(55) 新世界より(4)
菅原大附属高校。
昼休み。
高校の屋上へつづく扉は施錠されている。なので、その階段の前はなかば物置きとも化しているようだった。実際は、避難経路の関係があるから、そんな塞がっているほどではないのだろう。ふだん施錠しているということは、非常時の利用はそこまで真剣に考慮していないのだろうし。
階段に腰かけ、ゲンコは後ろに手をついていた。考えるのに、ちょうど疲れたのだった。
手にしているのは白い欠片だった。乾いた石のような表面で、断面がつぶつぶと気味悪い。
質感は木に近かった。が、生物の一部のようでもある。具体的には、骨だ。
(これに、なにか意味が?)
二日前の話だ。
ウェルフに同伴して、秩序の国の事務所建物で、代表の冨地原に初対面で会った、そこからは三日後になる。
ふたたび、ゲンコはウェルフとともに事務所建物へ行った。
その日は祝日で、団体のあつまりがあるからだということだった。ウェルフがひとりで……ではないだろう、グリニザの意向がからんでいるのだから。
とまれ、ウェルフが話をすすめていたらしく、ゲンコは、ふたたび保護者同伴で参加する学生だった。その日は普段着で、よそ行きのひらひらしたスカートなど履いていたものだ。いつものゲンコであれば、この下に高確率でスパッツを身につけているだろう。
ベルト付きのシックな色合いのフリルスカートに、上はシャツにジャケット、明るいめのネクタイなど首もとに下げている。足元は裏起毛のあたたかいタイツ、黒いブーツにあわせて、下ろした髪にヘアピンを入れ、前髪をよけている。この服装は、あまり内情を体験したことのない団体にもけっこうとけ込んでいた。
「白いものを身につけろ」
というウェルフの指示のもと、(白い)シャツにあわせてきたものだ。
なんでも教義上の理由で、団体では白をおもんじているのだとか。
袖まくりにしたジャケットの右手首に、いつもの腕時計がある。文字盤も簡素な、流行りのものとは格段に安っぽい。が、長持ちで丈夫で、ゲンコが病床にあったころから、彼女の時間を見守っている。じっと。
宗教的な儀式の空気をまえにすると、人はスピリチュアルな気持ちにとらわれるという。駆られる、ともいうか。神聖な存在の目を感じて、なんとも自分の人生がいたたまれないものであるように、精神的に、盛りあげられる。あるいは盛り上がる。よし、と、ゲンコは時計の針を意識して、自分の気分をつくりあげた。ゲンコはいま、せっかくの休みによくわからない集いで親戚の男性に付きあわされた、好奇心と己の不幸にさいなまれるティーンである。
「演技をするとき、自分で自分の気分を盛り上げるとよい。方法は、なんでも。コンセントレーションの要領で自分に酔うといいかも」
とは、ウェルフに言われたことの要約である。実際にゲンコもそのようにした。
儀式は屋外で行われる。四方を白い壁につつんで、もっとも壁がしっかりとあるのは車道側だけで、その壁にポールのような装置をとりつけて、さらに高い幕を貼っている。
儀式の場は一般的な庭の広めな作りになっていて、聖火台、と、冨地原が説明で言っていた白い装置がある。装置の台座の部分には、うろこ状の模様をもった有翼を広げたふたりの人の彫刻がある。これは一つの身体を共有する二人の人の頭をあらわしていて、教義の神格にあたる。有翼の身体の下には、足のようにのびて先が丸く巻いているロープ状のものが、二本。これはリボンであり、二本の脚であり、元は二匹の蛇であるというが、ゲンコには植物のつるか触手に見えた。
また、二人の人はむかいあわせに立ち、どちらも横顔をさらしているが、目の部分が真ん中でつながり、小さな五つの輪があるようにも見える。まあ、あれが目だとするとだいぶ巨大なのだろう。
火は事務所内で絶やさず燃やしており、厳密には祈るべき聖火はこちらである。が、密閉された空間で、というのは保安上、健康上、ひいては法律上問題がある。
