世界最強の剣聖令嬢、眼鏡の迷宮設計士に一目惚れして即求婚しました~敗北に興奮しているだけだと誤解されていますが、あなたの顔がメロすぎるのです~
「あなた、私に勝ったわね。結婚しましょう」
私がそう告げると、目の前の青年は左手で銀縁眼鏡の位置を直し、整いすぎた顔を少しも崩さずに答えた。
「お断りします」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
胸の中で、今まで倒してきたどの魔物よりも巨大な何かが崩れ落ちた。
世界最強の剣聖と呼ばれる私、オフェリア・アルランティアが、人生初の求婚を断られた瞬間だった。
◇◆◇
話は3時間ほど前に遡る。
王都の冒険者ギルドが主催する、迷宮踏破大会。
最深部に置かれた到達証明の札を、最初に手にした者が優勝者となる。
共闘も、他の参加者が開いた道を利用することも禁止されていない。
何を倒したかではなく、誰が最初に札を取るか。
それが、この大会の唯一の勝利条件だった。
参加者の大半は、王国内でも名の知れた冒険者だった。
優勝者には、多額の賞金と王国公認の攻略者資格が与えられる。
もっとも、私に賞金は必要ない。
アルランティア公爵家の娘として金には困っていないし、攻略者資格がなくても、竜くらいなら一人で倒せる。
参加した理由は単純だった。
暇だったからだ。
「オフェリア様が参加なさるのであれば、優勝者は既に決まったようなものですな」
開始前、王国最大の攻略隊を率いるエランクニス・ヴァルモント公爵令息が、当然のように私の隣へ立った。
金色の髪を丁寧に撫でつけ、豪華な鎧には宝石までついている。
迷宮の中で光れば魔物から見つかりやすくなるだろうに、本人は格好いいと思っているらしい。
「そうでしょうね」
私は適当に答えた。
「ですが、迷宮攻略は一人では成り立ちません。あなたの剣は、正しい指揮官の下でこそ最大の価値を持つ」
「私の剣を振るのは私です」
「もちろん。しかし、剣には使い手が必要なように、使い手にも指揮官が必要です」
「私には必要ありません」
エランクニスの笑顔が、わずかに固まった。
彼は無能ではない。
これまでに複数の固定迷宮を攻略し、王国最大の攻略隊を作り上げた実績もある。
隊列を組み、魔物を正面から倒し、犠牲を抑えて進む。
普通の迷宮であれば、それは正しい方法だった。
けれど、自分が成功した方法だけが唯一の正解だと思っている。
そこが面倒だった。
私は強い。
世界で一番強い。
それを理由に近づいてくる男は多かった。
自分の功績にしたがる男。
私を妻にして、家の威光を高めたがる男。
強い女を従わせれば、自分まで強く見えると勘違いしている男。
全員、面倒だった。
「今大会が終われば、考えも変わるでしょう」
「変わりません」
「まだ始まってもいない」
「始まる前から分かることもあります」
私はそれ以上相手にせず、開始地点へ向かった。
開始の鐘が鳴り、巨大な石門が開く。
数十人の攻略者たちが一斉に迷宮へ駆け込んだ。
第1層では、何十頭もの鎧熊が参加者を待ち受けていた。
私の前に立ちはだかったのは12頭。
他の攻略者たちが足を止め、隊列を組み始める。
私は剣を抜いた。
「邪魔ね」
一振り。
12頭の鎧熊が、まとめて壁まで吹き飛んだ。
後ろから歓声が聞こえたけれど、振り返らない。
第2層では、無数の毒矢が降ってきた。
剣圧で全部落とした。
第3層では、巨大な岩蜥蜴が通路を塞いでいた。
首を一刀で斬り落とす。
岩蜥蜴が崩れ、床が大きく揺れた。
周囲の攻略者たちが息をのむ。
けれど、一人だけ魔物を見ていない男がいた。
通路の隅へ片膝をつき、床に散った砂を指先ですくっている。
くすんだ灰色の髪。
地味な旅装。
細い銀縁の眼鏡。
腰には剣を下げているけれど、柄にほとんど傷がない。
「今の一撃で、第3層の東側が沈みました」
青年は床を見たまま言った。
「何ですって?」
「次に斬るなら、右側の壁へ衝撃を逃がさないでください。天井が落ちます」
「……あなた、私が岩蜥蜴を斬ったところは見ていた?」
「見ていました」
青年が顔を上げた。
眼鏡の奥にある澄んだ青い瞳が、真っ直ぐ私を捉える。
はわわ〜〜〜〜っ!!
顔!!
何、その顔!!
伏せていたときも整っているとは思ったけれど、正面から見るととんでもない!
眼鏡が似合う!
睫毛が長い!
目が青い!
鼻筋が綺麗!
唇の形までメロい!
メロすぎる、この顔!!
