アレの事
「行ってくる」
聞こえているかどうかは分からないが、そう小さく呟きながら玄関を出る。
先日から再熱しているケーキ作りに忙しいアイツは、今日も何かを作っている。
昨日はショートケーキだったから、今日はチョコケーキとかかもしれない。
「……」
鍵をかけ、少し違和感のあった靴を整える。
気持ち窮屈だった感覚がなくなり、さて、と気持ちの切り替えをする。
見上げた空には、端の欠けた月が浮かんでいた。
「……」
所々に雲がかかり、天気はあまり良くない。
私が起きたタイミングで雨が降っていたから、その名残だろう。
それでも多少は回復している。
雨はこちら側に降り込んでいたのか、この階共有のアスファルトの廊下は濡れていた。
「……」
そのおかげもあってか、風は少し冷たい。
打ち水と同じような効果でもあるんだろうか。
冬程でもないのだが、秋風というのにふさわしい程度には心地がいい。
夏はこれに熱がこもって暑さが増すし、春は少しの温かさがあるような気がする。個人的には春風の方が好きだな。
「……」
足音を殺しながら、廊下を進んでいく。
この階の住人と顔を合わせることがそうないので、起きているのか寝ているのかもわからないが。大抵の人間なら寝ている時間だろう。
そうじゃなくても、こんな時間に外から物音が聞こえたら多少警戒しそうなものだからな。
殺せるものは殺しておくのが正解だろう。気配も足音も。
「……」
そうそう。
そういうのを殺すのが得意どころか、その存在すらも感知できなくさせるのが当たり前な、昨日の招かれざる客だが。
何を血迷ったか、この辺に住み着いたらしい。
「……」
ホントに何を血迷ったのか全く分からない。この辺にアレがそうまでして手に入れたい何かでもあったんだろうか。大抵力ずくですぐに手に入れる癖に、時間をかけたいとでも思ったんだろうか。それともアレもいい歳か。
今日、私が仕事をしている間に、家の従者がこの辺りを買い物がてら捜索ついでに少し歩いたらしいのだが、その時にたまたま鉢合わせたらしい。
「……」
家の従者の事を避けに避けているアレにしては珍しいミスだと思うのだが。
まぁ、その時の慌てようと言ったらなかったらしい。見てみたかったものだ。
外に出るときには基本的に家での姿ではなく、アレが苦手にしている私より身長の高い青年姿になるからな……。尚更焦ったんだろう。
「……」
そこで色々とボロを出したと言うか、色々と口走ったらしい。
どれだけ苦手にしているんだ。
何したんだ家の従者は……そういえばなんで苦手にしているのか知らないんだよな。
「……」
まぁ、それで判明したらしい。
この辺りと言っても、私が歩いたりしている住宅街ではなく、ここから離れたところにあるどこかに住み着いたらしい。
家があるわけではなく、その辺をうろついているだけらしいが。まぁ、アレは隠れるのには苦労しないからどこをうろついても見つかることも人間に怪しまれることもないだろう。
「……」
近くに水族館があると言っていたらしいから、なんとなく当たりはつくが。
そこに何かあったんだろうか……アレの判断基準は分からないからな。
他から見れば美しいとはいえないものでも、アレにとっては美しいと言うにふさわしかったりするから。
「……」
しかしそこからだと、この辺は多少距離があるように思えるのだが。
何をしにこちらまで出向いているのか全く分からないな。
アレの思考は分からないに越したことはないのだが、今回ばかりはそうとも言えない。
アレが私の従者を避けたいように、私だってアレに会うのは嫌なのだ。
特に理由というモノはないのだが。
生理的に無理とでも言っておこうか。
「……」
いつ出くわすか分からないから、下手に公園にも行きづらいし。
墓場なんて尚更行きにくい……。
散歩がてら彼らと話したりするのが楽しかったのに……こう行動制限がされているようで嫌になる。
「……」
そうは言っても、こうして散歩に出られるだけマシではあるのだが。
アレじゃない他の何かが絡んで来ていれば、家のが外出は許さないからな。
「……」
特に目的もなく歩くのはいつものことだし。
まぁ、気楽に行くとしよう。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「……何を持ってる?」
「タルトの生地です」
「……今日はタルトか」
お題:春風・雨・水族館
三題噺もどき―ななひゃくごじゅうご。