猫と、解剖刀
私は優等生だ。優等生でなければいけないと思っている。
好成績を保ち、自主的に学級委員長を務め、校則を守って規範となり、嫌われず憎まれず、何があっても笑顔を崩さず、クラスの中立的な存在でいる。
そのためにどんなときでも、周りの空気を読まないといけない。
「うげー、今週末って模試じゃん!」
「どうしよ、ぜんっぜん勉強してないんだけど」
「委員長はどう? さすがに準備してるよね」
「うん。少しは、ね」
帰りのホームルーム直後、前の席に溜まっていた女子三人組に、私――白沢清花は曖昧な返事を返した。
もちろん本当はしっかり準備している。けど正直に答えてしまえば真面目すぎだと引かれてしまうし、謙遜して全くしていないと答えれば嫌味に聞こえるから、このくらいの答えがちょうど良い。
「だよねー。さっすが委員長」
三人組がへらりと笑う。今日も正解の答えを引けたらしい。
「うちらも勉強せんとなー。ねえ委員長、生物得意だったよね。このあと教えてくんない?」
三人組の一人、ポニーテールの佐野さんが頭を下げてきた。やけに焦った顔からして、勉強を全くしていないのだろう。受験を控えた高校三年生としてはあり得ないけれど、それを口に出してはいけない。穏やかに二つ返事で頼みを聞くのが優等生だから。
けれども今日に限っては、そうするわけにはいかなかった。
「ごめん、今日は――」
カツッ。
ヒールの音が側で鳴った。女子三人組が口元に手を当てる。
「白沢さん、この後は予定通りでいいかしら?」
横を見ると、モデルと見間違えるほどのプロポーションをした女教師が、白衣のポケットに手を突っ込んで立っていた。先生はウェーブがかった茶髪を耳にかけながら、椅子に座った私を見下ろし、紅い唇に妖艶な笑みを浮かべる。女子三人組が息を呑んだのを見て、私は思わず眉間に皺を寄せた。
「問題ありませんが、意味深に笑うのはやめてください。変な勘違いをされますから」
「そんなことないわよ。ねぇみんな?」
先生が同意を求めると、女子たちは顔を赤らめながらぶんぶんと首を縦に振った。それは妙な考えを抱いている反応に他ならないのではと思ったけれど、この先生にはわからないらしい。さっきの笑みと言い、きっとこの後に控えた『お楽しみ』しか頭にないのだろう。
内心ため息をついた私に、先生はポケットから出した手を自分の口元に添え耳打ちしてきた。
「それじゃ、あの場所で待っているわ」
それだけ告げると、ひらひらと手を振りながらヒールを響かせ教室を後にした。一部始終を見ていた女子三人組が、一気に詰め寄ってくる。
「なななななに今の!?」
「ていうか委員長、珍しく反抗的だったよね?」
図星を当てられぐさりとくる。確かにあの先生には、翻弄されている自覚があった。教師に反抗するなんて、優等生らしくないのに。
「生物でわからないところを聞きに行く約束をしただけだよ。態度は……気のせいじゃないかな」
何でも無い素振りで誤魔化すと、三人組はそろって苦笑いした。
「だ、だよね~。ごめん、てっきりイケないことでもするのかと」
「まあ哀川先生なら特別な関係とか、そういうのはないか」
「もう、からかわないで」
私は軽く笑い飛ばしながら荷物をまとめ、三人にさよならを言って教室を出る。
いけないこと――あながち間違ってもいないかもしれない。
約束の場所へと向かいながら、私は頭の片隅で考える。
生物教師で三年A組担任の哀川由美。
私は今日――彼女の『共犯』になるのだから。
♢ ♢ ♢
哀川先生と関わるようになったのは、高校三年になってからだった。
「A組の担任になった哀川由美です。生物選択の子は授業でいつも会っているから、知っていると思うけど」
始業式後のホームルームで、哀川先生は白衣のポケットへ手を入れたままそう自己紹介した。男子生徒は顔を赤らめそわそわし、女子生徒はうらやましげにすらりとした身体を見つめている。まだ二十代後半らしい哀川先生は、色々な意味で高校生の興味を引くのだろう。
けれども私は哀川先生が担任になった事実に対して、特になにも思わなかった。
確かに先生は二年の頃から生物の授業で会っていたが、個人的に話す機会はなかった。美人ながらも教師としての腕は抜群で、教え方もわかりやすい、一般的に言えば「良い先生」ではあると思う。けれどそれ以上の感想を抱きはしない。私にとって「先生」はあくまで「先生」でしかなく、誰が担任になるかは「好き嫌い」や「良い悪い」という枠の外にある事柄だった。
それに「誰が先生か」という問題よりも大事なことが、新年度に入って最初のホームルームにはある。
「じゃあ早速、クラスの学級委員長決めをやるわよ」
哀川先生はカツッとヒールを鳴らして後ろを向き、黒板に「学級委員長」と書いた。
来た。
学級委員長はあまり誰もやりたがらない、面倒な仕事だ。クラスの雑用係とも言っていい。しかし面倒だからこそ、その仕事をしなければならないのだ。何故なら私は、優等生だから。それに高校一年、二年と毎年委員長をやってきたから、仕事自体には慣れている。
「まずは立候補から。誰か委員長をやりたい人は?」
哀川先生がクラスを見渡す。誰も手を上げない――私も上げなかった。
すぐに上げれば意欲が強すぎると思われ、変わり者扱いされてしまう。クラスの輪を乱すのは避けておきたい。
いいタイミングは分かっている。誰も反応がない状態から三秒後だ。
だから膝に手を置いたまま、そのときを待つ。
三、二、一――――
「センセー、女子は白沢さんがいいと思いまーす」
手を上げる寸前で、隣の男子が私を指名する。去年も同じクラスだった男子だ。誰も反応しない状況に飽き飽きして、適当に指名したのだろう。
「確かに白沢さん、去年も学級委員長やっていたもんね」
「頭も良いし優しいし、俺も白沢さんに一票」
一つの意見はどんどん広がっていき、あっという間に教室中を飲み込んだ。こうなってはもう拒否できない。万が一ノーと言おうものなら、「空気が読めない」というレッテルを貼られてしまう。もっとも私には断るつもりはないから、杞憂だけれど。
「はい。私、やります」
手を上げて立ち上がると、クラスメイトから拍手が上がった。
「……なら前に来て」
手招きされて前に出ると、哀川先生は白いチョークをこちらに差し出しながらひそひそ声で囁いてきた。
「いいの、白沢さん? 本当はやりたくなかったんじゃない?」
気遣うような優しい声だった。きっと私が場に流されて立候補したと思っているのだろう。こういうところが、人にいい先生と思わせるのかもしれない。
「大丈夫です。元から立候補しようと思っていたので」
「本当に? でも初めは手を上げてなかったでしょう」
「いきなり立候補するのは、なんとなく恥ずかしかったというか」
「そういう気持ちはわかるけれど。でも、それにしては貴方……」
哀川先生がじっとこちらを見つめてきた。なんだか探られているみたいで居心地が悪く、思わず顔を逸らしてしまう。
「大丈夫ですよ」
いそいそと黒板にチョークで名前を書いた。この先生が何を思っているのかは知らないけれど、名前さえ書いてしまえばもう撤回はできないはずだ。
「……そう。ま、貴方がそれでいいならいいけれど」
先生の呟きには呆れらしきものが混じっていた。何が先生をそう思わせたのかはわからないが、自分の行動が否定されたみたいで腹が立つ。けれどもそれを表に出すのは優等生としてよろしくないだろう。こういうときに取り繕うのは得意だった。
チョークを置き、微笑みながら哀川先生に一礼して、大人しく席へ戻る。深呼吸して前を向くと、先生は狐につままれたような顔をしていた。何故そういう反応になるのかが、全く以て理解できない。他の先生やクラスメイトなら、何も気にせずそれぞれの会話に戻っていくのに。
哀川先生はきっといい先生だ。けれど話してみると少しもやもやする。
ホームルームを進める哀川先生を眺めながら、私は認識を改めた。