「聞いていますか?」
「もちろんよ」
何一つ聞いていなかった。
「次に攻撃するときは、左側へ力を逃がしてください」
「分かったわ」
「左です」
「分かっているわ」
危ない。
一瞬、右と左が分からなくなった。
世界最強の剣聖が、眼鏡の似合う男に見惚れて方向を間違えたと知られてはいけない。
「あなた、名前は?」
「ルカ・フォルスターです」
ルカ。
名前まで可愛い。
好き。
「迷宮設計士をしています」
「迷宮設計士?」
「迷宮の構造を調べ、攻略路や避難路を設計する仕事です」
「素晴らしい仕事ね」
何をする仕事かは、今聞いたばかりだけれど。
「オフェリア様、先を急がなくてよろしいのですか?」
後ろからエランクニスが追いついてきた。
「その男は?」
「ルカよ」
「名を聞いたのではありません。所属です」
「今、本人が説明したでしょう」
聞いていなかったのか。
顔がいい男を前にしているのに、もったいない。
「迷宮設計士です」
ルカが淡々と答えた。
「設計士?」
エランクニスが眉を上げる。
「剣も満足に扱えない者が、攻略大会に何の用だ?」
「魔物を全部倒さなくても、迷宮は進めます」
「臆病者の考えだな」
ルカは左手で眼鏡を押し上げた。
「あなたは第1層で鎧熊を3頭倒すため、隊員12名で4分20秒かけました」
「被害を出さずに倒した結果だ」
「固定迷宮では、正しい方法です」
ルカはあっさり認めた。
「ですが、今は競争です。オフェリア様は12頭を1秒で倒した。正面から魔物を倒すことしか考えないのであれば、あなたの隊はオフェリア様一人より遅い」
容赦がない。
けれど、相手の実績まで否定してはいない。
ますます気に入った。
「貴様」
「先を急ぐのでしょう?」
ルカはエランクニスを見ず、床へ小さな金属球を落とした。
球は真っ直ぐ転がらず、途中から左へ曲がった。
「今の一撃で床が傾き、迷宮の構造がずれました。中央通路は間もなく閉じます」
「最深部は上だ。中央の階段を進むのが最短だ」
「入口から見れば、そう見えるように作られています」
「何?」
「この迷宮は、上へ登る者を外周へ誘導する構造です。中心へ行くには、一度下へ降りる必要がある」
ルカは壁の苔を指でなぞった。
「苔の根が上ではなく、右へ向かって伸びている。水も同じ方向へ流れています。この階層そのものが横倒しになっているんです」
私にも分かる。
迷宮を読む横顔まで絵になる。
「下へ進めばいいのね?」
「いいえ。今はまだ下へ行ってはいけません」
ルカは天井を見上げた。
「約4分後、先ほどの衝撃で支柱がずれます。その瞬間だけ、下へ続く通路が中心部と接続する」
「4分間、ここで待つの?」
「その間に、次の魔物を倒していただければ」
「私に?」
「左側へ力を逃がして」
ルカが指した先から、2頭目の岩蜥蜴が現れた。
私は言われたとおり、左へ向けて斬った。
衝撃で壁が震える。
しばらくすると、通路の奥から石が擦れる音が響いた。
「今です」
ルカが駆け出す。
床だと思っていた石板が沈み、その下から螺旋階段が現れた。
エランクニスたちが驚いている間に、私はルカを追いかける。
「最初から分かっていたの?」
「迷宮は侵入者を追い返すため、最短経路を普段は切り離しています。ですが大きな衝撃を受けた直後だけ、構造を立て直すために通路をつなぎ直す」
「私の攻撃を使ったのね」
「はい」
「私が従わなかったら?」
「別の道を探していました」
「私なら従うと思った?」
「正しい理由があれば、聞いてくださる方だと思いました」
キュンッ!!
会ったばかりなのに、私が力だけの女ではないと見抜いている。
顔だけではない。
頭もよく、見る目もある。
螺旋階段の先には、最深部へ続く細い通路が伸びていた。
途中で地竜が現れる。
通路いっぱいに広がる巨体。
「倒すのに何秒かかりますか?」
ルカが尋ねた。
「10秒」
「5秒でお願いします」
「分かったわ」
全力で踏み込み、地竜の首を落とす。
5秒もかからなかった。
けれど、倒れた地竜の体が通路を塞いだ。
「しまったわね」
「問題ありません」
ルカは地竜の尻尾を見た。
「尻尾の下に排水路があります。地竜が守っていたのではなく、温かい風が出るから眠っていただけでしょう」
排水路の鉄格子を私が斬る。
人一人が通れる穴が現れた。
「ここを通るの?」
「先に僕が入ります」
「抱えるわ」
「必要ありません」
「私が抱えたいの」
「競争中です」
「それとこれとは別でしょう?」
「同じです」
結局、私はルカの腰を抱えたまま、排水路へ飛び込んだ。
「自分で降りられます!」
「こちらの方が早いわ」
そして合法的に抱えられる。
近い!
眼鏡越しに驚いた青い目が見える!
顔が近い!
でも今は落とさないことに集中!
恋と命の両方を、この腕で守るのよ!
「次の曲がり角で、腕を緩めてください」
ルカが言った。
「なぜ?」
「排水路が2本に分かれています。右側へ移ります」
「私も右へ行くわ」
「オフェリア様の速度では曲がりきれません」
「なら、一緒に左へ」
「左は遠回りです」
「あなたを離したくないわ」
「競争中です」
またそれを言う。
「合図します。3、2、1――今です」
私は渋々、腕の力を緩めた。
ルカは右側の壁へ足をかけ、そのまま細い分岐へ飛び移る。
私は勢いを止められず、左側の管を滑り落ちた。
「ルカ!」
「どちらもすぐ最深部へ出ます!」
声だけが遠ざかる。
排水路の先から飛び出し、床へ着地した。
広い石室だった。
正面には、中央の足場へ続く短い階段がある。
階段の上は、ここからでは見えない。
人影もなかった。
私が先に着いたのだと思い、階段へ足をかけた。
「こちらです」
上から声がした。
階段を駆け上がる。
中央の台座の隣で、ルカが到達証明の札を手に立っていた。
「どうして右が近道だと分かったの?」
「曲がる直前、壁の水滴だけが右へ流れていました。空気も右側へ抜けていた。広い空間につながっている証拠です」
何、この人。
迷宮より頭の中の方が複雑なのでは?
ルカは、私が開いた道を利用した。
私は、ルカが見つけた道を利用した。
そのうえで最後の分岐を見抜き、私より先に札を取った。
規則上も、内容でも、完全に私の負けだった。
なのに、不思議と悔しくない。
むしろ胸が高鳴った。
私より強い魔物を倒したわけではない。
私とはまったく違う方法で、私より先へたどり着いた。
顔が好き。
頭も好き。
眼鏡も好き。
もう結婚したい。
「あなた、私に勝ったわね」
「競争ですので」
「結婚しましょう」
そうして、冒頭へ戻る。
「お断りします」
「なぜ?」
「あなたが好きなのは、僕ではありません」
「好きだけれど?」
「生まれて初めて敗北したことに興奮しているだけです」
違う!!
