(44) 月は無慈悲な(4)a
「オート・モーフィス」
わざとだろう。
そういう目つきで、オート・モーフィスは声をかけた人物を見やった。時刻はすでに、二十三時を回っている。
まともな店などやっていなかった。遠くでバイクの大きな音がしている。
ゲンコらが潜入した建物からはちょっとはなれていた。気のせいか、かすかに排気ガス臭い匂いが立ちこめる霧やかすみのようにかかっている。
声をかけたのは闇にのっぺりと浮かびあがる女性だった。年は若く、長い髪をまとめていて、服装は洒落ていたが大人しかった。それと、なにか一両日も同じ服装でいたかのようなやぼったさがあった。
「疲れているようだが」
オート・モーフィスは答えた。泡のようにさわやかな外面が、夜道で真っ暗に染まっている。その目は声をかけてきた女性――シャーデンとは違って、暗闇に光っていなかった。
シャーデン、胡蝶・シラトリは眉間をもみながら答えた。
「弟に叱咤されてしまってな。世界の命運がかかっているらしいのに、自分に会うのを優先しないでなんて、なまいきを言う。おかげでとんぼ返りだ」
じっとりとした目で、自分の盟友だった者をみやる。
「きみこそ消えたんではなかったのか」
「そのとおりだった。が、なにかの気まぐれでかろうじて肉体に浮かぶことができた。水たまりの膜のような……いや、とにかく不安定でね。なにができるわけでもないけれど、なにをしようかと思っていたところだ」
「きみのもうひとりのほう、あちらのやることをなんとかしてもらいたいな。めだってしょうがないわ、去ったあとに妙な禍根を残しているわ。ヨハンナの娘たち……あわれな娘たち、ゲンコ・オブライアン。それらにもうしわけない、と謝罪するとかな」
オート・モーフィスは片手にしたビニール袋を鳴らした。コンビニで購入した酒とつまみが入っている。それと生活消耗品と。それを持ったまま、ジェスチャーをしたためだった。さあ、とか、さあな、ととれるいいかげんなものだった。
シャーデンは吐き捨てるように息をついた。
「クズめ」
「それはよくない。わたしたちはもとの生物ではない以上、もはや、もとを同じくするひとつの意識が個性を得て外面上はわかれている……といったものにすぎないンだから……わたしをクズとののしればきみもクズだ」
「すこし話そう」
オート・モーフィスは考えるそぶりをした。めだったものではなかった。
「きみと話すことなんてなにもないぞ、とは思わないのか」
「きみとかかわりたい者なんてどこにもいない。しかし、それは話もしないということではない。そういうことでしょう?」
「そうだな」
答えて歩きだす。ゴミ箱が、路地裏でハエを止まらせている。夜道は街路灯と、もうしわけな看板が明るく飾っていて、海外の人間である女性二人組は不釣り合いとも、似合っているとも言いかねた。
「本当になにもかも無くしたのか」
「本当だとも。遊びで言うことじゃない」
「それはどうだろう。だが、いくらかは信用している」
「ありがとう。そのとおり、わたしの力はもうひとりにだいたい委譲し、この肉体の支配権なんてこれっぽちも残っていない。かといって全盛期のわたしのようなあばれっぷりは期待できないが。そのもうひとりは、そういうことに興味がないようですからね」
「その言い分も信用しよう。きみにいつわりをのべる余分すらないようだから」
「ええ。ありがとう」
シャーデンはふっと息をぬいた。どうにもならないことを後悔する自分に、折り合いをつけるように。
彼女はスケールダウンしすぎたがゆえに、人間くさくなりすぎた。それはいいことではある、という顔を無言でする。
「他人の身体をどうにかするというオート・モーフィス(きみ)の性質をわたしはこころよく思っていませんでしたから、正直になれば、半分の三分の一ほどには「ざまをみた」と思っている」
「悲しいです。だけれど、あのときフィストが時の軍事政権と結んでいたことで増長し、グリニザがすでに対話で何かを引き出すというおろかな方針をとっていたのかより、さらに愚かな選択をとってしまった。それはわたしのせいではありません」
「きみの犠牲になった人間たちのカルマだとは思いませんでしたか?」
「おっと、感傷的です。でも、きみらしいいい返答ですね」
「わかりました」
ころころと変わる口調。
彼らの内面は、ときどきひとつのものでできているくせに、器としているものに言うなればひっぱられた。そのせいもあって、実のところ彼らの一部例外、たとえばシャーデンやハーフエルフ、オート・モーフィスといった者たち以外とは会話はできても、意思疎通はできない、とされている。
