(34) その花を見るな(1)
「終わった」。
なにが、終わったなのか。
当然、言ったゲンコにはわかっていた。
「よいしょ……」
口に出して言ってから、ふっと息をつく。まるで年寄りである。
清掃用具をてばやくかたづけて、手を洗ったり、服を洗濯にまわしたりと、やっているとチャイムが鳴った。アパートの玄関に出ていく。
いつもどおりケルスがきている。確認して、少し待ってもらい、ドアを開ける。
クリスティーナ・マルティネスという人物。あるいは、クリスとか、親しい母はそう呼んでいた。
ゲンコとは、実のところろくな面識はない。仕事のあいだ、作業という範ちゅうにくらべればゲンコを気にかけたことをしていた女性だ。特殊行方不明指定者として、フランス南部の事変をさかいに消息がとだえ、現在地の座標が不明瞭、というあつかいになっていた。
「それが終わった……」
ゲンコはぽつりとつぶやいた。言ってから、手のひらで目をこする。
よくないくせである。昔は、これで結膜炎を起こしたから所作に不快感がともなう。
まゆをしかめて、ゲンコは着替えていた服を着終えた。ブラの紐をちょっと気にしてから、台所のほうに入っているケルスに声をかける。
くつくつ、かりかりと軽快な音をたてて、ケルスは用意をすすめている。格好はやや気を抜いているが、よそ行きに腕まくりをした姿であるのはなんとなくわかる。これから市街地のほか地域に出て、ゲンコはケルスとともにいくつか仕事のことをこなす。
もっとも、ただあてがわれただけでなく、仕事の内容にそった以上はそれなりの役割は必要とされている。役割を期待されている、と必要とされているでは、ややちがうことだがあまり現場という単位においては関係ない。淡々と仕事がすめばよい。
クリスティーナ。
ゲンコにとってその名前は特別ではない。
フランス南部の事変で、特殊行方不明指定者と判断された人間は「被害」という意味でなら多い。損失としても多いほうではあった。ゲンコが知っている現場作業員はとくにならんでそれに含められた。厳しい現場にあたる人間は、自身もしっかりと自分自身のことをこなしている。
であるから、ゲンコにも優しく、それらは尊敬にも値するほどだった。事変は一気にその人たちを失わせたといえる。
「終わった」
そう言えるのは、特殊行方不明指定者になった、顔を覚えている人間たちをゲンコが探していたからだ。騎士トリストラムとして、母がやり残したことのひとつとしてその探索があったこともある。
もろなお町に来た理由のひとつとしても、そのことがある。なんとしても自分の手が探し出さなければならない。義務のためにも、責任のためにも。個人の都合が優先されるいわれもないのがゲンコの役目……ではあるが、そもそもこれに関しては個人の感情と優先される目的が合致していたから、あるていどは目こぼしされた。
だから、終わったと言うのもただの不謹慎で無礼な行いである。クリスティーナを侮辱している。メルセデスを侮辱している。マイクを侮辱している。アルノーを、ケイパーを侮辱している。
昨晩、あらたに特殊行方不明になったと思われるヨハネスとクラウスも侮辱している。侮辱は、死よりもなお重いので、それらのことを少しでもやっているなら、ゲンコに彼らをこの先追うことはできなくなるだろう。
「……」
「これやっといて」
「はい」
ゲンコはエプロンを提げて、包丁を動かした。さかさかと器用に切られた梅ニンジンを二、三個こしらえる。考えが行きづまったときにやるクセだった。無意識でやってから、意識して普通に切る。
グラッセにするぶんだったので、あちゃーとケルスにあきれられるが、かるく詫びをいれてやりすごす。
細工したものについては自分で食べるよう言われる。煮くずれ気味になったニンジンというのも、なかなか悲しいものだ。くたりとしている。
一〇分ほど煮こんで、部屋にいい匂いがたちこめるようになった。
「そういえば、得意だったな」
「ん?」
「いえ。おいしそうね、これ」
ゲンコはとってつけたように言った。ケルスは当然、それに気づいているがなにも言わない。ぐつぐつと音をたてる熱いやつを、小皿でおそるおそる味見している。火が止まった。
「よし、と」
水分がなくなるまで煮つめた(フライ)パンに乗った料理をとりわけるのに、テーブルの上をととのえる。
クリスが一、二度、母と手料理をしていて、簡単なニンジンのグラッセをそのとき、一品として作っていたはずだ。くしくも、というか。イギリスでは家庭料理だから、母が作り方を教えていた。
ようにも感じるが、母のはあんまり個性的だったので、クリスが逆に教えていた。うらやましいとか、ゲンコは横目に見ながら思ったものだ。母がいなくなる三ヶ月か前くらいのことで、ゲンコはそのときまだふつうの義足だった。