全然違う!!
敗北など、今となってはどうでもいい!
あなたの顔!
眼鏡!
声!
私を怖がらなかったところ!
迷宮を一目見ただけで、すべて見透かしてしまう頭!
全部好き!!
「敗北も嫌いではないわ」
なぜそんな返しをした、私!!
そこは違うと言い切りなさい!
「やはり」
ほら〜〜〜!!
誤解された〜〜〜!!
「一時的な興奮で、生涯の相手を決めるべきではありません」
「私は冷静よ」
「大会の熱が冷めても同じ気持ちであれば、改めて考えます」
「分かったわ」
「納得していただけましたか」
「それまで毎日求婚するわ」
「なぜそうなるんです?」
ルカが初めて困った顔をした。
困った顔までメロい。
好き。
◇◆◇
大会が終わった翌朝、迷宮が暴走した。
王都近郊にあったはずの入口が巨大化し、周辺の町を丸ごと飲み込んだのだ。
地面から石壁がせり上がり、民家も街道も迷宮の中へ消えた。
取り残された住民は1,000人を超える。
冒険者ギルドの緊急招集には、王国内の有力な攻略隊が集められた。
会議室の中央には、町と迷宮の地図が広げられている。
ルカはその上へ、色の違う8枚の半透明な紙を重ねていた。
「暴走迷宮には、大きく分けて8種類の成長形態があります」
「今、どれなのか分かるのか?」
ギルド長が尋ねる。
「既に6種類は除外しました」
ルカは6枚の紙を取り除いた。
「残るのは2種類です」
エランクニスが腕を組んだ。
「何を根拠に除外した?」
以前のように鼻で笑ってはいない。
固定迷宮で実績を重ねてきただけあって、状況が普通ではないことは理解しているらしい。
ルカは窓辺に置かれた水差しを指した。
「先ほどから、16秒おきに水面が揺れています。地下で迷宮壁が伸びている振動です」
次に、机へ置かれた砂時計を見る。
「入口付近の壁は南へ伸びていますが、振動は北西から届いている。見えている入口と成長の中心が一致していません」
「残った2種類をどう区別する?」
「迷宮に飲み込まれた町の煙突を確認してください」
窓の外には、迷宮の壁に囲まれた町の屋根がわずかに見えていた。
煙突から出た煙は、真上ではなく地下へ吸い込まれている。
「空気を取り込んでいる……?」
「この迷宮は、町を消化しようとしている」
会議室が静まり返った。
「残るのは、捕食によって成長する型です」
ルカは最後の紙だけを地図へ残した。
「迷宮は内部へ取り込んだ生物の魔力を吸収し、その力で成長します。強い攻撃を受ければ、危険な獲物を消化するため、防御層を増やすでしょう」
「脅威を排除せずに進めと言うのか?」
エランクニスが尋ねる。
「必要な分だけ倒します」
「我々の攻略隊は、これまで正面突破で複数の迷宮を落としてきた」
「固定迷宮なら、それが正しい」
ルカは否定しなかった。
「ですが、今回は壁を壊すたびに迷宮が形を変えます。あなたの隊の火力は有用ですが、同じ方法を使えば、その火力が迷宮の餌になる」
「そこまで言うなら、証明してみろ」
「9分後、東側の鐘楼が迷宮へ沈みます」
全員が窓を見る。
「外れたらどうする?」
「作戦から外れます」
「よかろう」
9分も待たなかった。
8分40秒が過ぎたところで、遠くに見えていた鐘楼が音を立てて沈み始めた。
窓から見ていた者たちが息をのむ。
ルカは砂時計を見た。
「20秒早い。内部の魔力量が推定より多いようです。迷宮が町を消化しきるまで、残り2時間半です」
会議室の空気が、一気に張りつめた。
「侵入隊を3つに分けます」
ルカは迷宮へ3本の線を引いた。
「第1隊は救助。第2隊は外周の排気口を開き、迷宮の成長速度を落とす。第3隊が迷宮核へ向かう」
「第2隊は我々か」
エランクニスが言った。
「はい。あなたの隊は、隊列を維持したまま多数の魔物を引きつけられる。外周攻略に最も向いています」
囮だからではない。
実績を見たうえでの配置だった。
エランクニスも、それは理解したらしい。
「指定した壁以外は壊すな、と?」
「ええ。この迷宮では、それが最も重要です」
「分かった」
返事はした。
ただ、完全に納得した顔ではなかった。
「オフェリア様」
エランクニスが私を見る。
「あなたは第3隊へ?」
「ええ」
私はルカの隣へ立った。
「私はルカと迷宮核へ行くわ」
言った!
ルカと並んで迷宮核へ!
危険な場所で共同作業!
ほとんど新婚旅行では!?
違う?
でも共同作業よ!?
「なぜ、その男を」
「好きだからよ」
ルカがわずかに目を見開いた。
今、私の言葉で反応した!
「今は、敗北の余韻が残っているだけです」
本人が否定した。
なぜあなたが否定するの!?
私は好きだと言っているのに!
