(33) 星を落とす
ウェルフには、すぐに詳細が伝えられた。
ゲンコはつつみかくさずにすべて伝えたが、信じるに値するとは思われなかった。ウェルフは、労をねぎらう言葉をかけてきた。
もともと上位存在とよばれる彼らは、人類に接触をかけてきた、とされる記録から同じような妄言をくりかえしてきたとされる。
はるか昔からいた、と云われるのが本当ならのはなしだ。とにかく、今回接触をかけてきたオート・モーフィスをなのる個体が言っていることはそれに合致する内容だった。
ようは、外宇宙からの降臨者。
不適当である、とその呼び名を変えるなら移住してきたもの。来訪者。
または墜落した、不時着した、とも。
外宇宙の神々。
外宇宙という表現は、ふわっとしたフレーバーであり、正確性をもたせるなら深宇宙とでも言っておくのがいい。理由は言葉を介する彼ら上位存在とよばれる個体がそう主張している、というものだ。
上位存在とは、ときに意思ある暗闇を介して出てくる怪物と、基本をおなじくするもので人型と言葉を介するもの。そう定義された、人類に確認された個体である。
いずれも理性的で、その実、人間的感覚には欠けているとむかいあった者に感じさせる。これは、社会的地位、犯罪歴、病歴、または人格の差異および相違にかかわらずおなじ感想をいだかせるという異様性をはらんだものである。
彼らが異様に長期にわたる寿命や、不老の身体をもつともされる。または、人の目をくらませて人間の姿で現れている何かだとも。
彼らが人類のまえにあらわれた約一万四千年前の昔……というのはさすがに与太話だろう……は、ともかく、科学技術やその基礎となる「研究をおこなう」概念のはじまりである薬学、魔術、錬金術、医学。
各段階においても、彼ら自身をサンプルとした研究はおこなわれた記録がない。
それは不自然であるので、そういった記録は破棄され、そのために彼らへの理解がいたっていない。作為による意図的である。
そうも言われる。
ようはなにもわからない存在とだけ、基本おさえておけばいい。
むこうから歩いてくる理不尽。
ゲンコもその言っていることには、いっさい気をひかれていなかった。ウェルフもそうだろう。彼が対応する各所や、グリニザ本部の上層についても同様だ。彼らは人間なのであるから、それ以上の感想はもってはならない。
一応、なにかされた形跡はあるということでゲンコはかるい検査をその日のうちに受けた。異常はなかったが、当然のながれとして後日の検査をもう一度課されることになった。
翌日の夜。
「こんにちは」
夜道。ゲンコは背後に目をやった。
ラフな服装で、左目に眼帯をかけている。
十月もなかばに足をかけた最近は、夜も気温がさがるようになっている。ゲンコは、外気が直接触れるのをさけて、薄手のジップアップパーカーを羽織り、下は外出用のスウェットである。
左手にビニールをさげている。かるい汗が表面にうっすらついていた。
場所はアパートちかくの夜道であった。
なんの変哲もなく、それは逆に夜中、急に声をかけられるような場所ではない。
しかも、ちかよられるまでゲンコは気配を察知していなかった。
気配、とはいうが、ようするに警戒される物音や忍んでいるのがわかる足音と、それらは言ったものだ。不自然ということであり、声をかけてきた少女は、そういうのがないごく自然な気配だった。
「……こんばんは」
ゲンコは言った。星あかりが明るく、街灯がややくすんでいる。
「どうも。はじめましてー」
「ええと?」
「本当、ブシツケですみません。夜分遅くに声かけちゃって。おどろいたでしょ」
「それは、まあ」
ゲンコはつづけた。
目の前の少女は、わりと常識ぽく、それに「ごめんなさいね」とかさねて謝った。
表情はにこにことしていて、態度よりも静かである。街灯にはっきりと映る顔は、整っていてやや可愛らしい。着ているのは制服で、明るいベージュのカーディガンに、赤系のリボン。
前はひらいていて着くずしていた。ゲンコの知り合いである高校の雁内がしているファッションに近い。
髪は明かりの下だと判別がしにくい。しかし、純粋な金髪で、赤みがかった暗い色調らしいことがかろうじてわかる。それを一部を編みこんで垂らし、ゲンコの目にはケルティックという言葉を連想させた。
「ふーん、なるほどねえ。あなたが、ゲンコさんか」
ゲンコが言うまえに、少女は先んじて言う。ややにこにこをひそめて、両の手は上着にしているカーディガンのポッケに入れている。白いワイシャツの肩を出しぎみにした、パッと見でめだつ着こなしかたとあいまって、あまりいい態度ではない。
「聞いてた感じより、美人さんだねー。髪もつやつやだ」
「あの?」
ゲンコが聞きかえすのを、少女はちょっとあらためるように、切れ長にほそめた。
「失礼しました。あらためて、はじめまして。私はエメ・ルナールといいます。よろしく」
「丁寧に、どうも。ゲンコ・オブライアンです」
ルナール、となのった少女がさしだした手を、ゲンコはふれるていどの握手でかえした。ルナールは、表情がかわらないながらどこかその握手を好んでいない、という手の引きかたをする。
