5.婚約期間
「えっ? あの…三ヶ月後、ですか?」
聞き間違えたのかと思いながら問い返すと、フェルナンはにこやかに微笑みながら「ああ、そうだ」と頷き、リュシーは一瞬言葉を失くした。
約束通り、一晩考えたリュシーはフェルナンに「お受けします」と返事の手紙を書いた。
リュシーからの「諾」の手紙を受け取ったフェルナンは直ぐにやって来て、そしてあっという間に全てを片付けた。
予め手筈を整えていたのか、フェルナンと共に現れた騎士達によって、伯父一家は捕縛された。
伯父とその息子、リュシーの従兄は抵抗しようとしたが、屈強な騎士達に造作もなく押さえつけられ、逃げ出そうとした伯父の妻も容易く捕らえられた。
あまりの手際の良さにリュシーや家の者は驚きに只々呆然としていたが、危機が去った事を理解すると涙を流して喜んだ。
只でさえ、主の安否に不安になっていたところへ伯父達が来てからずっと緊張状態が続いていたのだ。マリーを始めとする使用人達は安堵の涙を流し、それからリュシーの婚約を喜んだ。
ただ一人、弟のジュリアンだけが何故かふくれっ面をしていたが
「ジュリアン様は思春期真っ只中の14歳ですからねぇ。姉君のご結婚が気恥ずかしくもあって、拗ねたような態度を取ってしまうのでしょう」
マリーに笑いながらそう言われると、そんなものなのかな、と納得した。
何はともあれ、大事な我が家と弟を守る事が出来たのだ。フェルナンには感謝しかない。
だが、フェルナンから告げられた“婚約期間は三ヶ月”という言葉に、リュシーは驚き戸惑った。
そもそも、エウーラ王国の貴族の婚約期間は然程長くはない。他国では幼い頃から婚約を結ぶ事も多いというが、エウーラでは何かしら理由が無ければそういった事はなく、大抵は社交デビューを済ませ、正式に社交界で顔見せが済んでから、になる。
なので一般的に婚約期間は一年から二年。婚約を結んだ際に婚姻式の日取りなども決められ、婚姻式までの間にドレスを始めとした様々な準備をするのだ。
リュシーもそのつもりで、一年か二年ほどかけて、出来れば戻ってきた両親と一緒にゆっくりと準備をしたいと、そう思っていたのだ。
戸惑いながらリュシーがそう言うと、フェルナンは困った表情で笑った。
「大丈夫だよリュシー。ドレスについても心配は要らない」
公爵家に保管されている、フェルナンの母君が着たものをリュシーにも着て欲しい。サイズ直しをするだけだから、ドレスに時間をかける必要も無い。
そういった話は稀に聞く。特段珍しい事ではない。フェルナンがそう望むのならば、ドレスについてはそれで構わない。
だけど、そういう問題ではないのだ。
婚約期間がとても短い事も無くはない。
けれど、それはそうしなければならない理由がある場合だ。
社交デビューも済ませていないリュシーがこんなにも短い婚約期間で婚姻するとなると、世間からどのように思われるか…
「あの…でも…」
喜ぶ顔を見せないリュシーに、フェルナンが気を悪くしている様子なのが見て取れた。あくまでも優しい笑みを絶やさずにいるが、目の奥に苛立っているような色が見える。
不安になりながらも、リュシーは思っている事を丁寧に話した。
短すぎる婚約期間は、あらぬ誤解を招く。それは、この先フェルナンの妻として、公爵夫人として社交界に出る事を思えば、あまり良い事とは思えない。
そう言うリュシーを、フェルナンは“困った人だ”とでも言いたげに小首を傾げて見ると
「君はまだデビューも済ませていないのだから、社交界がどんな所か、実際には知らないだろう?」
そう言われてしまえば確かにそうなのだ。
エウーラ王国では、学校に通うのは貴族もしくは準貴族の子息のみ。
貴族の娘には家庭教師が付けられ、マナーを始めとした様々な事は家の中で学ぶ。
そして17歳で成人して社交デビューするまでは、社交の場─お茶会や催し物など─には必ず親と共に参加するのだ。
そこで気の合いそうなご令嬢と知り合っても、個人的に親しい関係を作れるのは成人してデビューした後の事になるので、未だデビューを済ませていないリュシーの社交界での知識は実践を伴ってはいない。
だから、実際を知らないリュシーの意見など、取るに足らないと思われるのも仕方が無いのかも知れない。
だが、それでも…
「それ…は、そうなのですが…」
どうしてフェルナンはわかってくれないのだろう。
「両親が戻ってきたら、何と言うか…」
状況的に仕方なかったとはいえ、両親の不在中に許し無く婚約を決めてしまった、というだけでも、リュシーにとっては大きな決断だったのだ。この上婚約期間がそんなにも短いなど…
様々に思いを巡らせながら俯いて小さな声で言ったリュシーの頭上から、フェルナンの溜め息が聞こえ、リュシーは益々縮こまる。
「その事だけどね…」
フェルナンは言いづらそうに少し躊躇ってから口を開いた
「…君のご両親の事は…期待しない方が良いかも知れない」
リュシーは反射的に顔を上げ、フェルナンの顔を見た。
「そ…れは、どういう…」
イグレウスの国境は依然として封鎖されたままだったが、かの国からエウーラへと、兵を連れた第二王子達が亡命してきて、エウーラ王家に助力を願い出たという話はリュシーの耳にも入っていた。