そのため、儀式を行う際は、外の聖火台に火をうつすという。四方を覆う壁には、空気取り入れ用の穴が仕掛けて作ってある。聖火台には、燃された薪がおごそかに積まれていて、台の前、参加者が並んでいる側には捧げ物が並んでいた。
前に出した両腕を、両の手のひらを身体に向けた形で折ってかかげ、冨地原の横に立つ、儀式をとりしきる細字という男性が、祈りの言葉をささげている。教義に使われる教典の言葉を日本語に訳したものを使っていた。火には冨地原たち教団の主側の人間以外は近寄らず、(ほかの人はみな)じっと立ったまま祈りの言葉の暗唱を聴いている。小さく口の中でなにか唱えている人もいる。暗唱を追いかけるかたちで、口ずさんでいる人もいる。
暗唱は実のところ、半分歌のようだった。実際、メロディがあるようで、単調な調子で特徴的な、ややくぐもったような歌声が朗々と静かな場にひびいていた。日本人があげるお経、というのにちょっと似ているようだとゲンコは思った。心霊現象の資料として、映像で流れているのを見たことがあった。
似ているのは火を燃やすこともそうで、これは日本の仏教で言う護摩というのにも通じる、と、冨地原が説明で言っていた。
(ちょっといいな)
と、ゲンコは表面的には退屈さをかみしめた様子で立っていた。なんであれ歌というのは好きだ。
金属の表面を反射する耐火性の皿。皿の下に敷かれた葉の独特なにおい。そういったものは、また独特の憂うつさのようなものを、どうしても与えたが。
若い人が、宗教的な慣例に対して感じる憂うつさは、面倒くささ――それは、宗教的なすべての周辺にかかわることで発生する――と、厄介さ――年寄りと宗教的なことについて議論になりかねないとき特有の。若者は、もっと進歩的な、たとえば政治や映画スター、歌手や野球選手について語りたいのに――が、そのおもな原因である。
管理スタッフのエマヌエル・バランソが、そのようなことを言っていた。耳がいいし、動作も機敏な彼女は、話し方や感覚も同じようでしばしば若いゲンコとも議論のようなことをしてくれる。その議論のなかで、そんなことを彼女が言っていたと思う。
一理あるとゲンコなどは思ったが、敬虔なシェイクなどにはとても言えない。年寄りと言われたところで、かっとなって暴れだすようなシェイクとはまさかゲンコも思っていない。
が、宗教的な規範とは、自分の半身で、触れられたくない生まれ故郷、生活の一部で、分離できない億劫に感じることさえあるものだ。それに言及してはいけない。これはしかたなく、また、徹底して守られる。生傷と同じである。
儀式が終わると、白い服の事務所職員が、聖火台の横に白いポリタンクを並べていた(中身は水で、儀式の最中はもっとはなれた場所に置いていた)。冨地原はそれを手伝ってから、ウェルフとなにか短く話した。それから、ウェルフとは少し別れて立っていたゲンコに「お疲れ様でした」と、声をかけにきた。
「今日はありがとうございました。貴重な休日に、大変だったでしょう」
「いえ」と、ゲンコは短く答えた。生意気にならないよう気をつけるふうで、一言つけくわえる。冨地原はおだやかに笑ったが、大げさではなかった。神父のように好感がもてた。わけのわからない好感だ。
それで終わるか、というタイミングで、これを、と、冨地原はちょっと唐突感のある言いかたで言ってきた。なにかの透明なケースをかぶせた入れ物だった。ケースから布を敷いたような中身に白いものが収められているのが見えている。
「お持ちください。はじめて儀式に参加された方にお渡ししているものです。うちの慣例でね」
と、わざとぞんざいな言い方をしたように、言う。
入れ物はゲンコが手のひらで握って、すっぽり隠れてしまうくらいの大きさだった。上着の(横の)ポケットにしまうのにちょうどいい、とも言える。
ありがとうございます、と、ゲンコは目礼して受けとった。中身がなにかは聞かない。
「ああ、そうだ」
冨地原が言った。「はい」と、ゲンコは機敏に言った。冨地原は、意外に感じたように瞳を動かしながら、言った。
「あなたは黄金の雲間を見ましたか?」
