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インナースペース・ネクロノミコン 〜ポケベルと白い血肉と円卓の騎士  作者: 地ゐ聞


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(43) 月は無慈悲な(3)





 がんがんと夜鉄が鳴っている。

 夜だった。



 二十時一〇分。

 時計が、落ちきった日に文字盤を表示していた。行動予定の三時間まえ。許容範囲ぎりぎりの睡眠から覚めて、ゲンコはまぶたをはっきりさせた。

 一〇分も時間を超過してしまった。

 眠気覚ましにストレッチをし、簡単なイメージトレーニングをくりかえす。それで一時間。あとは、空腹とのどの渇きを様子見して、簡単に栄養剤を摂る。

 言うほど栄養剤はおおげさなものでなく、経口摂取できる味気のないもの、くらいの代物だった。グリニザからの支給品と医師との調整の結果、食事以外に摂っているもの。

 そのくらいを口にいれて、ゲンコは一時間前には移動を開始した。二十二時。外には月が上がっていて、消防車のサイレンが遠く聞こえてきている。

 やけに月と雲が高い。

 なんの関心もなく、ゲンコはなにげなく見た。

 徒歩で移動するあいだ頭上を気にして、合流したフロムナインとともに対象の建物へ向かう。

 移動はフロムナインの運転するバイクである。今日もグリニザの業務は数カ所におよんでいる。人手は常に足りない。

 いくら避難対象になっている民家のいくらかを、同時期に譲り受けるなどして、実質、ペテンのような避難活動を行っていると言ってもだ。 

 あくまでもできる限度というものがあるなら、常識的に人々が想像できる範囲の弊害をそれはかかえている。つまり、本当に何度も何度も避難させる人々というのはいるのだ……。

 益体もない意識を、頭のはしに追いやって、ゲンコは頭を目の前の建物に集中させた。


「すでに廃棄されたテナント」


 と、フロムナインは言ったが、その言葉が不釣りあいなほど大きなビルだった。所有権はあるものの、用途的に見向きもされない建物ということのようだが、敷地もあり、ちょっとした病院かなにかと言われてもしっくりくる。

 隣り合った建物は不気味に明かりを落とし、音ひとつないようだ。

 尚吉の実家からは移動距離的に徒歩で三十分以上は離れているだろうか。あたりは暗闇に沈みきっていて、まわりの人家から、もとからはなんの街並みであったのか想像するのはむずかしい。すぐ近くにめだつ用水路もあった。それでいて寂れていて、人の気配が遠く、のどかというよりはうす寒いのが勝っていた。


「この建物は前身が不明ですが、グリニザが二カ月前に所有したものです」

「その建物内で出現ですか?」


 ちょっと聞くと、いいえ、とフロムナインは答えた。さらに聞くと答えてくる。


「建造物内にあなたが進入することで、出現が起きると予測されました」

「そんなことを予測が?」


 フロムナインは、敷地を横切って歩いた。とくに隠れる様子もないが、ゲンコも必要がないので、声だけひそめている。


「私も厳密なところは。ということは、予測もそこまでははじいていないということだと予想しています」

「……」


 ゲンコは答えなかったが、無視したわけではない。建物に入ったからだ。広めの正面口は、がらんとしていて、玄関に日本特有の靴を脱ぐ空間があった。

 土足で上がりこむのがはばかられる。そうのんきに考えたりしながら、ゲンコは建物内へ靴先をふみいれた。後ろで建物正面のガラスドアを、フロムナインが施錠している。屋内での作業経験は、ゲンコにもフロムナインにもある。

 しかし、いつでも逃げられるよう入口を開放しておく、または外からの介入がないよう施錠しておく、その場合により色々だ。


(フロムナインには彼女なりのやりかたがありそう)


 という顔で、ゲンコは建物の奥に目をやった。今のところなにか起こる気配はない。フロムナインとは、最近の現場が一緒になるおかげでブリーフィングの積み重ねが少し密にできるようになっていた。

