第8話:いま、なにもしないって、ダメですか?
なにもしてない日が“無駄”って決めてたけど、
本当は、誰にも見えないところで“自分を守ってる”のかもしれない。
ケンちゃんは、戦わずに、でも折れずに、生きてた。
——吉本レン
団地の廊下。いつも半開きのドアの向こうから、ゲームのBGMが聴こえる。
住んでるのはケンちゃん。
30代、無職、いつも夜にだけ現れる“団地の幽霊”みたいな人。
会えば普通に話してくれるけど、外にはほぼ出ない。
何をしてるのかも、誰もよく知らない。
「ケンちゃんって、ずっと働いてないんでしょ?」
いっちーが言った。
「それって未来ないって感じじゃん?」
「……オレ、わりと未来ない側の人間だけどな」
レンが言うと、ももかがジュースのストローを引き抜いて言った。
「“ない”って言ってる間は、たぶんずっと“ない”ままだよ」
いっちーは返せずに、ポテチをひと口かじった。
その夜、なんとなく未来屋へ向かった。
ミラジイは金魚鉢の水を替えていた。
「“何もしない未来”って体験、ありますか?」
「ある。無職体験。何もないが、何かが揺れる。
終わってから分かる、そういうやつだな」
「……やってみます」
——未来の自分は、何もしていなかった。
朝は昼に起き、スマホをぼーっと眺め、ゲームして、昼ご飯はコンビニのカレー。
時計を見るたび、「もうこんな時間か」とつぶやいて、
夜になると胸がざわつくけど、特に何かが起こるわけでもない。
外の音が遠くなって、
いつのまにか布団に潜って、スマホを持ったまま眠る。
(……なにやってんだろ、オレ)
誰かに責められたわけじゃない。
でも、責められてるような気がして、苦しかった。
現実に戻ると、団地の廊下でケンちゃんとばったり出くわした。
「未来、見てきた?」
「……無職体験でした」
ケンちゃんは、笑わなかった。
「それ、オレも一回やったんだ。銀次に“お前は一度、鏡を見ろ”って言われてさ」
「……どうでした?」
「やっぱ、しんどかったな。何もしてないはずなのに、胸の奥が重くて」
ふたりで階段に座った。
「でもな」と、ケンちゃんは続けた。
「何もしない日って、実は“自分に向き合ってる時間”なんだよ。
未来が怖いとき、人は“今に閉じこもる”。それって防衛本能だよ」
「……じゃあ、逃げてもいいんですか?」
「逃げるのと、守るのは違う。
今日一日をちゃんと終わらせた。それだけでも、すげぇよ」
「でも、ケンちゃんはどうするんですか?
ずっとそのままで?」
しばらく沈黙があった。
「……わかんね。でも、明日“なんかしたくなる”可能性は、ゼロじゃないだろ?」
それを聞いたとき、レンはなぜか少し泣きそうになった。
その夜、未来屋の奥の棚に、
「何もしない日の記録」と書かれた古びたノートが置かれていた。
1ページ目には、こう書かれていた。
《11:45 起床/13:00 カレー/14:22 ぼんやり/16:00 SNSで犬動画/19:00ゲーム》
そして、最後のページには手書きで、
《今日も何もしてない。でも、生きてる。それだけで、今日は合格》
という文字が、ちょっとだけかすれて残っていた。
夢がある人だけが偉いんじゃなくて、
毎日をちゃんと終わらせてる人、実はそれだけでスゴい。
明日は、ちょっとだけでも“やってみようかな”って思えたら、それでいい。
——吉本レン(今日は早く寝ます)