あらすじにゆるふわゾンビものって書いてなかったっけ……?
薄暗い廊下が、闇の奥まで伸びていた。
足元に小さく灯る非常灯と、誘導灯の緑の光。それ以外に光源はなく、空調の音だけが響く廊下には、冷たい闇だけが渦巻いていた。
懐中電灯はつけなかった。こんな闇の中で光を照らせば、闇に蠢くものたちは蛾のようにたかってくるだろう。
夜目をこらし、耳をすまし、できるだけ静かに歩く。この状況ではそうするべきだと判断した。
後ろをついてくる小さな息遣いを感じながら、誘導灯の光を順に辿っていく。途中にもいくつか部屋があったが、それらはすべて無視した。寄り道をする余裕はない。
闇の奥から血臭が漂う。鉄臭く、むせかえるような匂いが喉にかかる。
少量の血が流れた程度ではこんな匂いにはならない。最低でも数人、おそらくは数十人の人間が、この場所で死んでいる。
角を曲がるたびに後ろの息遣いが早くなる。
闇の向こうに何がいるかなんて、覗き込むまでわからない。
死体が転がっているかもしれない。その死体が私たちの目の前で起き上がるのかもしれない。それ以外にも、もっと未知な恐ろしいものが待ち構えているかもしれない。
そう思わせるだけの雰囲気が、底冷えするように漂っていた。
どれほど歩いただろうか。耳慣れない音が聞こえて、私は立ち止まった。
肺の底から絞り出したような、ほの暗い唸り声。獣にも似た、低く正気を感じない不気味な吐息。
その声は、通りすがった扉の奥からした。
後ろを振り向く。暗闇の中、彼女にアイコンタクトを出す。
ここで待っているようにと。
奴らの習性については興味があった。私はゾンビのことをほとんど知らないのだ。
何に誘引されるのか。どういった習性があるのか。何も知らないまま不意の遭遇を待つくらいなら、多少のリスクを取ってでも情報を取りたい。
資料室と書かれた扉の前で耳を澄ます。
唸り声は一つ。扉からは遠い位置。かがみこんで扉と床の隙間を覗いても、光は漏れていない。中も暗闇のようだ。
音を立てないように、数センチだけ扉を開く。流れ出した血臭と腐臭に、後ろの気配が身動ぎする。
隙間から中を覗き込むと、中に、それはいた。
白衣を着た人間が、背を向けて立っていた。
猫背。頭をがくりと落とし、ふらふらと揺れている。時々痙攣のようにビクりと脈動する。何か黒ずんだ体液のようなものが体表を伝って滴り落ちている。
暗くてよく見えないが、肌の色は変色しているように見えた。
あの肌色、血流が止まっているようだ。心臓は既に鼓動をやめているのだろう。
となると、筋肉は血液が供給する酸素を抜きにして動いているわけだ。そのエネルギー源は何だろうか。
興味はあったが、観察だけではこれ以上はわからない。
今わかることは二つ。
奴らは人間と違って、心臓や動脈は弱点ではないこと。
そして、勢いよく返り血が吹き出す心配はしなくていいことだ。
真白に工具箱を置くように指示し、中からレンチを数本取り出す。それを手に、私は部屋に入った。
さあ、実験の時間だ。
理科の授業は好きだった。あの頃ほどわくわくはしないけれど、あの頃よりもずっと身が入る。
資料室の内部は小部屋と言っていいほどの狭さだった。
十畳ほどの小さな空間の壁面にはラックが並び、いくつものバインダーが挟み込まれている。部屋の中央には長机とパイプ椅子が二つ。その奥にゾンビが一体。
インテリアめいたものも、非常灯や誘導灯の明かりもない。ドアを閉め切れば完全な暗闇になるだろう。
知りたいのは、奴らの感知器官について。
私たち人間には数多くの感覚器がある。五感以外にも色々あるらしいけれど、この状況で重要な感覚は数個だけに絞られる。
ミッション1。皮膚感覚。まあ、要は触覚だ。
長机に出されていたファイルの一枚を手に取る。
英語の論文が書かれたそれはおそらく重要な資料だったのだろうが、今の私にとっては紙飛行機の材料でしかない。手早く折ったそれを、長机の裏から放り投げた。
狭い部屋の中を優雅に飛んだ紙飛行機は、ゾンビの頭にこつんと当たり、勢いを失って床に落ちた。
ゾンビはそれに一切の反応を示さなかった。
なるほど、触覚はないらしい。末端神経系のどこかが死んでいるのだろうか。血流が止まってなお筋肉を動かす正体不明のエネルギーも、細かな感覚器までは支えてはくれないと見える。
それは二つのことを意味している。
遠距離からの攻撃に奴らが反応できないことと、痛みを感じない奴らが苦痛に足を止めることがないということ。
次、聴覚。これは大事なポイントだ。
長机の裏からレンチを投げる。ゾンビを追い越して壁に当たり、コンクリートの床に落ちたレンチはカランと乾いた音を立てた。