始業式の日の授業は、得てして午前中だけだ。その日も例に漏れず、学級委員長決めのホームルームだけで授業が終わる。時間ができた喜びと進級の興奮が入り交じり、クラスメイトたちはみな浮き足立っていた。
「ひまー。これからどうする?」
「カラオケ行かない? それかゲーセン行って三年になったお祝いプリ撮ろ」
「両方行けばいいじゃん。まだ十二時にもなってないし」
近くの席で女子三人組が、寄り道の場所を相談している。筆箱を鞄に入れていると、そのうち一人が私の机に寄ってきた。
「ねえねえ、委員長」
ポニーテールに小麦粉色の肌。確かテニス部の佐野加奈さんだ。一度もクラスは被っていないけれど、人当たりの良い性格の彼女は、学年の人気者になっていた。
佐野さんはにぱっと人なつこい笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「委員長も一緒に行かない? うち、一回話してみたくてさー」
つまり佐野さんは私を遊びに誘ってくれているのだろう。嬉しかったけれど、すぐに返事はできなかった。
何故なら私たちはもう高校三年生。大学受験がすぐそこまで迫ってきている時期だ。優等生的には遊んでいる時間があるなら少しでも勉強をした方がいい気もする。いざというとき後悔しないためにも。
答えを出せないままでいると、残りの二人組がやってきて佐野さんの腕を取った。
「もー加奈。白沢さんが困ってるよ」
「優等生の白沢さんがカラオケとかゲーセンに行くわけないでしょ」
「あ。それもそっか」
二人の話に佐野さんは納得したようだった。彼女は胸の前で両手を合わせ、大げさに頭を下げてくる。
「ごめんね~、誘っちゃって! また昼休みとかに話そ!」
「いいよ、気にしないで」
そう言ったのに、佐野さんはぺこぺこ頭を下げながら二人に連れられ教室を出て行った。リアクションが豊かな人だなと思った。確かに人に好かれそうなタイプだ。
三人を見送った後、スクールバッグの中に目を落とす。筆箱、ノート、スマホ、それと家から持ってきた問題集が入っていた。
「……自習でもして帰ろうかな」
私はスマホで親に遅くなる旨を連絡し、自習スペースのある図書館へと向かう。
自習スペースの席はガラガラだった。新学期早々から自習し始める人はいないのだろうか。けれどこんな状況の中で一人努力するのも、多分きっと優等生らしいはず。
私は一番奥の席に陣取ると、問題集を開いてノートにシャーペンを走らせた。時間を忘れて勉強に耽っていると、やがてスマホのバイブが震えた。はっと気付いて画面を見ると、お母さんからのメッセージが届いていた。
『遅くなった理由は説明して貰うから。それと帰りに魚屋で鯖を買ってきてちょうだい』
スマホの表示時間は16:05。どうやら五時間近く勉強していたらしい。慌てて勉強道具をバッグの中に放り込む。商店街の魚屋が閉まるのは16:30だ。急がなければ間に合わない。
駆け足気味に学校を出て、街の商店街へと向かう。通学路の途中に位置するこの商店街は、活気はないが人気もない訳ではない中途半端な場所だった。けれども普段の生活に必要な買い物は十分できるからか、お母さんは昔からよく通っている。
太陽は西に傾き、辺りはオレンジ色に包まれていた。少ない人がさらにまばらになった商店街の中を進み、中腹辺りにお母さんがよく行く魚屋を見つけた。
けれど、その前には先客がいた。
「哀川、先生?」
夕日の中、魚屋の前に一人佇んでいたのは哀川先生だった。白衣を脱ぎ、シャツと膝丈のスカート姿だったけれど、ウェーブの茶髪と高めのヒールはいつも通りだ。
哀川先生は並べられた大小様々の発泡スチロールを凝視していた。その中には当然、魚が入っている。鰺や鯛、私が買う予定の鯖、それから鰤まで。うろこを鈍く光らせて、生気の無い目で並んでいる魚たちを、哀川先生はじっと見つめていた。
きっと買い物だ。夕食のおかずを買いに来て、どれにするか迷っているんだろう。
そんな予想は、しかし先生の表情に気付いて吹き飛んだ。
先生は、笑っていた。真っ赤な唇を妖しく歪ませ、心底嬉しそうな表情をしている。目元はやけに潤んで熱っぽい。最愛の恋人にでも会ったかのようだった。
ただの魚を見て、普通の人がこんな表情をするだろうか。戸惑っていると、不意に先生の顔がこちらを向いた。
「あら、白沢さん」
気付かれた。やましいことをしていた訳でもないのに、嫌な汗が背中から噴き出す。
「こんな時間に何してるの? 授業は午前中だけだったでしょ」
「ええと、図書室で自習をしていたので。その後、母のお使いでここに」
「あらそう。受験までまだまだなのに、真面目ねぇ」
先生の調子は昼間に話したときと変わらない。けれども今の状況のせいか、なんだか不気味に見えてきて、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。しかしお使いをしないまま帰れはしないので、誤魔化すように会話を絞り出した。
「先生も、夕飯の買い物ですか?」
「いえ、今日は見ているだけよ」
ここは魚屋であって水族館ではない。なのに熱心に魚を見ている行為自体に違和感がある。けれど相手は担任で、その感情を表に出すべきではないだろう。私は平静を装いながら、笑顔を作る。
「そうなんですか。好きなんですね、魚」
「いえ、魚の死体は普通よ。鰤や鮪になると別だけれど」
「したい……?」
「……ああ、違う違う。魚は普通って言いたかったの。そんなに食べないものね」
したい。シタイ。死体。
言い直したけれど、今確かに哀川先生は言った。「魚の死体」と。
普通、魚屋の魚を「死体」と表現するだろうか。
頭の中がぐるぐる回る。考えが整理できないでいると、店の奥から仏頂面の店長さんが出てきて、私たちを交互に見た。
「お二人さん、何か買うなら買っとくれ。もう店じまいだよ」
私は慌てて鯖を一匹買い、足早に商店街を後にした。
「お帰り。遅かったじゃない」
家に帰ると、リビングでお母さんが腰に手を当てて待ち構えていた。外出用のきれいめな服を着たままだから、きっと日勤から帰って来たばかりなんだろう。もう少し早く帰っていればこうはならなかったと後悔する。けれど怒られるまではいかないはずだ。
「今日は午前中だけだったんでしょう。何をしていたの」
「自習室で自習してた。気付いたら夕方で」
「あらそう!」
自習、と聞いたお母さんは、ぱっと表情を緩ませる。腰から手を離し、口角を上げて、鼻歌を歌いながらラフな格好に着替え始めた。見るからに上機嫌だ。やっぱり思った通りになったと一安心する。
「お勉強ならいいわよ。本当に清花ちゃんはできた子ねぇ。このまま真面目に頑張って医学部に行くのよ」
医学部に~はいつものお母さんの口癖だ。お母さんは幼稚園の頃にお父さんがいなくなってから、ずっと私に優秀な人間になって医学部に行くようにと話していた。だからきっとその言葉どおり、優等生として医学部に行くのが私の正解。そう思ってここ十数年生きてきた。
「うん、頑張るね。あとこれ、頼まれた鯖」
鯖の入った白い無地のビニール袋をお母さんに差し出す。着替え終わったお母さんは袋を受け取ると、台所へ入っていった。けれど夕飯ができる間に着替えてこようとしたところで、台所から悲鳴が上がる。
「ちょっと! この鯖、さばいてもらってないじゃない!」
「えっ?」
慌てて台所へ向かいまな板の上の鯖を見る。言われてみれば、スーパーで売っている鯖と違ってお腹の部分が開いていない。
「ごめん、忘れていたみたい……」
「はぁ……面倒くさいのよ、内蔵とか出すの」
聞こえた大きなため息に、身体が小さくなった気がした。
お母さんはぶつぶつ文句を言いながら、鯖のお腹に包丁の先を突き刺した。ピンク色の内蔵と、黒と赤が混じった液体がどろりと出てくる。
