彼女が噂の暗黒女王
とある樹海の奥にはかつて栄華を誇った古の都が存在し、精霊王の住まう精霊宮という迷宮が今も眠っている。
そんな伝説は今も人々の間に語り継がれていた。
ここにあるだろう噂や証言はいくつもある。
当然その迷宮を探し求める者はいるが、未だ精霊宮にたどり着いたという者はいない。
なぜならあまりに深い樹海は人間には過酷であり、そこに住むモンスター達は容赦なく精霊宮に挑む者を阻むからである。
とある冒険者達は秘境に足を踏み入れ、例にもれずにその洗礼を受けた。
彼らにも腕に覚えはあった。
勝算はあったはずだ。
だが抱いていた自信は、あまりにもあっけなく圧倒的な暴力によって打ち砕かれようとしていた。
「あ、ああ……」
女性冒険者は声も出せずに無力感にさいなまれる。
そんな彼女を眺め、巨大な犬のようなモンスターは愉悦の笑みを浮かべていた。
ヘルハウンド。
そう呼ばれるモンスターはさながら門番のように彼らの前に現れ―――蹂躙した。
ただ一人まだ意識を保っている女性冒険者は倒れた仲間を前にしてももはや動くことはできない。
食べられるのか、それとも弄ばれるのか。
すべての生殺与奪の権利は、今この目の前でよだれを垂らす獣が握っていた。
爪でえぐられた傷口を押さえ、女冒険者は唇を噛む。
ただすべては無駄なのだと理解して、彼女はぎゅっと目を閉じた。
死の足音がもうすぐそこまで……そう、もうすぐそこまで迫っている。
ドッカドッカドッカドッカ。
やけに騒がしいけど、これ本当に足音か?
かなりどうでもいいことが頭をよぎって女冒険者が恐々目を開けると、音のする方向にヘルハウンドともども視線を向け。
木々をなぎ倒して飛び出してきたのは、黄金の獅子だった。
「……え?」
「ギャン!」
なぎ倒された丸太がブオンブオンと宙を舞う。
黄金の獅子はドッカンと減速なしでヘルハウンドを跳ね飛ばした。
それはもう見事な追突事故だ。
ヘルハウンドが地面を転がり止まったところを、獅子の引くやたらでっかい馬車みたいな物がヘルハウンドの頭を踏んでゆく。
「あ、痛そう……」
女冒険者は、さっきまで自分達が苦しめられていた強大なモンスターの哀れな姿に目を点にして呟いた。
「な、なにごと?」
事態についていけない。一体何が起こったというのか?
目の前の化け物馬車は女冒険者の前で綺麗にドリフトを決め、停車した。
よく見れば王侯貴族が乗るような豪華な馬車を、ふらふらと立ち上がったヘルハウンドは睨みつける。
「GORORORORO……」
「ガルルルルル!」
凶暴なヘルハウンドの視線を遮るように進み出た黄金の獅子は喉を低く鳴らす。
同サイズの黄金の獅子に牙を剥き、威嚇するヘルハウンドは未だ戦意は衰えていない。
一方黄金の獅子は、表情一つ動かさずにヘルハウンドを一瞥してフシュっと鼻を鳴らす。
だが引いた馬車の中から声が聞こえると、黄金の獅子が背筋を伸ばして固まっていたのは気のせいではなかった。
「レオン―――よくやりました。後でおやつを上げますわ!」
「がう!」
そんな女性の声とともに馬車の扉が開いた。
扉を開けたのは、どこか疲れた様子のメイドさんだった。
何でこんな秘境にメイドさん?
女冒険者は危機だと言う事も忘れて思わず心中でツッコミを入れた。
そして開いた扉の奥から飛び出す黒いカーペットがヘルハウンドの前までコロコロと広げられ、彼女は姿を現した。
高いヒールの靴に、ジャングルには完全に合っていない真っ黒なドレス。
同じく艶やかな黒髪をなびかせ、カーペットの上を当然のように歩く女性。
彼女の周囲には豪華な装飾の施された球体が空を飛び、その手にはキャリーバッグと金属製の扇が握られていた。
「オーッホッホッホ! ごきげんよう! さっそくですけれど、このミリアリアがサクッと討伐して差し上げますわ!」
しかしまるで女王のようにきらびやかな彼女は、出てくるなりそんなセリフを叫んだ。
「ダーク! 救助は任せましたわよ!」
『ああ、問題ない』
答えた誰かは女冒険者を含めた3人を抱えあげる。
いつもなら何か言い返すところだが、次の言葉は出てこなかった。
なぜならば、自分達をつまみ上げているのは、メイドさんを肩に乗せたヘルハウンドに勝るとも劣らない大きさの鎧だったからだ。
女冒険者は多少もがいたが抵抗出来るだけの体力もなかった。
「い、いったいなに?」
ささやかな抵抗として口に出した女冒険者に、人間だか疑わしい鎧は確かに人間の言葉で答える。
『大人しくしておけ。助けてやる』
「だ、大丈夫ですよ? こう見えて怖くない……んですよ?」
「……」
いやメイドさん。フォローは嬉しいけど、普通におっかないよ?
なんだこの濃い奴らは……!
