(38) 一九八四年(1)
寅雄の店は、一応、駅前商店街にある。
もとの物件は古いビデオ屋であった。
そのビデオ屋は、近所の大人や青年のあいだでひそかにひいきにされ、店長もたびたびかわった。
最終的に二度目の摘発で完全に店がとだえた。
五年前、寅雄が店をかまえたときにはビデオ屋がつぶれてから三年はたっていた。かつて、自分も秘密裏に(とうぜんまわりにはばれていたはずだ)通った店のあとに、というのはひとしおかの感がいもあったようにおもわれる。
よほどしたたかよっぱらったり、あるいはそれとおなじほどよっぱらった客がいると、もちだすていどには寅雄の持ちネタとなっていた。
むろん、寅雄がイギリスのなんたらを母体とする、怪物とやりあう秘密組織の工作員と知っている人間はほぼいない。
いま現在はある意味でいた。
もろなお町というこの場所……町であるのに、実際は通称で「もろなおちょう市」などと、きちっとした書類では書くはずだ、において喫緊もちあがっているさわぎのおかげで、けっこうな数の職員、構成員が煩雑な業務遂行のため駐在をきめこんでいる。
工作員、というのは、職員やいわゆる「包囲班」とは意味がことなった。彼らは専門を異とするし、あくまで専門的なことをするため、現場のすくなくとも変異といった危険からは、とおい。
それでも、長くつづけられるのは希になる、という仕事だ。
寅雄がこのへんてこで奇っ怪な役に足をつっこんだのは、日本に帰国した大学生あがりの時分だった。
経緯は割愛する。おもしろい話でもないだろうから。
しょせん、オカルトの話だった。実際に生きている人間がそれに雇用されるから、よりへんなことになりやすいというだけだ。
本物のオカルトというものは――。
客に来ているのは三人ほどだった。そのうちふたりが寅雄の学生時代の後輩にあたる。
森名尚吉、望月吟子。かたほうはだんなと離婚したとかで東京から出戻ったとかげ口をたたかれるメガネの女である。
吟子は、寅雄ともどもバンドサークルに所属していた。東京の元だんなと知り合ったのもその縁で、しかし、うまくいかなかったようだ。
戻ってきてからは、禁酒にだいぶ苦しんでいると聞く。なら、うちに通って手伝いなんかしてくれや、と、寅雄がまじめに言ったが吟子はにが笑いでことわった。
もうひとりの尚吉は、学部の後輩で、まじめな男である。ちょっと変わっている以外はいいやつで、寅雄がよくサークルの手伝いをたのむのをいやな顔ひとつせずひきうけていた縁がある。
吟子とは実家がちかい幼馴染みどうしだ。高校時代はつきあったり、といった仲にもなったが、それ以外は色っぽい話もない。なにか付き合ったことにも事情があったようで、寅雄は知るところではない。
ほかにもう一人客がいるが、気をつかったように通りに面していない窓の曇りガラスがある席に、座っている。
いまはモツ鍋をつついている。シートに載せられたこぶりな鍋が、ゆげを立てている。
さっき、簡潔な連絡をすませたユースフ・サアドという潜伏した包囲班の一人である。
年は四十代ほどの年齢不詳。包囲班の人員でも年嵩で、近年は後進の育成に回ろうとしている。 宗教的な理由によるものと思われる特徴的なかりこみを黒髪に入れていて、たまにからかわれるという。いまはそれも、キャップ帽の下に隠れていた。
市内に、タクシー運転手のていで居住をよそおっている。寅雄とはすでに三カ月前からの知り合いであるが、包囲班の事情をかんがえると見かけよりは若いのであろう。
変異や危険といった人生を考えれば、第一線からのリタイアははやめにおこなう、というのは、それほど例外の認めない事情だ。
ユースフはそれでも、個人的な希望から残留しているのであろう。
「ブライアンってのか」
と、店名に関してぼそりと言ったことがある。
由来に関してはあまり、興味がないらしいが同僚に同名の人物でもいたのかもしれない。
寅雄にしても、あまり面白い由来でつけたわけでないから、(ささいな理由はもちろんある)聞かれないのはありがたい。ユースフが笑ったわけでもない。
つまるとこユースフにとっても、些細な、あまり面白い理由ではないのではないか、と妄想をならべる。妄想はよくない。自分の疑念に都合のいい目をいれるのは、おしなべ、妄想である。
(あれを見て信じられないと思うのはいい。怪物を見たって超常現象をうけいれられないって目で生きるのが、しっかりした人間でしょ?)