「清花ちゃんは優秀なんだから、こういうところでもちゃんとしなきゃ駄目よ。じゃなきゃ医学部に行けないわ」
「はい、わかりました……」
「もういいから。着替えてきなさい」
「うん……」
台所を追い出され、私は重い足取りで自分の部屋へと向かう。どうやら私は、優等生として失敗してしまったようだった。お母さんの思う優等生になるには、まだまだ先は長いらしい。
鞄を置いてスウェットに着替え、なんとなく時間を潰してからダイニングに向かう。ちょうどテーブルの上には食事がそろったところだった。
「さ、食べましょうか」
二人で席につき、食事を始める。今日のメニューはご飯に、朝食の残りの味噌汁。それからさっき買った鯖で作ったらしい塩焼きだ。うまくさばけなかったのか、三枚おろしをしたにしては身が少なかった。
けれど何かを言うなんてできない。元はと言えば私のせいだ。仕事で疲れたお母さんに手間を掛けさせるという、優等生としてあるまじき行動を取った私のせい。どこかで挽回しなければ。
暗い気持ちで食事を進めていると、お母さんが口を開いた。
「今日の学校はどうだったの?」
その声色は普段通りだった。もう怒ってはいないらしい。少しだけほっとすると、私は今日の出来事を思い返す。
「始業式だからあまりなにもしなかったよ。学級委員長を決めたくらい」
「あら、学級委員長! 今年はどうなったの?」
「女子は私になったよ」
お母さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「やっぱり清花ちゃんは優等生ね。そういうのは積極的にやっておいた方がいいわ。きっと医学部に行くときもプラスになるわよ」
「うん、そう思って」
これでさっきの鯖の件は気が紛れただろうか。……いや、気が紛れるだけじゃ駄目だ。満足して貰わなければ、意味が無い。
「そういえば、担任は誰になったの?」
唐突な話題にぎくりとする。担任の話になるとは思っていなかった。
「哀川由美先生。生物の」
「うーん……知らないわねぇ。どんな先生?」
「ええと……」
魚屋での出来事がフラッシュバックする。あの不気味な光景をそのまま話すのは、なんだか気が引けた。だから今まで受けた印象を、できるだけオブラートに包んで口にする。
「多分いい先生だけど、ちょっと変わってるかも」
「変わってる、ね……熱血教師とか、考え方が変とか?」
「考え方が変、に近いかな」
するとお母さんは眉間に皺を寄せ、悩ましげにため息をついた。
「そう……清花ちゃんたちが影響を受けなければいいのだけど」
影響を受けるというのは、思いも付かなかった考え方だった。
確かに魚屋の魚を「死体」と呼ぶような先生なんて、ろくでもない先生だ。クラスのみんながそれに何かしらの影響を受けて、もしも高校三年の大事な受験の時期を邪魔されてしまったら冗談では済まない。こういうとき、優等生なら動くべきではなかろうか。
まずは哀川先生を調べよう。そして何かあった時は、学校に伝えてしまえばいい。そうすればみんな安全に過ごせるし、私ももっと優等生らしくなり、お母さんをもっと満足させられるかもしれない。
不格好な鯖の塩焼きを食べながら、私は密かに決意した。
先生を調べると決めた翌日の朝、早速私は哀川先生について聞き込みを始めた。
「哀川先生のこと?」
「うん。なんでもいいよ」
聞いたのはちょうど登校してきた佐野さんだ。人気者の彼女なら色々と情報を知っているはず。それに昨日、私と話してみたいと言ってくれたから、快く受けてだろう。とはいえ突然聞き込みをするのは怪しまれそうだから、念のため建前を付けておく。
「学級委員長をやる上で、担任の先生が気になって。私は先生を、生物教師っていう以外に知らないから」
「なるほどー! それなら任せてよ!」
佐野さんは腰に手を当てガッツポーズを取った。相変わらずのリアクションだが、誤魔化しに成功したのはわかりやすい。
佐野さんは腕組みしながら、考え込むように頭をひねる。
「そうだなぁ……部活は調理部の顧問だったはずだよ。調理部だった先輩が言ってた」
「調理部って、確か去年で廃部になった?」
三年生が辞めて部員が誰もいなくなったから無くなると、去年の終わりにホームルームで言われた気がする。部活動には入っていないから興味がなかったけれど。
「顧問は家庭科の先生じゃなかったんだね」
「ねー、うちも先輩から聞いてびっくりした。けど包丁捌きがすごいらしいよ。魚とか、さささって三枚おろしにしちゃうんだって。それもめちゃめちゃ綺麗なの」
ほら見て、と佐野さんはスマホの画面をこちらに向けてきた。そこには家庭科の教科書の写真と思うほど、綺麗に三枚おろしされた鰺の写真が映っている。佐野さんが言うには、哀川先生が一からさばいたものらしい。昨日のお母さんの鯖とは大違いだった。
「これだけ綺麗に三枚おろしできたら、彼氏に料理作ってあげたりする時もよろこばれそー。まあ哀川先生は……アセクシャル? アロマンティックだっけ……とにかくそういうのらしいから、彼氏とかはいないだろうけど」
アセクシャルに、アロマンティック。確か他人に性的欲求や恋愛感情を抱けない人たちの呼び名だった気がする。まさか先生がそうとは思わなかった。
「これも知らんかった? 結構有名な話だよ」
佐野さんによると、哀川先生は若さとその見た目から時々男子生徒や男性教師に言い寄られるらしい。けれどその度に、自分は他人を好きになれないから、と断っているとか。
「女子からも人気があるのはそれが理由。片思い相手とか奪われる心配ないしね」
性的マイノリティを公言している先生なんて中々いない。そんなにインパクトの大きい話なら自分も聞いていておかしくなさそうなのに。
僅かな不安がよぎる。しかし考えてみれば、昼休みは大抵自習室へ行き、放課後は部活も寄り道もせず家に向かう日々の中では、噂を聞く暇なんて無かった。仕方ない。優等生であろうとすれば、時々こういうこともある。
気を取り直し、引き続き佐野さんに話を聞いていく。部活と性的指向以外にも、休日はよく写真展に行っていること、住まいは学校近くのアパートだということを教えてくれた。案外、私の家の近所だった。
しかしそこまで聞いても特段怪しいところは何もない。生物教師が調理部の顧問をしていたのは多少の違和感を覚えたけれど。
もっと深いところまで聞き出さなければ。更なる話を広げようとしたとき、カツッとヒールの音が側で響いた。
「しーらーさーわーさん」
振り向くと哀川先生が側に立っていた。いつの間にか朝のホームルームが始まる時間になっていたらしい。相変わらず白衣のポケットに手を突っ込んだままの先生は、私を見下ろしにっこり笑った。
「先生が知りたいなら、直接質問に来ればいいのに。何でも答えてあげるわよ」
それができればどんなに楽か。けれどこの調査を先生本人に知られる訳にはいかない。邪魔をされて目的が達成できなくなるのは避けなければ。
「では後ほど、真核生物の減数分裂の過程に見られるDNA量のグラフについて聞きに行ってもいいですか。問題集の解説を見てもわからなくて」
笑顔で誤魔化すと、哀川先生は肩をすくめた。
「あらあら、真面目ねぇ。まあいいわよ、本当に質問したければいらっしゃい」
そう言い残して、先生は「ホームルーム始めるわよー」と教卓へ向かっていった。
さも誤魔化しを見抜いているような口ぶりに心がもやつく。けれど聞きに行きたいと言った手前そうしないのは優等生らしくない気がしたので、一応放課後、哀川先生を訪ねたのだった。
哀川先生についての聞き込みは、その後も数日続けてみた。けれど誰に聞いても、佐野さんから聞いた以上の話は出てこない。本性を隠しているというなら見事だ。
これ以上聞き込みを続けても新たな情報は得られないだろう。そろそろ本格的に本人を調べた方がいいのかもしれない。でも何からどうやって調べればいいのか。
