倫理観がゆるふわなのかもしれない
部屋を出た私は、真白と来た道を引き返した。
ここまで通ってきた道はある程度安全が確認できている。適当な一室を選んで、うめき声が聞こえないことを確認して中に入った。
選んだ部屋はロッカールームだ。いくつものロッカーと、横長の椅子が置かれている。
血臭はなく、清潔な部屋。体を休めるには悪くない。
「わかったことを共有する」
椅子に座って口を開くと、真白は肩をびくりと震わせた。
顔を見るまでもなくわかる。彼女は私を恐れていた。
あの部屋で、私が死体に何をしたかを見ていたのだろう。だけどあれは、情報取得のために必要なことだった。
ゾンビの知覚と弱点について、そう長い話はしなかった。だけど、その後の沈黙はやけに長かったような気がした。
「海音さんは――」
真白は、慎重に切り出した。
「サイコパスの方、ですか?」
彼女の言わんとすることはよくわかる。自分でもそう思ってしまう。
検証のために必要だったとは言え、あんな風に淡々と人体を破壊するなんて常人の神経ではない。
必要性があるのなら、倫理観を軽々と無視できしまう。そこに良心の呵責なんてものはない。今の私はそういうものだ。
「いや……。違うよ」
だとしても、如月真白の不審を買うことは得策ではない。
彼女とは協力しなければならない。如月真白の信頼を勝ち取ることは大切だ。私の知らないことを知る彼女には、まだまだ利用価値がある。
だから私は、嘘をついた。
「違うんだ。私だってあんなことしたくなかった。震えるほど怖かったよ。だけど……。あいつらのことを何も知らないと、いざという時に身を守れない。だから、私は」
「海音さん……」
「あんな風に動くものを殺したのは初めてだった。それが人間だったものなんて自分でも信じられない。感触がまだ手に残ってるんだ。できればもう二度とやりたくないけど……。そうも言ってられないんだろうね」
我ながら、なんともまあよく回る口だった。
私はそんなこと微塵も思っていない。あれはすべて自分が望んでやったことだ。
恐怖なんて感じない。感触なんて、硬いものが砕けたなくらいの感想しかない。またやる機会があれば淡々とやるだろう。
「海音さんも、怖いんですね。全然そんな風には見えないのに」
「怖いよ。たぶん一人だったらとっくに潰れてる。真白がいてくれて本当によかった」
「そんなことないですよ。私は本当に、ただついていくことしかできないので」
「ううん、すごく助かってる。だからね、二人でちゃんと外に出よう」
「……はい。家に、帰りたいですから」
真白は精一杯の笑みを見せてくれた。
上出来だ。うまく誤魔化せた。
口先だけの言葉だということは重々に承知していたが、心はまったく痛まない。酷い人間だと自分でも思う。反省ではなく、単なる自己評価として。
それはさておき、適当に入ったこのロッカールームだが。ひょっとするとここには私が望んだものがあるのかもしれない。
そんな期待を籠めて、手近なロッカーを開けてみた。
「大当たり」
にんまりと笑みを浮かべる。ロッカーの中に吊るされているのは、誰かの着替えだった。
無地のTシャツにケブラーのボトムス。靴底の厚いコンバット・ブーツ。ケブラージャケット。ポケットがふんだんに取り付けられたミリタリーバックパック。ナイロンのウェビングベルトにタクティカルグローブ。普通の靴下と防弾ヘルメット。それから、男物の下着なんかもある。
「ここ、軍事施設だったんですかね?」
「かもしれないけど、多分違うと思う」
迷彩ではなく濃紺のデザイン。軍隊と言うよりも、日本警察の特殊部隊を思わせる装備だ。だが、POLICEの文字はどこにもない。
「ねえ真白。憲法第九条って結局どうなったの?」
「結構前に改正されましたよ。詳細は覚えてないですけど……。まあ、今の時代に即した形になったようです」
今の時代に即した形。銃と暴力が溢れた今の日本社会に迎合する条文。大体の想像はついた。
かつて日本は憲法で軍隊の所持を規制していた。それが解かれたとするのならば、たとえばこんな商売も出てくるだろう。
「民間軍事会社か私設部隊か。どっちかは知らないけれど、私兵だと思う」
「私兵ですか?」
「うん。雇われの傭兵。組織的な暴力装置。この施設にはそういったものが必要だったのかもね」
まあ、なんだっていい。私にとって嬉しいのは着替えがあること。それも、機能性に富んだ装備の一式が手に入ったことだ。
片っ端からロッカーを開けて、サイズの合うものを見繕う。ロッカーの一つからはスポーツブラジャーとボーイレッグのショーツまで見つかった。
男女共用のロッカーではないようだけど……。いや、まあ、深くは考えないようにしよう。
その他にもタバコとライター、ホルスターにコンバットナイフまで出てくるのだ。お宝だらけである。
「真白に合うサイズの服はないかも」
「別にいいですよ。ミリタリ趣味はないので」
「タバコならあったけど。吸う?」
「タバコは違法薬物です。誰も守ってませんけど」
「ついにタバコ規制もそこまで行ったか……」
真白はホルスターを、私は一通りの衣服を身に着けた。
裾と袖を何度もまくって、ぶかぶかのジャケットとボトムスをなんとかあわせる。さすがにヘルメットは諦めるしかない。
一番小さいサイズでもこれなのだ。そう背が低い方でもないのだけど、私の体格では傭兵稼業は難しいようだ。残念。
「それ、なんだかコスプレみたいですね」
「一応本物なんだけど」
「サイズの合わない服をなんとか着ようとしているちびっこ感が、こう、ぐっと」
「君、私より年下だよね?」
誰がちびっこだ、誰が。
それよりも嬉しい収穫はコンバットナイフだ。これを鉄パイプの先端にベルトで巻きつけることで即席の槍になる。
これなら、遠距離から奴らの頭蓋を貫けるかもしれない。
それからもう一つ収穫があった。
9ミリのオートマチック・ハンドガン。引き金を引けば、乾いた音と共に命を奪う素敵なオモチャ。残弾はたっぷり十七発。真白が持っているものとよく似たそれは、一つのロッカーの片隅にひっそりと置かれていた。
私はそれを黙って懐に忍ばせた。
隠し持っておけば、如月真白を殺す時に都合がいいからだ。