「余韻ではないわ」
「まだ1日です」
「1日あれば、恋には十分よ」
「作戦を続けます」
逃げた。
でも眼鏡を直す横顔がメロいので許す。
◇◆◇
ルカは各隊へ、色の違う3枚の石札を渡した。
「迷宮内では、地図が役に立たなくなる可能性があります。赤い石札は熱に、青は水分に、白は魔力に反応します」
「それで道が分かるの?」
「3枚の色が変わる順番を見ます。赤、白、青なら中心部へ。青、赤、白なら外周へ向かっている」
「なぜ?」
「迷宮核から魔力が流れ、その熱で内部の水分が動くからです。距離によって反応する順番が変わる」
石札には、反応した色と時刻を保存する記録術も組み込まれていた。
帰還後に、どの隊がどの経路を通ったのか確認するためらしい。
「それから、7分おきに壁を3回叩いてください。近くに別の隊がいれば、反響が変わります」
「声を出さないのですか?」
「迷宮には、人の声を真似る魔物がいます。声では判別できません」
ルカは全員の顔を見回した。
「聞こえた声を追わない。地図より石札を見る。指定された壁以外は壊さない。これだけは必ず守ってください」
会議が終わり、私たちは迷宮へ入った。
途中で住民を発見した場合に備え、第3隊にも10名ほどの救助要員が同行していた。
ルカは石札の反応と壁の湿り気を見比べながら、迷うことなく道を選んでいく。
私が剣で斬れるものを増やすたび、ルカは斬らなくていいものを増やしていった。
その先の区画には、住民が100人ほど閉じ込められていた。
巨大な蜘蛛型の魔物が出口を塞ぎ、天井には白い卵がびっしりと張りついている。
「お姉ちゃん、助けて!」
小さな男の子が泣きながら叫んだ。
「止まって!」
ルカが叫ぶ。
駆け出しかけた子供が足を止める。
蜘蛛の脚が、その頭上を薙いだ。
「卵を割ると毒霧が出ます。蜘蛛は3歩進むごとに、右前脚を一度止める」
「そこが弱点?」
「いいえ。床の振動を確認している。その瞬間だけ、右の後ろ脚がわずかに浮きます」
「倒せる?」
「倒さないでください。あの蜘蛛の糸が、天井の卵を支えています」
なるほど。
蜘蛛を倒せば、卵が落ちて毒霧が出る。
「では、どうするの?」
ルカは蜘蛛の動きを見ながら、床へ落ちている3本の鎖を指した。
「1本目を天井の柱へ。右前脚が止まった瞬間に、2本目を浮いた右の後ろ脚へ絡め、その端を1本目につないでください。3本目は古い糸へ。僕が引きます」
「それだけで?」
「蜘蛛は巣を補修する習性があります。切れた糸を見れば、そちらを優先する」
私は1本目の鎖を投げ、天井の柱へ巻きつけた。
蜘蛛が3歩進み、右前脚を止める。
その瞬間、2本目を浮いた右の後ろ脚へ絡ませ、その端を1本目へつないだ。
3本目を天井の古い糸へ引っかけ、その端をルカへ渡す。
ルカが鎖を引くと、古い糸が切れた。
蜘蛛は子供たちから離れ、切れた糸へ向かって動く。
柱へ固定された鎖が右の後ろ脚を強く引き、巨体が傾いた。
暴れた残りの脚まで鎖へ巻き込まれ、4本の脚がまとめて締め上げられる。
「今です。住民を出口へ」
私は子供たちの前へ立った。
拘束された蜘蛛がこちらへ気づき、自由に動く脚を振り上げる。
剣の腹で受け止め、その巨体ごと壁へ押し返した。
「走りなさい」
泣いていた男の子が、私を見上げる。
「でも、魔物が……」
「怖くても足は動くわ」
私は蜘蛛の脚を片手でつかみ、床へ叩きつけた。
「私の背中だけ見て走りなさい。あなたが外へ出るまで、何一つ近づけさせないから」
男の子の目が大きくなる。
「……かっこいい」
「知っているわ。だから早く行きなさい」
「うん!」
子供たちが走り出す。
ルカが出口から声を上げた。
「右から3列目は踏まないで! その床だけ沈みます!」
住民たちが慌てて避ける。
最後の一人が通り抜けた。
「今なら倒しても?」
「卵の下から出してください」
「分かったわ」
私は鎖を柱から斬り離し、脚を縛られた蜘蛛を卵のない通路へ投げる。
一閃。
巨大な胴体が真っ二つになった。
救助隊が住民たちを外へ誘導する。
先ほどの男の子が何度も振り返り、私へ手を振っていた。
「将来、剣士を目指すかもしれませんね」
ルカが言った。
「剣士になりたいなら、まず泣きながらでも走れるようにならないと」
「厳しいですね」
「でも、止まらなかったわ」
「ええ」
ルカが少し笑った。
眼鏡の奥の目が、優しく細くなる。
子供へ格好いいところを見せた直後に、その笑顔はずるい。
「何です?」
「今、結婚したくなったわ」
「前からでしょう」
「前より強く」
「進みますよ」
慣れてきた。
でも断られてはいない。
これは進歩だと思う。
迷宮の奥へ進むと、床一面に白い霧が漂っていた。
「毒?」
「違います。霧が床へ沈んでいる。空気より重い魔力です」
ルカが小石を投げる。
小石は床へ落ちる直前、真横へ飛んだ。
「転移罠です」
「なら飛び越えれば」
「罠は床だけではありません」
ルカは眼鏡を外し、レンズ越しに霧を見た。
「その眼鏡、何か見えるの?」
「左右のレンズで厚みが違います。光のずれから、霧の流れを見ています」
眼鏡を外した顔。
眼鏡ありもいい。
なしもいい。
どちらもメロい。
「オフェリア様」
「何?」
「顔ではなく霧を見てください」
「見ているわ」
半分は。
「霧の流れが一か所だけ上へ向かっています。そこだけ転移先が近い」
「そこを通る?」
「いいえ。近い場所ほど、迷宮核から遠くへ飛ばされる仕組みでしょう」
ルカは壁の小さな穴を指した。
「転移術は、一度に一方向へしか魔力を流せません。あの穴から力を抜けば、床の罠を数秒だけ止められます」
「じゃあ、穴を広げればいいかしら」
「広げすぎると暴発します。剣先で、縁を3回だけ叩いてください」
私は言われた場所を3回叩く。
1回目。
霧が揺れる。
2回目。
床の紋様が光る。
3回目。
霧が一斉に壁の穴へ吸い込まれた。
「今です」
私たちは走る。
途中で紋様が再び光った。
私の足元だけが強く輝く。
「オフェリア!」
初めて、様をつけずに呼ばれた。
ルカが壁の突起を蹴る。
床が斜めにせり上がり、私の体が転移陣の外へ押し出された。
直後、先ほどまで私がいた場所が白い光に飲まれる。
「助けられたわ」
「そのまま進んでいたら、迷宮の入口まで戻されていました」
「私の動きを読んでいたの?」
「あなたは、罠が光っても前へ進むと思ったので」
「信頼されているのか、無謀だと思われているのか分からないわね」
「両方です」
ルカが私を助けた。
剣ではなく、仕掛けを読み、私より早く動いて。
胸が跳ねた。
私が力で守り、ルカが頭脳で守る。
やはり相性は最高なのでは?