考えれば、組織にたいする悪感情などはなかったころだ。そもそもクラーダ・オブライエンとグリニザが同じ組織内という話も、あとから知ることになるのだ。
なのでそういった光景に対して、いくらか混じるものなく見ていたはずだ。
まあ、大した問題ではない。いつも見ていたものというのは、時によって自分も分からないほどかたちを変えているから、きれいだった思わせぶりも、酷辣な罵倒になっていく。そんな感じ。
食事を終えて息をぬくと、ゲンコはいくらかはっきりした。
準備して、かたづけて、再度ケルスやメェスと合流した。アパートの外へ出かけていく。
仕事を終えて報告し、それから、ケルスに誘われてラーメン屋に入る。ひとりでは絶対に入らない場所だが、ケルスになぜか言いだされたということでゆく。
ケルスがおごってくれる、というので、せっかくだからとネギのたっぷり乗った醤油ラーメンを頼む。
食欲はないが、胃はかなりむかついている。
もうおとといになるが、吐きすぎて派手に痛めたのだ。
食道にも腫れを感じて、味の濃いものはうけつけそうにない、が、ゲンコはそういうときこそ食べるようにしている。あとで台無しにしてしまうこともあるが。
こしのある中華麺に、だしがよく利いている、とケルスは言うがゲンコは半分ほどしか感じ取れず、だが、食感はとにかくいい。するすると胃におさまった。
ラーメン屋を出て、ほかほかとあたたまった身体を寒風がふく。もう、日がかたむけば寒さすらきている季節だ。
夜のことを考えている。そういう顔でいるのに、横のショーウィンドウのガラスに映ったので、自分の顔を、ゲンコは、意識してもどした。
今日はたまたま、出現は起きていないが。ケルスもなんとなくはわかっているから、寄り道などしたのだし。
「じゃあ、お先に」
お疲れ様です、と、ケルスはアパートへ帰っていく。ゲンコはこれから、尚吉の実家で待機し明日の夜までそちらだ。
ケルスもべつに、休むわけではなくゲンコとの仕事はここまでというだけだった。
たまに本当に倒れそうになっているときすらあるらしいが、ケルスがダウンしたという話は二、三度本人から聞いただけで、ゲンコは都市伝説のようなものだと思っている。
「都市伝説かぁ」
オカルト。
ゲンコは、考えのそれかけた頭を現実逃避と同じものとしてとらえた。
これからどうする、という考えもまた、似たようなものだった。
ヨハネの言ったとおり、ウェルフの指示でゲンコは現場作業からやや遠ざけられた。本来の「現場作業に派遣される主目的」としての、変異体の追跡と駆除からは少なくとも意識的に引き離された。理由としては、作業員の身体に心的理由からなる不安要素があるため、作業に不適格であるとされたから……となるが、それ以外の仕事であれば文字どおりにいくらでもある。
作業にかかわる周辺の調整は膨大だ。そちらのほうこそ、常に猫の手も借りたいのだから、当然のようにゲンコにも頼る。ゲンコも、その能力くらいは並みにあるので、手助けはできる。
ようするに頭を休めている暇はない。
だが、やりたいことはある。
それは特殊行方不明者の探索が、理由のひとつであると言ったように。
母がやり残したことを片づけに、と言ったゲルトヒーデルには不覚にも口をすべらした言葉のとおりに、だった。あの赤みがかった黒髪の娘は、あんな冷たい雰囲気でありながら、人にものを黙っているのを許さない、へんな求心力を持っている。
「ちっ」
ゲンコは舌打ちした。性格のわるいことだった。
ひたいをこすって、背中にしたギターケースをゆする。
平均的、かつ東洋系の血があるおかげで、ここではともかく故郷ではゲンコは身体が小さい。ケースは、背丈にやや見合わないように思われる。
ゲンコの動作にあわせて動く、そんな錯覚をおぼえる。
「……」
しっかりと背負いなおして、ひょうしに無意識にソフトな材質の表面をなぞっている。
愛着があるわけではないが、結構長いこと使っている。逆に、エイブリーという、ケースのなかにおさまっている道具には手足のような、それでいて疎遠な違和感がある。
「……このままじゃ、ダメなんだよ」
ふう、と息をついた。
やるべきことだ。やり「たい」ことではない。
このままでは、駄目なのだ。
ふとポケベルをとりだすと、通知がきている。
ゲンコはすぐに指定の番号に電話をかけた。
「もしもし」
『どうも。ゲンコ・オブライアン?』
「指示があったので」
人気のないところで、表情だけ曇らせている。
