(5) 一九九六年
一晩があけた。
その日はアパートに帰っていた尚吉は、顔を洗って朝餉にするところだった。
ブラウン管は静まりかえっている。取ってもいない新聞をもてあましく思いつつ、尚吉がテレビの上をみると、見なれないものが置いてあるのである。
昨日、ゲンコ・オブライアンと名のる少女から彼があずけられたものだった。ちまたではやりの携帯できる電話というやつだった。
尚吉自身は、はじめてさわるものだった。
こういうあたらしい代物は、彼にはもてあます物品ではあったが、連絡をとると言っていた手前、使用法はおさらいしておかなければならない。
歯ブラシをくわえるころになって、機器の説明書をみていた尚吉は、玄関のチャイムが鳴らされるのに、返事してうがいをした。
玄関にでると、昨日の少女が立っているが、ぱっと見では、わからなかった。ゲンコが昨日とはちがう服装をしているからだった。髪型もちがい、眼鏡もかけている。
「おはようございます。よく眠れましたか? 尚吉さん」
「ああ、おはよう。キミ、昨日とちがうな」
「あれは仕事着なので」
尚吉が彼女であると気がついたのは、話したときに声を聞いてやっと、だったが、表情には出していない。
「なにも直接くることはないのに。いや、さすがに上がっていかないか……どうかしたのかい」
「いまお時間よろしいですか? ちかくでお話がしたいのですが」
尚吉は、時計を確認した。
「まだやってる店なんてなくないか?」
「最近できた店でモーニングをやっていまして」
「わかった」
尚吉は、すこし遅れることを言い、ゲンコを先に行かせた。内心では、にがにがしく思っていないわけではない。
最近できた喫茶店、と、ゲンコが、言った店は尚吉も知っていたが、特別耳聡いとかではない。
田舎であるもろなお町で新規オープンするなどあれば、すぐにわかるものだ。たしかに流行であるし、駅前は人通りもそれなりにあるから、物珍しさで入るだろうが、長続きするかは聞いたときから微妙には思っていた。
店に入ると、ゲンコはわりと目についた。
目立つということではなく、一度見ると忘れないような容姿といえる。
(ひいき目を引いてもそうだとは思うけど……)
尚吉の場合は別の理由があるだろうが。ともかく、席につくとゲンコはメニューを手にとった。
「なにを頼みますか。朝ごはんは?」
尚吉は、コーヒーを注文した。
ゲンコが頼むのを横目に、入ってきたときに見た店内を見回すが、客はいない。
しかし、入口をふさいでるわけでもあるまいし、人は入ってくるだろう。
「でも、こんなところで話かい?」
尚吉は聞いた。どうもただならぬ内容が告げられそうなのは、わかりきっている状況だ。それに人の耳目を気にしているのは、ゲンコの側に思われる。
「この時間は身内しか……私の勤める職場の関係者しかいません」
尚吉は、さすがに目をまたたくようにした。店内を見るようにしてから、あきらめたようにやめる。
「それ、本当?」
「まあ、半分は冗談です。じつはこの店の関係者がオーナーをふくめて、私のところの関係者ですから」
まわりくどい言いかたにあきたのか、ゲンコは、やや雑な言いまわしをする。カップをとりあげてすするのをみて、尚吉は言った。
「そういえば、君はブラック平気なの?」
「平気というよりか、この味が落ち着くというか」
ゲンコは言いつつ、そろそろ会話にすこし飽きたような顔をした。事務的な顔つきになる。
「私が勤める職場とは言いましたが、見てのとおり未成年ですので、所属と言うのが正しいと思います」
言うと、こすこすと首すじをかるくかく。それから、手をもどしながら口を開くが、ややバツが悪そうだ。クセなのだろう。
「高校生くらいかい?」
「そのくらいですが、まあ不詳で。なんとなく昨日のさわぎで尚吉さんも……そういえば、私ふつうに下の名前で呼んでましたね」
「かまわないけど……」
ゲンコは、なにかを気にしたようにまたたきをはさんだが、尚吉が気づかないくらいだった。
「そうですか、ありがとうございます。それで、なんとなく昨日のさわぎで察したかと思いますが、私たちの組織? というのは、秘密を重視します。基本的な行動はすべて公表されていません。存在は……どうかな。そこまでは隠せていないかと思いますが」
「昨日の、その……」
