(48) 月は無慈悲な(5)b
「建物だ! 巨大で、広くて……窓の外に月が……」
「幻覚か?」
『流布しないでください。呼吸を確保して、神経を集中――』
「ウェルフ氏が? 建物に入った? 自分でか」
『ウェルフ氏には、数人追従しています。ひきつづき周囲の走査と、怪物の駆除を』
ゲンコとフロムナインが入った建物の周囲は、現在、騒然としている。民間人が一名、包囲にはいりこんだことで拘束された車両はだれも見る者はいないが、それで中の人間がどこかへ行くこともない。
そもそもこの車両も、だれかを拘束する用に使っているわけではない。オペレーターと、機器の管理スタッフが包囲班の一員として乗りこんでいて、サポートをし続けている。
その任務からいえば、ちょっとした異常事態だった。対象の建物は、内部がまったく別の建物へと通じていると報告がはいり、怪物も出現していた。
包囲班は訓練された人間特有のプロフェッショナルに徹しながら、しずかに浮き足だつのを抑えている。
管理スタッフのひとりであるマーカス・リーが、冷めきった紙コップの中身をすすっている。とはいえ、トイレひとついれる余裕もない現場ではあった。管理スタッフのあいだでは、ときどき「いつ行けるか」と言う問いにこう答える。「どうして成人用オムツをはいてこなかったんだ」と。
もちろん冗談で、こういう冗談は、心の余裕か、不謹慎ないらだちかのあいだでバランスが保たれなければならない。現在、部屋にいるメンバーではイタリア系のルイージ・ネスタがそういうことはよくもわるくも上手いようだった(このことは、人種的偏見を助長していた。国民性のテンプレートとして)。そのネスタもひとこともジョークをもらさず、役割の計器台にかじりつき、オペレーターをやっている。
そのネスタに歩みよって、ポルトガル系のエマヌエル・バランソがひと言と、身ぶりをまじえてなにか交わしている。バランソの動きは非常に機敏で、管理スタッフの誰にも負けていない。縮れ毛が特徴的な、耳のいい女性で、ふだんはフランス、ドイツ、英語を完璧に聞きわけることができている。
「◯◯△、◯✕△□□――」
複数の発言が飛びかって、重なっている。異常な集中があるなかでは、人間同士の摩擦ひとつ起こらない。
むしろ、個々が役割を果たすことで、事態が調和になりかかっている。
そう言えど、現状の異様な光景が揺らぐわけではなかったが。
「連絡は?」
「ポケットベルに二十三秒前」
「電波が回復してるってなんでだろうな」
「また途切れるかもしれないんだし。関係ない」
マーカスが会話して、応じていたエマヌエルがはなれた。口調はかたい。
原因不明。これほど人間的なメンタルに悪い要素もないが、怪物の駆除にかかわる作業というのは、こうしたものとの戦いのようなものだった。戦い、とは、生ぬるいことを言い表すわけにもいかないが、こと彼らの仕事においては、そう言うしかない。
「だめだ。強力な個体がいるらしいって。それに、建造物が直線的で、数で押されちゃあ不利な一方だ」
「マッピングだ。経路がぐだぐだ変化するってわけでもないんだしな」
「こっちに回ってる人員は?」
「向こうの現場だってあるさ」
「二人向かってます。場所が離れていて。あと二十分はかかると」
「ウェルフ氏に同調するように。電波が悪い。離れたらおしまいだと」
「こちら指揮所、◯◯、◯□△」
『了解。ザ、ザザ』
「モールスか。解読できるやつ!」
「やります」
ペルシャ系のキアー・チェレビ、キアーは守護者をあらわす、が、若い顔を向けて立っていった。
「収容してるレディにコーヒー持っていってくれ」
怜悧そうな面立ちが、イギリス人のオペレーター、アルベと席をかわる。その後ろで、ちょうど立っていたアフリカ系の白人種、アマーニ・マーマの中背の肩をたたき、マーカスが言った。アマーニは即座にうなずき、手をはなした。この場合、ほかの役割をいったん移るというのは、脳の切り替えにあたる。休憩がてらと言いかえてもいい。アマーニは非常に集中力に長けており、それが五時間も席にはりついていた。休ませなければならない。
「あの女性、今日の配置のだれかを恋人とまちがえたんですかね?」
「さあな。ネスタのやつが都会から連れこんだのかもしれんな」
「勘弁きついぜ」
数人のあいだで笑いがもれた。そして、また黙々と仕事に投じる。
謎の女性はあきらかに普通ではない。包囲班がいるなかを作業区域にはいりこんで、だれにも見えないように建物を監視していた甲斐咲鞍の肩をうしろからたたいたのだから。
甲斐は純粋な日本人で、今回作業地となっているもろなお町は出身でもあるという、妙な縁がある。人当たりがやわらかい、非常に温厚な女性スタッフで、実をいうと彼女のうっかりやなんかをうたがっている者はまずいなかった。まあ、誰がその場にいたのであろうと、結論はそう変わらない。
ウェルフ氏が駆けつけたことで「彼女は闖入者であり、拘束してのち解放する」と、即座に方針が決まった。結局、謎は謎のままであったが……。
それが放っておいてもいい謎と、スタッフ間で判断されたのなら目先の業務に優先することはない。
ただ優秀なスタッフを喪う危険にある、というだけのことといえばそうだった。
ただ、仕事としてやっている以上、目の前の案件というのはある意味この場にいあわせた人間らの半身であった。
自分の半身には責任を持たなければならない。人間は、それでその場に立っている貧弱な生き物だ。
「今日はニンジャの闖入はないだろうな」
「やっこさんは、今日、向こうの現場にあらわれているそうだ。現状報告であった」
ニンジャ、忍者のことだが、そう日本語以外で彼らがかわしたのはルチャドールと呼ばれるノーフェイス・エージェント。光の剣尖の持ち主だった。
彼と呼び鳴らされる謎の闖入者は、今日、グリニザの主現場として動いている場所で、出現が確認されている。
なにげないふうで言ってはいるが、グリニザの組織という立場から言えば、このもろなお町での仕事内容に関して、そのニンジャは迷惑な存在であり続けている。