とはいえ、夜道で初対面の、という意味ではゲンコが礼を欠かれている。おおげさにいうていどではないが。
「なにかご用件が?」
「まあ、用事っていうほどのことじゃないけどね」
さりげなく道のはしに寄って、ルナールが言う。ほどよい長さのロングヘアが、夜気にながれている。
「一度顔を見てみたかったんで」
「どこかでお見かけしたことが?」
「ん? 敬語? いえ、まったくの初対面だよ」
「……ていうと、グリニザの本部のほうの?」
「そうそう。そっちのほうということで」
あまり真面目に、というよりさっぱり答える気がないようすだ。
ゲンコは息を抜くような顔でルナールを見た。
「そう警戒しないでおいてよ。面倒な。今後、現場で顔をあわせたらよろしくって話でね」
「そりゃ、こちらこそよろしく……」
「はい。それじゃあ、また。オブライアンさん」
ルナールは、興が冷めたような顔をして、あっさりときびすを返していた。
結局、去っていくようだった。ゲンコは左目を気にするようなそぶりをした。オート・モーフィスに左耳をなにかいじられた、その影響かさだかでないが、左目にほんのかすかな疼痛が走り真っ赤に充血している。
症状を見て、念の為、という意味で眼帯とガーゼを処置されたものだ。
夜中に痛みが気になるようになった、ということで医師に電話で相談するとコンビニなどで目薬などを買って、明日の朝、また診る、ということになった。
がさ、とそのレジ袋を手のなかで鳴らし、アパートへの道に向きなおる。
歩きだした。が、そのとたん後ろから何者かに肩をたたかれた。
「?」
ゲンコは、後ろを見た。かるいおどろきが、目にうかんでいる。
背後に立っていたのはルナールだった。
「とっと。ごめん、渡すのを忘れていて」
「渡す?」
「そう。はい。お近づきのしるしに」
ルナールはひるんだところもなく、自然に缶をさしだしてくる。
ゲンコは手渡しでうけとった。缶にはおしるこ、と書いてある。ゲンコがうけとると、熱い缶の温度が伝わった。
どこで買ってきたものだか、時期としては若干早い。
「ありがとう」
ゲンコは礼を言った。ルナールは、黒に近いめずらしいダークブラウンの目で、ゲンコの目を見た。
「きっとおいしいよ、それ。じゃあ。今度こそ、また」
くすり、と目を笑わせて去っていく。
思いついたように、ひと言ボソリと言う。
「後ろ、気をつけなね」
「……」
べつだん、自分を害しようと言葉を投げかけてくる人間を知らないわけではなかった。
しかし、ルナールのそれというのは、また異様だった。まるでその場で物理的に害しよう、という気が感じられた。
またそういう行為がはじめてでもないようすもあるようだった。
「……」
ゲンコも、今度こそアパートへの帰路をたどった。
「あっつ」
小声であわてる。気づかないうちに、おしるこの缶を握りしめていた。
おそらくだが、ルナールはこれを飲んだことがないのに選んだのだろう、となんとなく推察していた。
翌日。
夜。
待機場所。
気にかかることは多かった。が、それはおいといても現場には出る必要がある。
ゲンコは現場に出る数時間ほど前に眼帯をはずしていた。問題のない左目を、気にしないようにして待機している。
例によって、その日は出現まで間があった。
「エイブリー使って、人間に斬りかかる理由?」
ヨハネは、へんな聞きかえしかたをした。
ゲンコをまじまじと見て、それがわからないていどに目をやる。
禁煙パイポをくわえた口が、ごにょりと動いた。
「意外な質問だな」
「ですかねぇ」
「なるほど、諒子ちゃんの人格をそれでうたがっちゃったんだな。ううん」
おっくうそうにうなると、口からパイポをはなす。格好がつかなそうな顔をする。
「慣れじゃないかな。月並みだけど」
うん、と、うなってつづける。
「言いたいことはわかる。急に暴力に急変するってんだろ。私にはわからない要素だけど、エイブリーを使う際、気が荒くなるような感覚があるっていうし。それくらい想定して組織だってやるだろうけどさ」
「諒子さんにいろいろ教えたと聞きました」
「そういうのって聞きづらくない? 体の動かしかたを教えただけで、戦闘訓練めいたことなんてやってないから」
ヨハネは、気乗りしなげに息をついた。
ゲンコとともにいあわせたのは、ただの人員配置の関係だった。ヨハネは、特別あつかいこそされておらず、経験と実力は買われて現場をまかされている。
ブランクがある、と本人は言っているとおりカンがにぶっている自覚はあるとのことだった。そのため単独行動よりロートルとして、ゲンコと組むかたちなどを取っている。
などとはヨハネ本人が言っていることだが、これは怪しかった。
ゲンコのようすを観察するために、ウェルフが直接ヨハネを組ませた可能性がたかい。
ウェルフはゲンコに、オート・モーフィスが接触した件について関心をもっているからである。危惧、というようにも思うが、彼がゲンコ当人になにも言わないため、ゲンコは知るよしもなかった。
ただ、接触したさいにゲンコになにかをしたためにゲンコの体調に変化が起こった、という事実について経過を見たがっているというのは感じられたから、関心、または危惧、とゲンコは思ったのだ。もっとも、オート・モーフィスと彼女の関係性をさらっていれば、関心をもたざるを得ない立場にあるとも言えるのだが。