「いいえ」
ゲンコは答えた。それから、ちょっと首を動かしかけたようにした。
「いま……すこし」
「なるほど」
冨地原は言った。またにこにことした。
「このあとは、アヴェスターと言って、ゾロアスター教の聖典を希望者にお教えするという集まりになっています。マイクさんは今日はお帰りになるそうですから、お気をつけて」
「冨地原さんは、黄金の雲間を見たことがありますか?」
「いいえ。それはあなたが見るものです」
冨地原は答えた。ゲンコは、ふいにその後ろの頭上に目を引かれて、視線を動かした。
空が見えた。もろなお町という都市は、空がひらけている。海岸線に独特な入り組んだ岩山のようなかたちを残している海辺がすぐ近くにあり、市内を大きな川(日本の基準で)が広く流れ、水路をつくり、海まで流れている。その関係で海風がすぐ近くをわたる。
その見晴らしがよく、潮のかおりがする空だった。黄金に光っていた。十月の曇りがちな空と太陽、憂うつな雲間が形成されていた。雨が降っているような曇り空に、射しこむ太陽の光がまばゆいのだった。それは通常のように光に色をつけたような色ではなく、とろりとした蜂蜜のような、黄金色だった。よっぱらっているときに、人が見る夢景色じみた風景だった。
悪夢めいている。
ゲンコは空から目をそらして、冨地原にうなずいた。冨地原もうなずいた。ゲンコは、ウェルフに連れられて事務所をあとにした。
「食事をしていく」
と、ウェルフが言い、ゲンコは車で移動先のラーメン店に移動した。
「冨地原氏はなにか言った?」
と、移動の車のなかで、ウェルフが聞いてきた。
ゲンコは答えた。
「黄金の雲間が……ウゥん。いいえ。その、ウェルフさんは朝食で出される黒いプディングについて、どう思いますか?」
「なにか言われたのか」
「いいえ。渡されたものはあります」
「そうか」
ゲンコは一応、渡されたもののことは報告しておいた。が、重要なものとは思われない。ウェルフも、重要とは思わなかったようだった。
「ブラックプディングのことなら、コメントはさしひかえる。黄金の雲間については、あとで聞くが、希望するかね?」
「いいえ」
「そうか」
ウェルフは言った。
黄金の雲間。
黄金の雲間とは、一般には幻覚のことである。それは見えるときには美しいよりも、不安でうっとうしいものとして見える。
一般には、と言ったが、特殊な事例として、言葉自体をとりあつかうゲンコら……これも正確ではないのだが、うまい言い方をするとなんだろう。たとえば、外宇宙の神々、もしくは限定的に言って怪物の現場処理にたずさわる人たち? そのすべて。全般……以外に見えることがあるかはわからない。そんなものが見えるとしたら、精神的な障害、脳の病気、目の異常、ラリっているということが考えられる。そのうえで言うなら、兆候だった。
現場作業に継続的に長い期間たずさわることで、人間のなかに、それを原因として、変異する者がいる。そういう現象の兆候として、その人は黄金の雲間を見る。だいたい、目撃された例をあげれば、それは蜂蜜のようにとろりとした黄金色ではなく、ぎらぎらとかがやく祭壇の黄金である。
また、かならず空に見える。もちろん祭壇と言ったら黄金ではなく、石かとても黒い石で、生贄が血を流すための溝が彫られている。
そのことから言っても、黄金の雲間とは、人の想像から生じる、とらえどころのない、不吉で、ひどく心もとない心理になるものである。この雲間を見る人は、すでに末期的な状況にあり、すぐにでも現場からはなれなければならない。もっとも、離れたからといって、変異することはもう避けられない。遅いか早いか。
このような状態なので、雲間を見る人は、かならずそれを見たとき黄金の雲間を「見た」と確信をもって断定する。
そして、おのおのばらばらな感想をもらし、あとで特徴をとりまとめる人の仕事を気鬱に増やした。
そのため、ゲンコは自分が見たものが黄金の雲間でないと断定できた。見たらわかる、ではなく、断定するからだ。
