吸い込まれている。


「空気を取り込んでいる……?」


「この迷宮は、町を消化しようとしている」


 会議室が静まり返った。


「残るのは、捕食によって成長する型です」


 ルカは最後の紙だけを地図へ残した。


「迷宮は内部へ取り込んだ生物の魔力を吸収し、その力で成長します。強い攻撃を受ければ、危険な獲物を消化するため、防御層を増やすでしょう」


「脅威を排除せずに進めと言うのか?」


 エランクニスが尋ねる。


「必要な分だけ倒します」


「我々の攻略隊は、これまで正面突破で複数の迷宮を落としてきた」


「固定迷宮なら、それが正しい」


 ルカは否定しなかった。


「ですが、今回は壁を壊すたびに迷宮が形を変えます。あなたの隊の火力は有用ですが、同じ方法を使えば、その火力が迷宮の餌になる」


「そこまで言うなら、証明してみろ」


「9分後、東側の鐘楼が迷宮へ沈みます」


 全員が窓を見る。


「外れたらどうする?」


「作戦から外れます」


「よかろう」


 9分も待たなかった。


 8分40秒が過ぎたところで、遠くに見えていた鐘楼が音を立てて沈み始めた。


 窓から見ていた者たちが息をのむ。


 ルカは砂時計を見た。


「20秒早い。内部の魔力量が推定より多いようです。迷宮が町を消化しきるまで、残り2時間半です」


 会議室の空気が、一気に張りつめた。


「侵入隊を3つに分けます」


 ルカは迷宮へ3本の線を引いた。


「第1隊は救助。第2隊は外周の排気口を開き、迷宮の成長速度を落とす。第3隊が迷宮核へ向かう」


「第2隊は我々か」


 エランクニスが言った。


「はい。あなたの隊は、隊列を維持したまま多数の魔物を引きつけられる。外周攻略に最も向いています」


 囮だからではない。


 実績を見たうえでの配置だった。


 エランクニスも、それは理解したらしい。


「指定した壁以外は壊すな、と?」


「ええ。この迷宮では、それが最も重要です」


「分かった」


 返事はした。


 ただ、完全に納得した顔ではなかった。


「オフェリア様」


 エランクニスが私を見る。


「あなたは第3隊へ?」


「ええ」


 私はルカの隣へ立った。


「私はルカと迷宮核へ行くわ」


 言った!


 ルカと並んで迷宮核へ!


 危険な場所で共同作業!


 ほとんど新婚旅行では!?


 違う?


 でも共同作業よ!?


「なぜ、その男を」


「好きだからよ」


 ルカがわずかに目を見開いた。


 今、私の言葉で反応した!


「今は、敗北の余韻が残っているだけです」


 本人が否定した。


 なぜあなたが否定するの!?


 私は好きだと言っているのに!