面倒くさい質問をなげられたヨハネは、そういうゲンコの前で指でひたいをこすっている。サングラス、のようにみえる特殊な補正器具……とはヨハネ本人が言っているだけではあったが、をちょっとはずし、瞳を見せる。
暗闇でろくに明かりもないが、その目がゲンコを見るでもなくかけ直す。どうやら、まえもおなじことをやっていたが、クセらしい。ブリッジも特殊な、スチームパンクめいた造形の器具は用途上、そう簡単にずれたりするわけがないからである。
ヨハネは言った。
「あなたもイギリスの人なんだから、あんまり人のプライベートにはふみこんだりしないほうがいい」
「面目ないです」
「諒子ちゃんの精神はいまは健常よりだよ。きみが危惧するようなことはないから」
「……」
「エイブリーを使う側として、グリニザ周辺の黒い噂が気にかかるわけ?」
「エナ・ルナールって人、知ってます?」
「ん? んん……」
ヨハネは手ごたえのない反応をかえした。左手の手首をさすっている。年代ものの腕時計が服の袖にかくれている。
「いや。私が知ってるって?」
「長い人だって、ウェルフさん……現場統括から」
「ウェルフは数年前から知り合いだから、気を回さないでだいじょうぶよ」
「黒い噂って、あのことってことでいいですか」
「そうねぇ」
ヨハネは禁煙パイポを指にはさみながら、さえない表情をした。視線の先がわかりにくい影が、言葉にあわせてうごく。
「あなたは、そういうの真面目にとってないように見えるけど」
「なにも知らない?」
「ええ。そうだね」
ヨハネが言うのに、ゲンコは身じろいだ。たんに靴底の感触が気になったという様子だった。
「……エイブリーの所持者による傭兵派遣、または流出したものの所持などによる暗殺、傷害行為……」
「そういうの、現場で話すのはどうかと思うだろう?」
ヨハネは言った。ゲンコは「はい」とうなずいた。しかし、続ける。
「それらはエイブリー本体の技術的な運用整備などの観点から、行われることがないことだと教育でも言われています」
「そうだろうな」
「でも、本当はそれくらいならあるのではないかと考える頭があります」
「そりゃ、わかる」
ヨハネはうなずいた。後頭部を指でかく。
「ま、想像力の範ちゅうだからさ。「でも、そんなこと言って、人間はやるものじゃない」という頭はあるものだな。暴力や人殺しに使えないからそれがなに? この世界にはそれこそどんなことでもある。エイブリーはその点において便利な技術なんだから、いくらでもやりようをやるんだろうと」
「実際にはありませんか」
「もうちょっと大人を信じなよ。以上」
ヨハネは言った。それ以上応じる気はないようだ。ゲンコは、だまって口を閉じた。
通信が入る。レシーバーを当てる、まえに緊迫した声がゲンコの耳にはいる。
『緊急です、負傷者の収容を……』
「了解」と返して、ゲンコは全力で身体を走らせた。ヨハネがあとにつづく。
負傷者、という一文に緊急という前置き。
冷静なレシーバーの声。感情をおさえている片鱗がかすかにただよってくる。
『大型、動き速く、銃弾まったく効果なし……』
音はまったくなく、静まりかえっている。嫌な感じ、といえる。そうゲンコやおそらくヨハネにも伝わっている。
無心な勢いで急いだゲンコの耳に、ようやく銃撃の音の余波がとどいた。角をまがり、指定された場所に着く。
状況はすぐに目にはいるところだった。
黒っぽい、大きなもの。頭部は一メートルくらいあるだろうか。まず、それと路面に倒れている人体が目にはいった。ゲンコは内心で声をもらしながらガットギターから弓をひいた。
「……!」
あらかじめ出現させていた弓が、矢をかたちづくる。矢ははなたれて一瞬で着弾した。
「……」
明かりが照らし、黒いものはまたたいた。輪郭はムカデか長い芋虫のようだった。
ところどころ毛みたいに触手がとびでていた。頭部からざらざらつらなった人間の腕状のものがぶあつくかたまっている。牙があり口がある。口にあたるところは円形状で、とがった突起が口のまわりをかざっていた。
その頭部に当たった矢は、まちがいなく装甲めいた皮膚をへこました。だが、それだけで破壊がおよばない。
むしろ、それでゲンコを認識した頭と目のない顔が、ぐるんとすばやくめぐった。
ゲンコは一瞬でもう二撃を撃ちこんでいた。
やはり、効果はうすい。が、装甲ははじけとんだ。体液をまきちらしながら、大型が動く。太い胴。突きでたアーチぽくまがった肉の足が、地面をかいて長い胴体を、鞭のように鈍重にうねらせる。
それは巨大だから鈍重にも見える、というだけで周囲をかこんでいた包囲班を切り裂いて弾き飛ばした。しぶきが飛んだ。それは、怪物の体液にくらべれば闇に見えないていどでしかない。
弓をひくタイミングで、怪物の頭部が鼻先までゲンコに肉薄した。疾い。おそろしく。
「――」
自動車なみの鉄めいた塊が正面からのびる。
音はしなかった。ゲンコは横に回避することで、のがれていた。ブロック塀に当たるように体をのがし、一瞬で通過した怪物の体躯めがけて弓を引いている。一発。二発。
