(51) 記録(9)
びちゃっ、と、血肉を踏んだ。
夜。
そういう、得体のしれない感覚と同時にくる現実が、一気にゲンコの意識におしよせた。
なにかが満ち、なにかが引く、いわれのない異物感。
頑迷な月と肉片の夜気が、かつて踏んだ現場の空気を感じさせた。ゲンコは気づかず膝をついていた。
「〜〜〜〜」
そして、そのことに気づくと猛烈に恥ずかしくなり、押しつぶされた。身体の空気が漏れだしたような痛みと苦しさ。
周囲の景色がいつのまにか、入れ替わっていた。大量に倒した、倒した、倒した、怪物の死体を渡り、手にした変形したエイブリーを振りまわした。エイブリーの軌道は、応えた。何十も切り裂き、うちふせ、はりたおした。もう指のさきも動かない。
恐怖に襲われたときに、まえぶれもなく、景色の入れ替わりがきたのだ。助かった、と思った。それは緊張が張りつめていたのが、きれたことでもある。
それがまずは、恥ずかしかった。致命的な失態が自分のなかだけの猛烈な羞恥を、頬や頭にのぼらせるように、のぼらせた。
月は傾いていた。影は平たく差していた。血の匂いひとつしないなかを、怪物の死体ひとつもない。
感情をのぼらせるまえに、すばやくフロムナインがどこにいるかだけを確認した。いいところは、それだけ。
はっ、はっ、はっ……。
アンプルを取り出すと、頭部を折って、口に直接つける。ゲンコは、なかの液体をためらいなく飲みほした。
「……」
空の容器を、スカートのポケットにいれる。様子がおかしいようなのを、フロムナインが確認しにだろうが、寄ってくる。
「負傷ですか」
ゲンコは顔を上げず、呼吸をととのえた。
うまくいかなかった。うかつにも、咳をした。どうにか、止まらなくなるのはおさえる。
経験がなかったわけではない。フロムナインが、人体の様子を測るすべをもっているのも理解していたが、いまの状況ならさとられないはずだった。これは、わかりやすい異常のたぐいではない。
「負傷はない」
平静な声をもらす。フロムナインは、特有である能面じみたつくりものの目を、やけに人間みたような間でむけてくる。
ゲンコは、どうにかおさえこんだ容体を、たちあがるのに向けようと思った。いまならこの人でないのに力を借りることなく、立ち去れるだろう。
(借りない理由もないと思うけどね)
不自然に、気味悪く脈動しはじめる鼓動。津波みたく頭に押しよせる頭痛。全身に、油断するといきわたる焼けるような熱。
意、識。が。
(たおれる)
ゲンコは、一瞬まわりから音が無くなるのを感じた。
(くそっ)
「――イ、アン」
はっとする。
完全に呼吸が止まっていたのに、ゲンコはぞっとした。ぞっとして、その寒気をおさえこんだ。
いつものことだ。それに、もう終わりがないものではない。
視覚がもどると、立ったまま壁に手をついてかたまっているのに気がついた。手をのばした記憶も、手をついた感触もおぼえてない。
「死んでるのは確認したの?」
ゲンコは言ってから、しまったと思った。狼狽したようだ。もっとも、自分ではあわてた自覚もない。
フロムナインはいぶかしんだが、ふと手が動いて、背中をささえようとしたのが感じられる。
「ゲンコ・オブライアン。失礼ですが、大丈夫でしょうか」
「すみません。意識がちょっと。あらぬことを言いました。そう、負傷はしています」
「大丈夫ですか。箇所は」
「だいじょうぶ」
「そういうふうには見えませんが」
「あなたこそ、人間を気づかうようにはできていないはずでしょう。動作を確認してください」
ゲンコはいいながら、壁から手をはなした。憎まれ口を言ったら、どうにか身体がすこし動いた。わたしは嫌な人間なのだな、と、他人事めいて思う。
あらためてざれごとをのべたおかげで、どうにか身体に力がわいた。ゲンコはふりむこうとした。が、そのときである。
「?」
ゲンコはいぶかしんだ。フロムナインの無機質な手が、ゲンコの手首をとらえている。
「申し訳ありません。触診することで、よりよくあなたの体調を把握できると思いました」
「そうですか」
ゲンコは言って、ふいと手をふりほどいた。フロムナインの手にたいした力が入れられていないからだった。
フロムナインは言った。
「ゲンコ・オブライアン、あなたはもともと病院にいたと聞いていますが」
「ええ」
「そこではあなたの足は両方がありましたか?」
「? なにを言って……」
ゲンコは言った。知らず、自分の胸をおさえる。間が悪く、焼けたなにかを流しこまれるみたいな不快感が、ぶり返したからだ。
なので、一瞬フロムナインが不自然なことを言ったのに気づくのが、遅れた。また、違和感に相応の反応をするのも、なぜかしなかった。
「あなたは、かつて◯△□の□□院に入院していましたね」
「……?」
ゲンコは無言を返した。フロムナインは語った。それよりも、一刻もはやく連絡を入れ現場を撤収させる。それが、鉄則……とも言えない。
フロムナインならそうしているのだ。それが、そうしない。ゲンコは彼女の手から「ごめんなさい、貸してください」と、連絡機器を受けとり、レシーバーを試した。通信は途絶している。
(音もしない。本当に戻った?)