「余韻ではないわ」


「まだ1日です」


「1日あれば、恋には十分よ」


「作戦を続けます」


 逃げた。


 でも眼鏡を直す横顔がメロいので許す。




 ◇◆◇




 ルカは各隊へ、色の違う3枚の石札を渡した。


「迷宮内では、地図が役に立たなくなる可能性があります。赤い石札は熱に、青は水分に、白は魔力に反応します」


「それで道が分かるの?」


「3枚の色が変わる順番を見ます。赤、白、青なら中心部へ。青、赤、白なら外周へ向かっている」


「なぜ?」


「迷宮核から魔力が流れ、その熱で内部の水分が動くからです。距離によって反応する順番が変わる」


 石札には、反応した色と時刻を保存する記録術も組み込まれていた。


 帰還後に、どの隊がどの経路を通ったのか確認するためらしい。


「それから、7分おきに壁を3回叩いてください。近くに別の隊がいれば、反響が変わります」


「声を出さないのですか?」


「迷宮には、人の声を真似る魔物がいます。声では判別できません」


 ルカは全員の顔を見回した。


「聞こえた声を追わない。地図より石札を見る。指定された壁以外は壊さない。これだけは必ず守ってください」


 会議が終わり、私たちは迷宮へ入った。


 途中で住民を発見した場合に備え、第3隊にも10名ほどの救助要員が同行していた。


 ルカは石札の反応と壁の湿り気を見比べながら、迷うことなく道を選んでいく。


 私が剣で斬れるものを増やすたび、ルカは斬らなくていいものを増やしていった。


 その先の区画には、住民が100人ほど閉じ込められていた。


 巨大な蜘蛛型の魔物が出口を塞ぎ、天井には白い卵がびっしりと張りついている。


「お姉ちゃん、助けて!」


 小さな男の子が泣きながら叫んだ。


「止まって!」


 ルカが叫ぶ。


 駆け出しかけた子供が足を止める。


 蜘蛛の脚が、その頭上を薙いだ。


「卵を割ると毒霧が出ます。蜘蛛は3歩進むごとに、右前脚を一度止める」


「そこが弱点?」


「いいえ。床の振動を確認している。その瞬間だけ、右の後ろ脚がわずかに浮きます」


「倒せる?」


「倒さないでください。あの蜘蛛の糸が、天井の卵を支えています」


 なるほど。


 蜘蛛を倒せば、卵が落ちて毒霧が出る。


「では、どうするの?」


 ルカは蜘蛛の動きを見ながら、床へ落ちている3本の鎖を指した。


「1本目を天井の柱へ。右前脚が止まった瞬間に、2本目を浮いた右の後ろ脚へ絡め、その端を1本目につないでください。3本目は古い糸へ。僕が引きます」


「それだけで?」


「蜘蛛は巣を補修する習性があります。切れた糸を見れば、そちらを優先する」


 私は1本目の鎖を投げ、天井の柱へ巻きつけた。


 蜘蛛が3歩進み、右前脚を止める。


 その瞬間、2本目を浮いた右の後ろ脚へ絡ませ、その端を1本目へつないだ。


 3本目を天井の古い糸へ引っかけ、その端をルカへ渡す。


 ルカが鎖を引くと、古い糸が切れた。


 蜘蛛は子供たちから離れ、切れた糸へ向かって動く。


 柱へ固定された鎖が右の後ろ脚を強く引き、巨体が傾いた。


 暴れた残りの脚まで鎖へ巻き込まれ、4本の脚がまとめて締め上げられる。


「今です。住民を出口へ」


 私は子供たちの前へ立った。


 拘束された蜘蛛がこちらへ気づき、自由に動く脚を振り上げる。


 剣の腹で受け止め、その巨体ごと壁へ押し返した。


「走りなさい」


 泣いていた男の子が、私を見上げる。


「でも、魔物が……」


「怖くても足は動くわ」


 私は蜘蛛の脚を片手でつかみ、床へ叩きつけた。


「私の背中だけ見て走りなさい。あなたが外へ出るまで、何一つ近づけさせないから」


 男の子の目が大きくなる。


「……かっこいい」


「知っているわ。だから早く行きなさい」


「うん!」


 子供たちが走り出す。


 ルカが出口から声を上げた。


「右から3列目は踏まないで! その床だけ沈みます!」


 住民たちが慌てて避ける。


 最後の一人が通り抜けた。


「今なら倒しても?」


「卵の下から出してください」


「分かったわ」