つづいて炸裂した矢が、怪物の足をはじきとばした。装甲のうすいだろう部分。
肉でできたみたいな足は、わずかに損傷しただけでびくともしなかった。ゲンコは、ばたばたともれた鼻血をぬぐう間もなくブロック塀をとびこえ民家の軒先に下りた。それほど余裕もない空間に、すぐにブロック塀を粉砕して怪物の巨体が割りこんだ。
ゲンコはその場からとびのき、転がるように奔った。怪物の筒状の胴体は、ますます巨大に見えた。
ゲンコの皮膚の表面に、乾いた色が浮かんだ。同時に、じっとりとした汗がうかんでいる。
硬度のある、やや強力な個体。
これが出現すること自体は、予測されていないことではない。
「了解! ? ……!」
ゲンコはレシーバーに答え返しながら、ぷふ、と、口の中の血を転がした。かみしめて、切っている。
無視をして片手で左脚のふとももにふれた。追いかけてきた怪物が、飛びこんだ民家の垣根と、庭先の一部をかるく打ち壊す。
「デンマルクのオジエ――」
破片が皮膚を裂く勢いで飛散する。ゲンコは顔をかばい、一気に跳躍した。それは人間ばなれした、ワイヤーアクションめいた動きで民家の屋根にとびあがる。
跳躍自体はスマートなものではなく、両足をぴたりとそろえてふりまわすように回している。体全体が、一瞬、一本の棒のようになってほうりなげられ、屋根に着地する。ゲンコは駆けた。ふりむきざま、両手が闇に力を流している。
目に見えない力だ。光ったりはしないため、追いかけてくる破壊の塊に対して位置を知らせることはない。集中した横顔に、ばちばちと瞳の中で徐々にうかびあがる放電が奔った。力による放電で、また、電力だった。エイブリーに存在するというブラックボックス、仮想動力炉がぼう大なエネルギーをありえない速度で分配し行き渡っていく。
「!」
ゲンコは瞠目した。
べつに、生産されたぼう大なエネルギーが駆け回るのに体内を使うというわけでもない。第二段階を解放しかけるのに、あってはならない負荷があってしまうため、だけではない。神経の入り口で抵抗が摩擦をかえすかのような感覚や、受け皿が肉と筋肉と骨に波及して歯ぎしりをするのにも、慣れている。
通信から、怪物を狙う砲撃があるのは知っていた。実際、見計らったタイミングで爆発した命中が、空気を灼いて爆炎があがった。一度に二発。
が、怪物は止まることすらなく屋根上をつぶしてあがってきた。暗闇でてらてらする表面。
宙をめがけてゆらついた触手が、のびてうごめいている。「彼」または「彼女」の戦術はひとつで、巨大な胴体、機動力、突進力を使って、ゲンコを押しつぶすか轢くかということだった。
ゲンコは屋根を飛びうつるように逃げた。怪物の質量で、屋根を走り回れるわけがないのだ。また、器用に飛びうつろうというのもできないはずだ。
中に人が残っていないルートを、レシーバーから通信が算出してくる。轟音のなかでも、骨伝導を応用した声が正確に情報を伝えてくる。
「この剣を、■■■す」
レシーバーをおさえることなく、ゲンコはつぶやいた。宣誓だった。また、音声でもある。
このシステムに不安があるとしたら第一にそこだった。もし、正確にでもなく、声が出せない状態や状況にあれば、どうなるのか。
そんな場合は容易に考えつく。
そのていどで使えなくなっては合理性ではない。合理性でないなら、武器ではないし兵器でもない。いや、本当は道具ですらない。未発達な苦笑の産物。
だからエイブリー。
「――。……! 了解!!」
がなるようにレシーバーに返した。舌打ちする。しかし、そういう仕草すら命が持っていかれるのが情況だった。
四つめの屋根にとびおりて、限界をさとる。
凄まじい破壊音だった。不安定な足場をものともせず、怪物は頑丈な体で、紙のように建造物をつきやぶり追いすがって追いついてきた。民家といっても、そんな広いものではない。ゲンコは道に追いたてられて屋根の端から落ちるように飛んだ。
ほとんど、追いつめられていたといっていい。態勢をどうにかたもって地面に落ちる。またたきの間に、その目に景色がいれかわるのが映った。その景色は霧と植物と血のような赤い管が、そこらじゅうに這っていた。
そして足元に、地面ではなく肉のてらてらした塊がせまった。うごめく肉塊。視界の端に流してゲンコはさとった。
怪物の群れだった。
幸いだ、ととっさにゲンコの脳裏にそんな言葉が走った。
中型相当の大きな身体が、三体もゲンコが落ちるのを待ちうけている。毛が針のように立っている。
ゲンコは、とっさに足を振りまわし、無我夢中に空中から接触するものを蹴りつけた。
蹴りの衝撃。
ゲンコの軍用ブーツの靴底から、衝撃波のような圧力が突き抜けていった。中型の一体が、巨体をうねらせるようにたたらをふんだ。それで、いったんはかたづいたが、かこんでいた二匹が同時にゲンコの体をめがけて肢や脚をふりおろした。
正確にはふりおろしていた。速かった。
手の一本が、ゲンコの首筋をめがけていた。空中を薙ぐ音。急ぎ、弦に指をかけて引く。が、遅かった。ゲンコの首の脇に衝撃が走り、ふっとんだ視界が一瞬で宙に舞う。血の匂い。