(ふむ)
とでも、うなるような顔で、寅雄はせきばらいした。風邪? と、そばで聞いた吟子が聞いてくる。
「かもしれん」
と、だいたいそのようなことを、寅雄は答えた。
吟子はやだなぁ、と、たしなめ口調で言ってきた。
「生返事はよくないですよ、トーコ先輩」
「そっちでよぶな、まったく。客がいんだから」
吟子は例によって、ほろ酔いしている。どうしようもない不安におそわれないかぎり、吟子はここで酒を飲むことにしている。
理由は、介抱しても自分につきあってくれる人現関係ができているから、だそうだ。寅雄は、いくびをすくめた。
「や、おまえと森名も客だが、示しがつかない客じゃあないってな」
弁解するように言う。日本酒を飲んでいたユースフ、もしくはいあわせたタクシードライバーが、おもむろに席をたった。
はい、まいど、と、寅雄はレジで応対してから話にもどった。
「差別はいかんが、差別化はしないといかん」
「めんどうだね、寅雄先輩ったら」
もろなお町は田舎だが、じつは海外の人間がすくないわけではない。むしろ、定住しようというなら都会よりかこういうほどほどの地方がいい面はあるというものだ。
寅雄……寅雄・トーコは言った。
「いまさら直すんじゃダメなんだよ。だいたい名前いじりはよくねえもの。おまえ、そういうの、あれだぞ」
「なに?」
「酒癖がわるいってんだろ」
うるさいな、と、吟子はにが笑いでビールをきゅっとやった。
尚吉はおとなしくしていたが、そのとき、ふと口をひらいた。
「ここいらへんの店やなんかも、大変ですね。日本語うまい人のほうが本当多いですけどね」
「そうだな……」
さきほどのユースフも、海外の人間にしては上手ていどの言葉はよそおっていた。もっとも、日本に派遣されるのであるから、当然、そこらの日本人よりも日本語は修めている。
寅雄はひげひとつないあごを撫でて言った。昔はやしていたときのくせだった。彼自身、日系アメリカ人とのハーフではある。
そういえば、と、吟子が横から口をだした。幼馴染の距離感ということか、尚吉も吟子がやってもまったく気にしない。
こういうものかと、寅雄にはいまいちわからない。尚吉が頼んでいた鶏つくねのソースがけを出してやる。尚吉が礼を言った。
「最近、来たじゃない。ほら、モリイちゃん」
「ああ」
と、尚吉は一瞬歯切れが悪いのをかくしたふうにした。
寅雄は、当然その理由は把握しており、むしろ、そちらに知らん顔をしながら、表面、尚吉の反応をいぶかしんでやった。
「若いってのは、いいよなとは思うよ」
「なんだ、学生だっけ?」
ええ、と、尚吉はちょっと言いにくそうにはした。
「モリイちゃん」
と、吟子が言ったのは、尚吉の実家に下宿のようなかたちでいる、守井伊留子という、留学生のことだ。
尚吉とは遠縁の縁があり、イタリアにいる尚吉の妹の紹介でやってきたという。
人種としては東洋系のイギリス人。母親の国籍の関係で、日本名と一時的な身分をもっている。日本語は堪能だがややむずかしい単語に理解の難があるところがある。
ゲンコ・オブライアンという、怪物の駆除作業にあたる専門家。怪物との戦闘を専門にすることで、特例で現場従事を認められている未成年の女子学生のいわば仮の姿といえる。
怪物の出現という非常時に即しているとはいえ、精神的にも未成熟な未成年者の現場参画は問題が大いにある。
そのため過度な責任がかからないよう、グリニザは多分に配慮していた。こればかりは、本人が不服だろうがしかたがない。
けじめのつけかたを言っているという点で、法政というのはなんとか存在価値がある。と、もと史学部の出身らしいややこしい思考をわきにのけて、寅雄は台拭きをよくしぼった。
