(53) 記録(10)
海座間は、やくざのくせに朝の散歩が習慣だった。
一度、朝帰りの街を歩いたことで、なにか嫌なことがあると、ふと、夜明けまじりの街を散歩する。そういうクセのようなものだった。
いいことではないか。誰も歩いていない時間帯に、いかにも不良者といったパンチパーマに剃り込みのいかつい男が――これでも、夜の職業の女たちなんかには、ウケがいい――歩いていようが、おそらく迷惑をこうむる人間はそれほど、いない。
何度か道は変えたが、大筋は同じ道を通る。前から、ジョギングの小柄な身体がやってきて、海座間の脇を通った。すれ違うとき、頭を下げてくるので、連られてこちらも「おはようさん」と、がらにもないあいさつを返している。
本来、海座間はこんな殊勝だったり、人がいい男ではまったくない。が、この新しいなじみの顔は、礼儀をわきまえているふうであり、気配もどこか油断ならないではないか(なお、海座間にそんなものを感じとる感性はない。まったくのいい加減を言っていた)。散歩の道になっている、川岸の大きな土手から、河川敷でひたすら走っている――一般的な言いざまでいえば、それは反復のダッシュ、二百メートルから三百メートルをくりかえしスプリントするような、という――姿も見たことがある。フードをあげたトレーニングウェアの下は汗でびっしりと濡れて光っており、いつも息が上がっていた。
迫力があるとか、当てられているというでもないが、おかげでここ最近とは散歩中の歩きタバコをやめていた。これもまた、柄にもないことだ。
やくざ者から、やくざなところを抜いてしまっては形なしである。が、世の中というか、こういうろくでなしの世に身をひたしていても、こっちの牙をぬいてしまう拍子抜けなものはけっこうあるものだ。
それがどのようなものか、深く考える神経を持っていたら、海座間も厚顔にやくざなどやってはいない。
肝心なところでなにかにぶい、とか、ゆるい、とかでないなら、悪人にはなれないものである。で、海座間は、まちがいなく悪人よりの人間だった。
すれちがったら、あとは、さっさとタバコを取りだした。
が、途中で動作を止めて、ポケベルを取りだした。メッセージを見やると、携帯電話を持ち上げる。朝の散歩のときだろうが、この便利な機械は持ちあるいている。三十もなかばの海座間ではあるが、仕事柄、通信機器、電子機器、世の中の便利というものは流行にあわせて取りいれるのは仕方なかった。
「おう。おう――わかった」
海座間は電話を切った。くわえタバコをして、火をつけ、一吸いしつつ歩きだす。
ふと、携帯電話をしまったのと別のポケットから、ポケットティッシュを取りだした。「秩序の国」と、独特な、鼻の中にしてもいない匂いをおぼえる字体で、クラブの店名のような名前が書かれてある。
鼻が冷える。もう秋も深まってきている。市内を横切る川は、いつもこの季節になると、特有な霧を流してきて、周囲はよく底冷えするのだった。
もろなお町、市内。
某フィットネスジム関連施設。
ゲンコは、ランニングから帰ってきて、フードを下げた。外気が、トレーニングウェアに身をつつんだ肌を刺し、一瞬で、身体中の汗が冷えていった。トレーニングルームは、ちょっとした日本で言うところの「体育館」ていどの広さがある。器具をとりつけて床に置いた、重量感のあるバーベル――持ち手の器具が工夫され、正確にはトラップバーとよばれる――。懸垂に使うバー。整頓されたダンベル、一見、何のトレーニングに使うのかわかりにくいファーマーズキャリー用の荷物。ジャンプ用の踏み台の用途をもつ、頑丈でそっけない箱。重りを持って歩行するルート用に、ジグザグにもうけられたしきいの道。ダッシュ用の空間に使う多目的なスペース、別の箇所には温水プールも備えてある。
広告に力を入れているのがよくわかり、壁という壁に日本語の月会費、アフタータイム、エクササイズコース何円、会員募集中、また、提携などしているリラクゼーションやエステの広告、スポンサーの証である、でかでかとしたコマーシャルの看板がしつらえられたり貼られたりしている。