 私は鎖を柱から斬り離し、脚を縛られた蜘蛛を卵のない通路へ投げる。


 一閃。


 巨大な胴体が真っ二つになった。


 救助隊が住民たちを外へ誘導する。


 先ほどの男の子が何度も振り返り、私へ手を振っていた。


「将来、剣士を目指すかもしれませんね」


 ルカが言った。


「剣士になりたいなら、まず泣きながらでも走れるようにならないと」


「厳しいですね」


「でも、止まらなかったわ」


「ええ」


 ルカが少し笑った。


 眼鏡の奥の目が、優しく細くなる。


 子供へ格好いいところを見せた直後に、その笑顔はずるい。


「何です?」


「今、結婚したくなったわ」


「前からでしょう」


「前より強く」


「進みますよ」


 慣れてきた。


 でも断られてはいない。


 これは進歩だと思う。


 迷宮の奥へ進むと、床一面に白い霧が漂っていた。


「毒?」


「違います。霧が床へ沈んでいる。空気より重い魔力です」


 ルカが小石を投げる。


 小石は床へ落ちる直前、真横へ飛んだ。


「転移罠です」


「なら飛び越えれば」


「罠は床だけではありません」


 ルカは眼鏡を外し、レンズ越しに霧を見た。


「その眼鏡、何か見えるの?」


「左右のレンズで厚みが違います。光のずれから、霧の流れを見ています」


 眼鏡を外した顔。


 眼鏡ありもいい。


 なしもいい。


 どちらもメロい。


「オフェリア様」


「何?」


「顔ではなく霧を見てください」


「見ているわ」


 半分は。


「霧の流れが一か所だけ上へ向かっています。そこだけ転移先が近い」


「そこを通る?」


「いいえ。近い場所ほど、迷宮核から遠くへ飛ばされる仕組みでしょう」


 ルカは壁の小さな穴を指した。


「転移術は、一度に一方向へしか魔力を流せません。あの穴から力を抜けば、床の罠を数秒だけ止められます」


「じゃあ、穴を広げればいいかしら」


「広げすぎると暴発します。剣先で、縁を3回だけ叩いてください」


 私は言われた場所を3回叩く。


 1回目。


 霧が揺れる。


 2回目。


 床の紋様が光る。


 3回目。


 霧が一斉に壁の穴へ吸い込まれた。


「今です」


 私たちは走る。


 途中で紋様が再び光った。


 私の足元だけが強く輝く。


「オフェリア!」


 初めて、様をつけずに呼ばれた。


 ルカが壁の突起を蹴る。


 床が斜めにせり上がり、私の体が転移陣の外へ押し出された。


 直後、先ほどまで私がいた場所が白い光に飲まれる。


「助けられたわ」


「そのまま進んでいたら、迷宮の入口まで戻されていました」


「私の動きを読んでいたの?」


「あなたは、罠が光っても前へ進むと思ったので」


「信頼されているのか、無謀だと思われているのか分からないわね」


「両方です」


 ルカが私を助けた。


 剣ではなく、仕掛けを読み、私より早く動いて。


 胸が跳ねた。


 私が力で守り、ルカが頭脳で守る。


 やはり相性は最高なのでは?




 ◇◆◇




 しばらく進んだあと、ルカの歩幅がわずかに小さくなった。


「疲れたの?」


「問題ありません」


「あるわね。右足の歩幅が狭くなっている」


 ルカが止まった。


「よく見ていますね」


「好きな人だもの」


「迷宮核まで、あと2階層です」


「5分休みなさい」


「今は時間が」


「私が5分で、この階層の魔物を全部片づけるわ」


 ルカが周囲を見た。


 天井にも壁にも、大量の魔物が張りついている。


「5分では」


「3分でもいいわ」


「そういう意味ではありません」


 私はルカの肩を押し、壁際へ座らせた。


「寝て」


「眠る必要は」


「私の膝を貸すわ」


「なぜです?」


「私がしたいからよ」


 素直!


 私は素直な女!


 本当はものすごく緊張している!


 膝枕!


 ルカの頭が私の膝へ!


 はわわ〜〜〜!!


 眼鏡を外したルカが、私の膝に!


 まだ婚約もしていないのに!


 でも緊急事態!


 仕方がない!