もう一度、あの場所へ。ぞっとしないことを思い浮かべて、ゲンコは油断しているのを、もう一度、恥じた。
「あなたが病院にいたころ、何度か病室を訪れたので知っています。姿を知らなかったので、あなたはわたしに気がついていなかったと推察します」
姿もなにも、フロムナインは自由に姿をかえて擬態する。いまは女性型に固定したように変わるが、視覚上の混乱をさけているのだか、理由はしらない。
フロムナインの口ぶりから、そのときは、この姿であったということかもしらない。が、ゲンコには、記憶もなかった。
「わたしはタエコ・イソーテと過度の接触があったわけではありませんが、彼女は、身内をこそなぜか信じていませんでした。あなたのことを頼むと言われました。が、わたしは否定的な返答をしました。なぜならあなたの寿命は、医学でどうこうできるていどではなく、そもそも人間の生体活動は八十年かそこらで尽きますから、わたしに頼むというのは誤った判断でした」
フロムナインは、いっさい人間めいたことをせず語った。ゲンコは強いめまいを感じた。
「あなたがここにいるはずがありません。しかし遺伝子情報はあなたをゲンコ・オブライアン本人、またはキリア=カレグラス・メリオタス」
「その名前で……」
ゲンコはかっとしかけたが、いまの状態に、その興奮は毒だった。フロムナインはたんたんとつづけていた。
「本人だと判断します。あなたに何があったのか、はげしく懸念しています。通常、人間の生体活動を限度をこえてひきのばすとしたら、その方法は推奨されないものだからです」
「あなたはよけいな好奇心なんかもっていいものじゃない」
「わたしに好奇心はありません。知ることが必須とされる事柄を質問しています」
(私が弱っていることに気づいてやっているってことか)
この人でなしが、と、思うが、もともとフロムナインには礼を言っても感謝しているわけでもなく、謝罪してもすまないと思っているわけではない、そういうところはある。
不誠実、というより誠実を知っていても、実行できようはずもない。そういうものは、不気味でおそろしい。だからエイブリーという、未知を媒体したものなのだろう。
ひとつ前のことを忘れて、ゲンコは思った。思考が定まらない。息がつまるのを忘れて、器官が咳を吐きだした。止めたつもりだったが、止まらずゲンコはそのまま咳をした。
目眩がする。
なにか言いながら、フロムナインがゲンコの身体をささえた。
「いい……やめろ!!」
ゲンコはふりはらったが、手がふらついた。わずかな気づかないていどだったが、フロムナインは敏感に察している。なにせ精密なのだ。
「体温上昇、いえ、脈拍異常。自力での移動は推奨しません、ゲンコ・オブライアン」
フロムナインは、ショートヘアの背の高い女性にまたたくまに擬態した。彼、または彼女なりの人間に対する配慮だ。
あらかじめそのように決められているのなら、てこでも曲げたりはしない。なぜなら人間ではないからだ。
くちおしさが、舌になってなめるような血の味がする。ゲンコは堪えきれず、口もとをおさえた。赤い液体。血肉によごれきった手。洗浄を受けないといけない。
「くそ――」
「じっとしていてください」
「まだ状況が終わったわけじゃ――」
レシーバーから通信が入った。即座にフロムナインが応じた。今度は、会話が成立したようだ。
突入していた包囲班は、元の建物に戻ってきているらしい。フロムナインは現在位置を、もちまえの正確さではかり、答えている。
まもなく、包囲班がこちらへ来る。怪物の姿はないようだ。
「私が……やらない、と……」
無言で通信の音が聞かれる。フロムナインは、背中にしっかりゲンコを担ぎあげると、足早に移動をはじめた。