 予測不能な面が多い怪物の対処にも、立てる方針くらいはある。そうそう高度に柔軟や、臨機応変というのはやれないものだが。

 なにも起こらないあいだに、話しあっておく。どちらが先に立つか、符丁はどうするか、そのほかのことくらいは話して、探索にとりかかる。


「ゲンコが足を踏み入れることで、なにか起こる」


 とは、ゲンコも聞きなれない話だった。そういう実例があるかどうかも判断しにくい。が、役割上、可能なかぎりの情報は集め目を通す側の立場にはあるから、実例どうこうに関しては長がある。怪物……あるいは怪異というものの挙動がどうしようもなく、ときに理解の範ちゅうでないことには長があるとは言いがたい。

 つまりゼロではあっても、それをプラスにすることはできそうになかった。あくまで今回の場合だが。

 いっぽうで、こういう理不尽な出来事の経験がないわけでない。だから、自分のまわりに怪物が出るなどという不可解にも身体が先に反応することができたわけで。

 ギターケースはすでに置き去っている。取りだしたエイブリーの糸をはり、指をかけて調子をたしかめる。

 怪物は視覚のあるなしはまちまち、共通している特徴として音にするどい。それと同種の怪物の血肉の匂いに敏感なようだった。

 この特徴については、多くの現場作業員になる人間に共有されている。事例も証明していて、死体が、意思ある暗闇の外に行くと維持されずどんな生体物質かわからない溶けかたをする。

 溶ける、というよりは肉体が消える。飛びちった血肉についても三時間ていどで完全に「消滅」(正確でない。正確性を求めるなら分解だろうか)することが確認されている。

 そういうことなら把握されている。

 怪物の肉体を分析しようにも、時間がない……怪物の肉体を仮に回収、これまでもこころみられたことだが、しようとしても、その肉体を保つ意思ある暗闇については、まずもって保持や回収に成功したことはない。

 結果としてあいまいな現場の実例のみに依存している。


(いつもながらこれは嫌だな)


 と、ゲンコは愚痴る息をもらした。

 どのようなことが起こっても予想内。どのようなことが起こっても、予想外。しかし、想定外ではある。

 暗闇でコンセントレーションを高めながら、ひとつひとつ、場所をさぐっていく作業。探っていく、といっても、なにかを探しているわけではないが。

 ふと音を聞いた気になり、ゲンコは立ちどまった。息を止めて暗闇に気配を探る。


(怪物が出てきているんなら、音は立てない)


 当然、その考えはある。

 ゲンコが思いうかべたのは、不確定要素だった。フロムナインが先行して音の鳴ったほうを探りにいく。

 ここは、彼女(いまは白銀色の身体に変化しているが)に任せるようにして周囲を警戒するべきだ。

 半歩ほどもフロムナインとの距離がよけいにひらいた。

 そのとき、ガン、と音がしてガラスが割れるのが聞こえた。ふりむくと、暗闇にぱっとすばやく動く影が見えた。

 ゲンコにはそれが肉塊に見えた。糸にかけていた指を引く。それと同時に身体はかわしていた。嘔吐感とともに、せわしなく打つ心臓。

 顔の表面が圧迫されるような独特の感覚を残して、勢いよく倒れこんだ肉塊を蹴る。小型。二体。

 後ろにとびのいて次々と処理する。勢いよく飛びちった白い体液が、色もろくに判別できない状態で、あちこちぬらしてよごした。

 ミスタ・クラシーカが来ているのではないかと思った。クラシーカは純粋なイギリス人といった人種的特徴を有する三十前後の英国人。

 すぐれた狙撃の腕前をもっており、率先して現場に立つあぶなっかしさをもつ熱血漢でもある。

 その現場での立ち回りは、トリッキーさを有していて、ときに思いもよらない挙動で、仲間の危機をカバーしてふせぐ。

 狙撃で窓を割り、ゲンコの注意をむける、といった直情なやりかたは彼らしい。

 さらに三体の小型をどうにかしのぐ。ゲンコは、そのあたりでなにかすさまじい違和感をおぼえ、まず白銀色のボディーをさがした。だが、どこにもいないようだったのだ。


(どこ……に)