「遠慮しなくていいわ」


「眠れません」


「では目だけ閉じて」


「あなたは?」


「魔物を片づける」


「膝枕をしたまま?」


「当然でしょう」


 私は座ったまま剣を抜いた。


 片手で3度振る。


 剣圧が広がり、周囲の魔物がすべて壁から落ちた。


「終わったわ」


「まだ1分も経っていません」


「残り4分、あなたの顔を見ていてもいい?」


「普段から見ているでしょう」


「眼鏡を外した正面は、また違うの」


「違うのですか」


「ええ。とてもメロいわ」


「メロい」


「ものすごく好みという意味よ」


「まだ敗北の興奮が」


「なぜそうなるの!?」


 私は会ってから何度も好きだと言っている。


 顔も好みだと伝えた。


 結婚したいとも言った。


 それなのに、なぜ敗北への興奮という結論になるのか。


「あなたは、僕のことをほとんど知りません」


「考えるときに、左手で眼鏡を押し上げるわ」


 ルカの手が止まった。


「疲れると右足から歩幅が小さくなる。地図を読むときは左目を細める。褒められると耳が赤くなる」


「いつ見ていたんです?」


「ずっと」


「……」


「迷宮を読むあなたも好きよ。誰かに認められなくても、自分の判断を曲げないところも。知らないことは、これから知るわ」


 ルカの耳が赤くなる。


 効いている。


 今度こそ、ちゃんと届いている。


「休みます」


 ルカは目を閉じた。


 逃げた。


 でも私の膝の上なので、逃げ切れていない。




 ◇◆◇




 2階層下で、エランクニスの攻略隊を見つけた。


 正確には、外周を進んでいたはずの彼らが、崩壊しかけた円形の広間で濁流に囲まれていた。


 指定されていない壁を壊したことで、外周路そのものが迷宮の内側へ巻き込まれたらしい。


 天井からは水が流れ込み、100人近い隊員が壁際へ追い詰められている。


「オフェリア様!」


 エランクニスが私を見る。


「ちょうどよかった! 右側の柱を斬ってください!」


「斬ってはいけません」


 ルカが即座に言った。


「なぜだ?」


「その柱は上の貯水層を支えています。斬れば、この階層にいる全員が水没します」


「だが、これまでの迷宮では、支柱を壊せば隣の区画へ抜けられた」


「固定迷宮なら、その判断で正しい場合もあります」


 ルカは壁を見回した。


「ですが、ここは壊された場所を内側へ巻き込みながら修復する。壁を3回壊しましたね」


「なぜ分かる?」


「破片の層が3つあります。そのたびに迷宮が傷口を塞ぎ、通路を内側へ曲げた。あなた方は、過去に成功した方法を繰り返して、自分で袋小路を作ったんです」


 エランクニスが歯を食いしばる。


 判断そのものが馬鹿だったわけではない。


 以前の正解へ執着し、迷宮が変化していることを認められなかったのだ。


「ルカ、どうする?」


「まず、水の量を減らします」


 ルカは広間の反対側へ、小さな石を3つ投げた。


 石が壁へ当たる。


 1つ目は高い音。


 2つ目は鈍い音。


 3つ目は、ほとんど響かなかった。


「3つ目の壁の向こうに空洞があります」


「斬る?」


「まだです。先に中央の魔物を動かし、排水口を開きます」


 広間の中央には、甲羅を持つ巨大な水棲魔物がうずくまっていた。


「あれは水を吸う習性があります。普段は貯水層の水量を調整しているのでしょう」


「今は暴れているわよ」


「エランクニス殿の隊が、甲羅へ火を当てたからです」


「魔物を退けるためだった」


 ルカは床に落ちた槍を拾い、水棲魔物の前へ投げた。


 槍の金属部分が水へ触れる。


 水棲魔物がそちらへ頭を向けた。


「金属を食べるの?」


「甲羅を作るために集めています」


 ルカはエランクニスの豪華な盾を見た。


「その盾を投げてください」


「これは我が家に伝わる盾だ」


「隊員全員より大切ですか?」


 エランクニスが黙った。


 数秒後、自ら盾を外し、水棲魔物の向こうへ投げる。


 魔物が盾を追って移動した。


 塞がれていた床の排水口が現れる。


