16.『母親』
化け物が、泣きながらセレナを抱える光景は傍から見ても違和感のある代物だった。
オロオロと身体を崩して、いたいけな少女を宝物の様に抱える姿は、まるで、
「...母親?」
優しく抱える後ろ姿は、化け物ではなく、ただの母親そのものだった。
そこに、異物の声が混じってくる。
「逃げられねぇっつってんだよ!!!」
前方を見ると、狂気じみた顔で、セレナと化け物に近づく男がいた。
男は、剣を構えて、殺す気マンマンの顔だった。
だが、ルイも、化け物を倒す為剣を構えていた。
--コイツも、この化け物を?
恐らく、標的は同じだったかもしれない。だが、今化け物は、セレナを襲うことなく、抱いている。
しかも、全身で守るように。それはどう見ても愛情を示す態度だ。
その光景を見ると、ルイの決心が鈍る。
ルイは、必死に理由を探す。どうか、どうか、
今は、1人の少女と1体の化け物に、手を出さないで欲しいという、身勝手を正当化する理由。
だが、特に思いつくこともなく、身体だけが動いていた。
「..............テメェ、なんのつも---」
「...んやぁ、今はちょっと、手出すのやめてもらっていいすかね?ほら、なんか...ワケありそうだ。」
男の剣を、ルイの剣が止めていた。
緊迫した空気を何となくの行動で勝手に動いてしまった。でも、動いて後悔は無い。
「....お前、なんで...こんな所に...。」
男は、目を見開いてルイを見つめていた。
そこには、剣を止められた衝撃よりも遥かに大きな何かに対しての衝撃を宿していた。
その反応から、ルイはこの男がルイの知り合いである可能性を考えた。
「...もしかして、俺のこと知ってる?」
「知ってる。」
「っ!」
ルイは瞬時に身体が硬直した様な感覚がして、咄嗟に後ろへ飛んで威嚇するポーズをとる。
ルイ・レルゼンという身体が、明確な拒否反応を示した。この男に対しての、拒否反応を。
「...じゃ、俺の知り合いだったんだろ?俺の顔に免じてここはお引取りを...」
「悪党の顔に免じてか?笑える冗談言う様になったじゃねえか。ルイ。」
「そうだ...俺、クソ野郎だった...。」
ルイ・レルゼンという人間を、今この時改めて思い知らせる。世界に名をとどろかせる大悪党。
知ってる人はいるだろう。勿論悪名で。
「...ルイ、お前...39階へは行ったのか?」
「へ?39?」
ルイが黙っているのを見て、男はそんな空気を割るように唐突な質問をした。だが、ルイにはさっぱりなんの事か理解出来ない。
「...分からない、俺は...記憶が...」
「...39までは...ルイ・レルゼンだったのか...つーことは...その後...。」
「あ、あの...何か分かることがあるのなら...」
「....」
男が何やら独りで神妙に考えている。それは、ルイ・レルゼンの身に起きた不可解な記憶喪失の謎に迫る考察であることは、彼の口ぶりから理解出来た。
彼は、ルイの謎を解こうとしているのかもしれない。
「なぁ!お前、俺の記憶喪失に、何か心当たりとか!」
「んなもんこっちが聞きてぇよ!ルイ、てめぇ何やってんだよ!」
「っ!」
男は、唇を震わせながら、感情を昂らせて怒鳴った。
花畑の空気はヒリヒリと冷たくなっていった。
その激昂の矛先として当てられたルイは、温厚そうな彼のその反応に、若干たじろぐ。
未だに、ルイ・レルゼンの記憶喪失の謎は何一つ説き明かされていない。それがルイにとっても焦燥感に駆られていたのは事実。
一刻も早く、完全なルイ・レルゼンに戻り、黒澤 零としての自分は、この世界から消えたい。
そして、自分をこんな状況においやった何かに対して、怒りをぶつけたい。
「...なんで、俺が悪いみたいになる...。」
「...記憶喪失については、とりあえずなんも分かんねえからあんま考えんな。今は...そこのガキを殺す俺の仕事を邪魔すんなってだけだ。」
「ん?あぁ、それは無理。どんな理由であろうとこいつには手は出させない。」
「...じゃあ化け物を殺すから、そこどけ。」
「嘘つけ。お前、セレナ追ってたの見えてたぞ。それに、今はこの2人にどうこうすんのは、やめと--」
「てめぇが、俺に、指図すんのか?」