 倒した怪物の死体を確認する。そうして、顔をあげた瞬間。

 ゲンコの目に異変が起きた。

 目、と形容するしかないものだった。ゲンコはまずレシーバーをとった。何度か呼びかけてみる。

 返答はない。さー、という細かくほそい砂嵐のような音が頭に流れるように、耳にひびく。

 レシーバーをはなす。

 一瞬で。

 視界がいれかわっていた。

 幻覚か、と反射的に判断する。あたりは暗いコンクリの廊下でなくなっていた。外部にアクセスする窓枠はひとつもなくなり、延々と長く続く廊下が、見渡すような先のところで折れまがって壁になっている。

 ひとつ、ふたつ、小さな明かりとりにも見える丸い穴がガラスとともに外に向いているようだった。しかし、それらは小さすぎてとても外は覗けず、また、高い位置についていた。

 廊下は古びていてコンクリやリノリウムではないものでできていた。なんというか、絨毯かそういうマットとして売っている家具のようだ。

 高級感がある、というのだろう。

 まだ学生のゲンコにはわからないものだ。そういえばマリィ・ルレーンに与えられた執務室の周りはこのような絨毯の廊下があったな、と思うぐらいだった。

 思考は混乱しそうになっていた。


(「いつもの」幻覚ではない。感触がある。なによりフロムナインの姿がない)


 文言をおさえて、ひとつ呼吸する。意識して深めに、二度。

 つられたように、思考の力がぬけかけるのをしめあげる。どうにか、神経がまとまった感触を得る。

 危機感。


(危機感に人はたまに耐えられない)


 危機感は、自分自身がつくりだし、大きさがいつも一定でない。知るのはむずかしい。

 ただ、のんきな思考もある。マリィ・ルレーンの執務室と似ている。つまり、ここは魔女の工房なのだ。おそろしげな女やときに男の姿で、魔女は森や洞窟にこもる。工房ではあやしげで人を害し、いつわるためのたちの悪い薬や魔術が作られている……思いこむと気が軽くなり指の爪がかかるほどのささいな余裕が生まれるのだった。


「ここはどこか……」


 日本語以外でつぶやく。無意味な質問だった。怪物の死体はそのまま。音はなく、感覚はごまかされているような感じはない。

 まずは周囲の理解が大事だが、なんとも言えない。怪物の姿はない。かわりに、なにかの音を聞いた気にもなっていた。ここは意思ある暗闇ではないのか?

 怪物は意思ある暗闇の一部であり、それから生まれながら、それとともにひろがる複雑な生物性を有している。暗闇がなければ、雪でも溶けるように崩壊する肉片、ただしそれは死んでいる場合であるようだ。崩壊するまでは猶予がある。

 彼らは、もしくは彼女らは一切音を立てず、咆哮するときも「そう」とわかるだけで、実際に咆哮しているわけでもない。怒りで身体を震わせる。つまり、知性がある生き物であるのだ。

 あるいは、怪物と暗闇は、器官と脳髄のように、また、器官と身体の一部が反応しあうようにひとつの生き物である、という推測もある。これは、抽象的だった。

 実際がわからない以上は、抽象的でぼんやりな表現をもちいるべきではない、というのが、ゲンコら現場の作業にあたる人間の立ち位置だった。 

 それは、徹底されている。

 「幻覚」。

 これも曖昧な言い方ではないのか?


(仕事の内容がかわったつけが回ってきているって?)

「ひどい話だな……!」


 ゲンコはささやきをもらして、やはり音が聞こえることに気にするそぶりをした。音はなにかをこすっているような、鎖がじゃらじゃらとゆれているような、そんな気配をはらんでいた。