「そう、あんな生き物は存在しません。でも、昨日のあの場にはたしかにいたし、人をも襲いました」
ゲンコは淡々と言った。尚吉は、理解が追いついていない顔をした。続けて、ゲンコが言う。
「あれに関しては、不可解な生態をもつ、謎の多い生き物、もしくは動物と思ってもらうのがいいかと思います。呼称はそうだな、私たちはヤオヨルズ、ヤオヨロズ。蔑称としてアレックトゥス、またはディスタント・マン――うーん、実際に説明するの、むずかしいな……」
単語しか言っていないのを気にしたらしい。が、適当なところでゲンコはあきらめた様子をした。
「私の所属する組織は、昨日のように、あの生物をみつけて倒すのが目的なのです。行動を秘密にする理由は、やはりあの生物ではあるのですが、説明がとてもややこしいです。質問があれば、そこから答えたほうが早いかもしれませんが、どうですか? ここまでで」
「いやぁ……そう、そうだな」
尚吉は考えをめぐらす風をしたが、あまりまとまらなかったようだ。
「昨日言っていた件だけど、私が協力するっていうのは?」
「昨日に言ったとおりではあります」
ゲンコは言った。
「まず、昨日見たことをいっさい口外せず、口裏をあわせること」
言われて、尚吉はぴんときていない顔をした。続けてゲンコが言う。
「もうひとつは、私がこの場所で活動するための足がかりを提供してもらうことです。潜伏先とか、待機場所といったものを、つまりひらたくいうと、あなたが所有および賃貸している物件を一時的にお借りします」
「……そのあいだというのは、私はどこへ? ホテルにでも間借りしろと?」
「尚吉さんは、今までどおりの生活を送っていただきます」
尚吉はさすがに難色した。というより困惑している。
「それは、どうして……」
「おもにはこちら側の都合ですね」
ゲンコは、喋りっぱなしだったためか、カップに口をつけた。尚吉が言わないので、カップを置くと言う。
「ひとつ言えるのは、この話は尚吉さんにも、この件が無関係ではないということです。つまり、私たちはあなたのまわりに注目しているのです。お聞きしますが、尚吉さんは、おそらく過去にこういう目にあったことがあるはずです」
ゲンコは言う。
「それはもう二十年も前のことですね」
「君が……母親と言っていたっけか」
うろんに尚吉が言った。
「そのときにあなたを助けに入ったのが、私の母です」
「君によく似ていたと思う」
「たしかに、昔の母を知っている人にはそう言われますね」
ゲンコは、なごやかなような、感情がよくわからない顔で言った。あまり興味がないような、あるような眼をする。
「当時の記録には、あなたは負傷してその原因は事故として隠蔽されています」
「だが、君を見るまでは完全に忘れていた」
ゲンコは言いよどむ顔をした。が、実際はあまり気にしなかったらしい。
「尚吉さんは、記憶の操作ができるという話を信じますか?」
「ていうと……」
「信じなくても結構です。実際、都合よく部分的な記憶喪失を起こさせる確実な方法は、安全な範囲では、おこなえませんから」
自分は専門家ではないから、又聞きだが、とゲンコはつけくわえた。が、それ以上は言わない。
「その話については私からは説明できませんが、希望するなら専門の人間が説明をします。……最初、あのように言いましたが、あなたから一方的に提供をうけるということはありません」
「そういえば……君が使っていたのは?」
尚吉は、ほかの質問をした。それは、やや抽象的になった。
「あれは武器です」
ゲンコは言う。
「あなたが母を見たときに使っていたものと同じです。私たちが対象としているあの生物には、通常の兵器で対処できないこともないですが、あの武器を使うことで、より効果的にダメージを与えることができます」
「武器って、あれは……」
「武器というよりは、特殊でめずらしく、便利な道具といったほうがいいです。不明な機構でうごいていて、不可解な効果を発揮する道具です。……呼び名でいうなら、私たちはエイブリーと呼称していますが。由来が不明で、わけのわからないものというくらいの意味合いです」
「……」
「あ、覚えなくてもいいですよ。どのみち、こういう呼称とか専門にあつかう人間がかっこつけてつけるものなところありますから」