男の顔が、目の前に迫っていた。
脅迫とも取れるその威圧的な表情からは、苛立ちと焦りが含まれていた。彼もまた、何か焦っている。
ルイは、足を動かさない。
「お前が...大悪党が、一体何を考えてこんなことしてる?」
「...その、大悪党さんは今はこの世界にはいねぇよ。ここにいんのは何者でもないただの俺だけだ。」
「...お前の記憶は消えても、お前のしでかした事は消えねぇ。」
「それは俺のやった事じゃねえ。知ったことか。無罪の俺には、正義を語る権利はある。」
「ねぇよ、何もかも忘れたからって、綺麗さっぱり人生改めようとしてんのか?ガキみてぇな言い分振りかざすな。テメェに権利なんて言葉は無い。お前が正義を語るのは、反吐が出る話だ。」
「だから、俺がやった事じゃねえんだよ。早めにこの身体はソイツに返してやるから、今の俺は別個として考えてくれよ。」
どういうことか、ルイはツラツラと今まで溜め込んでいた気持ちを吐き出した。
あの、青髪の女からも、デリーナからも、この男からも、ルイ・レルゼンという男の愚行を聞いた。その度に、胸が締め付けられた。だが、ずっと思っていた。
「俺は、何もやってない。」
本当の事だ。ルイがやっていても、零はやっていない。
「...話に、ならねぇ。」
男は、ため息をつきながら、剣を出した。
「ま、世間の反応はそうだろうな。だが、俺が殺されるのは俺がルイ・レルゼンになった時だ。決めた、今そう決めた。俺が俺である以上、死ぬ理由は無い。」
ルイの決意は、握りしめた剣に比例する様に、熱くなっていく。剣の先端は、男に向けられた。
剣と剣が、互いに向けられ、戦闘が開始される。
その2人の男達の背中を、1人の女は見ていた。
「..セレナ...セレナ...セレナ...」
化け物と化したリリアナ・リーベは、世界の残酷さに涙を流し続けていた。
こんなにも美しい花畑であっても、人は血を流すのであるのだと、理解した。
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リーベ家の館はアイリス王国の中心に置かれており、窓を開ければ純白な城の城壁と豊かな王都が見られた。
アイリス王国の現在の王であるアルドリア・リーベと、リリアナ・リーベの間に生まれた長女セレナ・リーベは、12年間何不自由無い生活で暮らしていた。
日々成長して行く娘の姿を見ながら母であるリリアナは心底、平和というのがどれ程素晴らしい日常であるのかと噛み締めていた。
だからこそ、平和が崩れる時が、恐ろしかった。
「どうやら、平和は終わりのようだ。」
椅子に腰をかけながら、美しい黒髪の男である、夫のアルドリアがそう言っとき、彼女の心がざわめいた。
「...もう、どうにもならないの?」
「軍も魔術師達も俺の手中には無い。...考えたくもなかったが、この国は、何者かに乗ったられた。」
アルドリアは、珍しく険しい顔をしながら、右手の爪を左手にかき立てていた。
夫のそんな姿を見たのは彼女にとって初めてであった。
常に冷静で何事にも対応してきた夫が、初めて敗北を味わっていた様な気がした。
「...貴方」
「...お前は、セレナを連れてこの国から逃げろ。もうじき、この国は火の海になる。」
「っ!そ、そんなのダメよ!この国の人たちは、そんな世界望んでない。この国の王は...私の夫は、こんな時も、甘えを許さず、私達に逃げろなんて言わない!こんな事許せるはずがない人!そうでしょ!?」
「分かってる...分かってる...だが、もう...無理だ。」
「どうしてっ!?」
「正体が分かったんだ...地獄を作り出そうとしている、この悪風の中心に居る者の正体が...」
「...だ、誰?」
部屋の中で、久々の怒鳴り声を上げたリリアナは、アルドリアをここまで追い詰めてしまう存在に対しての憎悪しか無かった。
だが、その時、アルドリアから放たれた、台風の目の中心に居る存在の名を聞いた時、リリアナは一気に憎悪が恐怖へと変貌した。
ソレは、この世界で最も恐ろしい人物だった。
アルドリアは、静かに口を開けて言ったのだ。
「--ルイ・レルゼン。」
彼は、世界を地獄へ導こうとする、死神の名を、静かに呟いた。