 そして、危険だった。これはたしかだ。経験上のかんがいつものようにそう言っている。それとはちがい、実在しさしせまった恐怖感として脳内あたりにひびいている。

 音は遠かった。と同時に近いとも感じた。

 廊下の先、背中の向こう。

 頭の後ろ、あるいは消えていて見えないずっと遠く、廊下の壁が続いているあたり。

 聞こえてくる。

 視界が変わった場所から七、八歩。一瞬、ペンライトであたりを照らしてたしかめた距離。

 その身体の向きから反対に、音の主はあらわれた。

 出現はドアがひしゃげる音だった。両開きの扉で、凝った木製でできているようだった。それが音とともにめきりと折れ曲がったのだった。

 ドアは、折れ曲がっただけでなく、ふきとんでいた。ドアから出てきた質量に耐えられず、動きのままにはねとばされた動きで。

 ゲンコは強烈な違和感をおぼえた。

 ひとつは音が鳴ったこと。

 もうひとつ、あきらかに音の主が巨大な物体である、たとえば中型に類する怪物のような。

 それが轟音をたてて、じゃらじゃらうるさい音を鳴らしながら、背後に出てきた。速い動きだった。音もなくやってくるものだったならば、たぶん反応できずにふりおろしてきた腕。

 腕だった。完全な人体の形をたもった、左腕。その腕が武器を持って襲いかかった。そういう動作で、巨大な肉塊が動いた。

 その動きに一瞬で反応できず、殺されるか重傷を負って転がり、やはり殺されているかのどちらかだった。


「ふっ――ぅ」


 ゲンコは壁に自分をあざになるほど叩きつけて、はねかえったように弓をかまえた。速すぎる、という感想が顔に出ていた。

 薙いだ左腕、もう片方の腕が闇に浮かび上がる。はっきりとした巨大で完全な人型、そこだけが歪な頭部、鎖めいたたれさがった小さなシルエット!

 それらをかきけす威力のつもりで、矢を放つ。切っ先はおそろしくきれいに吸いこまれ、衝撃が八方はじけた。

 ゲンコ自身も後ろに飛ばされた。転がり、たてなおす。その一瞬で頭の血液が凍りついたような衝撃に駆られた。衝撃は背筋となって身体の骨をはねまわった。

 一瞬みえた怪物の体躯が、ぐらついてそのままもとに戻るのが見えた。

 効いていない。

 そんな話は、と、ゲンコは胸中でつづけた。死地に思いつくどうでもいいユーモアだった。

 それは彼女の頭に日本語の知識があって、使うのにも慣れていたから走った。端的に言って「毒されている」という種類のものだった。

 ゲンコはふたたび弓を引こうとして、反射的にちがう動作をとった。このとき、思考に走ったように後ろに退いていたら、怪物の突進に転がされて首でもへし折っていただろう。

 実際、怪物はまっすぐな軌道で突進してきた。巧緻な動作が欠けていたのが、ゲンコにとって救いだった。


「! ぁ!」

(音が聞こえる!)


 ゲンコは叫びながら、それが声にならなかったのを自覚した。

 ぼろのぬいぐるみのように、床に叩きつけられてはずむ。自分で躱した結果だったから、仕方のないことだった。また、人間の身体というのは、ゴムまりのようにはできていないから、床にはね返って弾むわけもない。ゲンコが自分ではね返ったのだ。

 上半身をはねとばす勢いで、今度は強く一段階意識して解放する。矢が放たれた。

 放った衝撃で、指の爪がしびれる。べつに反動があるわけでなく、放ったのが近すぎたのだ。ばしん! と、閃光が爆ぜた。

 効いていない。

 怪物は胴体をめぐらせて、気持ちの悪い角度まで首をひねった。ねじが回るように、胴体がひねって首の動きについていく。今度はやや遅かった。ゲンコは、反応できた。ただし、タイミングにわずかなミスがあった。

 ばしゃん、とバケツの水をぶちまけるように、ブレザーの一部が爆ぜた。皮も切れる。肉までは到達しない。かすり傷といえた。

 怪物がふった刃物様の大きなものが、わずかにかすったのだ。ゲンコは逃げを打った。怪物は追いかけてこようとする。

 ゲンコは二発たてつづけに放った。それは威力が大きくしぼられていた。怪物の胴体に当たる。狙った場所が絶妙に成功していた。怪物はバランスを崩し、足がにぶった。そうなると、ゲンコが逃げるのは簡単なようだった。怪物は、下半身の動き自体に「速い速度で継続的に走る」ということが、徹底されていない奇怪な構造のようだった。

 ゲンコは走った。速く早く走った。






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