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手紙

ある日、金持ちの坊ちゃんから依頼が舞い込んだ。

あの、聡明で麗しい伯爵令嬢に恋をしたのだという。

手紙で想いを伝えたいが、知識も教養も彼女には到底及ばず、とてもじゃないが自分では書けない。

――だから、代わりに恋文を綴ってほしい、と。


こうした依頼は、これまで数えきれないほど受けてきた。恋に落ちた男たちの“言葉の代筆”。もはや日常業務の一環だ。


早速、手紙の作成に取りかかる。

まずは彼に、彼女を初めて見た場所、目を引かれた仕草や言葉を聞き出す。

そこから、令嬢がいた場所の由来、彼女の家の歴史、関わりのある文学や芸術の引用などを添えていく。


知識を愛する令嬢には、単なる甘い言葉より、好奇心をくすぐる知的な贈り物の方が響くだろう。

恋心は、知の器に注ぐことで、輝きを増すのだ。



数日後、令嬢から手紙が届いた。

彼女はこう綴っていた――「ぜひ、このまま文通を続けたい」と。


私が書いた手紙に込めた知識の一つひとつに、深く感銘を受けたらしい。


これを聞いて、坊ちゃんも嬉しそうだった。

それからは、彼の伝えたい思いを私が聞き取り、それを知識で彩って手紙にする。

返ってきた手紙は二人で読み、言葉を選び、また次の手紙を考える――そんなやり取りが、しばらく続いた。


だが、ある日ふと、胸の奥からある感情が湧きあがった。


「坊ちゃんでは、彼女に釣り合わないのではないか」

「私の方が、彼女にふさわしいのではないか」――と。


そんな思いは、これまで一度たりとも抱いたことがなかった。

だが、これまで出会ってきたどの女性とも違った。

彼女は、言葉に、知識に、そしてその行間に、私の心を惹きつけてやまなかった。



ある日、坊ちゃんが仕事で来られなかった日。

令嬢からの手紙が届いた。

いつもなら彼が来るのを待つのだが、その時ばかりは違った。


私は、待てなかった。


彼の確認を取ることなく、私の思うままに返事を書き、封をして――送ってしまった。


後日、令嬢からの返事が届いた。

あの手紙に、とても満足してくれたらしい。

「今までで一番」とまで書かれていた。


跳ね上がりたいほど嬉しかった。

……だが、その場には坊ちゃんがいた。


彼は手紙を読んでも、特に疑問を抱いている様子はなかった。

そう――彼は、自分が関わっていない手紙が絶賛されたことに、何も感じていないのかもしれない。


だが、その手紙には思いもよらない言葉が添えられていた。

「よろしければ、今度お会いしませんか?」


――彼女から、デートの誘いが来たのだ。


私の心に、激しいざわめきが走った。


もし二人が会えば、坊ちゃんが彼女の想像していた人物ではないと分かってしまう。

その落差に、彼女はきっと失望するだろう。


……そんなこと、させたくない。


――いや、させればいいのか。


彼女が彼を振れば、私が書いていたと気づけば、きっと私のもとへ来る。

知識を交わせる相手として、共に歩むことができるはずだ。


私は坊ちゃんに、「恋愛指南の一環だ」と称して、デートの進行や使える言葉を丁寧に教えた。

だが、正直なところ、そんな上っ面の言葉だけで彼女の心をつかめるとは思っていない。


彼は――間違いなく、振られるだろう。



数日後、坊ちゃんが怒りをあらわにして部屋に飛び込んできた。

話してみても彼女の反応は冷たく、挙句の果てに

「あの手紙はあなたが書いていないのでしょう?」

と、直接問い詰められたらしい。


怒りの矛先は当然、私に向かった。


こんな責任を人に押し付けるような男が、彼女のお眼鏡にかなうわけがなかったのだ。

知識もマナーもなく、あるのは金だけ。

しかも、その金は戦争で稼いだ成金野郎のものだ。


坊ちゃんに殴られたが、決して殴り返さなかった。

理由はいくつもあっただろうが、何よりも――

彼と同じ土俵に立ちたくなかったのだ。


そのまま彼は金を投げつけて去っていった。


私はその事実を確認すると、意気揚々と新しい手紙を書き始めた。

「私こそが、本当にあなたを愛している人間です」と。



数日後、令嬢から返事が届いた。

会う場所が指定されていたので、私は約束の地へ向かった。


今までは、空想の中の存在に過ぎなかった彼女。

しかし、実際に目の前にすると――

その麗しさは言葉にできないほどで、胸が震えた。


身分だけで見れば、私など到底及ばない存在かもしれない。

だが、わざわざ呼ばれたのだから――

もしかしたら、可能性はあるのかもしれない。


対面すると、彼女のオーラが強すぎて、まともに目を見つめることができなかった。

しばらく沈黙が続いた後、彼女がぽつりと問いかけてきた。


「あなたが、あの手紙を書いていらしたの?」


私はすかさず、自分の身分も、あの手紙に込めた想いのすべてを打ち明けた。


だが、彼女の顔には喜びの色はなく、むしろ少し残念そうに口を開いた。


「あなたの書く言葉は、どんなに美しくても――

それは、本当のあなたの声じゃない。

ただの代筆よね?


私はね、本物のあなたに会いたかったの。

でも今、目の前にいるのは、誰かの言葉をなぞるだけの人。


だから言わせて。

そんなあなたが、本物の愛を語るなんて、やめてほしい。


私が欲しいのは、嘘のない、本当の想い。

でも、それはもう、ここにはないみたいね。」


そう言い残し、彼女は無言で去っていった。

振られたのだと、私は思った。



数日後、私は代筆屋を辞めた。

そして、文章に携わってきた経験を活かし、図書館で働き始めた。

知識に触れることで、さまざまな欲望を満たしていった。



数年後、知人から聞いた話だと、あの令嬢は海軍大将の息子と結婚したが、すぐに未亡人になり、彼女も間もなく後を追ったらしい。


私は自室に戻り、あの時綴った手紙をそっと取り出して、静かに読み返した。

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