時間帯的にだれもいない。いや、トレーニングルームにはゲンコの知っている顔がちらほらいる。が、一般的な客層はいなかった。そのひとりであったメェスが寄ってきて、かるくあいさつをかわすと、ランニングに出ていく。
「はー……」
ゲンコは息を吐いた。水分補給を、ちょっとだけはさむと、トラップバーに手をかける。
ゲンコの腕であるから、そこまで負荷は重くかけない。メニューをこなして、黙々と、次の運動へうつる。そのあいだ、わずかでも休むということはない。とにかく、続けておこなう。ひとつの運動を終えると、次の運動、さらに終えてまた次の運動、終えて、また、次の運動……淡々と、着実に重ねていく。自分の体重の半分ほどもある、両手の重りをゆっくり床に置いて、ゲンコはようやく休憩するようだった。アスリートやプロの競技選手なら、このゲンコのやっていることの何倍も厳しくやるだろうというていどのトレーニングだが、ゲンコの肉体には足もとがすこし定まらなくなるような、限界の一歩先ていどを見すえてやるようなものだった。
丸二日、どの運動もさぼってしまった。ゲンコはそう認識している。結局、起き上がれないというのは、八割がた自分への甘えであった。
謎の異空間が発生して、そこへ入った。一日はおろか、夜から、夜が明けないていどのあいだの話である。左脚の生命維持が弱まったために、本来、虚弱で病もわずらっている身体の負荷が数倍以上の苦痛になってのしかかった。さすがに起きてはいられなかった……というのが本音だが。
ゲンコにとっては、言っている場合ではない、という感触だった。その点、未熟である。危機感が足りていないまま、自分に厳しくしていても、成果には直結しない……ということを半分しか理解していない。
「はっ、はっ、はぁ〜……」
体力が尽きて、くたくたになったのを、小休止して体力をわずかにもどす。あとは、なにごともなかったように、けろりとして、ゲンコは手早くシャワーを浴び、制服に着替えた。今日から登校なのだ。
あれからわずか二日。
有効な対策が立てられないなかで、ある予測がはじき出された。ゲンコがあの空間から帰って直後、EMが計測したかぎりでは、ぴったり重なるタイミングで、今後の出現予測に大幅な下降が起きたという。
それはほとんど終息に近いレベルだった。向こう二週間は出現さえ、一度も起こらない、と、予測は結論していた。
かつてない予断のしかたで。
このことが、どう分析されるかは、現場とは担当がすこしちがう。出現が起きないというなら、現場の作業としては、やりようもなく、待機、という判断がくだされた。
ゲンコに関しても、それは同様だった。当初は拘禁するという措置が考えられていた。が、出現の予測すらない場合には、ゲンコの周囲にもなにか起こりようもない、とひとまずは結論された。
結果、待機。
判断が早すぎる気もするが、それだけEMに対する信用度は高い。外宇宙の神々、もしくはせまく限定して怪物、意思ある暗闇の出現に対しては、「その記録がいっさい残されないために対応への蓄積がない」、または「記録を残すこと自体、なんらかの理由で忌避されたことである」と、現場、組織に共通して通念してある。
EMが成立したのは、可能なかぎり収集できる情報の範囲では近年であり、その蓄積もまだ数年が関の山だが、組織的な行動においては、精度は信頼に足るていどである、と、評価されている。
少なくともなかったときよりは、仕事の即応力が段違いに向上した。
「その蓄積を許しているのは、不明瞭で周知できない理由からである」……と、認識には問題があったが。
閑話休題。
ゲンコは大人しいほどもなく、また、ふたたび学校に向かっていた。待機とはここの現場作業において、そういうものだったからである。
「くしゅっ」
と、くしゃみをする。教室に入ったとたんだった。おそらく、気温の差で鼻がうずいたのだろう――原因はそれだけでなかったが――。席に近づくと、手を振ってきていた松本が、「おはよ」と、あいさつしてきた。
「おはよう」
「だいじょうぶ?」
「ん」
「くしゃみして」
「ん、まあ、猫が……」
つい言ってから、ゲンコはばつが悪そうにすん、とちょっと鼻を指でふれた。汚い。