「人間はすばらしい生き物だ。努力して到達可能な目標なら、到達してしまう。一人が駄目でも天才があらわれる。天才が駄目なら、次の天才があらわれる。そうして脈々と、積み上げた研鑽が成果を生み進歩する。それがいまだにできておらず、手をつけることもやめている。そうする理由があるのだ」
「急な人間讃歌か?」
「結論からいえば、エイブリーという多様な道具には仕掛け(ギミック)があるのだ。努力してつきつめて、あと一歩というところにせまると絶対にできないと突きつけるギミックだ。機構のひとつとしてあり、トロイの木馬として機能しているおそろしく悪趣味な」
オート・モーフィスが気まぐれで語りはじめたようなので、シャーデンは自動販売機のまえに立ちどまった。やや古ぼけているが、丁寧に使われているのがうかがわれる日本製の財布。
それを取りだして、ふたりぶん、缶の紅茶を買う。オート・モーフィスは手渡されて、礼を言った。ちょうど水分が欲しかったようだ。酒ではのどがかわく。缶ジュースの甘いやつなどというのも、五十歩百歩だろうが。
「エイブリーの汎用化がなりたたないのはそのためだ」
「原理まではわたしも知りませんでしたよ」
「シャーデン(きみ)は当事者意識がひとより薄かったものな」
「ああ。愚かだった」
「グリニザの日本支部というのに、研磨、シャーピーとあだなされる部門がある。エイブリーの加工にひとつ頭ぬけた連中だ」
「グレイスミスってやつか?」
「「オート・モーフィス」がエイブリーのさらなる加工を可能にして見せ、サワコ・ルールとして持ちこんだころ、このシャーピーは狂喜していた。彼らの長年……といってもここ八十年かそこらの急激な発展、もっというならさらに古代、中世にもまたがる人の技術の発展欲、純粋な熱量のある感情……まあ、なんでもいいけれどそういう叡智が結晶をむすぶに至ったからだ。先に言った人間の努力のたまもの、自力でエイブリーに準じたエイブリーを作りだす」
「人間の手で作れるなら「エイブリー」でもなくなるんだがな」
「不可能でわけのわからないものの呼称だものな。それも人間によるものではありますが。それに、作りだすといっても、真に作りだすではないことは、グレイスミスら本人が気づいている。自分たちが行っているのは加工であり、研磨であると」
「すばらしいことだが、ケチのつけどころがあるんですか?」
「彼らが決め手として結局サワコ・ルールの加工したものを、参考、参照しなければならなかったというのは、彼ら自身によるケチのつけどころだろう。それに、エイブリーのこれまでの分析経過の過程で彼らは超常的な現象による犠牲を多く払った。というのは、誇りに類するものでしょうと思います。第三者が言うことではないけれどね」
「のぞきこんだ者が知性を失い、ふみこめば発狂し狂気に走る……」
「本来、それは理解できない恐ろしい、存在の差からいだく被捕食者的な恐怖からそうなるものだった。たかが技術の流出をふせぐ目的に、ダウンサイジングされた。いわゆるローカライズからくる弊害」
エイブリーとは俗説に上位存在、つまりは怪異からもたらされたものと言われる。
それにしたがって言うなら、エイブリーが理解できないのは、上位存在らが来た深宇宙の技術力を秘めたものであり、地球の文明には過ぎたものだからである。彼らはなんらかの理由で、地球文明にあまりに自分たちを上回るものを与えず、過干渉を避ける傾向がある……。
「なぜ彼らに過ぎた文明を与えてはいけないのか……」
「その理由は「わたしたちにもわからない」が、そうしなければならない。エイブリーなんてまどろこしい、わたしたちのあいだでの呼び名もろくに無い中途半端なものを与えて怪物に対処させるようにするなんて、まさしくたちの悪い話だし」
「日本支部はそれに触れたのでしょうか」
「いや。そんな合理的な理由でひとりのこらずやられたというんなら、マシといえる」
「マシというのがなにを指しているのかはきかないでおくが、きみの仕業ではないと言うんですね」
「うすうすわかっていたんでしょうに。きみこそ、なんだって「サワコ・ルール(もうひとり)」のことを知らせないのかわからない」
シャーデンはすこし考えた。やがて言った。
「言う必要がないと思った」
「ふん?」
オート・モーフィスはうなった。紅茶の缶を持った手で、器用に額をかいている。
もの思いがあった。それは、絵面ほど郷愁じみたものでなかった。
「サワコ・ルールと悪魔ロウロクの仔、タエコ・イソーテか」
「その件に関してはコメントなどはひかえたい」
「わたしはそこまで野暮じゃあない」
「指摘したじゃない?」
オート・モーフィスは言うと、ごちそうさま、と、空の缶を下げて歩きだした。それが合図で二人は別れた。結局、なにを話しあったのかもわからない。
夜が止まっていた。シャーデンは急ぎなにかに気づいてその場から姿を消した。