ゲンコは、首がまだつながっているのを地面で確認した。それもまたたきの間。低空をななめに薙いだ、異形の怪物の大きな爪。プリーツスカートの端をおそらくそれは裂いていた。
地面になかば寝転がるよう、身体をアスファルトに叩きつけた姿勢で、ゲンコはばちばちと放電する瞳を計算させ、弦を引く。首筋の脇にささった巨大な脚をまず切り飛ばして、すぐ横を、縫うようにごろんと転がる。まぬけな動作だ。
すたん、と左脚がいきおいよくアスファルトをはじいた。全身の関節が、無理そうに音を立てた。
ゲンコは空中に両脚をまわせて、ほとんど跳躍するようにはねおきた。右手が一瞬全身を支えて伸び、いきおい巨体をつっこませてきた中型の動きをからくも、かわす。さらに酸性らしい液体を散らせて、複数の巨体がつっこんでくる。
ゲンコは奔った。あたりという、あたりの建物が無残にくだけちっていく。
ガラスでも飛ぶように破片がおちこちへ飛ぶ。目にでもはいれば、あるいは皮膚にでも当たればそれだけで怪我だろう。
「……」
逃げた先に、巨体が現れた。中型。
いったい、何体いたのか。
そのごわごわした体躯が、いきおいつっこんでいくゲンコの頭上に最短距離でなにかふりおろした。正確には、ふりおろしてきていた。それは錫杖のように見えた。
見えた、といったのは全容を観測して見れなかったからだ。ひまがなかった、といえば、そうなった。
鈍器。首を折って、肢体がなげだされる感覚。
実際は、そういったものを感じるひまはない。現実になっていれば。
紙一重でそのようには、なっていた。
「ひゅっ」
指を折ってはじいた真空の衝撃が、間一髪、微妙に錫杖の軌道をそらした。ゲンコは身をひねって横に薙がれる錫杖を、さらにかわした。よろつく。
まるで、鋼の巨漢のような腕だけ三本もある個体。三つの穴がぽっかり口を開けた部位が、ばらばらについた腕の下に見えた。眼球があり、それが殺意にたたえられているような錯覚。ぬらつく表面の膜。
ばしりとその一本の腕がふいに飛んだ。切り飛ばされたのだとわかった。
飛んでいく軌道がそうだったし、声がとびこんできた。肉声である。なにをさけんでいるかはわからないが、諒子のものだった。
声のしたのは、巨漢のような塊のななめ背後だった。ゲンコが視界にとらえた瞬間は、ちょうどムチの穂先の部分がふるわれるところだった。
光のように巨漢の胴体を、ムチの軌道が走り輪切りじみて、裂けた。
肉が開き、体液と肉片がとびちる。ゲンコは、ちらと諒子の位置を見てその方向へ矢を引きしぼった。足が地面を踏みしめ、不自然な体勢の全身に、負担がはしる。それは鉛が骨になったような気味の悪い錯覚だった。
急速にたちきられる充電。弓をひく原始的な動作にあわせて、すさまじい放電が空気中にはしり、それは一時的な発光となって視界をおおった。
あるいは周囲から見れば、稲妻の矢のようにも見えた。射出される一瞬、発光して爆発的な風をふりまく。
霧に隠れて、諒子の背後に近寄っていた中型くらいの怪物が、矢を受けて爆発した。四散ともいうが、着弾で胴からまわりが風でも受けたように消し飛び、四メートルは超えるだろう小ぶりな全体が余波で一面に散らばった。
矢の一撃は、周辺や進路上にあった小型も一気になぎはらった。矢に触れただけで暴力的な圧力で、身体をひき潰されている。
ふうっ、と、ゲンコが息をはき出した。その一瞬には噴き出した汗がほほを伝っている。それを地に落として、背後の怪物の残りにふりかえる。
一発。二発。
矢が、怪物を射つらぬく。
その矢には、一気に何体もふきとばした威力はない。
「こちら、オブライアン。応答ねがいます」
『オブライアン、こちら……ジーナ。どうぞ』
一瞬、違和感を感じながらゲンコは小型の二体をひきさいた。
すみやかに、転がった肉塊ぽいものに近より、確認をおこなう。もう一度息をはき出し、詰まりかけた呼吸をごまかす。身体全体にはしる、耐えがたい痛み。腹を丸めたくなるのをこらえて、通信で諒子と合流し、こちらの情況がいったん晴れたのを伝える。
通信にしたがい、近寄ってきていた諒子に目と動作でこたえてうながす。
さらに移動しなければならない。進路は、ちょうどヨハネが確保しているという。聞きながら、濃くなった霧の中を走りだす。あたりは、ほとんど異界のようだ。カビのような黒黒としたものが、びっしりとあちこちに広がっていた。
「ゲンコさん、これ――」
「――」
ゲンコは、立ちどまった。通信を行おうとした。ふと、肩を叩かれふりむくと、ヨハネがいつのまにか立っている。音もなく近づいてきた。
というよりは、ゲンコがまるで気がつかなかった。
身ぶりで、レシーバーをそっと指してくる。
こんなときに何を、と、ゲンコは一瞬ふざけているようにとったふうを見せたが、すぐになにかに気づいた。
レシーバーに、周囲の通信が入ってくる。が、その音はどこか不自然だった。
『変……体だ、……――ス、ハンス。両名……――』
通信に不自然にまじる無音。
無音だった。まるで、上書きされたような消音の音。ノイズではない。
圧倒的で自然すぎる、無音。
「――」
ゲンコはためしにぱくぱくと唇を開き、かんだ。
張りつめたような、無音だった。明かりが意味を失ったような。
『後退、後退し――』
