(39) 電気羊の夢(4)
結日るるという娘は魅力的だった。ゲンコは、はじめてふれる文化的ショックがあったとはいえ、たしかに彼女に夢中だった。
ウィッグであるというのには、早い段階で気づいていた。というか、経験上だてに変装だのは見なれていて、あまり慣れないらしいるるくらいのものだったら一目瞭然である。
派手な子だとは思わない。
眼はカラーコンタクトと推測できる。
変装しているのだ。まだ、聞いてはいなかったが、彼女といると楽しかった。毎回、聞くのを忘れるのだ。といって、三回、四回しか本格的に遊んでいない。会った回数だけなら七、八回。
忘れられないのは二回目に遊んだとき、白熱した格闘ゲーム、きゃあきゃあとガラにもなく騒いだ、シューティングゲーム。ろくなスコアも出ないことにおおげさに落胆するのが、なにかとても楽しい。
おたがいにいいやつとか、いい子とは言うほど思っていなかったはずだ。いや、ゲンコは、惚れこんでいるのと同じだったから自省してもそんなふうには思っていただろう。
そもそもゲンコには遊んでいるような余裕はない。特殊行方不明指定者の探索は、先の見えない現象にふりまわされ、少しでもあやしい可能性は探らねばならず、ゲンコが若く向こう見ずでいられるところがなければ頓挫している。
とはいえゲンコの影響など微力で、十割で語るのなら九割八分まではすべてグリニザという組織がやっている。この点に関しては他組織に膝を折ろうがやっている。
ゲンコ自身が必死であることなど、大した問題ではなかった。なんなら気を向けずにすむよう配慮までされる側だ。
そのことにあぐらをかいていてはいけない、などと考える隙もないほどにそれはそうだ。
自分は子供だ。どうにもならないし、それはいい。だが、たまに口をついて出るのは、自分に言い聞かせているところはあった。人が思う以上にゲンコ・オブライアンという少女は青臭い。
その未熟さが現実逃避と、るるという少女への懸想めいた感情を生んでいた。いいわけをするのならそんなところで、そも、言い訳にはなっていない。
多忙であり、疲弊するのには慣れていて、多忙も多忙、疲弊を疲弊とも思っていない。
そのなかでゲンコの脳に一種のハイである部分が生まれていた。彼女は疲れきっていたのだ。
だれしもが努力してそうであることにゲンコ自身、気づいていた。そして、若いということはわかってほしい、忘れたいという反動を生じさせ、それらを通りこしてすこし頭がおかしい部分になっていた。
その部分に、るるという少女とすごすゲームセンターでの時間というやつがすべりこんだかたちだった。
ゲンコは恋をしていた。その恋は、しょせん頭がおかしいのでまともな感情として成立していなかった。
いつか彼女が大人になったときに気づくだろう。