放課後の教室で一人あれこれと考えるも、大した案は思いつかない。諦めた私は、机に広げた直近の課題に目を向けた。
『三年生一学期 進路希望調査 提出日:四月十三日(水)』
一週間前、学級委員長決めのホームルームの後に配布され、すっかり忘れていた今日提出の進路希望調査プリント。提出期限当日になって思い出すなんて優等生失格だ。魚屋で見た哀川先生の姿が衝撃的で記憶から消し飛んでいたのだろうが、そんな言い訳は言っていられない。
書くべきは決まっていた。第一志望も第二志望も第三志望も全て医学部。問題はどこの医学部にするかだ。お母さんは医学部に行けというものの、母子家庭で金銭的にも裕福ではないから、あまりお金を出せないはず。家を思う優等生なら、私立は選ばないだろう。行くなら国立。奨学金の制度もしっかり使える場所が良さそうだ。
スマホで軽く調べた後、とりあえず挑戦できそうな範囲にあるA大学とB大学とC大学を書いた。それぞれの大学がどんなところかはよく知らないけれど、あまり関係ないだろう。とりあえず国立の医学部であれば、お母さんも満足するはずだから。
後はこれを哀川先生に渡せばいい。そう思った矢先に、先生が廊下を歩いていく姿が見えた。教室を出て呼び止めようとしたが、その手に握られているものを見て言葉を飲み込む。
哀川先生は、ビニール袋を持っていた。白い無地のビニール袋。あの魚屋で貰えるものと同じだ。そしてその袋の中には、重そうな何かが入っている。
これは何かある。
私は一旦教室に戻った。先生が歩いていったのは職員室と反対側。ならば行き先は生物の授業に割り当てられている第二理科室だろう。
逸り始める心臓を、深呼吸で落ち着ける。
まずは第二理科室まで哀川先生を尾行する。もし見つかっても進路希望調査のプリントを渡しに来たという体でやりすごせるはずだ。そのときに、あの袋の中身と先生の本性を暴ければ万々歳だろう。先生を尾行するなんて常識的にどうかとは思ったけれど、これもクラスのみんなを守るためだ。優等生として、無事にやり遂げなければいけない。
「……行こう」
意を決し、私は進路希望調査のプリントを片手に教室を出た。
第二理科室は教室のある西校舎とは反対側の、東校舎の三階にある。三年A組の教室からは、渡り廊下を渡ればすぐにつく場所だ。
人気の無い渡り廊下を渡って、東校舎の廊下に出る。周りに他の先生や生徒はいないというのに、やけに心臓がうるさく鳴っていた。
第二理科室までたどり着き、扉の陰に隠れて小窓からそっと中を覗いた。哀川先生は教室の後ろの席に座っている。身体の前にはまな板が置かれ、その上には何やら銀色の塊が乗っていた。状況からして、きっと魚だろう。
そのままじっと眺めていると、哀川先生は手袋をした手で細い棒状のものを手に取った。唇に笑みを浮かべながら、棒を魚のお腹らしき部分に差す。その瞬間、先生の顔がうっとりとしたものに変わった。目元はどこか潤んでおり、興奮を隠しきれない様子で頬を上気させている。
なんだかいけないものを見ている気がした。けれど優等生としての義務感と好奇心が先行し、もっとよく見ようと扉に身体を近づける。
ガタン。
扉に身体をぶつけてしまった。
途端にぐるんと哀川先生の顔がこちらを向く。びくりと心臓が大きく跳ねた。
「あら?」
また気付かれてしまった。はやる心臓を抑えつつ、極力いま来た振りをしながら、私はそろそろと第二理科室の中に入る。
「白沢さん、どうしたの?」
「進路希望調査のプリントを書いたので、持ってきました」
記入済みの紙をひらつかせながら、ちらりと机に目を向ける。
「その、先生はなにを……?」
「ああこれ? 鰺の解剖よ」
ほら、と哀川先生は身体を避けてまな板を見せる。そこにはお腹は綺麗に切り開かれた鰺が横たわっていた。解剖をしていたというのは本当らしい。
「授業用の資料作り。貴方たちも二年の時に見たでしょう。ほら、眼球の形成についての授業で」
言われてみれば、目の仕組みを観察するのだとか言って、鮪の目玉を解剖した記憶がある。確かそのときに、他の魚の解剖写真も見たような。
なんだか拍子抜けてしまった。哀川先生はただ授業の準備のために魚屋へ行き、解剖する魚を選んでいただけだったのだ。死体と言っていたのも解剖用に使うが故の表現だったのかもしれない。
ほっとしたような、残念なような、なんとも言えない気持ちになる。けれどもそれを先生に気付かせてはいけない。できるだけ声色を変えないようにと努力しながら、私は進路希望調査のプリントを手に首をかしげる。
「これ、どうすればいいですか?」
「うーん、いまは手が汚れてるし……準備室に私のバッグがあるから、その隣に置いてきてもらえる?」
「わかりました」
私はうなずき、第二理科室の前方の扉から第二理科準備室へと入る。細長い部屋には明かりが付いていなかった。両脇には大きな戸棚が並んでおり、その中にはホルマリン漬けのウサギや鳥、魚などが並んでいる。死に満ちたこの部屋は不気味で、早く出ていきたかった。
先生のものらしきバッグは、部屋の奥にある机の上に乗っていた。私は足早に机まで向かい、バッグの横にプリントを置く。
先生のバッグは高級そうな黒の革製トートバッグで、ファスナーのないタイプだった。中は書類やペンケース、システム手帳などがぎっしり詰められている。先生ともなると、日々の仕事で必要な荷物も多いのだろう。
なんの気なしに眺めていると、システム手帳の間にリフィル以外の紙が何十枚と挟まっているのに気がついた。その一枚が、手帳からはみ出し端が見えている。どうやら何かの写真らしい。
優等生なら、人のバッグの中身を勝手に見てはいけない。それを分かってはいたけれど、写真に何が写っているのかが無性に気になった。
物音を立てないように手帳を取り出し、そっと写真を手に取ってみる。
途端、大声を出しそうになった。
写っていたのは解剖された魚。けれその一枚だけじゃなかった。二枚、三枚、六枚、十枚、二十枚――手帳に挟まっていた何十枚もの写真、その全てに解剖された魚が写っていたのだ。
赤やピンクの内臓がむき出しになったもの、お腹から消化管がでろんと伸びているもの、内臓全てがひとつひとつ取り出されたもの、エラを綺麗に切り取られたもの……。
一枚めくるたびに呼吸が早まる。何故か涙が湧き上がってきた。耐えきれずに手帳を閉じてバッグにしまい、第二理科準備室を飛び出す。
「お帰り。バッグ、わかったかしら?」
出てきた私に、先生は作業をしながら問いかけてきた。いつもの通りの「いい先生」の声だった。けれどもこの先生は、裏で魚の解剖写真を大量に持ち歩いているのだ。大事そうに手帳に挟んで。
「はい、もう、お陰ですぐにわかりました。では用が終わったので帰ります」
もはや取り繕う余裕もなく、私は第二理科室から逃げ出した。優等生として許されない動きだったが、得体の知れない恐怖や不安に勝てなかった。
急いで教室に戻り、スクールバッグを持って学校を出る。
家への道を走っている途中に思い出した。魚の解剖写真を授業で見たのは、二年の夏だったと。
「ただいま」
「またこんなに遅くなって。なにしてた――って、ちょっと! どこ行くの!?」
「部屋! 勉強!」
お母さんの叫び声を背に、私は自分の部屋へと飛び込んで、ばたんと扉を閉めた。そこでようやく、恐怖や不安が和らいでいく。全身の力が抜けていき、ぺたんと床に座り込んだ。
ともかく、これで哀川先生に何かあるのは確実だ。
魚屋の魚を死体と呼び。
愛する人を見るような目で魚を眺め。
授業に関係ない解剖写真を何十枚も持ち歩く。
死体しか愛せない人なのか。解剖狂いなのか。もっと別の想像もできないような性癖の持ち主なのか。いずれにせよ、これまで以上に警戒すべきだ。
けれどその危険性を証明するには、もっと決定的な、本質に迫る情報が必要だ。