『――』
『――、――』
ゲンコはすばやく横のヨハネを見た。気づくより一瞬早い動作だったが、ヨハネは身ぶりで声が聞こえないのを知らせてくる。
一歩はなれて、諒子がたちつくしていた。実際は周囲に警戒をはなったのだろう。この一般人と言っている娘は、妙に場慣れている。
目の前の危機に対しては、それも無駄だ。暗闇でよくは見えないが、青ざめているだろう顔を横目に送って、ゲンコは走り出している。
なにが起こっているかはわかっている。事前の情報のままに、あとはその場にむかう。
だれかが自分を引き止めたような。それは、諒子であるような感触をのこしてゲンコはとまらずどんどん走っていった。
路地を曲がり、いくつも道をすぎ、悪夢のような背景がおおい。
それらしい気配を身にまとう。圧倒される音のない情景だ。
ゲンコは、ひとかたまりになってうごめいているみっつの影を目にいれた。異形で、二体が人型を濃くたもっている。
もうひとつは包囲班の衣服で、ゲンコがその場にかけつける寸前には、異形の片腕にとらわれてしまっているようだった。ぐったりとして、生きているか死んでいるか。
ぐっとゲンコは音が消されたままの喧騒をぬって、ちかくの包囲班のひとりの体のどこでもいいからたたいた。包囲班は気がついた。身ぶりでだけ、撃つことを伝え、ぐいと弓をひく。
一瞬だった。きりもみのように、つきささるイメージではなたれた矢が一撃で一体の異形をふきとばした。ふきとばした、というのは比喩ではなく人体めいた肉のふくらんだものが巨大なままくだける。とびちって、白い血肉になった。
雨のようにはりついた。間髪入れずにはなった二発の矢が、包囲班をとらわったままあばれる肉の塊をまたたくまにふきとばした。
もう一体の、人体にこちらは似ても似つかない指のかたまりのような球体状のが、ゲンコに飛びかかった。ゲンコは、それを左足をはねあげてつま先でけりつけた。サッカーボールじみた動きで球体はゲンコの体をそれた。
コマ落としにおこなわれた動きに反して、球体はけっこうな威力があって、ちかくの家の壁面を一撃でくだいた。ゲンコはちかよって肉のはしのほうをふみつけた。圧壊。
靴底の下でくだけちった肉を押さえ、一発。二発と矢をはなった。地面ごとえぐって、球体は動かなくなった。ゲンコは無意識の動きで肉塊やらのとびちった顔をぬぐった。すこし、音が戻っていた。
「ゼイ……――、ゼイ」
ひゅう、と、ゲンコは呼吸をもどした。
だいたいは。終わった。
はずだ。
いや、終わった、と、ゲンコはつぶやく顔をした。
確認に歩こうとしたのを、肩をたたかれる。包囲班の武装をした男性……シェイクだ。包囲班の中では年長で、黒い髪を少々特徴的に刈りこんでいる。
いまはそれも暗視ゴーグルとヘルメットで隠れている。白い傷跡の口元が見え、かたく引き結ばれていたが、ゲンコを止めた、とはわかった。自分が確認に行く。ゲンコはすまない、とジェスチャーしてひきさがった。
通信がもどっている。それが、一秒かそこら前から、状況の終了を伝えていた。
手持ちぶさたになるほど暇ではない。ゲンコはすぐに歩きだそうとして、また、よびとめられた。今度は見えるほうから、諒子が、歩みよってくる。
「ゲンコさん! だいじょうぶ?」
一瞬、言いながら肩を大きく上下させた。呼吸をととのえたらしい。ゲンコに、そのときスキがあったこともわざわいしたが、諒子はやや軽率にゲンコの腕をさわった。
ゲンコはおおげさに肩がはねるのを自覚した。が、筋肉の動きだと言い聞かせるように強引におさえた。
諒子は違和感にそれでも、気づいたらしくぱっとはなした。
「ごめんなさい……待って。いまの」
言いながら、ゲンコを見る。いいえ、と、ゲンコはややかたい態度でかえした。諒子は、じっと一瞬黙ってからそっとゲンコの手をとった。ほんの指先をつかむていどだ。
「っ」
ゲンコは、けげんにしつつ無音をかえした。
諒子はもういちど「だいじょうぶですか?」と、言いなおしてきた。
口調がかわっていたのは、例のエイブリーの使用による影響だったようだ。
「ええ。ありがとう。気にしないでください」
「だったら……」
諒子はふとあたりを見て、ゲンコに視線をもどした。眉をひそめていて、暗闇でも眉間によったしわが見える。
「さっき、私に武器を向けましたね」
「ええ……」
「私に当たるとは?」
「そうならないように配慮しました」
「そう……あぶなかったから、ありがとうございました」
「あのままなら、反射的にエイブリーを振るっていた?」
「……そうです。ヨハネさんに聞いたんですか」
「いいえ。でも、話にあがったことから、なんとなく気がつきました。あなたは、エイブリーを制御しきれていないというか、正確には使用に際する自分自身のなにか破壊衝動のような、危険なものを」
ふう、と、ゲンコは咳ばらいをした。
「おおげさに言いすぎました。すこし気が大きくなって自分でもふだんしない行動に出ると」
「そうです」
「私たちが使っているのは便利な道具です」
「うん……?」
「武器というのは、使用される意図であり方法です。ハサミが危険であるみたいな、人によったらそういうたとえ方もするんでしょうが。ややちがう話で」