◇◆◇
しばらく進んだあと、ルカの歩幅がわずかに小さくなった。
「疲れたの?」
「問題ありません」
「あるわね。右足の歩幅が狭くなっている」
ルカが止まった。
「よく見ていますね」
「好きな人だもの」
「迷宮核まで、あと2階層です」
「5分休みなさい」
「今は時間が」
「私が5分で、この階層の魔物を全部片づけるわ」
ルカが周囲を見た。
天井にも壁にも、大量の魔物が張りついている。
「5分では」
「3分でもいいわ」
「そういう意味ではありません」
私はルカの肩を押し、壁際へ座らせた。
「寝て」
「眠る必要は」
「私の膝を貸すわ」
「なぜです?」
「私がしたいからよ」
素直!
私は素直な女!
本当はものすごく緊張している!
膝枕!
ルカの頭が私の膝へ!
はわわ〜〜〜!!
眼鏡を外したルカが、私の膝に!
まだ婚約もしていないのに!
でも緊急事態!
仕方がない!
「遠慮しなくていいわ」
「眠れません」
「では目だけ閉じて」
「あなたは?」
「魔物を片づける」
「膝枕をしたまま?」
「当然でしょう」
私は座ったまま剣を抜いた。
片手で3度振る。
剣圧が広がり、周囲の魔物がすべて壁から落ちた。
「終わったわ」
「まだ1分も経っていません」
「残り4分、あなたの顔を見ていてもいい?」
「普段から見ているでしょう」
「眼鏡を外した正面は、また違うの」
「違うのですか」
「ええ。とてもメロいわ」
「メロい」
「ものすごく好みという意味よ」
「まだ敗北の興奮が」
「なぜそうなるの!?」
私は会ってから何度も好きだと言っている。
顔も好みだと伝えた。
結婚したいとも言った。
それなのに、なぜ敗北への興奮という結論になるのか。
「あなたは、僕のことをほとんど知りません」
「考えるときに、左手で眼鏡を押し上げるわ」
ルカの手が止まった。
「疲れると右足から歩幅が小さくなる。地図を読むときは左目を細める。褒められると耳が赤くなる」
「いつ見ていたんです?」
「ずっと」
「……」
「迷宮を読むあなたも好きよ。誰かに認められなくても、自分の判断を曲げないところも。知らないことは、これから知るわ」
ルカの耳が赤くなる。
効いている。
今度こそ、ちゃんと届いている。
「休みます」
ルカは目を閉じた。
逃げた。
でも私の膝の上なので、逃げ切れていない。
◇◆◇
2階層下で、エランクニスの攻略隊を見つけた。
正確には、外周を進んでいたはずの彼らが、崩壊しかけた円形の広間で濁流に囲まれていた。
指定されていない壁を壊したことで、外周路そのものが迷宮の内側へ巻き込まれたらしい。
天井からは水が流れ込み、100人近い隊員が壁際へ追い詰められている。
「オフェリア様!」
エランクニスが私を見る。
「ちょうどよかった! 右側の柱を斬ってください!」
「斬ってはいけません」
ルカが即座に言った。
「なぜだ?」
「その柱は上の貯水層を支えています。斬れば、この階層にいる全員が水没します」
「だが、これまでの迷宮では、支柱を壊せば隣の区画へ抜けられた」
「固定迷宮なら、その判断で正しい場合もあります」
ルカは壁を見回した。
「ですが、ここは壊された場所を内側へ巻き込みながら修復する。壁を3回壊しましたね」
「なぜ分かる?」
「破片の層が3つあります。そのたびに迷宮が傷口を塞ぎ、通路を内側へ曲げた。あなた方は、過去に成功した方法を繰り返して、自分で袋小路を作ったんです」
エランクニスが歯を食いしばる。
判断そのものが馬鹿だったわけではない。
以前の正解へ執着し、迷宮が変化していることを認められなかったのだ。
「ルカ、どうする?」
「まず、水の量を減らします」
ルカは広間の反対側へ、小さな石を3つ投げた。
石が壁へ当たる。
1つ目は高い音。
2つ目は鈍い音。
3つ目は、ほとんど響かなかった。
「3つ目の壁の向こうに空洞があります」
「斬る?」
「まだです。先に中央の魔物を動かし、排水口を開きます」
広間の中央には、甲羅を持つ巨大な水棲魔物がうずくまっていた。
「あれは水を吸う習性があります。普段は貯水層の水量を調整しているのでしょう」
「今は暴れているわよ」
「エランクニス殿の隊が、甲羅へ火を当てたからです」
「魔物を退けるためだった」
ルカは床に落ちた槍を拾い、水棲魔物の前へ投げた。
槍の金属部分が水へ触れる。
水棲魔物がそちらへ頭を向けた。
「金属を食べるの?」
「甲羅を作るために集めています」
ルカはエランクニスの豪華な盾を見た。
「その盾を投げてください」
「これは我が家に伝わる盾だ」
「隊員全員より大切ですか?」
エランクニスが黙った。
数秒後、自ら盾を外し、水棲魔物の向こうへ投げる。
魔物が盾を追って移動した。
塞がれていた床の排水口が現れる。
水が渦を巻いて流れ込み始めたが、天井から落ちてくる量の方が多く、水位はほとんど下がらない。
「左の壁を、上部2メートルだけ残して斬ってください」
2メートル。
水が増え続ける中で、迷いなく数字を出す。
「分かったわ」
「待て。左には出口などない」
「今作るのよ」
剣を振る。
左壁が、上部2メートルを残して綺麗に消し飛んだ。
壁の向こうには、先ほどルカが音で見つけた空洞があった。
水が一気に空洞へ流れ込む。
水位が下がり始めた。
「まだ動かないでください!」
逃げ出そうとした隊員たちを、ルカが止める。
「なぜだ!」
「空洞は下の通路へつながっています。今移動すれば、流れに足を取られます」
ルカは水位を見ながら数えた。
「5、4、3……今です。全員、壁際を右回りに!」
隊員たちが一斉に動く。
「右回りにする理由は?」
私は尋ねた。
「床が左へ傾いています。反対へ進めば滑ります」
100人近い隊員が、誰一人転ぶことなく安全な場所へたどり着いた。
最後まで残ったエランクニスが、私を見る。