スマホを取り出し、中に入っているアプリを確認する。ボイスレコーダーは入っていたが、カメラアプリは普通のものを使えない。私はネットで無音カメラのアプリを調べて、いちばんおすすめされているものをダウンロードした。
これでいつ何があっても、証拠を集められる。
もうなりふり構っていられなかった。優等生として絶対にクラスメイトを守らなければ。お母さんの望む優等生になるためなら、私はなんでもできる気がした。
完璧に本性を隠している哀川先生には、全く隙が見つからなかった。あの後も何度か魚屋の前で見かけたものの、前と同じく魚を眺めているだけ。一応写真は撮ってみたが、証拠としては使えそうになかった。
そのまま一ヶ月が経ち、ゴールデンウィークが終わっていった。表面上は穏やかに過ごしている振りをしながらも、内心では日を追うごとに何かしなければと焦燥感に駆られていく。気付けばことあるごとに哀川先生を観察し、尾行するようになっていた。
転機が訪れたのは、五月中旬。三年生最初の模試を翌週に控えた日曜日だった。模試の勉強のために近くの図書館へ向かっていると、偶然哀川先生を見かけたのだ。
すっかり尾行癖がついていた私は、さっと建物の陰に隠れて哀川先生の様子を眺める。スマホを取り出し、無音カメラで写真を撮った。
哀川先生は余裕のあるシャツにぴちっとしたパンツという姿だった。ヒールがいつもより高いからか、すらりとした足が余計に長く見える。ショルダーバッグを肩に提げ、背筋を伸ばして堂々と歩く哀川先生は、いかにも大人の女性という感じだ。
一体どこへ行くのだろう。一定距離を保ちながら、私は後をついて行く。
やってきたのは電車の駅だった。先生はそのまま改札へと入っていく。
財布を見ると、ICカードが入っていた。お母さんには勉強で遅くなると伝えているし、時間もお金もあるなら、このまま立ち止まれはしない。嘘をつくことになるけれど、哀川先生の本性が暴かれれば、お母さんも優等生だと喜んでくれるだろう。
私は改札をくぐり抜け、哀川先生と同じ電車の同じ車両に乗り込んだ。適度に乗客がいてくれたお陰か、先生がこちらに気付いた様子はない。つり革につかまり、スマホの画面を見つめている。私はそんな先生を緊張しながら目だけでちらちら観察していた。
先生は二駅先の駅で降りた。名前は知っているが、降りたことはない駅だ。百貨店もショッピングモールも何もない、古い住宅地だと勝手にイメージしている。ぱらぱらと人が降りていく中で、私も先生を追って外に出る。
駅の周りには、思いのほか人がいた。小さなスーパーやカフェ、雑貨屋が集まっており、地元の人たちのたまり場になっているらしかった。実際に来てみなければわからないものもあるのだなと思いながら、私は先生を追いかけた。
横断歩道を渡って、住宅地へ入り、家と家の間を進んでいく。
駅から遠ざかるに従って人通りは減り、ついには先を行く哀川先生と私だけになってしまった。私はできるだけ気配を隠すようにしながら、家や電柱の陰を渡り歩いて先生の後について行く。
不意に、先生が路地へ入った。私も続けてその道をのぞき込む。
「あ~~。やっぱり貴方ね、白沢さん」
哀川先生が腰に手を当ててこちらを見ていた。どうやらとっくに気付かれていたらしい。観念した私は、哀川先生に向き合った。
「こんにちは、哀川先生」
「挨拶している場合じゃないのよ。最近やけに私を探っているみたいだったから、もしかしてと思ったけれど。優等生でいたい貴方が、ストーカーなんていいのかしら?」
哀川先生は微笑んでいるようで、目が笑っていなかった。例えるならそれは、敵を見つけた暗殺者のよう。見定められた私の身体に緊張が走る。
今は休日。「教師」という肩書きは外れている。ならばこれが、先生の本性なのだろう。私の中での「いい先生」という評価が完全に消えた。ポケットの中のスマホを操作し、準備していたボイスレコーダーのボタンを押しながら、私は慎重に言葉を返した。
「これもクラスのためですから。先生が危ない教師なら、私には先生を追い出す義務があります」
「危ない? どこを見てそう思ったのかしら。私はいたって普通の教師だけれど」
「魚の解剖写真を何十枚も持ち歩いているのは、普通とは思えません」
哀川先生の表情が消えた。次の瞬間、憎々しげに顔が歪む。
「……先生のバッグの中を見るなんて、とんだ不良生徒だわ」
「優等生として、すべきことをしているだけです」
「貴方がそう思いたいだけでしょう」
先生は大きなため息をついて、私をじろりと睨んでくる。
「それで? ストーカーさんはいつ帰ってくれるのかしら」
「先生の行き先を知って、その本性を暴いたら」
「だとしたら残念ね。私が行くところ、十八歳未満は立ち入り禁止なの」
「大丈夫です。私、四月生まれでもう十八歳なので」
小さく舌打ちが聞こえた気がした。
「なら今日はもう帰るわ」
「そうですか。やましいことがあると認めるんですね」
「……はぁ。変に頭が良い子って本当に面倒」
哀川先生の苦々しげな表情に、私は勝利を確信した。けれども先生はすぐに平然とし落ち着きを取り戻す。こちらに二歩近づいてきて、手のひらを差し出してきた。
「スマホ、出しなさい。この先は写真撮影もボイスレコーダーも禁止よ」
「…………」
スマホを奪われてしまえば、丸腰になるも同然だ。黙ってやり過ごそうとしたが、哀川先生は諦めない。
「黙っても無駄。気付かないとでも思っていたの? いいから出しなさい」
「…………」
「出さないのなら、親御さんにストーカーの件を相談するけれど」
今の段階でお母さんにこのことがばれるのは駄目だ。優等生ではないと思われてしまう。私は仕方なくポケットからスマホを出して哀川先生に渡した。
「……はい」
「最初から素直に出せばいいのよ」
先生はボイスレコーダーを切って、私のスマホをショルダーバッグの中に入れてしまった。これでは途中で取り返すのも難しそうだ。
仕方が無い。今日は情報収集に徹しよう。証拠集めは別の機会にもできるはずだ。
「ついてくるのは勝手だけれど、どうなっても知らないから」
先生はくるりと私に背を向けた。高らかにヒールを鳴らし、路地の向こうへ歩いて行く。心を決めた私は、足早にその後を追いかけた。
たどり着いたのは、白い小さな建物だった。一軒家のように見えたが、表札には画廊と書かれている。そういえば佐野さんは言っていた。哀川先生はよく写真展へ行くと。予想通り、入り口をくぐってすぐの壁に、『沼淵暮夫写真展』と書かれた真っ黒なポスターが張られていた。
受付で暗そうな男の人に百円玉を四枚渡し、パンフレットを貰って展示室に入る。室内は薄暗く、四方の白い壁にパネル加工がされた写真がぽつぽつと張られていた。客は少なく、先生と私以外には二人しかいない。しかし小さな貸画廊で行う個展ならこれくらいが普通のような気もする。
それでもこの写真展は、私のスマホを取り上げてまで哀川先生が記録に残すまいとしたものだ。何かあるのは間違いない。
怪しいところはないかと辺りを見回した後、最初の写真に目を向ける。
黒と灰色が目立つ写真だった。
黒い土の上で、アジア系の男の人が横たわっている。身体に布を巻き、固く目を閉じ動かない。そのすぐ横では、大きな鳥が男の人を見下ろしていた。羽毛が少ない頭に長い首、胴体と翼は鷲のよう。確かハゲワシという死体を主食にする鳥だ。鋭いくちばしを持つ鳥に近づかれても、写真の中の男は目を覚まそうとしている気配がなかった。
猛烈な違和感が胸を襲う。額から冷たい汗が落ちるのを感じた。恐る恐るパネルの下のタイトルを見る――『二度目の死』。
ばっと、顔を上げた。
黒。灰色。ハゲタカ。男の人。
この男の人はハゲタカによって二度目の死を迎えようとしている。
つまりこの男の人は――もう死んでいるのだ。
全身から嫌な汗が吹き出した。違和感が明確な恐怖に変わる。それを振り払いたくて、他のパネルに目を向けた。