女冒険者の混乱にかまわず、鋭く指示を飛ばしたのは、黒い女性だった。
「メアリー! 回復薬は好きに使いなさい! ケチらなくてもよくってよ!」
「はい!」
「さて! 獲物を取ってごめんなさいね? じゃあこのモンスターは……わたくしに任せてもらいますわ!」
黒い女性は不敵に笑い、口元をぱちんと開いた扇で隠す。
女冒険者はその光景を見て、何かの冗談だと真っ先に思った。
ジャングルでモンスターとドレスの淑女が睨み合っているのは、さすがに現実離れし過ぎている。
どう考えたって、負けるのは女性だろう―――それなのに。
「グルルルル……」
不思議なことにヘルハウンドは黒い女性と対峙したまま動かない。
敵意は消えていなかった。
なのにヘルハウンドからは冒険者たちを相手にしていた時のような残虐さは鳴りを潜めて、低く唸ったまま激しく警戒しているようだった。
他に黄金の獅子や、意味が分からない怪しい大鎧なんてものまでいると言うのに、ヘルハウンドの視線は、ひと時も黒い女性から離れない。
一体何が起こっているのかと女冒険者は必死に状況を把握しようとして、思い出した。
そういえば冒険者ギルドで話題になっていた新人がいることを。
「あ! あのドレスはまさか!……今話題の冒険者! 通る場所には草一本生えないというあの…………暗黒女王!?」
「誰が暗黒女王です! 訂正を求めますわ!」
「ヒィ!」
「グワッ!」
叫んだ黒い女性が扇を閉じた瞬間、弾かれたようにヘルハウンドは飛び掛かる。
その鋭い爪はたやすく大木をなぎ倒すことを、女冒険者は知っていた。
だが黒い女性は扇を構え、一撃をよけずに受けた。
「ええ!」
吹き飛ぶと思ったが、微動だにしない。
まるでそれは突き立った杭の様に、彼女は動かなかった。
「ふふん。避けるまでもありませんわね」
「!」
「フフフ。よろしい、わたくしが躾て差し上げますわ」
ヘルハウンドは明らかに逃げ出そうとしたが、消えた様なスピードでヘルハウンドの目の前に現れた黒い女は、その扇で一撃した。
「伏せ!」
「……!」
ズンととんでもなく重い音が地を鳴らす。
地面にめり込むヘルハウンドの首がかわいそうだった。
「キャイン!」
ヘルハウンドは飛び起きるが、逃げようとした先に、もうすでに彼女はいる。
黒い女性はヘルハウンドの懐に入り込み、扇を勢いよく振り上げた。
「チンチン!」
「……!!」
ヘルハウンドの巨体は、面白いように打ち上がる。
「おっと……今のは躾とはいえ淑女が大声で口走る単語ではありませんでしたわね。ミリアリア反省ですわ!」
一回転してひっくり返ったヘルハウンドは、もうフラフラだった。
きっとちょっと涙目なのは気のせいではない。
力関係は火を見るよりも明らかだ。
尻尾を腹の下に入れて怯えるヘルハウンドに、黒い女性は眉間に皺を寄せた。
「あら? 戦意喪失ですの?……それじゃあ」
ゆっくりと弱ったヘルハウンドに歩み寄る黒い女性は、震える巨獣の前にしゃがみ込むと、恐ろしく整った容姿に、ニッコリと完ぺきな笑顔を浮かべ手を差し出した。
「お手ですわ」
「……わん!」
右手を素早く手に乗せる渾身のお手。
お手という単語からその動作の回答が出てきたのは野生のモンスターには奇跡だった。
だがそれはきっとこの巨獣が育つ長い年月で培われた経験から導き出した最適解。
右手を上げて手を乗せるというそれだけの動作は、野生動物が生き残るために導き出したまさしく神懸った一手だった。
「まぁよくできました! 花丸ですわね!」
「わん!」
返事をしてへっへっへっと舌を出すヘルハウンドは完全に媚びていた。
その様子に大変気をよくした黒い女性は、仲間を振り返る。
「どうです! わたくし、調教師の才能があるんじゃないかしら!」
「いや絶対むいてないと思います。群れのボスの才能ならありそうですが」
『ないな。手心の練習でもしてみてはどうだ?』
「えーそんなことないと思うんですけど? だいぶ手加減したんですわよ?」
「いや……そう言う問題じゃないと思います」
控えめながらも鋭いツッコミをするメイドさんの声が聞こえたが、女冒険者もメイドさんと同じ意見だった。
そして今度は、命を拾った女冒険者の前に暗闇の化身のような女性は歩み寄って来る。
「大丈夫の様ですわね。よかったですわ」
「……命ばかりはご勘弁を」
「あら? 混乱していますのね? わたくし達はあなたを助けに来ましたのよ?」
ニッコリと優雅に微笑む黒い女性に女冒険者は何を言ったものかと考えを巡らせる。
生憎と、女冒険者にヘルハウンドのような最適解を出せる自信はない。
そして、やっと出てきたのは頓珍漢な質問だった。
「あの……何でドレスなんですか?」
答える義理もないだろうに、黒い女性はとても楽しそうに胸を張って、これでもかというほどのドヤ顔で言った。
「これがわたくしの戦闘服だからですわ!」
「……そうなんだ」
その後、傷ついた仲間たちが謎の術で蘇生するのを見て、世の中にはどうやっても理解できない存在がいるのだなと、女冒険者は妙な悟りを開いた。
秘境、精霊王の樹海。そこは噂通りの魔境であった。