しかし、いっぽうで、ゲンコはそれとはちがう「黄金の雲間」を自分が見かけていることに、自覚的だった。だが、言葉にできることがいっさいないのだった。
もろなお町のラーメン店は、とくに外国人観光客が求めるもので、日本特有のラーメンという文化が貴重なのだそうだ。運転手をしていたネスタもいっしょに食べたのだが、彼は意外にもラーメンをたくみにすすった。ゲンコはいまいちこのすするという動作がへたくそだった。母に慣れさせられていて、できないわけではなかったのだが、こればかりは個人差だろう。
実際、ウェルフなどは最初からできないので、やろうともしなかった。
それほど食べたかったのだろうかと思い、あとでそれとなく聞いてみると、「いや。おいしいと評判のものを試してみないのは、なにか損をしているようで、そんな気分だった」と、よくわからないことを言った。今度、もっと有名な店を紹介する、と、ネスタが話していた――もろなお町のある大きな自治体の北半分と南半分部分とにわけたうちの、北半分のほうに、全国的に有名な駅前の屋台からなる、ラーメン・タウンとでも言うべき場所があるらしいのだ。ゲンコも聞いたことがあり、行かないかと松本に誘われている。
それにウェルフがなんと言ったかは覚えていない。ゲンコはそのとき、らしくもなく、心ここにあらず、という状態だったからだ。
すなわち、母は黄金の雲間を見たのかという疑問。母は、「黄金の雲間」を見たのかという疑問。
冨地原からもらった白いものを見たとたん、その言葉にはいっさいできないが、自覚的であるものが見えかけていた気がすること。
そのためにあの白いものが気になる疑念が、おどろくほど頭を満たしていたこと。
(あれは一体何? どうして、こんなに気にかかるの?)
気にしている場合ではない。
現在時点で、ただ事でない問題がある。エイブリーが形を変えたこと。その後、作動になんの問題も見られなかったが、もう一度あの形態にしようとしてもやり方がわからない。
エイブリーの一番の問題点である、いざとなったら問題がある場合にどのような動作をするかわからない、仮説も立たないというのが、もろにさらけ出されているかたちだ。
グリニザのスタッフで調査にかけることになる、すでに報告もすませてある。
その場合、結論が出るまで最悪、使えないという状況が待っているだろう。
(そうなったら、小銃を持って現場に突入するだろうな)
それくらいしかねじこむ方法はない。
ゲンコの左足は、あくまでガットギターを持っていないときの補助くらいにしか使えない。それもゲンコの努力しだいの話ではあるが。
もちろん、エイブリーである。エイブリーの基本は、意思ある暗闇から出でる怪物に対する有効な打撃となることである。
が、それと現場の仕事はべつであって、素人に毛が生えたていどしか習熟していない銃器、体さばきの、慣れてもいない相手を連れて入れるかといったら、答えはノーである。おもに包囲班ということになる彼らにも、いっこいっこ人格があって、それは感情のうえでも実際のうえでも自分が死ぬ確率を上げたくはない。なんだかよくわかりもしない化け物に殺されるのだから。また、現場の撤収が長引くことで、自分が変異してなんだかわかりもしないものになることも、ごめんである。
自分が申し出たら、ウェルフはどんな顔をするか。面と向かってだめだ、と、煙草を出すような気軽さで、表情ひとつ変えずに言ってくるのが想像できる。胃を痛くしながら、ゲンコはスカートの尻を払って立ち上がった。当然、そんな想像は、ゲンコの作り上げた想像でしかない。自分が自分を抑えきれないので、現場に出たいのと、同じレベルで。
すっと、降りかけたときに、階段の踊り場に猫がいるのが見えた。黒猫であった。もう一匹あらわれた。すっと、虚空からあらわれるように、であった。
「?」
ゲンコは足を止めた。ガタン! ゴゴン! と、そのとき、轟音が鳴った。ゲンコは音のほうをふりかえった。音は、扉から、屋上に続く通路からしていた。扉が向こうから叩かれて、ついにばきり、と、ひしゃげた。