「はい……。……?」
ゲンコはちいさくうなずくように、言った。
「エイブリーというのは、武器として使用すること以外は想定していないものです。拳銃や刀剣、まあ、刃物にもなりそこないの道具や器具といったものですが」
「意思次第でってことでしょうか……」
「ええ。だから、あなたが気をつけて。いい?」
「はい」
諒子は言いながら、すこし肩を落としてきびすを返した。待っていたように、横をぬけてゲルトヒーデルがやってくる。
実際タイミングをはかっていたようだったが、いざとなると諒子にかすかに視線を流したようだ。
「お疲れさまです。なにか危険なことが?」
「ありましたが、問題ないですよ」
「彼女はあまりそういう顔をしていなかったようです」
「夜目がきくんですね」
「古武術でそういうことを」
「コブジュツ……」
ゲンコは意図のよくわからない顔をした。
ゲルトヒーデルは、かまわずにゲンコに歩みよった。なにか渡すかと思えば、ゲンコの顔をハンカチで拭く。濡らしてあり、熱い湯を通した感触がした。
「ありがとう……」
「いいえ」
血まみれの顔のままでは話がしにくいということのようだった。
たしかに、鼻の下からの出血ではしまらない。ゲンコは、それで諒子に話していたことをようやく気づいた顔をした。
「諒子のことを黙っていたのは、私の意図したことです」
「ヨハネさんにも聞いていません」
「それは、私には理由がはかりかねるけれど、謝罪しておこうとは思いました」
「謝罪はいいから反省してよ」
「それはそうね」
「あなたやヨハネさんが、無責任でいい加減な人間であればぐだぐだと苦情を言いつのっています。面とむかって」
「そういう人ではないと?」
「いいえ。わからないだけですよ」
ゲンコは長話になっているのを気にして、やや神経質な動作をした。言う。
「わからないあいだは言うことは控えるべきです」
「御高説をありがとうございます」
ゲルトヒーデルは、もうゲンコに興味をうしなった顔でふと言った。
「……エイブリーを人に向けるだのって、あなたが言っていいことなのかな」
「なにが?」
「騎士トリストラムというんだから、あなたにも求められている役割があるでしょう。いままでなにをやってきたか、それは私にもわかります。想像でなく」
「……」
ゲンコはゲルトヒーデルを見ていたが、片手をぴくりと動かした。それはなにかクセでしかけたが、やめたという風に見えた。
「あなたが懸命にやっていないことなんて、みんなわかっていますよ。だから、だれもいまではなにも言わないんです」
ゲルトヒーデルは冷たく言った。
ゲンコは、黙っている。そのあいだにゲルトヒーデルはどこかへ行ってしまうようだった。彼女には彼女の役割があり、それにむけてまい進するようである、と、その影が語っている。
「……」
ゲンコはまわりのスタッフと通信に断って、場をはなれた。
四十分もして、ゲンコのいた暗がりに足音がやってきた。
それは、ゲンコが息を荒らげ、あまり上等でない生理的なものにさいなまれているのを聞いたうえでまっすぐにゲンコのそばへ来た。
ゲンコは、その人物がヨハネであることを視界のはしで確認した。
「大丈夫?」
直接的な表現で、ヨハネが声をかけた。ゲンコは身体をまげて、浅い息をかえした。
ヨハネはゲンコにちかよると、背中をさすった。力強いしぐさで、的確だった。嫌みや相手への拒絶を感じない、ふしぎな動作だった。
ゲンコは咳きこんで、残っていたような胃液を吐いた。落ちついてから、手をはなしたヨハネに短く礼を言う。声は、平静だった。
「ありがとうございます」
「いや」
ヨハネは言った。
ふむ、と指をあげかけて宙にまわせておろす。変な動作だったが、たぶんクセだろう。
「あれ、変異体だな」
「はい」
「見るのははじめてじゃない?」
「はい」
「それもそう、とも言えないか」
「前回もそうでした。フランス南部の事例に参加したときに特殊行方不明指定者、三百十七名のうち、三百七名を私が処理しました」
「そうだったか」
腰に手をあてて、ヨハネはちょっとうなずいた。
変異体、という概念は正式なものではない。正式にはさだめられていないともいえる。
怪物のなかでも、人体に近い形状をもった……かぎりなく人間体に近いものをさし、特に強力であることが記録されている。
外見的特徴と前後の状況から、それらは人間が変異した個体ともいわれる。が、真相は隠匿されている。
実際に変異するところを見たものがいないというのもある。変異は起こるが、それはかならず人が目をはなしたところでおこなわれる。
変異自体が起こる確率も、けっして高いものではない。
原因も不明瞭。
一般に、数多く現場に出て怪物の駆除作業を体験した人間のなかから変異が確認される、とされている。
「あれは、クリスさんでした」
「うん?」
「フラッシュで髪と指輪が見えました。あと右手の薬指が、義指でした」
「目がいいな」
ゲンコは答えずに、口をぬぐった。いやなものがこびりつく。無意識の所作で、だいぶ後先を考えられない状態で出たようだった。
本人が、ぼうとして汚れのついた指をみおろした。
「わたし、なんで」