二時間後、ゲンコは収容したスタッフによる処置を受けた。あれほどの修羅場だったが、ゲンコに重傷になるような怪我や外傷はなかった。あちこち切り、無数の打ち身があったものの、大事にいたることはなかった。大急ぎで洗浄を受け、手当てをほどこし、その日の現場は終わった。
この件の調査に関して、ゲンコは拘束されるべきだった。が、いったんはアパートに帰された。そのときも、包囲班の大々的な監視がついている。予断を許さない状況が考えられたし、これまで彼女を放置ぎみにしてきていたウェルフの判断にも、現場の疑念が生じるだろう。どのみち、しばらくは自由な判断での個人の行動はこれまで以上に制限されるべきだった。
ゲンコをアパートへ送ったのはフロムナインだった。万一のことがあっても、十全に動けるのは彼女が適任だった。
アパート前。
ライトが落とされた。中型のバイクを飛ばしてきたのを降りて、フロムナインは、手際よく敷地の脇にとめた。ヘルメットをとって、ゲンコはその手に渡した。
「お礼を言います」
「不要です。おかまいなく」
言って、ゲンコに手をさしのべるそぶりをみせる。ゲンコは、やんわりとそれを断った。
「室内まで送ります」
「十分ですから」
ゲンコはきつめに言った。フロムナインは、いつもどおり、それに不快のかけらも見られない目をむけた。むろん、何を感じるはずもないし、ゲンコもそれを理解していた。
もちろん、筋道は通さなければならない。何事にも。ゲンコは感情を抑え、フロムナインの手を触れた。手は肌の触感があり、質感があり、肉質と筋と骨、すべてある。「ありがとう。今日は、本当に」と、言う。
「いいえ」
フロムナインは言った。ゲンコが手を離す前に軽く触れて、応じるとゲンコが手を離した。一瞬だった。
「失礼します」
フロムナインは、バカ丁寧に言い、音もなく消えた。あたりは静まりかえり、むしろ、バイクのライトもいらないほどには暗がりが薄れはじめている。
ゲンコはアパートの階段をのぼり、ギターケースを担ぎなおした。足があぶなげにふらついた。かまわず、アパートの部屋の扉をあける。扉を閉める。
そこで限界だった。ゲンコは、意識が遠くなるのにあらがった。が、それさえもただただ重い。苦しい。辛い。痛い。呼吸がつづかない。
熱い。
およそ、死にそうであるときに、人間が思い浮かべることが、奇声をあげてなだれこんだ。肉体の支配権は、ゲンコ本人にないような。
短く、細い息を吐いて、ゲンコは死にたくないとまた思った。混濁した、意識。
「ゼッ……ゼェッ……ヒュゥ……」
臓器がぜん動でも、しているように吐き気が止まらないが、なにも吐くものはなく、空腹も感じないようだった。左脚に意識を集中する。
ゲンコはいつのまにか、床に倒れこんでいた。玄関先で、暗く明かりもつけないまま、うずくまる。脂汗がほほを伝っていて、冷や汗が、全身やずっとこらえていた背中をびっしょりと濡らしていた。
このエイブリーを使った反動のようなものは、これから、本当の波が来るのだった。朝も夜もなく苦しみつづける。堪えられるものでもないが、慣れることで、ゲンコは、隠すことだけはできるようになっていた。それは、凍った身体に油も差さず動かす機械のような無理やりを、与えなければならなかったが。
「……母、さ、ん」
ゲンコはうわ言で口走った。自分がなにを言っているかはもう分からず、意識は半分人間じみていなかった。そういう機械か、四脚を切り取られた動物だった。腐敗した身体を芋虫のように、身じろがせている。
それでも波は引くものだ。いくら長く苦しめられたとしても、それが何万倍もマシな救いだった。




