量子力学なんて知らないけど、お前がここにいるのは確かなんだ
「ねえ、量子力学って知ってる?」
帰り道、俺の隣を歩く柚乃が唐突にそんな話を始めた。
柚乃が難しい話をし出すのはいつものことだ。
柚乃が理系で頭が良いのに対し、俺は全く勉強ができない。趣味も全然違う俺たちがなぜこうして一緒に帰っているかといえば、それは幼馴染だからだ。それ以上でも以下でもない。
柚乃は俺の隣の家に住んでおり、十五年――生まれて間もない頃からの付き合いなのである。
「毎度思うけどさ、俺にそんな話して何が楽しいんだ?」
「いや、ちょっとは勉強になるかなって。悠人がこの先も落ちこぼれのままじゃ、幼馴染として見ていられないじゃない?」
「お前の話なんか聞いても馬鹿な俺にはわからないって言ってるだろうが」
「それでも役に立ってあげたいのよ。……それで、話を戻すけど量子力学って知ってる?」
俺の文句などまるで聞いてくれる様子もなく、柚乃が再び問いかける。
――量子力学。おそらくは何かの学問であろうそれのことを、もちろん俺は知らない。素直に首を振ると、柚乃は「やっぱり」と言いながら説明し出した。
「量子ってのはね、粒子と波の性質を併せ持った極小の物質のことなの。その量子は、人間に観測されている時とそうでない時で動き方を変えるんですって。不思議でしょ?」
「ごめん。さっぱりわからん」
「これだから悠人は。……つまりあれよ。シュレディンガーの猫。わかる? 箱の中に猫を入れるとするでしょう。そして他には、詳しく言っても伝わらないからざっくり言うけど、毒薬のようなものを仕掛けておくの。毒薬の発動率は50%。つまり猫の致死率もまた50%なわけ。猫が生きているか死んでいるか、それは箱の中を見るまでわからない。観測者が観測するまで決まっていない状態になるわ」
ますます首を傾げる俺に、柚乃は諦めたように「はぁ」とため息を吐いた。
「例えば悠人は今、私を見てる。けど、悠人が見てない時には私はこの世界に存在しないかも知れないってこと」
「……へえ」
そう言いながら俺は、ふと隣を見た。
腰にまで届く長い黒髪、ちょっとぶかぶかなセーラー服。控えめに言っても美少女な柚乃の姿がそこにある。そしてその瞬間、答えは決まった。
「俺は量子力学なんて知らない。だが、お前がここにいるのは確かだ。それだけはわかるよ」
「……そう」
ポツリと答えた柚乃が、一体何を考えていたかはわからない。
ほんの一瞬だけ笑ったように見えたのは、きっと気のせいだろう。