『XG-029経過報告書』
死体が転がる場所として、手術室はふさわしい場所なのだろうか。
手術室は死体が生まれる場所だ。それが決して望まれるものではなく、誰かの壮絶な祈りと願いが潰えた結果だとしても、残酷な事実としてこの部屋では死体が生まれる。
しかし、本当にこの部屋は死に彩られるべきなのか。本来は何よりも命に満ちあふれているべき部屋ではないか。そして願わくば、厳格な衛生管理によってどこよりも清潔に保たれるべきではなかろうか。
さあ今からここで寝転がれと言われた日には、そんな無意味な憤りも覚えたくなる。
「……すごいね」
全部で八体と半分。
それが、手術室内に転がる死体の推定数だ。
どうしてこうなったんだと誰かに詰め寄りたくなるくらいには、手術室は酷い有様だった。血まみれで血みどろで血だらけだ。ぐちゃぐちゃになった人間の成れの果てが、縦横無尽にばらまかれている。
臓物も血液も眼球も筋肉も、ここでは全てが等しく扱われる。
きっと肌の色なんて誰も気にしないだろう。真のポリティカル・コレクトネスがここにあった。
「掃除する……?」
「掃除してどうにかなるものなんですかね……?」
「どうにもならないかも」
「他の手術室を探したりとか」
私と真白のわずかばかりの抵抗に、夜兎は軽々しくとどめを刺した。
「放射能除染機が置いてあるのは、ここだけ」
私は腹をくくる。真白は帰りたいと小さくぼやいた。
夜兎はサイボーグ脇腹からブースターケーブルを引っ張り出し、手術台(死体付き)の側にある端末の電源ユニットに繋いだ。がちゃがちゃとコンソールをいじくることしばし、暗転していたディスプレイに液晶の光が灯る。
「よかった、まだ生きてた」
見覚えのある端末だ。
私が目覚めた部屋にもこれと同じ端末があった。
「セルフメンテナンスも問題なし。自動滅菌も完了してる。いつでも使えるよ」
「ねえ夜兎、それは何?」
「統合手術支援ユニット・コールドマンMk4。支援用っていう名目だけど、各種医療機器と連携して診断から執刀まで全自動でやってくれる優れもの。Mk4は破損した生体モジュールまで修理してくれる決定版」
「……なんでコールドマン?」
「ロボットの手術は人間と違って温かみがないんだって」
「その手の言説って滅びないんだなあ」
この機械があれば、医療のプロフェッショナルがいない状況でも最先端の医術を受けられるらしい。
コールドマンの普及は医者不足を解決したのか、それとも医者から職と給料を奪う結果になったのか。
少なくとも、医者も患者も死に絶えたこんな時代ではありがたいものだ。
「じゃ、お先」
夜兎は死体を手術台から蹴り落とし、傍にあったナプキンで簡単にその上をぬぐって寝転がる。
自動で動き出したコールドマンがセンサーやらロボットアームの群れやらをわきわきと操って、夜兎の体をいじくり回し始めた。
「診断が終わったら手術が始まる。麻酔投与が始まったら私寝るから、そ」
――の後はよろしく。
そこまで言い切る前に夜兎は眠りに落ちる。コールドマン、恐るべき手際の持ち主だ。
かくして私と真白は、この凄惨極まりない手術室に二人で取り残されたわけなのだが。
「……どうする?」
「まあ、どうするも何も。掃除でもしながら、手術が終わるのを待つしかないんじゃないですか」
「死体も片付けてくれるスーパーウルトラルンバとか落ちてないかなあ」
「バケツとモップなら、そこにありますけど」
ルンバは見つからなかった。2040年の最先端技術を駆使して作られたバケツとモップを振り回し、わっせわっせと死体と血みどろを片付けるしかないようだ。
それにしても夜兎も夜兎である。こんな衛生環境の悪い場所で手術をするなんて、破傷風が怖くないのか。
それともコールドマンは破傷風も込みで治してくれるのかもしれない。どちらにせよ、軟弱な時代に生まれ育った私にはとても理解できない神経だ。
「そういえばさ。ゾンビってどうやって生まれるのかって知ってる?」
「どうしたんですか、急に」
「偉大なる古典によると、ゾンビはウィルス感染により生まれるものだと定められてるわけじゃん。だからほら、気になって」
さっきの話を整理すると、ゾンビは自然発生的に生み出される可能性がある。
もしかすると、私たちも突然誰かがゾンビになるかもしれない。たとえばあそこで寝転がっている夜兎が、突然ゾンビ化して起き上がってきたらと思うと、対策を講じる必要があるように思えた。
「よくわからないですけど、噛まれたらゾンビになるらしいですよ」
「なるほどロメロか。さすがにヴードゥーはないよね」
「ロメロ? ヴードゥー? なんですかそれ?」
ロメロ的ゾンビ。いわゆるゾンビ映画のゾンビだ。
運動能力や知能レベルは扱う作品によって差があるが、『ゾンビに殺されたものはゾンビになる』という絶対の不文律は揺るがない。ホラー映画御用達の、ショー映えするゾンビである。
そんなハリウッドの都合で生み出されたゾンビとは異なり、ヴードゥーのゾンビはアフリカに伝わる民間宗教の一部だ。