そんなわかりやすい人間でもないが、このときはゲンコにとって間がわるかった。相手の女声の主……という言いかたをするのも、彼女が人間ではないからだ。フロムナイン。
銀色の流体的な人型、つまり、アンドロイドは、今は姿を例の女性体にしているらしい。
『今後、行動をともにするのが多くなる、と指示が出ていますので、よろしくお願いします』
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ゲンコは言いつつ、また性格のよくない頭のめぐらせかたを顔にちょっと出した。
言わずに、今夜の予定が決まっていることを聞き、それは小規模な二カ所ほどになる見込みだ、と、簡潔な言いかたで聞かされる。
苦手な理由のわからない相手とは、長く話すものでもない。
「わざわざありがとうございます。それでは、今夜の現場よろしくお願いします」
『体調は良好ですか』
「はい。いつもどおり、現場までには調整可能ですから」
『よろしくはないのですね。わかりました』
ふつ、と、そっけなく電話は切られた。ゲンコは息を抜いて、携帯電話をしまった。
どうも被害者くさくていけない。
うっぷんを感じつつ、見かけた自販機で、ブラックの細めの缶コーヒーを買う。くっと、一気にあおるようにしていると、横あい、と感じるところから声が聞こえる。
それは、こう言った。
「ワゥ」
ゲンコは視線を下げた。声のしたほうに目をやると、見覚えのある人物が立っている。
例のルナール、またはエメ、と名のった少女だった。
その立っている姿というのは、とにかく普通だった。横に学生用の共通デザインらしいカバンを下げ、からかうでもなくただただ引きぎみに、ゲンコを見ている。
なににおどろいているのか、と、ゲンコが内心で首をひねってじっと見ていると、ルナールは、あまり肯定的でないジェスチャーをした。応じる、というていではなく、きわめて常識的な人物という顔で。
ちょっと冷めた目で、まず「ごめんなさい、おどろいたのよ」と、言う。
相手の語調が、かなりまともなものだったので、ゲンコはむしろ居住まいをただした。言う。
「こんにちは」
「ええ」
「なんでここに」
「偶然よ。学校帰り。むしろ、あなたが学校はどうしたのよ」
「今日は用事で休みです」
「そ。ちゃんと行ったら」
のびをしたよな動作で、ルナールは言った。というより、普通にのびをしたようだ。
「日本の学校って肩がこるわ。いや、単純に環境がちがうから緊張してんだけどね」
「学校帰りっていうのは本当ですね。偶然ってのが嘘だけど」
「なんでそう思うのよ?」
「そのカバン」
「これ?」
「端がやぶけてるのって、なにかすばやい身のこなししたからでしょ。引っ掛けたのよ」
ルナールは、ちらと視線を動かしかけて、気づいた様子で鼻息を小さくついた。
「まあ、後は尾けていたよ。悪かった。試すようなことして、私の人格に多少問題があったね」
と、「カマ」をかけた、ゲンコの言動を揶揄してくる。なるほど、性格はよくないようだ、という顔を、ゲンコはした。
「そこまでは言ってないけどね」
「なんそれ。引っ掛かる物言いだねぇ。つくづく、なんというか」
「……」
「悪い悪い。また口がすぎたよ。私、どうも口が悪くってね」
「私ほどじゃないわ」
「そうなの? そうは感じないけれど」
「そういうの、嫌い」
「うん。どんなの?」
「言葉転がすのも、嫌いよ」
ゲンコが言うと、気まずげな顔で、ルナールは息をついた。
「面倒くさいコだねぇ」
「あなたって、ヨハンナ?」
「ん? ノーコメント。それより、私からも聞きたいことがあるけれど……まあ、やめておくか。カリカリしてるみたいだし」
「そうね。そのとおり」
「méchant」
ルナールが自分の耳をさわりながら言ってくる。そのさわっている耳たぶに、ピアスホールが空いている。
なんとなく、そこを見つつ、ゲンコはじっとルナールを見かえした。ルナールは、気まぐれにきびすを返した。
「いまの……」
「ねえ。力を持ってる人ってのは、社会に……ま、いいや。かたくるしい」
それじゃあ、悪かったね、と、ルナールは手をおろしてすたすたと去っていった。ゲンコは自分の首すじをさすりながら、指の先で、息をつくようにした。それは、無意識のしぐさだった。
「力をもってる人は責任ってやつ?」
小声でかすれたふうに言う。それも無意識だった。
「なんでそんなこと言うんだか」
ちょっかいをかけてきたのは、興味や好意といった感じではなさそうなルナールの様子に、ひりつくものを覚える。どちらかというと嫌悪感、といったしごくまっとうなものがあの少女からはする、と、ゲンコはそういう顔をした。
そして今夜の出番はフロムナインといっしょであることに、暗い顔をした。