 水が渦を巻いて流れ込み始めたが、天井から落ちてくる量の方が多く、水位はほとんど下がらない。


「左の壁を、上部2メートルだけ残して斬ってください」


 2メートル。


 水が増え続ける中で、迷いなく数字を出す。


「分かったわ」


「待て。左には出口などない」


「今作るのよ」


 剣を振る。


 左壁が、上部2メートルを残して綺麗に消し飛んだ。


 壁の向こうには、先ほどルカが音で見つけた空洞があった。


 水が一気に空洞へ流れ込む。


 水位が下がり始めた。


「まだ動かないでください!」


 逃げ出そうとした隊員たちを、ルカが止める。


「なぜだ!」


「空洞は下の通路へつながっています。今移動すれば、流れに足を取られます」


 ルカは水位を見ながら数えた。


「5、4、3……今です。全員、壁際を右回りに!」


 隊員たちが一斉に動く。


「右回りにする理由は?」


 私は尋ねた。


「床が左へ傾いています。反対へ進めば滑ります」


 100人近い隊員が、誰一人転ぶことなく安全な場所へたどり着いた。


 最後まで残ったエランクニスが、私を見る。


「あなたは、その男の指揮に従うのですね」


「ええ」


「世界最強のあなたが?」


「世界最強だからよ」


 私は答えた。


「自分より優れた判断が分からないほど、私は愚かではないわ」


 エランクニスは何も言えなかった。


 彼の隊員たちは、もう彼を見ていない。


 全員、次の指示を待つようにルカを見ていた。


「負傷者を連れて、この石札の示す道を戻ってください」


 ルカが告げる。


「我々も核へ向かう」


 エランクニスが言った。


「今の隊で進めば、負傷者が死にます」


「しかし」


「ここで戻る判断ができる者でなければ、指揮官とは呼べません」


 エランクニスはしばらくルカを見つめた。


 やがて、剣を鞘へ収める。


「……分かった。負傷者を連れて戻る」


 完全な馬鹿ではないらしい。


 ただし、ルカより優秀でもない。


 エランクニスの隊が去ったあと、私はルカの肩を軽く叩いた。


「格好よかったわ」


「何がです?」


「全部」


「説明になっていません」


「結婚すれば、毎日詳しく説明するわ」


「今は先へ進みます」




 ◇◆◇




 最深部には、7枚の巨大な鏡が立っていた。


 中央には、人の形をした銀色の魔物がいる。


「鏡獣ね」


「いいえ」


 ルカはすぐに否定した。


「あれは鏡獣ではありません」


「どうして?」


「足元を見てください」


 床には、私たちの足跡が残っている。


 けれど、銀色の魔物の周囲だけ埃が動いていない。


「あれは実体ではなく、鏡に映った像です」


 ルカは眼鏡を外し、レンズ越しに7枚の鏡を見た。


「さらに、像の動きが半拍遅れている。中央の魔物が私たちを映しているのではない。7枚の鏡が像を作り、こちらへ見せています」


「では、実体は?」


「鏡の後ろです」


 ルカが小さな金貨を投げた。


 金貨が鏡の前を横切る。


 中央の銀色の魔物も、金貨を投げる動きをした。


 けれど、銀色の手からは何も出ない。


「鏡は、見た動きを再現しているだけ。攻撃すれば、その攻撃だけを複製して返します」


「私が本気で斬れば?」


「同じ威力が返ってきます」


「少し楽しそうね」


「町が残っていれば、後日好きなだけ試してください」


「それは困るわ」


 今は、町の方が大事だ。


「7枚すべてへ魔力が流れていますが、戻ってきているのは6枚分だけです。鏡の裏で流れが重なっているため、ここからでは位置までは判別できません」


「残りの1枚は?」


「魔力を反射せず、取り込んでいます。鏡ではなく、迷宮核の表面です」


「どれ?」


「今から確かめます」


 ルカは床へ落ちていた鏡の破片を拾い、眼鏡の片方のレンズを外した。


「何をしているの?」


「このレンズには、ごく薄い青色がついています」


 鏡の破片で拾った光を、レンズへ通す。


 ルカはその光を、7枚の鏡へ順番に当てた。


 6枚は青く反射し、1枚だけが白いままだった。