ゲンコが左足に手を伸ばした。そのときだった。
ぐる、とのどになにがが回された。ちょうど、格闘の訓練で受けるチョークスリーパーのように。腕のような、もっと軟体な何かが、ぐるりとゲンコの喉をとらえて回った。
「がっ……く――」
ゲンコはカエルが潰されたように言った。およそ生活していてありえざる声が音となってもれたのだ。
ぎしっと、足が平衡を失い、体重が喉まわりへ移動する。力がこもり、身体が床から浮いているのだ。ゲンコの両目に血がのぼり、赤い血管が脈打ち、耳がつんとして聞こえなくなる。
より力が強まり、ゲンコの首の骨まで音を立てはじめた。脳の奥で聞こえるような音で。ゲンコの頸が浮いた。
ぎりっと歯ぎしりの音がひびいた。おそろしい力がこめられた。首の骨を折りにきたなにかに、全力で抗う力。左足が何度も、身体の後ろにあるぬるぬるとした、表面のつるりとした。
水っぽい音をたてるものを蹴り上げた。何発かは、音を立てるものをはずれて、あたりにあった階段の手すりなどを一撃で砕いた。
ゲンコの首を折って千切ろうとしていたものが、力をゆるめた。ゲンコは首がどうなるともかまわず、身をひねってさらに、左足を叩きつけた。その打撃は、そのまま衝撃となって、ゲンコの身体に返った。ようやく脱して、ゲンコは床に叩きつけるように身体を落とした。はげしく、空気をもとめて、喉がぜん動するように動く。ゲンコは何度もせきこんだ。ガン! ガン! ガン、ガン! ゲンコの咳にうるさいと抗議するかのように、扉を叩く音が響く。ゲンコは這うように、指を立て、涙のにじむ目で音のほうを見やった。そして、後ろをふりかえった。ひときわ大きな音がして、屋上の扉がはずれて床を叩いた。
そこで、ゲンコは我に返った。
音が消えている。
ゲンコはいつのまにか床に立っていた。目は、屋上に通じる扉を見ていた。屋上に出る扉は、傷ひとつなく立っていた。
あたりは静謐だった。遠くから、昼休みのざわついた空気が音となって伝わってくるくらいだった。歯を食いしばって、歯ぐきが血を流した痛みまで、なくなっている。唇をどうにか指でなでると、出血したあとがなかった。
ゲンコはのどをさすった。
「!」
「お、いたいた……どうしたの?」
背後から声をかけられ、ゲンコは手すりに置いていた手(ゲンコが蹴って壊したあともない)をこわばらせた。
階段の踊り場付近に、顔見知りがいた。尚吉の甥の、典昌だった。なにか意外なものを目にしたように、ゲンコを見ていた。彼が誰で、どこどこの誰である、というのを、頭のなかで確認して「なんでも」と、ゲンコはとっさに返した。ふと、手すりの足もと付近の高さを見ると、なにか黒い粘液のようなものが残っていた。
「どうしたの?」
と、ゲンコは同じ言葉で返した。心臓は気味悪く鳴っていたが、それはそれとして、典昌が自分を探していたようだからだ。
「昼に抜けたっていうから。保健室にでも行ったのかと思ったんだよ。気にさせて、ごめん」
典昌は言った。赤まじりの黒髪、とび色と表現できる色の淡い目が、あまり屈託もなさそうなようすで案じてくる。
「また休んだって言うから。一応、顔を見ておかないと、と思っちゃってさ」と、後ろ頭をかきながら言う。
ゲンコは適当な言葉を返した。典昌は、話しこむこともなく、本当に顔を見ただけで、その場を立ち去るようだった。
「じゃあ。また何かあったらね」
拍子ぬけするあっさりさだった。が、ゲンコには、なんとなく彼が察したのだろうとは思った。ゲンコが、はりつめてなにかありそうな空気を出していたのを敏感に察して引くような去り方だった。それは、ゲンコの錯覚も半分いりまじっていたのだろうが。
(なんにせよ、助かった)
妙な現象は。
ひょっとして、人が偶然来たことで、おさまったのか? 「なかったことになった」のか? それとも、最初からぜんぶ幻覚で白昼夢なのか。
手すりの妙な液体があったところを、あとで確かめた。綺麗に消えていた。




