(2) 記録(1)
払暁である。
あたりを闇がつつんでいた。
その昔、お山は巨大だったので、陽の光がささず、麓の人間は困った。天に祈ると、聞きとどけた神様があわれみ山に言った。
そのため、山は西にちょっとだけよけたのだ。
昔、尚吉の祖母は、ちいさい彼に話したものだ。もろなお町にこの話は実際に伝わっている。名前までは、うろおぼえだが。
それだけ、伝えられてはいても寂れている。
そのくらいに尚吉も思っていたものだ。
ふるびた祖父の家を片づけながら、自分が暗いうちから動いていたことに、肩身のせまさを感じる。
まあ、いい。
近くからほそぼそとラジオの音らしいのが、聞こえる。軽快なジャズミュージックで、『朧月夜』のアレンジしたのを流している。
そういえば、子供のころ尚吉は、学校で習ったこの曲の歌詞を「フカシ、ふかし」といって他の子らと遊んでいたおぼえがあった。
(悪ガキだな)
苦笑をおぼえる。
ラジオの音に混じって、ストリートオルガンの音も聞こえた。
時間だけに遠慮がちである。
尚吉は、ひと休みしようかと思った。昨日は久しぶりにこの家で寝たせいか、目が早くに覚めてしまった。なんのことはない。おちつかない気持ちをおぼえるのだ。
二年前に亡くなった祖父は、大事に使っていたが、一人暮らしの年寄りの身であるから、管理は行きとどいていないところがあるし、風呂釜は調子が悪かった。年季の入った、風呂場でシャワーだけ浴びて昨夜は寝た。
祖父に対して負い目があったわけではない。今の境遇がそうさせることを、尚吉自身、なんとなくは思っている。
いまひとつは、この家を管理できる人間がおらず、てばなすことだ。
(茶でも淹れよう)
と思って、台所にまわり、洗ったやかんに水をそそいで、火にかける。古いコンロは思ったより素直についた。
ほったらかしであっただけに、茶や湯呑みの準備に思ったよりてまどり、尚吉は気疲れした。
(やれやれ)
片づけは思うよりはすすんだ。しかし、まだまだある。一度、祖父の葬儀の後、整理はされているのだが、ものが多かった。急に亡くなったこともあるが、それにしても祖父は物もちがいい。
悪く言うと、整理がにがてであったように思われる。
まだまだある手つかずのものものに、思うとため息と、悪態が誰にともなくもれるようだ。
「……」
くさっていても何もなるまい。出がかった茶を飲みくだしつつ、ほっとひと息いれる。これも年代物のビデオテープが目にとまり、なんのけなしに、デッキを作動させてみる。リモコンを操作するために手元におく。
映画やなにかであったら、ここで重要なメッセージを祖父が喋る映像が流れてくる。
不謹慎な己を恥じいりつつも、ビデオを作動させる。今の基準でいくとさわがしい機械音をたてて、テレビの画面が映しだされると、おっそろしく古い映像が流れだした。
「東山三十六峰、剣戟の響き……」
「うわ、古いな」
びっくりして、尚吉はつぶやいた。思ったより音が大きく、リモコンでボリュームをしぼる。なにか反応が悪いことに気づいて、膝立ちでテレビのとこへいく。音量を直接いじっていると、なにか妙な音が聞こえた。
一瞬びくり、となるくらいの音ではあった。なんだろう、と思って、テレビの画面を見やる。
(ひいじいさんか)
祖父から、自分の父親(つまり尚吉からは曾祖父)が講談師だった、と、古めかしい話を聞いた事を頭のすみに浮かべる。
そういう映像をもっている、というのもそういえば聞いたおぼえがある。
いったんビデオをデッキで操作して、止めると、尚吉は縁側のほうへ行った。
(猫か)
と、思う。音もなく、田舎っぽい手作りの風車が、表で回っているのが見える。
庭つきのこの家は、広さでいえばさほどもない。テレビのある部屋は奥である。庭に面して廊下があり、縁側になっている。音がしたのはそのほうだ。
だいたいの風景を予想する。このとき、家の外はもう白みがかるのがけっこうきていた。ぼんやり映る庭木に、池に石。池といっても人がまたげるくらいの小さなものだ。昔はその池に小さいカメがいた。いつのまにかいなくなっていたが、まあ死んでしまったのだろう。ただ、小さい尚吉はそれが当時わからず、カメは? と、しきりに祖母に聞いたおぼえが、おぼろげながら、ある。
池には藻があって、苔が岩についていた。家のなかから見ると、その池がよく見える。
で、と。
そこでゆっくりのぞきこむようにして庭を見やった尚吉は、その姿勢のままで固まった。なぜなら、そこで目にした光景はちがったものだった。想像したものとは、のはなしである。目が合った。
ただし、目を、ひとつきりしかない巨大な、それをむけてきていたのは、まぎれもなくなにかだった。人間以外。クマ牧場で昔みたクマほども、それはあったかもしれない。でかかった。のっそりとしていた。ずんぐりともしていた。
そそけだったからだを、回れ右……しようと思った。
おそかった。
そのずんぐりして、つるつるしたものが、ひと足先に動いたのだ。
尚吉は肝をつぶし、
「うわあっ!!」
と、言いたかったが、じつのところ、ひゅぱっと肺がなっただけだった。
つっこんできたでかいのは、ひといきに部屋のなかにつっこんだ。おそろしい。
そのままむくりとおきあがって、また尚吉を見る。見ると同時に動いた。
尚吉も負けてはいない。はじめてではないのだ。こういう目にあうのは。
いまは思いかえすひまもないが。
「ぎゃああああっ!!」
皮膚を刃物でひきさかれたような悲鳴を、あげる。
(あいつ……あいつは!! ああ!! あのときの!!)
頭のなかで、わけもわからずわめく自分。そのすくみあがるのにあらがって、二度目によけたときについた手が、あわてて尚吉の体を、尻もちついた状態からささえおこす。
「なにがどうなって……」
妙なことが起こっていた。つるつるした化け物は、動くときになんの音もしなかった。というのは、ぶち壊された家具や障子のようすについても同じで、いっさい音が立たない。
では、これはもしかして夢なのでは。
悪夢は、考えることが現実になるようなところがある。
してみれば、まちがいなく夢だ。
「いった」
つぶやいて、尚吉は、自分の手の平を見た。床の間についた手の平から、血が流れている。するどい痛みを感じたが、その怪我をした証拠だ。床には、めちゃくちゃに暴れた化け物のせいで、いろいろな破片がちらばっている。
「……!!」
そのひとつが、これが夢ではない、と、伝えてくれたわけである。ちゃんとしている。
そうこうするあいだに、暴れていた化け物は、そのためにかえって足場をなくしていたが、逃げた尚吉を、執拗に追ってきた。そのあたりで思ったことは、逃げるから、こいつは追ってくるのではないかということだ。あのときと同じように。
二十年前、この化け物とは似ても似つかないが、襲われたことがある。
尚吉はなお、子供だったが、はっきりとおぼえている。
毛むくじゃらの顔、びっしりとはりついた人の目。
地に這う、足か手かわからない、六本の肢体。
同じだ、あのときと。