「あれが核です」


「なぜ?」


「鏡なら、レンズを通した光の色も反射する。核は鏡に見せかけた魔力の膜なので、色までは再現できない」


 眼鏡まで攻略道具になるなんて、反則だ。


「では、7枚目を斬ればいいのね?」


「いいえ」


「まだ駄目なの?」


「核を攻撃すれば、残り6枚がその攻撃を複製します」


 ルカは鏡の縁を見た。


「鏡を支えている留め具が、すべて違う高さにあります。7枚を同時に壊されないため、順番を間違えると別の鏡へ力が流れる仕組みです」


「順番は分かる?」


「今、調べます」


 ルカは鏡の前へ歩き出した。


「危険よ」


「攻撃しなければ反撃されません」


「像が動いたら?」


「その前に戻ります」


 ルカは7枚の鏡の中央へ立った。


 銀色の像が、ルカと同じ姿へ変わる。


 眼鏡を外したルカの顔が2つ。


 危ない。


 一瞬、見惚れるところだった。


 今はそれどころではない。


 ルカは鏡の縁を順番に指で叩いた。


 低い音。


 高い音。


 鈍い音。


 銀色の像も、同じように指を動かす。


「分かりました」


 ルカが私の隣へ戻る。


 外していたレンズを眼鏡へ戻し、かけ直した。


「留め具の中を魔力が流れています。音の高さは、流れている魔力量で変わる」


「つまり?」


「6、2、5、1、4、3の順に留め具を斬ります。最後に7枚目の核を」


「何秒以内?」


「2秒」


「簡単ね」


 ルカが私を見る。


「普通の人間には不可能です」


「私を誰だと思っているの?」


「世界最強の剣聖です」


「正解」


 私は剣を構えた。


 ルカが7か所を指す。


 一つは天井近く。


 一つは床。


 一つは鏡の裏側。


 すべて位置も高さも違う。


「鏡の縁に、視線を拾う術式があります。最後に核を斬る直前、中央の像は斬り手が最も長く見ていた相手の姿へ変わります」


「私が一番見ていた相手を選ぶのね」


「おそらく」


「迷いますか?」


「まさか」


 ルカが私を見る。


「あなたは間違えません」


 迷いのない声だった。


 世界最強だからではなく。


 私なら見分けられると、信じている。


 今すぐ抱きしめたい。


 でも先に迷宮を斬る。


「数えて」


「3、2、1」


 踏み込む。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 五つ。


 六つ。


 留め具を順番に斬る。


 7枚目へ剣を向けた瞬間、中央の像がルカの姿になった。


「オフェリア」


 同じ顔。


 同じ声。


 けれど、眼鏡を直したのは右手だった。


「は? お前誰だよ」


 迷わず斬った。


「ルカはいつもメガネを左手で直す」


 7枚目の鏡が砕け、その奥から巨大な赤い核が現れた。


「今です!」


「任せて!」


 全力で剣を振る。


 迷宮核も、その背後にあった岩盤も、まとめて真っ二つになった。


 轟音。


 地面が大きく震え、7枚の鏡が次々と崩れていく。


「出口が開きます!」


 ルカが指した先で、壁が左右へ割れた。


「勝った?」


「ええ」


「二人で?」


「二人でです」


 二人で。


 今、確かに二人で勝ったと言った。


 共同作業。


 これはもう夫婦なのでは!?


「ルカ」


「何です?」


「結婚しましょう」


「今は脱出してください」


「返事は?」


「答えが決まったら、僕から伝えます」


 逃げた。


 でも、考えるとは言った。


 これはかなり大きな前進なのでは!?


「分かったわ。走るわよ!」


 崩壊する迷宮を駆け抜ける。


 途中で天井が落ちてきたので、剣で吹き飛ばした。


 地面が割れたので、ルカを抱えて跳んだ。


「また抱えるのですか?」


「あなたを落としたくないもの」


「自分で跳べます」


「私が抱えたいの」


「堂々と言いますね」


「好きな相手には素直でいたいのよ」


 ルカの耳が赤くなる。


 抱えたまま結婚式場へ走りたい!