客が入ってきた。寅雄の顔見知りのハナゾノという客であった。寅雄はいらっしゃい、と声をかけ頭をさげた。
番傘に着流し、羽織を身につけた古風な人物である。
見た目に反しておなじ駅前商店街のうみゆりというバーでアコーディオンの演奏をやっている。本名は不詳で、マイク・ハナゾノを芸名ぽくしている。
壮年くらいの年だが、シルバーアッシュの髪がややいじっている風をかもしだしている。見た目は日系人か東洋系、背は高くなく低くもなく、しゃんとした姿勢がめだつ。
寅雄に品のいい目礼をすると、カウンター席に座りおしぼりで手をぬぐった。とにかく、目立ちそうな容姿かたちをしてはいるのだが、不思議と「あれはだれか」などと聞かれたことは寅雄にはない。ちょっと不自然なくらい、気にされない人物だった。悪いひとではないようだから、寅雄もそこまで気にしていなかった。それに、ああいう怪物と言ったのを一度見たせいで、自分の中には(失礼な話だが)不思議な話に対する妙な耐性ができていた。
実際、カウンター席にいる尚吉と吟子は、だれか入ってきたことにも、それが知らない人なのにも(いままで一度会ったことはあったか)気づいてはいるが、まるで反応というものがないようだった。
さすがによく知ったあいだがら、こういう場面を見ると肝がなんだか冷えるようだ。
といって、一度店内で居合わせたときにもこんな反応であったはずだ。
まるで記憶や認識からふっと抜け落ちてるような。
(あれは……誰だったかな?)
という顔で、寅雄が首をちょっとひねった。それは首が凝っているような動作だったので、だれも気がつかなかった。
やがて、尚吉と吟子が帰る様子を見せた。これも幼馴染どうしのきまりごとであるらしく、けして宵っぱりはせず、長くても三時間までにとどめている。もともと半分吟子のための席のようなものなので、吟子をふくめたみなが細かかった。
見送ってやりながら、寅雄はさきほどの誰だったか、という問いについてなにかぼんやり考えてしまうようだった。
誰かと似ている。
ふと、またからからとドアが鳴った。客商売であるから、ドアの古さは致命的である。二度ほど直したが、具合がまだ悪い。
いらっしゃい、と寅雄は言った。
客はコートをはおった学生服の女子である。
寅雄の知った顔だった。ふう、と、寒くなりかけた夜のしめった夜気をまとっていた。
ゲンコ・オブライアンという、怪物の駆除作業にあたる専門家。
怪物との戦闘を専門にすることで、特例で現場従事を認められている未成年の女子学生の姿である。
「どうも」
と、歩みよってきてゲンコは言った。寅雄は眉をあげた。なんだ、なにごとだ、と。
グリニザという平坦でない組織に属した身としては、非常時におぼえがないとは言わない。
が、組織的な意義からして、グリニザというのは守秘的で臆病である。よく言えば慎重だった。説明はしがたくおぼえておけばいい、という事項のなかにぎりぎりのところまでその存在、活動、索敵は秘されないとならない。言ってはだめ、知られてはだめ、ということを病的にこだわっている。寅雄のような一般よりの身分からしたら、それは、あのおそろしい怪物や怪異とかかわっていく上の「魔除け」かなにかかと思わないでなかったが……とにかく、ゲンコのような人間が寅雄と接触するときにこうというのはもうどうにもならない段階の非常か、とも思われる。
それか、ゲンコが正気でも欠いたか。
これも本人に失礼な話で、思うべきでなかった。
が、ゲンコは言うのだった。
「寅雄・トーコさんですね」
「ええ」
「私の母親から、あなたに伝言があります。いま、お時間は」
その言葉はふっつりととぎれた。
暗転。




