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風をきる

作者: らぶ
掲載日:2026/03/08

トラックを走る先輩の背中を、私はいつも見ていた。


誰よりも速くて、誰よりも遠い背中だった。


それでも、こっそり目で追うのをやめられなかった。


話したことなんてなかったけれど、先輩の姿を見ているだけで心踊った。


ある日、部活終わりに先輩が声をかけてきた。


「はい、おつかれ」


そう言って渡されたのはスポーツドリンク。


自分にだけじゃない。部員みんなに一本ずつ。


それでも、初めて声をかけてもらった瞬間、時間が止まった気がした。


手に残ったぬるいペットボトルの温度まで、全部キラキラしていた。


あのときの私の嬉しさなんて、先輩はきっと知らない。


そしてこの気持ちを伝えるつもりもなかった。


だって、先輩には同じ歳の彼女がいたから。


ふたりはいつも一緒にいた。

笑うたび、まるでおそろいみたいに見えて。


帰り道、少し先を歩く二人の後ろ姿が見えた。


先輩が手を伸ばす。

彼女も何も言わず、その手を握る。


顔を見合せクスッと照れ笑いする。


自分でもびっくりするほどはっきりと、胸がぎゅうと締め付けれたのがわかった。


見ているのが苦しくなるくらい、お似合いだった。


だから邪魔するなんて、以ての外だった。


それでも、羨ましかった。


いつか私も、先輩みたいな素敵な人に、好きになってもらえたらいいなって思った。


「みたいな」じゃなく、


先輩がいい、が本音だけれど。


気がつけば、私は彼女を真似しようとしていた。


彼女みたいに髪を伸ばして、時間をかけてアイロンをかけて。


まつ毛にはマスカラと、唇にはほんのり桃色のリップをのせて。


「ちょっとは先輩、こっちを見てくれるかな」


そう思って鏡の前に立つ。


けれど。


「……あれ!?」


鏡の中の私は、なんだか知らない誰かみたいだった。


でも私は、気づかないふりをした。


自分では似合わないと思っても、きっと誰かから見れば違うかもしれないし。


そんなことを考えて朝の支度を終わらせた。


自分でもなんだがドキドキしながら。


足元がふわふわ軽くなったように、少し急ぎ早に教室に向かった。


そんな時、出会い頭にぶつかりそうになって身をかわし謝った。


「す、すみません!」


と顔をあげると目の前にいたのは、クラスメイトでありサッカー部の虎太郎だった。


目が合うやいなや、


「なんか、雰囲気違う……」


「え、そうかな?」


少し照れながら聞き返すと、虎太郎は少しだけ眉をひそめた。


「前の方が……」


聞こえないくらい小さな声で呟いた。


「え?」


「……いや、なんでもない」


そう言って、先に教室に入っていった。


そのときの私は、その言葉の意味なんて考えもしなかった。


それからも慣れないビューラーで瞼を挟んだり。


マスカラをつけすぎてしまったり。


悪戦苦闘しながらメイクの練習をした。


部活ではもうすぐ大会が近づいていた。


――大会の前日。


グラウンドには、いつもより張りつめた空気が流れていた。


明日の大会の話をしながら、部員たちはそれぞれ最後の調整をしている。


先輩も黙々とトラックを走っていた。


その背中は、緊張とゆう鎧を着てるようで、いつもより硬く見えた。


私は走りながらも遠くから、その姿を見ていた。


「明日、頑張りましょう!」


本当はそんなふうに元気よく明るく、声をかけてみたかった。


でも、結局何も言えなかった。


――そして迎えた大会の日。


先輩は思うように記録が伸びなかったらしく、悔しそうだった。


仲間の前ではいつも通り笑っていたけれど。


その笑顔が作り笑いだとゆうことはすぐに気が付いた。


いつも見ていたからわかるんだよ。


微妙な表情の違いも。平気そうな顔で、無理して笑っていることも。


仲間と挨拶を一通り終えた先輩が、別室へ入っていく姿を見かけた。


私は思わず後を追った。


ドアの前に立ち、ノックしようと手を上げたとき。


中から声が聞こえた。


「がんばったね、お疲れ様」


優しくて、穏やかな声だった。


少し開いていたドアの隙間から見えたのは、彼女に慰められている先輩の姿だった。


がっくりと肩を落とした先輩の背中を、彼女がそっと抱きしめている。


胸がズキッと痛んだ。


もし私が彼女だったら――。


私だってすぐに駆け寄って、励ましてあげられたのに……。


でも、できなかった……。


一歩も動けなかった。


あの場所は、彼女だけの場所だった。


私はただ、呆然とドアの前に立っているだけだった。


そのとき、はっきりわかった。


――真似した所で、私にはその人のようにはなれない。


「代わり」になろうとしていたのは、

自分をなくすことだった。


だからもう、全部、やめることにした。


その夜、似合わないメイクも服も脱ぎ捨てて、髪も短くばっさり切った。


鏡の前に立つ。


少しだけ軽くなった髪の毛を、指でパラッとすくってみる。


鏡の中には、前の私でも、彼女を真似した私でもない。


新しい“わたし”が立っていた。


「うん、いいじゃん」


――翌日。


青空の下、トラックを走る。


風を切ると、前よりもずっと心も体も軽かった。


「気持ちいい……」


さっぱりとした爽快感が全身を駆け巡った。


今の私が、いちばん“自分らしい”姿だった。


「おーい」


声のする方を見ると、フェンスの向こうに虎太郎が立っていた。


サッカー部の練習が終わったらしく、ユニフォームのままだった。


「なんか、また違うね」


「?」


「うん。いい感じ」


「?」


ふっと笑う私に、虎太郎はコンビニ袋を持ち上げた。


「ほい、おつかれ」


差し出されたのは、一本のスポーツドリンク。


あの日、先輩にもらったのと同じものだった。


私は少し笑って、それを受け取った。


「ありがと!」


ペットボトルは冷たくて、乾いていた喉の乾きをうるおした。


「よしっ」


グラウンドには、夕方の生ぬるい風が吹いていた。


その風の中を、私はもう一度走り出した。


ちゃんと、しっかり、自分の足で。



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