「……つまり、君は……君や、君の母親というのは? 同じ仕事? についているのかい?」
ゲンコは、ちょっと考えるそぶりをみせた。
「そうですね」
肯定して言う。それから、言いよどんで頬杖をついた。視線を落とす。
「英語でいうとハンターということになるんだけど……日本語で穏当な言いかたでは……」
ぶつぶつ言ってから、ゲンコは続けた。
「駆除業者がいちばん近いかと思います。クマや猪を害獣として駆除するときに、作業にあたる人は、技術を裏づける免許と、銃をもって当たりますが、それに近いですね。もっとも私は専門的な教育をうけただけですが」
「戦闘員、とかではないのか?」
ゲンコは首をひねった。
「傭兵や兵隊ってことですか? 昨日のああいった生物に関しては、やはり動物に近いですから……戦闘というのは、相手が人間である場合を言うように思います」
話がこじれてきたように感じたのか、尚吉は納得する反応をかえした。ゲンコは、ちらりと一瞬目をそらすようにした。
「話がそれました。かつての母も、私と同じ立場にありました。ただし、ここへ来ていたのは仕事ではありませんでした。私がここへ来たのは、そのやり残しを片づけるためです」
「君の母親はいまどうしているんだ?」
「ふむ」
ゲンコは、目を細めた。ジーンズでのびた足と、スニーカーがちょっと動いた。
尚吉は、なんとなく彼女が不機嫌になったのを察した。
「いや、踏みこんだことを聞いてすまなかった」
「いいえ、尚吉さんが聞きたいのでしたらお答えします。ただ、なにぶん仕事とは関係ないことなので」
「ならば聞かないでおくよ」
「ありがとうございます」と、ゲンコはほほえんだが、目が笑っていない。が、尚吉にたいして怒りを感じているというのはない気がした。
怒りを感じる、というのは失望から基本くるものである。会ったばかりの尚吉にそのようなものはないし、なにより、ゲンコという少女は……どことなくだが、年相応というより人に失望するほど期待していない人間であるように感じられる。
質問がなくなると、対面する理由がとだえる気配がした。ゲンコは衣ずれの音をさせて、季節にはやや合わないような(実際は日やけ対策だろう)長袖を動かして、時計をみやった。
残していたコーヒーを一気にのみほすと、たちあがる。おもいきりがいい。
「では、これからご協力をよろしくお願いいたします」
ゲンコはやわらかく言ったが、そのとき、尚吉はしっかりと実家の合鍵を提出させられた。出入りするのが、人目につかないときを狙う、などの都合があるそうだ。
尚吉にすれば、その人目につかないというのが、うたがわしいようだった。そういうことがばれないためしはないのだ。
話はそれで終わった。
ゲンコは帰ったが、尚吉とは、翌々日に顔を合わせることになった。実家の整理におもむき、泊まりこんだ翌朝に、ゲンコが家の中にいるのである。
使うように言った部屋から出てきて、驚くこともなく、驚いている尚吉に挨拶をする。
「やあ、尚吉さん。オハヨウゴザイマス。この服装ですか? 転校しました」
尚吉は、それ以上は、とくに驚いた顔もみせず、ややうなった。
「菅原大附属高校かい」
「ええ、制服でしょう?」
「うん、母校だよ」
言うや、ゲンコはうなずいてええ、と言ってきた。
「お聞きしました」
(言ったおぼえないけどな)
話によると、円滑に現地調査をおこなうための措置であるらしい。また、学生との身分は偽名で隠すそうだから、承知するようにと尚吉に告げる。
「潜入のために転校とは、大変な仕事だな」
「単身赴任みたいなものでは」
「そうかなあ。よく知ってるな。君、海外の人だろう」
ゲンコは、ぴんとこない様子で、言った。
「それくらいは日本語ができないと、日本でやるような仕事には投げられません」
「それもそうか。しかし、君、その格好でウチに入ったの?」
尚吉がいうと、ゲンコはやや気勢をおさえたようすで言った。
「深夜にやむを得ず。不注意でした」
尚吉は、首をちいさくまげた。
「いや、非難したわけじゃないから。でもそう聞こえたか」
「……非難はするべきですね。尚吉さんは、家主の大人ですからね」
ゲンコは言い、ひとこと言い残すとあとは部屋をでていった。今日は着替えて部屋に待機するらしい。
尚吉は、掃除を切り上げたら帰ることにした。