風をきる
トラックを走る先輩の背中を、私はいつも見ていた。
誰よりも速くて、誰よりも遠い背中だった。
それでも、こっそり目で追うのをやめられなかった。
話したことなんてなかったけれど、先輩の姿を見ているだけで心踊った。
ある日、部活終わりに先輩が声をかけてきた。
「はい、おつかれ」
そう言って渡されたのはスポーツドリンク。
自分にだけじゃない。部員みんなに一本ずつ。
それでも、初めて声をかけてもらった瞬間、時間が止まった気がした。
手に残ったぬるいペットボトルの温度まで、全部キラキラしていた。
あのときの私の嬉しさなんて、先輩はきっと知らない。
そしてこの気持ちを伝えるつもりもなかった。
だって、先輩には同じ歳の彼女がいたから。
ふたりはいつも一緒にいた。
笑うたび、まるでおそろいみたいに見えて。
帰り道、少し先を歩く二人の後ろ姿が見えた。
先輩が手を伸ばす。
彼女も何も言わず、その手を握る。
顔を見合せクスッと照れ笑いする。
自分でもびっくりするほどはっきりと、胸がぎゅうと締め付けれたのがわかった。
見ているのが苦しくなるくらい、お似合いだった。
だから邪魔するなんて、以ての外だった。
それでも、羨ましかった。
いつか私も、先輩みたいな素敵な人に、好きになってもらえたらいいなって思った。
「みたいな」じゃなく、
先輩がいい、が本音だけれど。
気がつけば、私は彼女を真似しようとしていた。
彼女みたいに髪を伸ばして、時間をかけてアイロンをかけて。
まつ毛にはマスカラと、唇にはほんのり桃色のリップをのせて。
「ちょっとは先輩、こっちを見てくれるかな」
そう思って鏡の前に立つ。
けれど。
「……あれ!?」
鏡の中の私は、なんだか知らない誰かみたいだった。
でも私は、気づかないふりをした。
自分では似合わないと思っても、きっと誰かから見れば違うかもしれないし。
そんなことを考えて朝の支度を終わらせた。
自分でもなんだがドキドキしながら。
足元がふわふわ軽くなったように、少し急ぎ早に教室に向かった。
そんな時、出会い頭にぶつかりそうになって身をかわし謝った。
「す、すみません!」
と顔をあげると目の前にいたのは、クラスメイトでありサッカー部の虎太郎だった。
目が合うやいなや、
「なんか、雰囲気違う……」
「え、そうかな?」
少し照れながら聞き返すと、虎太郎は少しだけ眉をひそめた。
「前の方が……」
聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「え?」
「……いや、なんでもない」
そう言って、先に教室に入っていった。
そのときの私は、その言葉の意味なんて考えもしなかった。
それからも慣れないビューラーで瞼を挟んだり。
マスカラをつけすぎてしまったり。
悪戦苦闘しながらメイクの練習をした。
部活ではもうすぐ大会が近づいていた。
――大会の前日。
グラウンドには、いつもより張りつめた空気が流れていた。
明日の大会の話をしながら、部員たちはそれぞれ最後の調整をしている。
先輩も黙々とトラックを走っていた。
その背中は、緊張とゆう鎧を着てるようで、いつもより硬く見えた。
私は走りながらも遠くから、その姿を見ていた。
「明日、頑張りましょう!」
本当はそんなふうに元気よく明るく、声をかけてみたかった。
でも、結局何も言えなかった。
――そして迎えた大会の日。
先輩は思うように記録が伸びなかったらしく、悔しそうだった。
仲間の前ではいつも通り笑っていたけれど。
その笑顔が作り笑いだとゆうことはすぐに気が付いた。
いつも見ていたからわかるんだよ。
微妙な表情の違いも。平気そうな顔で、無理して笑っていることも。
仲間と挨拶を一通り終えた先輩が、別室へ入っていく姿を見かけた。
私は思わず後を追った。
ドアの前に立ち、ノックしようと手を上げたとき。
中から声が聞こえた。
「がんばったね、お疲れ様」
優しくて、穏やかな声だった。
少し開いていたドアの隙間から見えたのは、彼女に慰められている先輩の姿だった。
がっくりと肩を落とした先輩の背中を、彼女がそっと抱きしめている。
胸がズキッと痛んだ。
もし私が彼女だったら――。
私だってすぐに駆け寄って、励ましてあげられたのに……。
でも、できなかった……。
一歩も動けなかった。
あの場所は、彼女だけの場所だった。
私はただ、呆然とドアの前に立っているだけだった。
そのとき、はっきりわかった。
――真似した所で、私にはその人のようにはなれない。
「代わり」になろうとしていたのは、
自分をなくすことだった。
だからもう、全部、やめることにした。
その夜、似合わないメイクも服も脱ぎ捨てて、髪も短くばっさり切った。
鏡の前に立つ。
少しだけ軽くなった髪の毛を、指でパラッとすくってみる。
鏡の中には、前の私でも、彼女を真似した私でもない。
新しい“わたし”が立っていた。
「うん、いいじゃん」
――翌日。
青空の下、トラックを走る。
風を切ると、前よりもずっと心も体も軽かった。
「気持ちいい……」
さっぱりとした爽快感が全身を駆け巡った。
今の私が、いちばん“自分らしい”姿だった。
「おーい」
声のする方を見ると、フェンスの向こうに虎太郎が立っていた。
サッカー部の練習が終わったらしく、ユニフォームのままだった。
「なんか、また違うね」
「?」
「うん。いい感じ」
「?」
ふっと笑う私に、虎太郎はコンビニ袋を持ち上げた。
「ほい、おつかれ」
差し出されたのは、一本のスポーツドリンク。
あの日、先輩にもらったのと同じものだった。
私は少し笑って、それを受け取った。
「ありがと!」
ペットボトルは冷たくて、乾いていた喉の乾きをうるおした。
「よしっ」
グラウンドには、夕方の生ぬるい風が吹いていた。
その風の中を、私はもう一度走り出した。
ちゃんと、しっかり、自分の足で。