「あなたは、その男の指揮に従うのですね」
「ええ」
「世界最強のあなたが?」
「世界最強だからよ」
私は答えた。
「自分より優れた判断が分からないほど、私は愚かではないわ」
エランクニスは何も言えなかった。
彼の隊員たちは、もう彼を見ていない。
全員、次の指示を待つようにルカを見ていた。
「負傷者を連れて、この石札の示す道を戻ってください」
ルカが告げる。
「我々も核へ向かう」
エランクニスが言った。
「今の隊で進めば、負傷者が死にます」
「しかし」
「ここで戻る判断ができる者でなければ、指揮官とは呼べません」
エランクニスはしばらくルカを見つめた。
やがて、剣を鞘へ収める。
「……分かった。負傷者を連れて戻る」
完全な馬鹿ではないらしい。
ただし、ルカより優秀でもない。
エランクニスの隊が去ったあと、私はルカの肩を軽く叩いた。
「格好よかったわ」
「何がです?」
「全部」
「説明になっていません」
「結婚すれば、毎日詳しく説明するわ」
「今は先へ進みます」
◇◆◇
最深部には、7枚の巨大な鏡が立っていた。
中央には、人の形をした銀色の魔物がいる。
「鏡獣ね」
「いいえ」
ルカはすぐに否定した。
「あれは鏡獣ではありません」
「どうして?」
「足元を見てください」
床には、私たちの足跡が残っている。
けれど、銀色の魔物の周囲だけ埃が動いていない。
「あれは実体ではなく、鏡に映った像です」
ルカは眼鏡を外し、レンズ越しに7枚の鏡を見た。
「さらに、像の動きが半拍遅れている。中央の魔物が私たちを映しているのではない。7枚の鏡が像を作り、こちらへ見せています」
「では、実体は?」
「鏡の後ろです」
ルカが小さな金貨を投げた。
金貨が鏡の前を横切る。
中央の銀色の魔物も、金貨を投げる動きをした。
けれど、銀色の手からは何も出ない。
「鏡は、見た動きを再現しているだけ。攻撃すれば、その攻撃だけを複製して返します」
「私が本気で斬れば?」
「同じ威力が返ってきます」
「少し楽しそうね」
「町が残っていれば、後日好きなだけ試してください」
「それは困るわ」
今は、町の方が大事だ。
「7枚すべてへ魔力が流れていますが、戻ってきているのは6枚分だけです。鏡の裏で流れが重なっているため、ここからでは位置までは判別できません」
「残りの1枚は?」
「魔力を反射せず、取り込んでいます。鏡ではなく、迷宮核の表面です」
「どれ?」
「今から確かめます」
ルカは床へ落ちていた鏡の破片を拾い、眼鏡の片方のレンズを外した。
「何をしているの?」
「このレンズには、ごく薄い青色がついています」
鏡の破片で拾った光を、レンズへ通す。
ルカはその光を、7枚の鏡へ順番に当てた。
6枚は青く反射し、1枚だけが白いままだった。
「あれが核です」
「なぜ?」
「鏡なら、レンズを通した光の色も反射する。核は鏡に見せかけた魔力の膜なので、色までは再現できない」
眼鏡まで攻略道具になるなんて、反則だ。
「では、7枚目を斬ればいいのね?」
「いいえ」
「まだ駄目なの?」
「核を攻撃すれば、残り6枚がその攻撃を複製します」
ルカは鏡の縁を見た。
「鏡を支えている留め具が、すべて違う高さにあります。7枚を同時に壊されないため、順番を間違えると別の鏡へ力が流れる仕組みです」
「順番は分かる?」
「今、調べます」
ルカは鏡の前へ歩き出した。
「危険よ」
「攻撃しなければ反撃されません」
「像が動いたら?」
「その前に戻ります」
ルカは7枚の鏡の中央へ立った。
銀色の像が、ルカと同じ姿へ変わる。
眼鏡を外したルカの顔が2つ。
危ない。
一瞬、見惚れるところだった。
今はそれどころではない。
ルカは鏡の縁を順番に指で叩いた。
低い音。
高い音。
鈍い音。
銀色の像も、同じように指を動かす。
「分かりました」
ルカが私の隣へ戻る。
外していたレンズを眼鏡へ戻し、かけ直した。
「留め具の中を魔力が流れています。音の高さは、流れている魔力量で変わる」
「つまり?」
「6、2、5、1、4、3の順に留め具を斬ります。最後に7枚目の核を」
「何秒以内?」
「2秒」
「簡単ね」
ルカが私を見る。
「普通の人間には不可能です」
「私を誰だと思っているの?」
「世界最強の剣聖です」
「正解」
私は剣を構えた。
ルカが7か所を指す。
一つは天井近く。
一つは床。
一つは鏡の裏側。
すべて位置も高さも違う。
「鏡の縁に、視線を拾う術式があります。最後に核を斬る直前、中央の像は斬り手が最も長く見ていた相手の姿へ変わります」
「私が一番見ていた相手を選ぶのね」
「おそらく」
「迷いますか?」
「まさか」
ルカが私を見る。
「あなたは間違えません」
迷いのない声だった。
世界最強だからではなく。
私なら見分けられると、信じている。
今すぐ抱きしめたい。
でも先に迷宮を斬る。
「数えて」
「3、2、1」
踏み込む。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
留め具を順番に斬る。
7枚目へ剣を向けた瞬間、中央の像がルカの姿になった。
「オフェリア」
同じ顔。
同じ声。
けれど、眼鏡を直したのは右手だった。
「は? お前誰だよ」
迷わず斬った。
「ルカはいつもメガネを左手で直す」
7枚目の鏡が砕け、その奥から巨大な赤い核が現れた。
「今です!」
「任せて!」
全力で剣を振る。
迷宮核も、その背後にあった岩盤も、まとめて真っ二つになった。
轟音。
地面が大きく震え、7枚の鏡が次々と崩れていく。
「出口が開きます!」
ルカが指した先で、壁が左右へ割れた。
「勝った?」
「ええ」
「二人で?」
「二人でです」
二人で。
今、確かに二人で勝ったと言った。
共同作業。
これはもう夫婦なのでは!?