「猫?」
「くるときにさー、猫が。私、アレルギーで」
「へー。そなんだ。猫って野良?」
「飼い猫。首輪してたし」
なるほど、と、松本はそんな気にせず、知りあいが猫アレルギーである、と、話を適当に広げた。
雑談していると、松本の友人が登校してきて、加わった。人が入ってくる時間帯からは、すこし早めだった。そのうち、まばらだった教室にどこからか、のようなペースで、人が増えていく。
今日も、街の異常に関してうわさ話は聞こえてこない。かわりに、松本の友人と、松本が別のうわさについて話しだした。
幽霊がまた出た、とか。ゲンコは一応記憶にとどめておくことにしながら、ふんふん、と、話を聞いた。
うわさにのぼっているのは、男子生徒の幽霊ということだった。ゲンコには、はじめて聞く話だった。プール横の校舎の幽霊、という話なら聞いていた。その手の心霊写真をあつかう雑誌のはしに載った話ということで、ちょっとしたうわさにはなっていたからだ。セーラー服の白い人影、という。
もろなお町の現場作業に入るまえに、ゲンコが、現地の情報として購入したものだ。このほかにも、数えきれない新聞や写真週刊誌、情報番組、ローカル局、またラジオといったものをチェックしている。これは作業に入るまえの義務手順であり、現地のうわさや伝承といったものまで、必要なら頭に入れる。
怪物の手がかりにつながることがある、という慣習のようなものだが、ゲンコ自身も作業の信ぴょう性には、半信半疑のところがあった。そのうえで、情報はとりいれるが。ただ、必要性がいまいちぴんときていない、というところでは、わりとこのことに関しての負担は大きい。
とまれ、うわさ自体はよくあることで、雑誌には投稿写真も添付されてセーラー服の幽霊の話が載っていた。そのため高校生でも話題にのぼらせるほどには、現地でのうわさ話になった。写真から場所を特定した学校の関係者などから、広まったのだろうが……。ゲンコも当然、その写真は目にしているが、そこまで鮮明には記憶していなかったので、あとで見返してみようとちらりと思った。なんで写真に関して覚えていないかというと、見ているうちに偽物の可能性を、抱きはじめたからだ。こういう写真投稿には、ちらほらあることなのだが。
以前、組織としての上司のひとりであるクラシーカから、心霊写真の見破りかたについて、レクチャーを受けたときがあった。非常に舌鋒するどく、さまざまの組織内の人間におそれられている彼だが、趣味は心霊写真の収集・見物で、こまかい造詣があるのだ。
ゲンコとそんな話になったのも、うっかり心霊写真に関して彼に質問したためだった。クラシーカの知識はそれは確かなもので、教えかたも丁寧であったため、ゲンコも、つい面白くぜんぶ聞いてしまった。影響されて、しばらくはその手の雑誌を読みあさり、カメラにまで好奇心が湧くまでにすりこまれたかたちだった。いま作業の延長として、あまり苦痛なく、情報の収集にあたれるというのもそのおかげがちょっとある。
そのミスター・クラシーカなりのレクチャーによれば、セーラー服の幽霊は、どうも生きた人間をそこに立てたもののようだった。
そのうえでちょっとした加工を加える。似た事例の実物も、ゲンコは教えられたときに目にしていた。それらによく似た特徴があった。
真夜中の校舎、たまたまそれらしいアングル、不気味に窓際にたたずむセーラー服らしい服装の女性。顔形の判別がつかない白い顔。背筋が冷たくなる独特の雰囲気が演出された写真……カメラのアングルについても、疑わしいところがある。たまたま撮ったまったくの一般人を、よそおっているあざとさがあった。
まあ、嘘でも本物でも、なんでもいい。実際、それらしいものをゲンコも見たわけだし。
うわさにのぼっている男子生徒の幽霊は、夜中に校舎を徘徊していたそうだ。校務員が目撃したらしい。
声をかけようとすると、煙のように消えてしまったとかなんとか。
それだけなら、夜中に校舎に忍び込んでいた悪い生徒だろう、という話に落ちつくようなものだが、なにか、そう思わせる話が付随しているのだろう。