ゾンビ・パウダーなる秘薬によって仮死状態に陥った人間は、脳に深刻な障害を負った状態で蘇生させられる。かくして自我を喪失したゾンビは、生者の言いなりに動く奴隷となって使役されるらしい。
もちろん、どちらのゾンビも現実には存在しないという点は共通している。
いや、存在しないはずだった、と言うべきか。
「海音さんって変なこと知ってますね」
「変なこととは失礼な」
「ゾンビ映画とか好きそう」
「まあ、映画はちょっとかじってるから」
「おすすめの映画は?」
「実写版デビルマン」
「伝説の映画じゃないですか」
あの映画、二十年後の未来でも語り継がれる伝説となっていた。私は結構好きだけどね、あれ。
「それで。噛まれたらゾンビになるのなら、やっぱり何かしらの病原体なのかな。真白はどう思う?」
「えーと……。私もそこまで詳しくはないですけど、ここの設備があれば調べられたんじゃないですか?」
「ふむ」
ゾンビの体組織を調べるのに不足ない設備がここにある。こんな怪しい研究施設に。
夜兎は先端生体モジュール開発研究所だと言っていたが……。もしかすると。
「ひょっとしてもう調査済みだったりしないかな」
異常事態に瀕して、施設をゾンビ研究用に転用したというのもありえない話ではない。
モップをそこらに立て掛けて、デスクの一つを漁ってみる。見つかったのはA4サイズの電子ペーパー。起動しようとすると、ロックにあっさりと阻まれた。
「真白ー。パスワードわかるー?」
「パスワードなんて古風なもの、今どき誰も使ってませんよ。時代は生体認証です」
「じゃあ開かないじゃん」
「基本は無理だと思いますけど……。ちょっと貸してみてください」
真白に電子ペーパーを渡すと、彼女は慣れた手付きで端末をいじりはじめた。
「生体認証の精度は実用レベルにまで向上しましたが、根本的な課題は解決していないんですよね。指紋や虹彩は物理的損傷に弱いですし、声紋なんて成長と共に変わっちゃいますから。そんな風になんらかの要因で認証が通らなくなってしまった時のために、抜け道が用意されています」
「ほうほうほう」
「それが複合認証モードです。複数の生体認証を併用する代わりに、個々の認証基準は比較的甘めになります。それこそ血縁者や、他人の空似でも突破できてしまうくらいには」
真白は声を高くしたり低くしたり、カメラと瞳の位置を近づけたり遠ざけたりした。
十数秒ほどの試行錯誤。開きましたよ、と手渡された電子ペーパーは、確かにロックが解除されていた。
「お見事」
「ぶいぶい」
何がぶいぶいだ、かわいいやつめ。殺すぞ。
電子ペーパーの中には多数のファイルが入っていた。ファイル名に日付が含まれた研究日誌から、ただのメモ書きとしか思えない『新しいテキスト ドキュメント(13).txt』まで。ざっと眺めた限りファイル数は百を越える。
一つ一つを確認するほど暇ではない。こういう時は参照日時が新しいファイルが当たりだと相場が決まっている。
最近開いたファイルを無遠慮に表示してくれるおせっかい機能に、今こそ感謝の意を表さねばならない。
「んーと……。XG-029経過報告書……?」
そのレポートの一ページ目には、赤々と『CONFIDENTIAL』の文字が刻み込まれていた。
"『XG-029経過報告書』
概要:
XG-029は遺伝子情報を改ざんし、細胞あるいは生命そのものを変質させる有機的外来構造体です。ウイルスとよく似た性質を持ちますが、地球上のウイルスとは遺伝物質が大きく異なります。それらは他のXGオブジェクト同様、プロジェクト"D"の一環で発見・採取されました。
XG-029はDNAのポリヌクレチオド鎖を「ほどき、ふやかす」ことで遺伝子情報を改ざんします。これにより軟化したDNAは従来の堅牢性を失い、外的要因を加えることで容易に変質させられます。
DNAの変質を促す要因としては、XG-029に感染した生物の血液から精製した血清が有力視されています。この手法の導入以降、被検体の損耗率は62%にまで減少しました。詳細は実験記録を参照してください。
(付記)血清を与えられることなく放置されたXG-029感染者は、空気中に遍在する病原体を中心とした諸要因により、無軌道な遺伝子変化を遂げます。詳細は実験記録2を参照してください。
(付記2)既存のウイルス株との合併症を引き起こすことで、XG-029の性質に変化が見られました。XG-029は地球上のウイルスの感染力を吸収し、自己に取り込む性質があるものと推定されます。現在XG-029の感染力は限定的ですが、この性質により高い感染力を獲得した場合、研究所内でのアウトブレイクを引き起こすリスクがあります。"
「……なんだこれ」
レポートの先には様々な実験記録について記されている。哺乳類や爬虫類から採取した血清を利用した、XG-029による遺伝子実験とその末路。
文脈から察するに、被検体として使われているのは生きた人間だ。
「生体モジュール研究所って聞いたんだけどな……」
当たりどころではない。大当たりだ。
もう一度レポートを頭から読み直そう。一文字たりとも取りこぼさないよう、丁寧に。きっとここには、施設の闇が詰まっているのだから。