 ◇◆◇




 迷宮が消滅した3日後、冒険者ギルドで攻略報告会が開かれた。


 国王の使者や貴族たちも集まっている。


 会場の壁には、ルカが各隊へ渡した石札の記録と、迷宮内の経路が掲示されていた。


 どの隊が、何時何分に、どの道を通ったのか。


 どこで壁が壊され、どこで迷宮が成長したのか。


 すべて残っている。


 エランクニスは壇上へ立った。


「我々が外周で魔物を引きつけたことも、迷宮核への到達に貢献したはずです」


 完全に功績を奪おうとしているわけではない。


 だが、自分の失敗を小さく見せようとしている。


「外周の魔物を引きつけた功績はあります」


 ルカが答えた。


「ただし、指定されていない壁を3か所破壊し、予定経路を外れて43分間進んだ結果、排気口の開放任務を続行不能にしました」


 壁に表示された記録が、その言葉を裏づけている。


 エランクニスの副官が、胸につけていた攻略隊の徽章を外した。


 それを、エランクニスの前へ置く。


 続いて、2人目。


 3人目。


 多くの隊員が、次々と徽章を外し始めた。


 金属が机へ置かれる音が、会場に続く。


「何のつもりだ?」


 エランクニスの顔が引きつる。


 副官はルカの前へ移動した。


「我々は次の変動型迷宮攻略から、ルカ殿の指揮を希望します」


 隊員たちが、その後ろへ並ぶ。


「貴様ら!」


「エランクニス様の指揮で、多くの固定迷宮を攻略できたことには感謝しています」


 副官は静かに言った。


「ですが、変化する迷宮で同じ方法を繰り返せば、次は助からない。今回、我々を救ったのはルカ殿です」


 エランクニスは何も言い返せなかった。


「あなたは大会前、私の剣は正しい指揮官の下でこそ価値を持つと言ったわね」


 私が前へ出る。


「オフェリア様。私はあなたのためを思って」


「残念だったわね」


 私はルカの隣へ立った。


「あなたの指揮では、私の剣を振る場所までたどり着けなかった」


 会場のあちこちから、笑いをこらえる声がした。


 エランクニスは唇を震わせる。


「私はヴァルモント公爵家の人間だぞ」


「家名で迷宮の道は開かないわ」


 私は冷たく言った。


「過去の実績へしがみつく前に、目の前の迷宮を見なさい。実力のある者の邪魔をするくらいなら、その人から学んだ方がまだ格好いいわ」


 王国攻略者協会は、エランクニスの指揮官資格を一時停止した。


 変動型迷宮について再教育を受け、再審査を通過するまで、攻略隊を率いることはできない。


 反対にルカは、王国迷宮局の主任設計士へ推薦された。


 会場中から拍手が起こる。


 私は誰より大きく拍手した。


 ルカが少し困った顔でこちらを見る。




 ◇◆◇




 あれから5か月。


 今日で、私がルカへ求婚するのは153回目になる。


 暴走迷宮のあと、私たちは王国内の迷宮を一緒に調査した。


 ルカは避難路を設計し、私は邪魔な魔物や岩盤を斬った。


 迷宮の外では、一緒に食事もした。


 ルカが甘い香草茶を本当に嫌いなことも知った。


 眠いときは眼鏡を外したまま、眼鏡を探すことも知った。


 難しい計算をしている途中でも、空腹になると集中力が落ちることも知った。


 そしてルカも、私のことを知った。


 私が気に入らない相手には容赦がないこと。


 泣いている人間を優しく慰めるのは苦手でも、泣いたまま走れる道は必ず作ること。


 自分より弱い者を見下すことはないが、努力もしない者へ手を差し出す趣味もないこと。


 そして、5か月経っても、私が毎日のように結婚を申し込むこと。


「ルカ」


「はい」


 私は王国迷宮局の屋上で、ルカの隣へ立った。


 夕焼けの中でも顔がいい。


 銀縁眼鏡が夕日に光っている。


 どうしてこんなに顔がいいのだろう。


 5か月間、ほぼ毎日見たけれど、まったく飽きなかった。


「今日は153回目ですね」


 ルカが先に言った。


「数えていたの?」


「毎日のように聞かされましたから」


「結婚記念日に必要でしょう?」


「まだ結婚していません」


「今日するかもしれないわ」


 ルカが小さく笑った。


 以前なら困った顔をしていた。


 けれど今は、私が求婚するたび、ほんの少し嬉しそうにする。


「ルカ。私と結婚して」


「その前に、一つ聞かせてください」


「何?」


「もう、あなたが敗北の興奮を恋と取り違えているとは思っていません」


「ようやく分かったの?」


「毎日のように求婚されましたから」


「だから言ったでしょう?」


「ええ。ですが、あなたがいつ僕を好きになったのかは、まだ聞いていません」


 私は腕を組んだ。


 何度も好意を伝えてきた。