「拭いておきなよ」
「……ありがとうございます」
ヨハネがさしだした布をうけとって、ゲンコは感触をたしかめてから顔をぬぐった。
口を開く。
「クリスティーナ・マルティネスって言ったかな。アメリカに障害のある息子さんがいるって」
詰めた息を抜くこともなく言う。
「ああ、いや。それは結婚したあとか」
「知り合いだったか。変異体が、人間の変化した姿ってのは……確定事項じゃないけれど。だから、ぜんぶが特殊行方不明指定っていうわけでもないさ。確認ができないんだから」
「それもそうだ」
「騎士トリストラムの、つまり、エイブリーであるガットギターの変異体に対する有用性は、君の母親や、その前の使用者なんかが証明し確立してきたものだ」
「私の顔を拭いてくれたり。よく気のつく人でした」
「なるほど」
ヨハネはふっと聞こえないほどの音で、肩を下ろした。ふと言う。
「ウェルフはキミを現場からはじきたがっている。今回のことは、十分な理由になるんじゃないかな」
「……」
ゲンコはヨハネを見た。ちらりとしたもので、あまり話の内容に沿ってなかった。
が、正気ではなさそうな瞳にぼんやりと理解らしき色はうかんだ。ヨハネはつづけた。その目は、ゲンコの目を見るともなく見つめている。
が、またたきに混じらせてそらしたのが見えた。言葉はつづけている。
「さっきも本人とはすこし話したが、きみを今回の現場ではそれほど前に出さず、扱いを変える、とは私に話がきたときから言っていた。すぐに話があるだろう」
「……」
ヨハネはゲンコに目を戻して言った。
「きみにはだまっていたようなかたちになって、失礼だった。そのことは、だが仕事ということで納得してくれ。今回の現場、この後きみは待機が主になるだろう」
「それは……いいえ。……」
ゲンコは、複雑な目でヨハネを見ながら、こらえかねるようすでもあった。不調でまいっていた眼に、感情がともっている。
結局は理性がかろうじて勝ったのか、首をふった。
「ですが、私の作業についてはウェルフさんの言うところではないはずです」
「きみがどうしたいかってこと?」
「仕事なのはわかっています」
ふむ、と手ごたえなく、ヨハネが応じた。首すじをさすって、消防車の遠くに聞こえるのに耳をむけている。
「それは重要だけれど、現場全体の作業のほうが、もっと大事だろ」
「私が足をひっぱれば、作業全体の進捗が遅れるかもしれず、まずまちがいはないでしょう。グリニザが私なんかよりよほど全体をみていて、どれだけコントロールに細心をはらっているか」
「そんなところかな。ウェルフとの連絡が取れないのは、『あなた』からすりゃ不服だろうが」
ヨハネが自分で言いにきたということは、彼女が言っている以上にウェルフが話をかためてから通達してきているということだろう。
だれだれの意思が、という話よりも、もっと重きが置かれるところで話は調整されている。
「なにをしろってことはないけれど、待機はしてね。それじゃあ」
「待って……っ」
ゲンコはみっともなく言いかけて、恥をかみしめた。
ヨハネはあごをさすりながら、こちらを見ていない。
よびとめられたことには、思うところあったようで、言う。
「いくらでも仕事はあるってのは、皮肉じゃないからね」
「そんなことわかっているわよ!!」
ゲンコは言った。かっとしたような、たえかねたような言いかただった。
「どうしたいかって、そんなの待ってほしいに決まっているでしょう! 私がやらなくたってほかの私よりすぐれた人がなんてこと、わかってる! ずっとわかってるわよ」
ゲンコは、さらに言う。ヨハネは取りだしていたタバコをとんとんと叩いた。火のついていない、真新しい先がぬれていた。雨がふりだしている。
「本当の雨かな?」
「お願いです、待ってほしい、私は、私の役目は、この役目は……」
「落ちついて話しなさい。きみは今冷静じゃないようだからな」
「っ」
ゲンコはさけんだ。
「ちがう、私は本当に頭が変なんだ! でなければあんなに人を殺しておいて、こんな平気でいられるものか!!」
ゲンコはさけんだが、ヨハネは苦い顔をちょっとした。
「……」
雨はさらに冷たくなっている。時期を見こしたかのように、ひどく冷たい。へたをすると白い息でも出るのではないか。
ゲンコが肩を上下させた。音も声もろくにない。
「……」
「はあ……はっ……ひ……」
頑固そうなまなざしが、ヨハネをにらむように見ている。しかし強さはいまいちなかった。
ヨハネはだまって歩みより、ゲンコの頭からコートをかぶせた。持っていた、ヨハネ自身のものだ。
「真夜中にさけぶな」
言うと、じゃあ、と、かるく挨拶をしてその場を立ち去っていくようだった。
そのまえに言った。
「きみはたしかに、戦力としては強力といえるが人材としてはあまりそうでない。メンタルやフィジカル面に問題をかかえており、調整が必要っていうんなら、あてにできるとは言いづらいだろうから。それが一定値をこえてしまっているかってことだろうな」
ヨハネは言った。ゲンコは黙っている。が、ヨハネは最初からゲンコがなにか言うかは重要でなかったようで、きびすを返した。
ゲンコは残された。靴が踏みしめられた。




