2.次期当主の帰還
それから更に数日後。
使用人達の目を掻い潜り、隙を突いては突撃してきて「早く出て行け、今すぐ出て行け」と騒ぎ立てるアンヌに、リュシーは疲弊していた。
こういう人物だというのはわかってはいたが、普段は離れた別邸で暮らしていた為に連日となると精神が削られる。
フェルナンはよくこんな女を恋人として長年共に過ごせたものだ。他人のシュミとは理解出来ないものだなと、いなくなってしまった夫の気持ちに思いを馳せる。
「ちょっと、聞いてるの?! のんきにしてないでサッサと─」
「アンヌさん」
言っても無駄だとは思うが、疲れているのだ。もうこれ以上この女に時間を割きたくない。
そう思って口を開けば
「やめて!! わ、私の名前はアンナベルナだって言ってるでしょお! 何度言ったらわかるのよ頭悪いんじゃないの?! アンヌは愛称なの! 愛称で呼んでいいのは家族とフェルだけなのよ!!」
そうだった。すっかり忘れていたが、この女は自分の名前をアンナベルナだ、という事にしている。何故なのか理由はさっぱりわからないが。
しかし、いつもだったら後が面倒なので大人しく謝っていたリュシーだったが、もうすぐ全て終わるのだと思ったら、何だかもう如何でもよくなってきた。
最後まで馬鹿話に付き合い続けるなど、やっていられない。
「あら? おかしいわね。主人からは貴女の事は侍女のアンヌさんだと伺っていたのだけれど?」
「んな…っ、なん、んなな…っ」
いつもと違うリュシーのにこやかな反撃に、一瞬呆気にとられたように目を見開いたが、既に興奮して赤くなっていたアンヌの顔は怒りが加わり赤黒く染まっていっているが大丈夫だろうか。興奮し過ぎて倒れやしないかと期待…あ、いえ心配してしまいます。
「ひっ、酷いわっ! なんて人なの!! フェルがもう居ないからって本性を出したわね!!」
事実を述べる事が本性というのなら、まあそうなのだろう。
「あんたなんか…! 誰からも愛されないお飾りのクセに!!」
フェルナンとは白い結婚だった、というだけで“誰からも愛されない”というのは心外である。
「ともかく」
あんたなんか、あんたなんかと拳を握ってブルブルと身を震わせながら、その先の言葉を見失ってしまったようなので、ケリをつけようとリュシーはアンヌを見据える。
目の端には、途中から「これはもしや、最後にぶちかます気ですね?」と期待の篭ったワクワクとした視線で成り行きを見守っているマリーの姿がチラリと見えた。
僅かにかち合った視線から「いいぞ、もっとやれ!」というマリーの野次が聞こえてくるような気がして、心の中で苦笑しながら口を開いた。
「私には公爵夫人として最後にやっておくべき事がありますの。
ですからアンヌさんが仰るように“今すぐ出て行く”という事は出来ないのですわ。
この家を去るのは次期当主であるリシャール様に引き継ぎを済ませてから。きちんと己のやるべき責務を果たしてからです。
そうすれば、貴女のお望み通りにここを出て行きますので─」
一言一句ハッキリと言葉を並べると、リュシーは一拍置いて腹に力を入れ、息を吸い込んだ。
「それまで大人しくしていて下さらない?」
我ながらものすごく上から目線の偉そうな言いっぷりだとは思うが、そもそも現段階では─いや離縁した後ですら─リュシーの身分はアンヌよりも上なのだ。今までがおかしかっただけで、これが本来のアンヌとリュシーの差なのである。
そうは言っても普段のリュシーは身分差でこんなにも居丈高に振る舞ったりはしない。最後にきて堪忍袋の緒が切れただけなのだ。
…そういう意味ではアンヌの言う通り“本性を現した”のかも知れない。
しかし、これで大人しくなるようなら今までも苦労はして来なかった。わかってはいるが、アンヌにこんな話は通用しないのだ。何しろ非常識の塊なので。
「─っ、そ、そんな事を言って、あんた今度はリシャールに取り入るつもりなのね!!」
何をどうしたらそんな解釈になるのか、話が通じなさ過ぎてもう本当にこの女の言う通り、何もかも放り出して今すぐここから出て行きたい衝動に駆られる。
「そうはさせないんだからぁ…っ! つべこべ言わずに、早く出て行きなさいよぉっ!!」
涙目になりながら地団駄を踏む、リュシーよりも確かみっつ程年上の筈の女に(どうしたもんかな)と思いながらうんざりしていると
「リシャール様…!」
執事の声に我に返り、見回すといつの間にか主だった使用人達に囲まれていた。
そうだった。気晴らしに庭に出ようとした所で、玄関ホールでアンヌに捕まったのだ。
開け放たれた玄関の扉へ皆が視線を動かす。暗い室内に陽光が射し込み、黄金の髪が揺れた。