身体の半分水に浸かって死んだ人の写真。左足が炎に焼かれて死んだ人の写真。右腕に黄色い花を握って死んだ人の写真――この空間にあるのは、死だけだった。
手元のパンフレットに目を落とす。真っ黒なパンフレットの表紙には、赤い文字で写真展のタイトルが書かれていた。
『沼淵暮夫写真展 ~死のある風景~』
胸がえぐられたような心地がした。ごちゃ混ぜになった感情が、涙となってこぼれ落ちる。せめてもの救いを求めるように、先を行く哀川先生の腕を掴もうとした。
けれど、その手は直ぐに止まる。
哀川先生は、写真を見て笑っていた。魚屋で魚を眺めていた時のように。鰺を解剖していた時のように。耐え難いはずの人間の死を前にして、恍惚とした顔を浮かべている。
ようやく、理解した。先生が魚を見て笑っていた理由を。
哀川先生は魚を通して――人の死体を見て悦んでいたのだ。
ぐらり、と目の前が大きく揺れる。胃の奥からせり上がってくるものを堪えるのは難しかった。
「白沢さん?」
床に崩れゆく私に気付いたのか、哀川先生がこちらを向いた。けれど先生に言葉を返す余裕はない。
「まったく。だから言ったでしょ、優等生さん」
うずくまる私の頭上から、哀川先生の冷めた声が降り注いだ。
「ほら、これでも飲んで落ち着きなさい」
「……ありがとう、ございます」
先生からミルクティーを差し出され、ベンチに座っていた私は素直に受け取った。
あの後、先生に画廊から連れ出されて、近くの公園にやってきた。ミルクティーの缶を開けて一口飲むと、ほどよい甘さが心に染み渡っていく。幾分乱れた気持ちも落ち着いてきた。
「これに懲りたら、もう人の秘密を探ろうなんて思わないことね」
哀川先生は私の隣に座りながらそう告げた。けれどその言葉に棘はない。諭すような、先生らしい口調だった。
そのせいか、頷く代わりに口をついて疑問が出る。
「……先生は、人の死体が好きなんですか?」
「ネクロフィリア……死体に性的興奮を感じる人間、という意味なら違うわよ」
哀川先生は特段動揺もせず答えてくれた。写真展に同行するのを許した時点で、聞かれると予想していたのかもしれない。
「なら、どうして死体の写真を見てあんな顔を?」
「憧れみたいなものかしらね。私は、あれを作りたいのよ」
「あれって、死体をですか」
「そう。死体って、美しいでしょう? それをこの手で作ってみたくて」
うっとりと話す哀川先生に、心臓がひゅっと縮まった。
「さ、殺人鬼――!」
堪らずベンチから立ち上がった。ミルクティーの缶が音を立てて地面に落ちる。中身が飛び散ったが、それにも構わず私はその場から逃げようとした。しかしその腕を先生に強い力で掴まれる。
「待ちなさい」
「嫌っ、離して――!」
私は必死に抵抗した。殺人鬼なら先生は冗談抜きで危険人物だ。その秘密を知ってしまった以上、早く逃げなければ殺されてしまう。
しかし先生は無理矢理私をベンチに引き戻し、呆れたようにため息をついた。
「心配しなくてもいいわよ。本当に人殺しはしないから」
「う、嘘……」
「嘘じゃないわ。でないと教師なんてやっていられないでしょう」
殺人を犯せばニュースになって、やがて真相は警察に暴かれる。それを考えれば、今の先生のように堂々と教師なんてやっていられない。私が黙り込んでいると、先生はようやく手を離し、ミルクティーの缶を近くのゴミ箱に捨てに行きながら話を続けた。
「確かに私には、昔から生き物を殺したいという欲求があったわ。でもそれと同じくらい、殺人や動物虐待が悪いとと分かっている。だから社会のルールに反するような、非人道的なことはしないわ。そのせいで自分が死体になるのは嫌だもの」
「でも魚の解剖をしたり、写真を持っていたり、死体の写真を見たり……」
「どれも法に触れてはいないでしょう」
確かに気持ち悪さや不道徳さはあるものの、法律で罰せられるほどではない。生物教師が解剖をするのはまあ普通だし、死体の写真も芸術や表現の自由と言われたらそれまでだ。
先生はゴミ箱から戻ってきて、再び私の隣へ腰掛けた。
「人間、好きなことや興味のあることはやってみたいものだけれど、私みたいな欲求を持っている人は、社会的に実行できないでしょう? でも我慢したままだと逆に良くないと思うから、時々できる範囲で発散しているの。魚を解剖したり、写真を見たりしてね。生物教師になったのも、その影響よ。解剖しても怒られなくて、その上社会に貢献できるなんて素敵じゃない」
「……それなら解剖医とかの方がよかったのでは? 合法的に人間を解剖できるのに」
「駄目よ、解剖医って医学部に行かなきゃいけないでしょう? 病院実習中に病人と薬を見たりしたら、耐えられる気がしないもの」
哀川先生が浮かべた妖艶な笑みに、背筋が粟立つ。何に耐えられないのかは、今までの話から大体推察できた。
「危険なものを身近に置かない。こまめに欲求を発散する。それが私のモットーなの」
「じゃあ、先生がアセクシャルやアロマンティックと言っているのは……」
「ただの隠れ蓑。私の前で完全無防備になる人間を作りたくないだけで、性欲も恋愛感情も普通にあるわ。まあ実際そこまで興味もないのだけれど」
「……十分、危ない人じゃないですか」
「自分を律していると褒めてほしいわね」
危ない人、という言葉を、先生はもう否定しなかった。写真展へ行く前は誤魔化したかっただけで、先生は自分の属性が他人からどう思われるか、本当はきちんと自覚しているのだろう。これだけ素直に態度に出されると、逆に信用できる気がしてくる。なにより哀川先生の秘密を追い続けることに、既に疲れてしまっていた。
「ともかく今の話は、他の先生や生徒には秘密よ。こうでもしないと貴方が納得しそうになかったから話しただけ。余計な混乱を引き起こしたくないもの」
言われなくても、話さないつもりだった。哀川先生は思考が危ない人間だったと言うだけで、結局のところなにもしていない。先生がしたことを並べ立て、殺人願望のある異常者だと学校に話しても、飛躍しすぎだと一蹴されるだけだろう。けれど色々と振り回された手前、素直に頷くのは癪だった。
「もし、約束を破ったら?」
「そのときは……どうなるか分かっているわよね?」
先生は意味深にそう言った。意趣返しのつもりなのかもしれないが、先生の本性を考えると笑えない。
「やあねぇ。ジョークよジョーク。怖がらないでよ」
先生はくすくす笑って空を見上げた。白い雲がゆっくり流れる青空を見つめる先生の目は、どこか悲しそうだった。
殺人願望という許されない欲望を持っているのなら、今まで何度も苦しんだり悩んだりしてきたのだろう。けれどそんな顔をするほどに辛いことがあってもなお、哀川先生は社会のルールに否定されない範囲で行動し、欲望を満たしているのだ。
「すごいですね、先生は」
「ええ、どこが?」
「社会に否定されても抱き続けるほどの欲望を持っていることが」
すると先生は目を瞬かせた。
「だって欲望は、簡単に捨てられるものじゃないでしょう? どうやっても諦めきれない、捨てられない。そんな強い感情が、欲望なのだから」
それが当然というように、哀川先生は続ける。
「人間、誰しも多少なりとも欲望を持っているものよ。欲望っていうとアレだけど……好きなものとか、やりたいこととか。そういうのは、貴方にだってあるんじゃない?」
「好きなもの、やりたいこと……」
確かにある。優等生、それが私のなるべきものだ。
――――いや、違う。
好きなものは好感。やりたいことは願望。
対して、なるべきものは義務だ。先生の言うものとは違う。
私は優等生になるべきだと思っている。
では、私は優等生になりたいと思っている?
わからない。少なくとも先生の言う強い感情や衝動はない。
でも、じゃあ――私の好きなものは? やりたいことは?
…………なにも、分からない。
いや、それどころか――
私はこれまで、何かに好感や願望を抱いたことがあっただろうか?