今度の反応は顕著だった。立ち止まって揺れていただけのゾンビが、突如として活発に動き始めたのだ。唸り声を強め、奇怪な足取りでレンチへと近づいていく。
それはしばらくレンチの側でうろうろと徘徊し、やがて何も見つけられずに元の姿勢へと戻った。
わかったこと一つ目。ゾンビは音に反応する、まあ、想定の範疇だ。
二つ目。おそらくだが、音を立てたのがレンチであることを奴は理解できていない。
ゾンビは単純に音源に対しての反応を示しただけで、何が音を立てたのかという思考はできないということ。それはつまり、音による誘導が容易であることを示す。
そして三つ目。ゾンビには立ち止まって静止する「休眠」状態と、外的刺激に反応して活発に動く「活性」状態がある。しかし、活性化したゾンビの機動力はかなり鈍重だ。
奴らの筋肉は動きこそすれど、人間のようなしなやかさは微塵も感じない。筋肉はガチガチにこわばってしまっているようだ。敏捷性という言葉とは無縁だと考えていい。
さて、それでは次の実験に移ろうか。
いよいよお楽しみの実験だ。そう、視覚である。
片手に鉄パイプを握りしめ、私は懐中電灯の明かりをつけた。
光に照らされたゾンビの体は、ひどく醜かった。
肌はところどころ腐り落ち、頭皮は力を失い髪がぼろぼろに抜け落ちている。腐った皮膚の下には灰色の筋肉が露出して、赤黒い血がぽたぽたと垂れ落ちている。
いざこうして照らしだすと、より一層腐臭が強まるような気がした。
光に反応して、ゾンビはゆっくりと振り向く。
濁った眼球。血混じりの体液を垂れ流す口。どろどろの肌。生前は三十歳ほどの男性だったのだろうか。精悍だっただろう面構えは、今は見る影もない。
私の姿を認めたゾンビは即座に活性化し、不気味な唸り声を上げながらよたよたと迫る。懐中電灯を床に置き、鉄パイプを両手で握りしめて、私はそれを待った。
しかし、ここで想定外のことが起きた。
歩こうとしたゾンビは机にひっかかり、つんのめって転倒したのだ。
視覚と脳の連携がうまくできていないらしい。脳機能はほとんど死んでいるのだろう。外的刺激に反応しているのは、文字通り脊髄反射によるものだろうか。
適当な障害物でもおいておけば、ゾンビは子供よりも簡単に引っかかってくれそうだ。罠を張るのは極めて有効だろう。
机につんのめったゾンビはうごうごと蠢いていたが、やがて緩慢に手足を振り回して周囲のものを叩き始めた。
いかにも適当に暴れているだけだが、その膂力は目を見張るものである。一発、二発と叩かれるだけで、机の天板がひび割れて、ゾンビの足に引っかかったパイプ椅子は簡単にひしゃげてしまった。
筋肉のリミッターが完全に外れてしまっている。筋繊維の破壊を厭わずに暴れまわる様にはさすがに肝が冷えた。あれに掴みかかられたら、とてもじゃないが振りほどけない。接近戦は得策ではなさそうだ。
暴れるゾンビはガンガンと大きな音を立てる。別の個体が反応したら面倒だ。次の実験で最後にしよう。
反撃を受けないようリーチを図りながら、振りかぶった鉄パイプをゾンビの右肩に叩きつける。パキッと肩が砕ける音がして、やつの右腕は動かなくなった。
その状態でも他の手足は変わらず暴れ続けている。まるで手足が別々の生き物のようだ。痛みを感じない暴れっぷりには空恐ろしいものがあった。
この死体は、体が動く限り暴れ続けるのだろう。
だったら、どこまで壊せば動かなくなるのだろうか。
左肩、右脚、左脚と。順番に破壊する。四肢の骨を破壊され、手足が動かなくなったゾンビはそれでもうねうねと動いていた。腰骨を破壊すると上半身だけで動き続け、背骨を折ると胸と頭を動かし続けた。
延髄を破壊しても目と口は動き続ける。ついには脳を破壊することで、ようやく奴は動きを止めた。
人間一人を段階的に破壊する作業。さすがに息も上がる。だけど、おかげで大切なことがわかった。
脳だ。
脳を壊すまで、奴らは決して動きを止めない。体中の持てる力をつくして、ありとあらゆる手段で動き続ける。
愚鈍で、単純で、しかし恐ろしいほどの膂力と痛みを感じない体を持つ怪物。
なるほど、これがゾンビというものか。
「なんだ」
懐中電灯を拾い、破壊されたゾンビの肉体を照らす。
四肢。眼球。鼓動。もう、どこも動かない。
ここにあるのは、全身を破壊された成人男性の残骸だ。
「思ったよりも、簡単そうだ」
そしてまた違和感が強くなる。
私は本当にこんな人間だったのだろうか。こんな残酷なことを、平気でやれるような人間だったのだろうか。
私は――。どうしてこんな風になってしまったのだろう。