「久しぶりだな、クレマン。皆も」
低くて張りのある、よく通る深い声がした。光と共に現れたのは、ガッシリとした体躯で背の高い美しい男性だった。
「…こっ、心より、お待ち申し上げておりました…っ」
壮年の執事クレマンが感極まったように声を詰まらせると、点在していた使用人達が慌てたように整列し「お帰りなさいませ!」と頭を下げた。
皆の表情から、本当に彼の帰りを待ち侘びていた事が感じられた。やはり、当主を若くして亡くしてしまった事が、彼らには堪えていたのだろう。そしてこの様子なら、安心してこの家を出て行く事が出来ると、リュシーはやっぱり何処かで寂しく思いながらも安堵した。
「リシャール! リシャール、会いたかったぁぁ!!」
つい先程まで悪鬼のような形相で怒鳴り散らしていたのと同一人物とは思えないような可愛らしい仕草と表情で、アンヌが甘ったるい声を出した。
そして小走りに男性に駆け寄ると涙を浮かべた大きな瞳で男性を見上げる。
やれやれ早速始まった。アンヌの話ではフェルナンと同じくリシャールもアンヌとは幼い頃から仲良くして可愛がってくれていたそうだから、フェルナンとのやり取りの時と同じように、暫く脱力したくなるような二人のやり取りが続くのだろう。
いつもならひと声掛けてサッサとその場を去るのだが、フェルナンではなく到着を待っていた初めて会う次期当主なのだから我慢しなければならない。仕方がないな、と半眼になりそうになるのを堪えつつ、挨拶するタイミングを測ろうと思っていると…
駆け寄ったアンヌににこりとひとつ笑顔を見せた彼は、しかしアンヌに言葉を掛ける事無く身体の向きを変えて真っ直ぐにリュシーに向かって歩いてきた。
慌てたリュシーがドレスのスカートを摘んで挨拶をしようとするのを、彼は手を上げて押しとどめると
「リュシー嬢、だね」
心地好く耳朶を打つ深い声で呼び掛け、傍まで来るとリュシーを見つめ、何故かとても懐かしそうな嬉しそうな笑顔を見せるので、リュシーは戸惑いながら「はい…」と頷いた。
(会った事はない、筈…よね?)
美しい金髪も整った容貌も、やはりフェルナンと似てはいるが、優しいけれど優柔不断で流され易い性格が見た目にも表れていたフェルナンは、明るい海色の瞳を持つ女顔の優男、という感じだった。
対してこの男性…話に聞いていたフェルナンの弟のリシャールは、よく鍛えられたガッシリとした体躯といい、意志の強そうな、それでいて深い優しさを湛えたような澄んだ紺碧の瞳を持つその顔付きは精悍で…
彼が目を細めながら僅かに顔を傾けた時、未だ開け放ったままだった玄関から風が入り、柔らかそうな髪が揺れた。
光に透ける、黄金の髪…
ふわりと遠く懐かしい記憶が脳裏に浮かびそうになり、リュシーは瞬きでそれを振り払った。
「リシャール…リシャール・ランベールだ。これからよろしく─」
「リシャール! そんな娘どうだっていいじゃない! もうこの家に要らない人で、すぐに出て行くんだか…っ」
笑顔は向けられたが声を掛けて貰えず、大嫌いなリュシーに先に挨拶をされた事に腹が立ったのか、アンヌがリシャールの言葉を遮ってその背に縋った。
が、彼が素早く首だけでアンヌを振り返るとビクリとして固まった。
そして再度リュシーに向き合うと、リシャールは徐ろにその形の良い唇を開いた。
「貴族の家の当主が若くして亡くなった場合、子を成していない夫人の先行きはいくつかある」
着いたばかりでいきなりそんな話を始めたリシャールを、リュシーは不安げに見つめた。
すぐに荷物をまとめて出て行くように、とでも言われるのだろうか…元よりそのつもりではあるが、こんなにすぐに言い渡されるとは思いもよらず、リュシーは身体を固くして彼の言葉を待った。
「ひとつ、生家に戻り、生家の当主の庇護を受ける」
そう。リュシーは端からそのつもりだ。
目の前に手のひらを掲げ、長く靭やかな指を一本折りながら告げる彼の紺碧の瞳を、リュシーは背筋を正して見つめた。
「ひとつ、修道女となり、神に仕える」
二本目の指を折って言う彼の言葉に、それも悪くは無いけれど、ジュリアンがそれを許さないだろうなと内心で考える。
「そしてもうひとつは」
三本目の指を折りながらそう言うと言葉を切り、パッと指を広げてその手を優雅に己の胸に当てた。
「婚家の他の兄弟の妻となる」
予想外の言葉に驚き、リュシーが言葉もなく目を見開いていると、柔らかく微笑んだリシャールが言葉を続けた。
「私は、ロシェール公爵家を継ぐのにあたり、リュシー、君を妻に迎えたいと思っている」
(な…なん……)
「なんでよっ!!!」
不本意ながら、アンヌの言葉とリュシーの心の声が重なった。