「ルカ」
「何です?」
「結婚しましょう」
「今は脱出してください」
「返事は?」
「答えが決まったら、僕から伝えます」
逃げた。
でも、考えるとは言った。
これはかなり大きな前進なのでは!?
「分かったわ。走るわよ!」
崩壊する迷宮を駆け抜ける。
途中で天井が落ちてきたので、剣で吹き飛ばした。
地面が割れたので、ルカを抱えて跳んだ。
「また抱えるのですか?」
「あなたを落としたくないもの」
「自分で跳べます」
「私が抱えたいの」
「堂々と言いますね」
「好きな相手には素直でいたいのよ」
ルカの耳が赤くなる。
抱えたまま結婚式場へ走りたい!
◇◆◇
迷宮が消滅した3日後、冒険者ギルドで攻略報告会が開かれた。
国王の使者や貴族たちも集まっている。
会場の壁には、ルカが各隊へ渡した石札の記録と、迷宮内の経路が掲示されていた。
どの隊が、何時何分に、どの道を通ったのか。
どこで壁が壊され、どこで迷宮が成長したのか。
すべて残っている。
エランクニスは壇上へ立った。
「我々が外周で魔物を引きつけたことも、迷宮核への到達に貢献したはずです」
完全に功績を奪おうとしているわけではない。
だが、自分の失敗を小さく見せようとしている。
「外周の魔物を引きつけた功績はあります」
ルカが答えた。
「ただし、指定されていない壁を3か所破壊し、予定経路を外れて43分間進んだ結果、排気口の開放任務を続行不能にしました」
壁に表示された記録が、その言葉を裏づけている。
エランクニスの副官が、胸につけていた攻略隊の徽章を外した。
それを、エランクニスの前へ置く。
続いて、2人目。
3人目。
多くの隊員が、次々と徽章を外し始めた。
金属が机へ置かれる音が、会場に続く。
「何のつもりだ?」
エランクニスの顔が引きつる。
副官はルカの前へ移動した。
「我々は次の変動型迷宮攻略から、ルカ殿の指揮を希望します」
隊員たちが、その後ろへ並ぶ。
「貴様ら!」
「エランクニス様の指揮で、多くの固定迷宮を攻略できたことには感謝しています」
副官は静かに言った。
「ですが、変化する迷宮で同じ方法を繰り返せば、次は助からない。今回、我々を救ったのはルカ殿です」
エランクニスは何も言い返せなかった。
「あなたは大会前、私の剣は正しい指揮官の下でこそ価値を持つと言ったわね」
私が前へ出る。
「オフェリア様。私はあなたのためを思って」
「残念だったわね」
私はルカの隣へ立った。
「あなたの指揮では、私の剣を振る場所までたどり着けなかった」
会場のあちこちから、笑いをこらえる声がした。
エランクニスは唇を震わせる。
「私はヴァルモント公爵家の人間だぞ」
「家名で迷宮の道は開かないわ」
私は冷たく言った。
「過去の実績へしがみつく前に、目の前の迷宮を見なさい。実力のある者の邪魔をするくらいなら、その人から学んだ方がまだ格好いいわ」
王国攻略者協会は、エランクニスの指揮官資格を一時停止した。
変動型迷宮について再教育を受け、再審査を通過するまで、攻略隊を率いることはできない。
反対にルカは、王国迷宮局の主任設計士へ推薦された。
会場中から拍手が起こる。
私は誰より大きく拍手した。
ルカが少し困った顔でこちらを見る。
◇◆◇
あれから5か月。
今日で、私がルカへ求婚するのは153回目になる。
暴走迷宮のあと、私たちは王国内の迷宮を一緒に調査した。
ルカは避難路を設計し、私は邪魔な魔物や岩盤を斬った。
迷宮の外では、一緒に食事もした。
ルカが甘い香草茶を本当に嫌いなことも知った。
眠いときは眼鏡を外したまま、眼鏡を探すことも知った。
難しい計算をしている途中でも、空腹になると集中力が落ちることも知った。
そしてルカも、私のことを知った。
私が気に入らない相手には容赦がないこと。
泣いている人間を優しく慰めるのは苦手でも、泣いたまま走れる道は必ず作ること。
自分より弱い者を見下すことはないが、努力もしない者へ手を差し出す趣味もないこと。
そして、5か月経っても、私が毎日のように結婚を申し込むこと。
「ルカ」
「はい」
私は王国迷宮局の屋上で、ルカの隣へ立った。
夕焼けの中でも顔がいい。
銀縁眼鏡が夕日に光っている。
どうしてこんなに顔がいいのだろう。
5か月間、ほぼ毎日見たけれど、まったく飽きなかった。
「今日は153回目ですね」
ルカが先に言った。
「数えていたの?」
「毎日のように聞かされましたから」
「結婚記念日に必要でしょう?」
「まだ結婚していません」
「今日するかもしれないわ」
ルカが小さく笑った。
以前なら困った顔をしていた。
けれど今は、私が求婚するたび、ほんの少し嬉しそうにする。
「ルカ。私と結婚して」
「その前に、一つ聞かせてください」