 けれど、一目惚れの瞬間については、まだきちんと説明していなかった。


「私があなたを好きになったのは、負けたと知る前よ」


 ルカが目を瞬いた。


「いつです?」


「あなたが床から顔を上げたとき」


「顔?」


「ええ」


「……顔」


「ものすごく好みだったの」


 ルカが黙る。


「目が青くて綺麗だった。睫毛が長かった。鼻筋も唇も全部好みだった。何より、その眼鏡がとても似合っていたわ」


「眼鏡」


「声を聞いてさらに好きになった。私を見ても怖がらず、右側へ力を逃がすなと注意したから、ますます好きになった」


「では、敗北は」


「求婚する勢いをくれただけね」


「僕はずっと、あなたが敗北へ興奮しているのだと」


「私はずっと、あなたの顔にメロメロだったわ」


「メロメロ……」


「ええ。5か月経った今もよ」


 ルカは眼鏡を外し、片手で顔を覆った。


 耳が真っ赤になっている。


 ずっと見たかった反応なのに、いざ目の前にすると、私まで何を言えばいいのか分からなくなった。


「どうして、もっと早く言わなかったんです?」


「何度も好きと言ったわ」


「敗北の直後に」


「毎日結婚したいとも言った」


「本当に毎日でしたね」


「顔も眼鏡も好きだと言ったわ」


「それは聞きました」


「なら分かるでしょう?」


「普通、世界最強の剣聖が、顔を見た瞬間に結婚を決めるとは思いません」


「私は決めたわ」


「思い切りがよすぎます」


「あなたが慎重すぎるのよ」


 ルカはしばらく黙っていた。


 夕風が灰色の髪を揺らす。


 何もしていなくても格好いい。


 ずっと見ていたい。


「オフェリア様」


「オフェリアと呼んで」


「もう何度も呼んでいます」


「今日は特別な呼び方になるかもしれないでしょう?」


「では、オフェリア」


 名前。


 知っている。


 何度も呼ばれている。


 それでも胸が鳴った。


「僕は、あなたが強いから惹かれたわけではありません」


「そうなの?」


「最初は、とても困った人だと思いました」


「なぜ?」


「初対面で求婚されたからです」


「光栄でしょう?」


「困りました」


「そう」


「ですが、あなたは僕の判断を疑わなかった」


 ルカが私を見る。


「僕が有名な攻略者でもないのに、正しいと思えば迷わず従った。自分の方が強いからと、僕の考えを軽く扱わなかった」


「あなたが正しかったからよ」


「5か月一緒に働いて、それだけではないと分かりました」


 ルカは眼鏡をかけ直した。


「あなたは、自分が誰より強いと知っている。だからこそ、自分一人では分からないことを認められる」


「当然でしょう?」


「それを当然にできない人間は多いんです」


 エランクニスの顔が一瞬浮かんだ。


 すぐに消した。


 今、思い出す価値はない。


「子供たちの前では、誰より強く立っていた」


「私は強いもの」


「ええ。ですが、それだけではありません」


 ルカが微笑む。


「怖がっている人間に、自分の背中を見て走れと言える人です」


 私のことを、ちゃんと見てくれていた。


「危険な場面では、必ず僕を守った」


「好きだもの」


「僕があなたを助けても、怒らなかった」


「好きな人に助けられたのよ。嬉しかったわ」


「疲れている僕を休ませて、自分は魔物を全部倒した」


「膝枕をしたかったの」


「理由はともかく、助かりました」


「それならよかったわ」


「そういうところを、好きになりました」


 え。


 何度想像しても、実際に言われるのは違う。


 世界が止まった。


 迷宮核を斬ったときより、頭の中が真っ白になった。


「今、何と?」


「あなたが好きです」


「もう一度言って」


「あなたが好きです」


「もう一度」


「何度言わせるんです?」


「一生」


 ルカが笑った。


「迷宮の出口なら、いくつでも見つけられます」


 ルカは眼鏡の位置を直した。


 もちろん、左手で。


「ですが、あなたの求婚への正しい返事だけは、なかなか見つかりませんでした」


「今は?」


「5か月かけて、ようやく一つに決まりました」


 ルカが私の前へ立つ。


「オフェリア・アルランティア」


「はい」


「僕と結婚してください」


「もちろんよ!」


「即答ですね」


「最初に会った日から、答えは同じだもの」


 私はルカへ抱きついた。


 153回目の求婚で、ようやく返事をもらえた。


 世界最強の剣聖である私にも、どうしても勝てないものが一つある。


 眼鏡の奥でルカが笑うたび、胸の中で鳴る、このメロだけは、どうしても止められなかった。

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