国王はそれを受けてイグレウスとの連合軍を結成。連合軍は近々イグレウス王国へ進軍すると言う。
両親の安否は未だ不明だったが、これでイグレウス国内の様子もわかってくるだろう。どうか早く無事に戻ってきて欲しい。
そう、思っていたのだ。
けれど…
「王子のお話によると、王太子の婚姻の祝宴の最中に突如武装した兵がなだれ込み、王と王太子はその場で…切り殺されたそうだ」
リュシーの喉から「ひっ」と声が漏れた。口を塞いだ両手がブルブルと震える。
「軍務大臣が王弟に通じていたらしく、王城と王都が武力制圧されたのはあっという間だったそうだ。王妃と、それから王子や王女達は捕らえられ…次々と…」
処刑されている、というフェルナンの言葉に、リュシーの身体はぐらりと揺れた。
「君のご両親…というか、君の家はイグレウス王家との血縁がある。王弟が…見逃してくれるとは…」
小刻みにリュシーの身体が震えだし、涙が滲んできた。
リュシーは楽観視していた。クーデターが起こったと言ってもそれはイグレウス王国の問題であって、エウーラ王国の人間である両親はいずれ無事に帰ってくるだろうと。
だが、そうでは無いというのか…
血の気が引いてゆき、ガクガクと震えるリュシーを、そっと近付いてきたフェルナンが優しく包む。
「ああリュシー、可哀想に。だが大丈夫だ。言っただろう? 私が君を何者からも護ると」
優しく抱きしめるフェルナンの腕の中で、リュシーの意識は遠のいてゆく
「だから、頷いてくれるね? 三ヶ月後には婚姻式だ。わかったね? リュシー」
フェルナンの労るような声を聞きながら、リュシーは意識を手放した。
両親が無事に戻るとは言い難い状況ならば、公爵家の庇護下に早く入ってしまった方が安全かも知れない。また伯父のような…良からぬ考えを持って我が家に入り込もうとする輩が現れないとも限らないのだ。
祖父の代から居る家令や、母に長く仕えてくれている年配の侍女頭からもそう言われ、リュシーはフェルナンに了承の返事をした。
フェルナンは嬉しそうに「ありがとう」と抱きしめてくれたが、両親の事を思うとリュシーの気持ちは沈んだ。
けれど事はリュシーの気持ちを置いてどんどん進んでゆく。
リュシーとフェルナンの婚約は王都の教会で略式で行なわれ、婚姻式は約三ヶ月後、社交シーズンが終わってからフェルナンと共にロシェール公爵領へ向かい、ベルシャーニュ城の中にある教会で執り行う、という予定になった。
三ヶ月の婚約期間はとても忙しかった。社交デビューを済ませていなかった為に、フェルナンがエスコートしてデビューする事になり、ドレスから支度まで全てをロシェール公爵側で手配してくれた。
フェルナンと共に参加した王家主催の夜会で、フェルナンと共に陛下に挨拶をした。
夜会にはイグレウスの第二王子も参加しており、人々の話題はもうじきに進軍を始める同盟軍の事に終始していた。
リュシーの持参金については、ジュリアンが成人して伯爵位を継いでからで良いと言うフェルナンに、何故こんなに何もかも良くしてくれるのだろうと何度も考えた。
フェルナンはリュシーの家に大恩があると言ったが、これ程にして貰えるような事とは思えない。
政略として考えれば、確かに双方に益はある。けれど、フェルナンはとても美しく優美で、若くして公爵位を継いでいる。
彼程の男性ならば、どんな縁でも望みのままだろうに、どうして…と思わずにいられない。
どうしても気になって、一度それとなく尋ねてみた事がある。彼は「うーん…」と少し困ったように微笑んで
「最初に君の、君の家の話を聞いたのは、知り合いの家の夜会の時だったんだ」
その日は、リュシーの家の応接室で細かな打ち合わせをした後でお茶を飲んで寛いでいた。
「夜会で?」
「ああ。君のご両親の話は結構話題になっていてね」
初めて聞く話に、リュシーは驚きながら耳を傾けた。
イグレウスでクーデターが起こり、その場に居たであろうオルセール伯爵夫妻も消息がわからなくなっている、そんな中で、伯爵の腹違いの兄弟が家に入り込んだらしい。
長女のリュシー嬢は今年デビューだった筈だが、大丈夫だろうか、気の毒に…そんな話を聞いたフェルナンは
「何とか力になれないものかと思ってね。我が家はオルセール伯爵家には大恩があるし…それに、気の毒なか弱いご令嬢の話を聞いて何もしないなんて、貴族の男としてあり得ないだろう?」
笑いながらそう言って
「だからすぐにいろいろ調べたんだ。それで、手紙ではなく、君に直接会いに行った方がいいだろうと思って」
リュシーをじっと見つめて柔らかく微笑んだ。
「そうして君に会ってみたら、どうしても…君が欲しくなった。君に、一目惚れをしたんだ」
優しく微笑む明るい海色の瞳に見つめられ、リュシーは頬を染めた。
彼は…あの時の黄金の少年なのか。そうだったらどんなにいいだろう。
機会があったらあの日の事を聞いてみたいと思いながら、三ヶ月はまたたく間に過ぎ、リュシーは長年専属で付いてくれている侍女マリーだけを共に、ロシェール公爵領へ向った。
だが、そこで待っていたのは我が物顔に振る舞うアンヌだった。