「どうしたの、白沢さん?」
私の様子を変に思ったのか、哀川先生が声を掛けてくる。気遣うような声色に縋ってしまいたくなり、思わず先生の服の裾を掴んだ。
「分からないんです、私……好きとか、嫌いとか。やりたいとか、やりたくないとか。なにも、分からなくて……」
話しているうちに、だんだん身体が震えてきた。今までの自分の人生が、ばらばらと音を立てて崩れていく。好きなものもない。やりたいこともない。なら自分は何のために生きてきたのだろう。これから何のために生きていくのだろう。
「落ち着いて」
哀川先生は混乱する私を抱きしめてくれた。先生の腕は柔らかかった。とくとくと動く小さな胸の鼓動を聞いていると、なんだか涙が出そうになってくる。
「混乱させてしまってごめんなさい。でも、ようやく分かったわ。学級委員長決めのとき、委員長になりたいと言いながら、貴方が死んだ魚みたいな目をしていた理由が」
先生が何か言っている。けれど直ぐ側にいるはずなのに、私にはよく聞こえなかった。脳内の混乱を処理するのに、精一杯だったから。
「ずっと貴方を猫かぶりの優等生だと思っていたけれど……そうじゃない。貴方は猫になっちゃっていたのね。被って被って、いつの間にかどうして優等生になろうとしているのかも忘れて、自分が分からなくなっちゃった猫」
「先生、私、どうすれば……」
「んー、そうねぇ……」
哀川先生は腕を緩めた。身体が離れ、先生と向き合う形になる。
美しい顔には、妖しい笑みが浮かんでいた。
「とりあえず、私の共犯になってみる?」
「きょうはん……?」
物騒な言葉が聞こえた気がして、眉間を寄せる。けれども先生は楽しそうにウインクした。
「大丈夫よ、猫ちゃん。ストーカーと比べたら、共犯になるくらい全然やましくないわ」
何を企んでいるのかは分からない。けれど今はこの訳の分からない苦しさから逃れたくて、私はゆっくりと頷いた。
こうして私は、哀川先生の共犯になる約束をしたのだった。
♢ ♢ ♢
第二理科室が、哀川先生に来るよう言われた約束の場所だった。
高校三年生の大事な模試の前に、勉強もさせず共犯になれと言ってくる哀川先生は、担任としてどうかと思う。けれどそれと同じくらい、私もどうかしていた。三日前のあの日、先生を暴いた後に自分まで暴かれ、混乱していた中で交わしたあの約束を、正気に戻った後でも取り下げようとは思わなかったのだから。
優等生であるべきだという思いは変わらずあるのに、それとは違う行動を取ろうとする自分が最近胸の中に住み始めている。まるで自分の中に二人の人間がいるようで落ち着かない。
「ふふっ、来たわね」
扉を開けると、待っていましたとばかりに哀川先生が出迎えてくれた。すぐ横の机には、先生の犯罪道具――まな板と解剖刀がそろっている。もちろん死体も既にまな板の上に横たわっていた。今日の犠牲者は鯖らしい。
「あと少し遅れていたら、先に始めてしまうところだったわ」
哀川先生は既に青い手袋を嵌めている。嘘偽りなく、私が遅れていたら本当に解剖してしまうつもりだったのだろう。誘ってきたのは先生なのに、無責任にも程がある。
「本当に好きですね、解剖」
「このために生物教師をやっているのだもの」
半ば呆れながら返した私に、先生は悪びれもせずそう言って、使い捨て手袋の箱を渡してきた。中には先生のと同じ、青い手袋が詰まっていた。付けろということらしい。私は荷物を入り口近くの机に置くと、一セットを引っ張り出した。
手袋を嵌め終えると、先生は解剖刀を手渡してくる。
「どうぞ、猫ちゃん。今日は主犯を貴方に譲ってあげるわ」
「その呼び方はやめてください。それから、主犯という言い方も」
「間違ってないでしょう? これから私たちは、死体を解体するのだから」
「魚を解剖するんです。犯罪でも何でもありません」
先生が提案してきた『共犯』。それは一緒に魚を解剖しようという誘いだった。解剖がどうして好きな物ややりたいことに繋がるのかは分からない。けれどなんとなくやった方がいいような気がしたから、こうして先生に付き合っている。
「相変わらず優等生なんだから。こういうのは雰囲気が大事なのに」
私の言葉に、哀川先生は子供のように唇を尖らせていた。薄々感じていたが、この人は自分の好きなことになると、感情表現が豊かになるらしい。こういう変化も欲望のなせる技なのかと思うと、妙にうらやましくなってくる。うまく共犯をやり遂げれば、私も先生のようになれるのだろうか。
解剖刀を受け取って、まな板の上の鯖と向き合う。生気を失った鯖は、うつろな瞳で目の前に横たわっていた。死んだ魚の目なんて魚屋やスーパーで見慣れているはずなのに、よくよく見ているとぞっとしてくる。
哀川先生はすぐ隣にやってきて、指で切るべき場所を指示してくれる。
「まずは肛門に刃を入れて、頭の下まで切り進めて。内臓を傷つけないよう、慎重にね。難しそうなら解剖ばさみを出してくるけれど、どうする?」
「いえ。解剖刀でやってみます」
哀川先生と同じやり方でやることに、意味がある気がした。
言われた通り、肛門に刃を差し入れる。鋭い刃が柔らかい身体へ沈んでいった。刃を押し進め、慎重に腹を切っていく。途中骨が当たって止まってしまったりしながらも、先生の指示通りに腹を裂き、エラに沿って上に刃を進め、最後にエラの先から肛門を直線で結ぶように、鯖の肉を切り取った。
赤の内臓が露出する。傷ついていない魚の内臓は、思いのほか綺麗だった。
「ふふふっ、なかなか筋がいいじゃない。さすが私の見込んだ共犯者。最初から解剖刀を使って内臓を傷つけずにお腹を開くなんて」
「それ、どういう気持ちになればいいんですか?」
「褒めているのだから、素直に受け取ればいいのよ。それじゃ、簡単にお勉強しましょうか」
哀川先生はピンセットを持って、それぞれの臓器を示しながら説明していく。
「この大きいのは肝臓、こっちは胃。エラの下の方に隠れているのは心臓よ。この辺りが腸で……」
相変わらず熱っぽい、うっとりとした表情をしている。勉強と言いつつも、先生は自分で一つ一つの臓器を愛でているようにも見えた。今この瞬間、先生の欲望が満たされていっているのだろう。こんな風に心を大きく動かされるものは、やっぱり自分には無いと思った。けれどどうすればそれができるのかも、私には分からない。
「分かった? 小さいけれど、魚にだって人間と同じ臓器があるのよ」
「それくらい知っています。小学生じゃないんですから」
興奮気味に告げた哀川先生に、ため息をつく。同時に失望した気持ちになった。やっぱり哀川先生は、自分の趣味に私を付き合わせただけではなかろうか。結局解剖をしても、好きなものや、やりたいことは分からなかった。
「この後は? もう一通り終わりましたよね」
「そうねぇ。私だけならもっと内臓を観察しているところだけれど、初心者の猫ちゃんには刺激が強すぎるでしょうし。一旦片付けましょうか」
やっぱり、もう終わりだった。悲しいような、騙されたような、もやもやとした気持ちが胸に広がる。心が暗くなるのを感じながら、解剖刀やピンセットを洗ってそれぞれ棚に収めていく。
器具の片付けを終えて机に戻ると、まな板の上の鯖はいつのまにか三枚おろしになっていた。解剖したから、半身はよく分からない形になっているけれど。
「それ、どうするんですか?」
「もちろん処理するのよ。じゃなきゃ、やったのがバレちゃうわ」
また怪しい言い回しをしているが、つまり食べるということらしい。けれど哀川先生は腕組みをしたまま、鯖を見つめて唸っている。
「どうしたんですか?」
「どうやって処理しようか迷っているのよ」
あまりに単純な迷いに、思わず呆れてしまった。
「いつもやっている通りにすればいいのでは?」
「それがそうもいかなくて。いつもはお刺身で食べているのだけれど、鯖はアニサキスがいるでしょう?」
少し前、ネットニュースで話題になっているのを見かけた気がする。人が食べてしまうと、ひどい腹痛を引き起こす寄生虫だったか。
「じゃあ料理すればいいじゃないですか」
「それこそ無理よ。私、料理できないもの」
「はい?」
つい頓狂な声を上げてしまった。
「あの、調理部の元顧問だったんですよね? なのに、料理ができない?」
「別に料理ができなくても、顧問の仕事はできるのよ。私はただ、定期的に魚をさばく機会が欲しかっただけ。家庭科の先生はご家族がいらっしゃって、顧問は気乗りしなかったみたいだしね」
「職権乱用……」
「まあ、否定はしないわ」
哀川先生は既に開き直っていた。
刺身は無理。先生は料理できない。ならばこの鯖の切り身は捨てるしかないのか。
いや、さすがにそれはもったいなさすぎる。食べられるものを無駄にするのは、優等生的には許されない。
私はスマホを取り出し、ネットを開いて検索をかけた。しばらく調べていると、ちょうど良さそうなサイトを見つけた。
「先生、調味料はありますか?」