「何?」
「もう、あなたが敗北の興奮を恋と取り違えているとは思っていません」
「ようやく分かったの?」
「毎日のように求婚されましたから」
「だから言ったでしょう?」
「ええ。ですが、あなたがいつ僕を好きになったのかは、まだ聞いていません」
私は腕を組んだ。
何度も好意を伝えてきた。
けれど、一目惚れの瞬間については、まだきちんと説明していなかった。
「私があなたを好きになったのは、負けたと知る前よ」
ルカが目を瞬いた。
「いつです?」
「あなたが床から顔を上げたとき」
「顔?」
「ええ」
「……顔」
「ものすごく好みだったの」
ルカが黙る。
「目が青くて綺麗だった。睫毛が長かった。鼻筋も唇も全部好みだった。何より、その眼鏡がとても似合っていたわ」
「眼鏡」
「声を聞いてさらに好きになった。私を見ても怖がらず、右側へ力を逃がすなと注意したから、ますます好きになった」
「では、敗北は」
「求婚する勢いをくれただけね」
「僕はずっと、あなたが敗北へ興奮しているのだと」
「私はずっと、あなたの顔にメロメロだったわ」
「メロメロ……」
「ええ。5か月経った今もよ」
ルカは眼鏡を外し、片手で顔を覆った。
耳が真っ赤になっている。
ずっと見たかった反応なのに、いざ目の前にすると、私まで何を言えばいいのか分からなくなった。
「どうして、もっと早く言わなかったんです?」
「何度も好きと言ったわ」
「敗北の直後に」
「毎日結婚したいとも言った」
「本当に毎日でしたね」
「顔も眼鏡も好きだと言ったわ」
「それは聞きました」
「なら分かるでしょう?」
「普通、世界最強の剣聖が、顔を見た瞬間に結婚を決めるとは思いません」
「私は決めたわ」
「思い切りがよすぎます」
「あなたが慎重すぎるのよ」
ルカはしばらく黙っていた。
夕風が灰色の髪を揺らす。
何もしていなくても格好いい。
ずっと見ていたい。
「オフェリア様」
「オフェリアと呼んで」
「もう何度も呼んでいます」
「今日は特別な呼び方になるかもしれないでしょう?」
「では、オフェリア」
名前。
知っている。
何度も呼ばれている。
それでも胸が鳴った。
「僕は、あなたが強いから惹かれたわけではありません」
「そうなの?」
「最初は、とても困った人だと思いました」
「なぜ?」
「初対面で求婚されたからです」
「光栄でしょう?」
「困りました」
「そう」
「ですが、あなたは僕の判断を疑わなかった」
ルカが私を見る。
「僕が有名な攻略者でもないのに、正しいと思えば迷わず従った。自分の方が強いからと、僕の考えを軽く扱わなかった」
「あなたが正しかったからよ」
「5か月一緒に働いて、それだけではないと分かりました」
ルカは眼鏡をかけ直した。
「あなたは、自分が誰より強いと知っている。だからこそ、自分一人では分からないことを認められる」
「当然でしょう?」
「それを当然にできない人間は多いんです」
エランクニスの顔が一瞬浮かんだ。
すぐに消した。
今、思い出す価値はない。
「子供たちの前では、誰より強く立っていた」
「私は強いもの」
「ええ。ですが、それだけではありません」
ルカが微笑む。
「怖がっている人間に、自分の背中を見て走れと言える人です」
私のことを、ちゃんと見てくれていた。
「危険な場面では、必ず僕を守った」
「好きだもの」
「僕があなたを助けても、怒らなかった」
「好きな人に助けられたのよ。嬉しかったわ」
「疲れている僕を休ませて、自分は魔物を全部倒した」
「膝枕をしたかったの」
「理由はともかく、助かりました」
「それならよかったわ」
「そういうところを、好きになりました」
え。
何度想像しても、実際に言われるのは違う。
世界が止まった。
迷宮核を斬ったときより、頭の中が真っ白になった。
「今、何と?」
「あなたが好きです」
「もう一度言って」
「あなたが好きです」
「もう一度」
「何度言わせるんです?」
「一生」
ルカが笑った。
「迷宮の出口なら、いくつでも見つけられます」
ルカは眼鏡の位置を直した。
もちろん、左手で。
「ですが、あなたの求婚への正しい返事だけは、なかなか見つかりませんでした」
「今は?」
「5か月かけて、ようやく一つに決まりました」
ルカが私の前へ立つ。
「オフェリア・アルランティア」
「はい」
「僕と結婚してください」
「もちろんよ!」
「即答ですね」
「最初に会った日から、答えは同じだもの」
私はルカへ抱きついた。
153回目の求婚で、ようやく返事をもらえた。
世界最強の剣聖である私にも、どうしても勝てないものが一つある。
眼鏡の奥でルカが笑うたび、胸の中で鳴る、このメロだけは、どうしても止められなかった。