たとえば、忘れ物を取りにこっそり校舎に入った男子生徒が、校務員だかだれだか、夜に急ではわからず動転して逃げてしまった。その場合には名乗り出ないだろう。その逃げ足はたまたま早く、中年の域にさしかかっている校務員の杉間度には追いつけなかった。
矛盾点はうかぶ。
この学校の生徒は非常に行儀がいいことで知られている。夜に秘密裏に学校に立ち入るという発想にいたるかは、微妙なところとしても、声をかけられたなら、立ち止まって応じるのが無難な反応である。暴漢や、不審者に声をかけられたならいざ知らず。
また、校務員の杉間度憲市は、実のところ筋肉質なアスリート体質で有名で、特別足の速い陸上部の選手でもないかぎり、逃げられそうではない。
にもかかわらず、本当に、消えた、ということなら、それは煙のように消えたのかもしれない。となると、男子生徒は幽霊かニンジャなのだろう。
ゲンコが、校務員に話を聞くことをそれとなく気にとめていると、ふと、ポケベルが振動した。
担任の安藤がのそりと巨体をゆらして、入ってきて、ホームルームが行われる。一限目とのあいだに確認して、ゲンコは昼休みに私用の携帯で、連絡を取った。二回ほどのコールで、ゲルトヒーデルが出た。用件としては、今日にでも会いたいということだったので、諒解してゲンコは待ちあわせの約束をした。
校務員には、どのように話を聞くかかるく考えたが、その手の写真週刊誌に怪談が、ということならそれ絡みで話を聞けばいいだろう。
実際、放課後にそのようにして言いに行くと、杉間度はいそがしいだろうが、この一生徒の話にそのときに応じてくれた。
嫌な顔ひとつしないような、若々しい男性である。どのような経緯で校務員をやっている、とかはよくわからないが、動きがきびきびとしていて年齢を感じさせないとの評判がある。というくらいと、顔は、ゲンコも知っている。
実のところ、はじめ校舎の勝手がわからなかったころに、彼の世話になっており、杉間度もゲンコの顔は覚えていた。
ゲンコがそういう興味がある生徒には見えなかった、という、人間くさい顔をしながらそうだな、と、杉間度は答えた。
その言うところによると、今から五日前のことであったらしい。
校内の見回りをしていたときに、人影を認めたそうだ。この学校の生徒に対しては、行儀がいい、と、杉間度も思っているたちだが、仕事である以上は、そこはできるだけ冷静に考えなければならない。古いとはいえ、学校の設備はそれなり厳重といえるのは知っていたし、すぐさま、警備会社には連絡を入れて、ふたたび人影を見に行った。
人影は、校門からプールへ向かう一角に面した校舎で見かけられた。最初は、見まちがえであるとも思ったが、杉間度は、自分の目を信じることにした。
もう一度、遠目に確認するだけにとどめて、声をかけるか逡巡するつもりだった。
目撃場所にいくと、人影はいなかった。その後、警備員が到着して、協力して校内の見回りをおこなった。校務員として、学校で働く杉間度は、そのぶん、人が短時間で隠れられそうなところを探したが、成果はない。杉間度は、警備員にもうしわけなく思い丁重に詫びて、帰ってもらった。以上である。
「だから、怪談うんぬん言われてるのはすこし驚いたけどね。でも、たしかに週刊誌で騒がれてたって話は、把握してたし。ちょっと意識が足りなかったところはあったなぁ」
と、人のよさそうな顔を杉間度はした。怪談がどうこう、というのは、あとから尾ひれがついたようだ。ゲンコはにこにことお礼を言って、気まずげに辞した。
「あの、セーラー服の幽霊って、校務員さんは見たことあります?」
辞するまえに、だいぶ不躾な質問をした。が、杉間度は、気分を害したようすを表面的にはしなかった。
「ここではないかな。昔なら、そういうの見たことはあるよ」
菅原大附属に校務員として来るまえのことだ。
もともと、やや学区の近いべつの中学校で、校務員として働いていたのだが、そのとき、夜の見回りで首を吊った影が、窓の外の木に映った。
びっくりしてライトを向けてみると、青白い顔が舌を出してたれさがっているのが、もろに見えた。