「ん? 家庭科の先生に頼めば貸してもらえると思うけれど……」
「私が、鯖を料理します」
先生の顔が、救世主でも見つけたかのように輝いた。
「んんっ、これ美味しいわ! 鯖の味噌煮なんて、食べたのいつぶりかしらねぇ」
私の目の前で、哀川先生は次々と鯖を口に運んでいる。
鯖を料理すると決めた私たちは、家庭科の先生に連絡し、家庭科室と諸々の調味料を借りて料理をした。先生には鯖を切ってもらい、私はレシピとにらめっこしながら料理をする。そうしてなんとかできあがった鯖の味噌煮は、意外にも悪くない出来だった。
「悪くないどころか、とても良いわよこれ。毎日作ってほしいくらい」
「褒めすぎです。レシピが良かったんですよ」
そう言いながらも、本当は嬉しかった。母子家庭ではあるが、お母さんの代わりに料理をしようとすると「そんな暇があれば勉強しなさい」と言われていた。だからqまともに料理をしたのは家庭科の授業以外で初めてだった。そんな私の料理でも、先生が喜んでくれたと自覚し、胸がほかほかと温かくなる。
哀川先生はしばらく味噌煮を楽しんでいたが、半分ほど食べたところで私の方を向いてきた。
「さて、これからが本題だけれど」
「えっ、なんのですか?」
唐突な話題に首をかしげる。
「決まっているじゃない。共犯の件よ」
思わず目を見張った。その話は、とっくに終わったと思っていたのに。しかも今からが本題だなんて、先生はどういうつもりなのだろう。
戸惑う私の顔を、哀川先生は探るような目で見つめてくる。
「解剖しているとき、どう思った? 鮪の目玉は授業でやったけれど、一匹じっくり解剖するのは初めてだったでしょう?」
「どうって……普通です」
しかし先生は首を振る。
「もっとよく考えて。解剖刀を鯖に刺した時は? 鯖の内臓を観察したときは? なんでもいいの。でも普通は禁止。ゆっくりでいいから、思って、感じたことを、ちゃんと自分の言葉にしてみて」
言われて私は思い返す。
鯖の感触。解剖刀の切れ味。お腹を切り開いた瞬間。
全部普通だと思っていた。けれど本当に、ほんの少しだけ、違う感情もあった気がする。
「鯖を切った時は……解剖刀って結構切れるんだなって。内臓は、思ったよりも綺麗だった。お母さんがさばいた時とは大違いで、さばき方でこんなに違うんだなと。でも……解剖自体はすごいなって思ったけど、先生みたいには思えない。多分、好きな訳じゃなかったんだと思う」
一つ一つ。心の底の底に落ちていた感情たちを拾い上げる。ただそれだけなのに、勉強している時よりも頭を使った気がした。同時に驚いた。自分が解剖に対して、それほど色々考えていたのかと。
話し終えて顔をあげると、哀川先生は安心したように頷いていた。
「そう。ちゃんと自分の感情を理解できるじゃない」
「でも、これが好きなものや、やりたいこととどう関係が?」
「それを見つけるために大事なのが、自分の感情なのよ」
哀川先生の手が、そっと私の手に重なった。
「貴方を見ていたら、私と逆なのだと思ったわ。私は特に欲望に忠実に生きている人間だからか、色々と好き嫌いが激しいの。だからこそ、自分の好きなことも、やりたいこともすぐ分かる。けれど貴方はその逆で、周りで起こったことに対して自分がどう思っているか理解できていないのね。だから自分がわからない」
考えてみれば、ずっと私は「優等生らしいかどうか」という基準で動いていた。その中で知らず知らずのうちに、自分の感情を考えなくなっていたのだろう。
「それって、いけないことなんですか?」
「別にいけなくはないわ。ただ、貴方はそういう人ってだけ。でも貴方は前に、自分の欲望が無いって戸惑っていたでしょう。だから今日はヒントをあげただけよ。そうすれば選べるもの。どうやって生きるか、ね」
先生の手が私の手の甲を優しく叩く。なんだか応援されているような気がした。
「今までと同じように生きるのも、欲望を見つけて生き方を変えるのも、それは全部あなたの自由。けれどそれを選ぶときに、自分がどう思っているか、一つ一つ考えてみるといいわ。初めはしんどいでしょうけど……またあんな風にならないためにも、ね」
あんな風、とは欲望がないと混乱していた時を指しているのだろう。確かにあれほどの不安と戸惑いに襲われるのはもうたくさんだった。けれど自由と言われても、何から考えればいいのか分からない。
それを告げると、先生はしばし頭をひねらせた後に微笑んだ。
「そうねぇ。まずは今週の模試の志望校欄に、どこを書くか考えてみたら?」
「お母さん、仕事ってなに?」
「どうしたのよ、急に」
仕事から帰ってきたばかりのお母さんは、私の質問へ怪訝そうに眉をひそめた。
予想通りの反応だった。だから私は用意していた建前を返す。
「大学って将来働くための勉強をするところでしょ? でも私は、働くってどういうことなのか知らないから。参考に教えてもらいたいんだ」
先生から与えられた課題、志望校欄にどこを書くか。それを考える為にはまず、何のために大学に行くのかを考えた。そうして大学に行くのは将来のため、仕事のためと結論づけた私は、それについてお母さんに話を聞こうと思ったのだ。
けれどお母さんは、すぐに答えてはくれなかった。
「そんなの考えなくてもいいのよ。どのみち清花ちゃんは医学部に行くんだから」
「そうかもしれない。でも優等生なら、ちゃんと考えておいた方が良いと思って」
「まあまあ、確かにそうね! 本当に、清花ちゃんは真面目で良い子だわ!」
優等生なら、と聞いたお母さんはすぐにころりと態度を変えた。万が一の為の言い訳を、ちゃんと考えていて良かったと思う。
「そうね、仕事は……言ってしまえば、お金を稼ぐためのものよ」
お母さんはすっぱり言い切った。
「それだけ? 楽しいとか、楽しくないかは?」
「関係ないわ。生活のために働いて、お金を貰う。その手段が仕事。ただそれだけよ」
お母さんの意見は、自分の欲望から生物教師になった哀川先生とは大違いだった。同じ働いている大人なのに、ここまで違うのかと驚いてしまう。
「結局人生は、お金を稼いでいる人が勝ちなの。お母さんだってもっと稼げていれば、もっと良い暮らしができていたのに……だから清花ちゃんも、お金を稼げる人になりなさい。と言っても清花ちゃんは医学部に行くから、心配ないだろうけどね」
お母さんは私の肩をぽんと軽く叩いて、着替えるためにクローゼットへ行ってしまった。
私は一人その場で考え込む。
人生はお金を稼げた人が勝ちとお母さんは言う。
けれど哀川先生はお金なんて気にせず、好きなことのために生きている。
どっちが正解かは、わからなかった。
いつもなら何も考えず、お母さんの考えが正しいと思っていただろう。けれど哀川先生は言っていた。自分はどうしたいと思っているのか、一つ一つ考えて見るといい、と。この二つの選択肢、どちらがいいか迷うこと自体に価値がある気がした。
私の中で、かちりと何かが動く音がした。
一ヶ月後、模試の結果が帰って来た。
教室でクラスメイト達が次々悲鳴をあげていく。三年生の最初の模試。みんな油断して勉強をしていなかったのだろう。けれどこの試験でみんな自分の成績を自覚し、目標の大学合格に向けて必死に勉強しはじめるはずだ。この時期の模試は、きっとそういう役割も含んでいる。
「白沢さん」
哀川先生に名前を呼ばれた。返却の順番が回ってきたらしい。
前に出ると、哀川先生は私を見ていたずらっぽい笑みを浮かべた。半分に折られた成績表を差し出しながら、私にしか聞こえないくらいの小声で囁いてくる。
「そんなに鯖の味噌煮を作るのが楽しかったの?」
成績表を開いて、志望校の欄を見る。
「多分、そうでした」
私はそう言って笑みを返した。
帰宅後、お母さんに模試の成績表を渡すと満足そうに頷いてくれた。
「さすがは清花ちゃんね! この時期からもうA大学もB大学も医学部がA判定なんて! お母さんも安心だわ!」
「まだまだ気は抜けないけどね」
「ふふ、清花ちゃんは本当に良い子。このまま真面目に勉強して、医学部に行くのよ」
お母さんは満面の笑みを浮かべた後、「でも」と眉をひそめて言った。
「この第三志望はなに?」
『F大学栄養学部 A判定』
第三志望の欄には、そうあった。
模試の直前まで、どうするべきか迷った志望校。悩みに悩んで、そしてほんの少し――本当に僅かだけ、志望校を医学部にすることに、迷いを感じたのだ。
だから第三志望の記入欄で手が止まり、気付けば全く別の大学を書いていた。栄養学科にしたのは別に大した理由じゃない。前に哀川先生が鯖の味噌煮を美味しいと言って食べてくれたのが、嬉しい記憶として残っていたからだ。
「なんでこんな大学書いたのよ。他の医学部にすればよかったじゃない。栄養学部なんて、行ってもつまらないじゃない」
「そうかもね」
ぶつぶつ文句を言うお母さんに、私は素っ気なく聞こえるよう言葉を返す。
けれど心の奥底では、今まで感じたことの無い達成感が生まれていたのだった。