まだ若かった杉間度は、顔を青くして逃げ、それから二日間、謎の高熱にうなされて寝込んだという。
当然、熱に浮かされると悪夢を見る。闇に浮かんだ青白い顔の持ち主が、首に縄をかけた姿で、布団や枕元に乗っているのを二、三度も見たという。もちろん、本当に首吊り死体が見つかったわけでもなく、ただの杉間度の見間違いということで、話は終わり、杉間度は、その後十年間ちかく、夜の学校に近寄ることができなかったという。
「じゃあ、今は?」
「さすがにだいじょうぶさ。というより、今の職場も、せっかく雇ってもらったところだからね。怖い怖いとも言ってられないよ。まあ、そういうこともあったってこと」
そういえば、その中学にもたしかに怪談はあった、と、杉間度は言った。
「そっちは有名な話だったな」
なにせ古い中学校で、木造の旧校舎があるほどだった。そちらの校舎の周辺で、六怪談とか七不思議とか言われるものが、語られていたという。かつて働いていた実体験からすると、あれだけ古ければ建物もいろいろ悲鳴をあげていただろうし、壁の染みひとつとっても、想像力をかきたてるものであったから、それくらい、語られるだろうということだった。
「……」
もの思いしながら、杉間度のところを辞して、ゲンコはポケベルを確認していた。ウェルフからの直の用件だった。つまり、作業仕事にかかわる話ではない、なにか特殊な話だろう。
午後にもなって、急に連絡をとってくるというのも特殊である。ゲンコは、すぐに電話をして、翌日の放課後に予定をとった。なにか人に会いに行く用事のようだが。
ウェルフの言うことであるから、あまり考えてもしかたがない。ゲンコには予測がたたない話である可能性が高い。
放課後、約束していた近くの公園にやってくると、ゲルトヒーデルが来ていた。ゲンコの姿を認めると、近づいてがしり、と、両の二の腕をつかんできた。抱きしめる、とか、わしづかむ、という動作と体勢に近かった。
はあ、と、ゲルトヒーデルは大きく吐息した。ゲンコをつかんだまま、目はうつむけて、言う。
「よかった」
ゲルトヒーデルのまつ毛の長い顔が、疲れはてたようにこぼした。ゲンコは、「ちょ、ちょっと……」と、身じろいだ。捕まれた時点で、内心、心臓をちぢませて目を丸くしていたのだ。
ゲルトヒーデルは、ゲンコの二の腕の感触をたしかめるように、すこし躊躇して、それから手をぱっとはなした。
「ごめんなさい」
「どうしたのよ」
ゲンコは聞いた。ゲルトヒーデルは、もう本心がつかめない態度と表情をとりもどしていた。目をふせて、すまなそうに言う。
「驚いたものだから」
(驚いたのはこっちだけれど)
と、ゲンコはちょっと顔に出したが、即、それをやめた。ゲルトヒーデルが本音で話す気がなくなったのが、わかったからだ。
「とにかく、思ったより無事で……いえ。よかった」
「べつに言葉を選ばなくてもいいですよ」
「当日、あなたのために現場に呼ばれていたのは私です。間に合っていなかったら、どうするかと思ったのよ」
「それは、すみませんでした。それと、心配をありがとう」
「べつに言葉を選ばなくてもいいですよ」
ゲルトヒーデルはそっけなく返した。疲れる女だ。それから、怪我の具合を聞かれた。どこをどう負傷したかまでは、聞いていないが負傷したこと自体は聞いていたていどの話だろう。すると、さきほどの反応は思っていたよりも、どこも怪我しているようすがないことに、自分で思っていたより、安堵した、というあらわれなのだろうか。
が、ゲルトヒーデルがそこまで考える理由が、ゲンコには見当もつかなかった。ちなみに、二の腕のあたりをつかまれたのは、実際打ち身や腕の傷に刺さり、飛び上がるほど痛かった。しゃくなこともあるから、そんなことは言わないが。傷の近くを無意識にさすって、ゲンコは二、三言ゲルトヒーデルと話した。
なんにせよたいした用向きはなかったらしく、話もそこそこにゲルトヒーデルは引き上げていった。わざわざ、制服姿でゲンコのいる学校ちかくまでやってくるのは、想像より手間ではなかろうか、と、ゲンコは思った。ゲルトヒーデルの力は必要以上に強かったため、あとで、身体が痛んだ。




