そこに命はありますか?
「思ったより……やります、ね……」
脱ぎ捨てた茨の側に、真白はいた。
体躯は人型に戻っていた。一糸まとわぬ生身の体はあちこち焼け焦げ、黒い血が流れ落ちる。さすがに体力を消耗したのか、傷口をかばい、彼女は肩で息をしていた。
「真白……。もう、終わりにしよう……!」
「女王として命じる」
一言一言を際立たせて、彼女は言葉を紡いだ。
「近づくな」
その言葉に、全身が反応する。
体の中のXG-029が騒ぎ立てる。ここにいてはいけない、今すぐ女王から離れなくては。それが女王の命令ならば、何としてでも従わなければ、と。
抵抗するのは意志の力だけでは不可能だった。どれだけ足を踏ん張ろうと思っても、体が自然と後ずさる。命令に抗うことができない。そうすることは、種としての本能が許さない。
だけど。
私には、LIEがある。
「舐めんな……ッ」
感情を切り捨てる。本能を封じ込める。湧き上がるそれら一切をすべて無視し、機械の冷血に身を委ねる。
合理性の奴隷となれ。目的を果たすためならば、女王の命令だって踏みにじってみせる。
一挙手一投足の支配権を取り戻すと、私はハンドガンの狙いを定め直した。
「潰れろ」
真白の言葉とともに、凄まじい重圧が体を押しつぶした。
物理的なものではない。いや――三次元空間からの攻撃ではない。より高次の次元からかけられている圧力だ。
何をされているかを認識すると、LIEは即座にアルファ血清に働きかけた。多次元という環境に適応し、私の感覚は急激に広がる。五感ではないところで、私は私を縛る茨の存在を感知した。
攻撃は十七次元から来ていた。
この場合の次元数というのは軸に相応する。縦軸、横軸、垂直軸。通常ならば三つの軸に沿って広がる空間は、この場においては二十六本の軸が存在していた。
なるほど、これが多次元空間。
三次元にしか生きられない存在には歩くことすらままならない。
「邪魔だッ!」
二十次元方向に移動することで、私は茨をすり抜けた。
即座に体勢を立て直し、拳銃を構える。今度は躊躇わなかった。放たれた弾丸はまっすぐに飛び、真白の体に突き刺さる。
――いや。
そのまま、すり抜けていった。
おかしい、確かに命中したはずなのに。
もう一度引き金を引く。弾丸はやはりまっすぐに飛び、真白の体に突き刺さる。しかし彼女の体から血は流れず、弾はただ体を素通りするだけだ。
「一瞬でこれに対応したのは大したものですが、多次元空間においては私に一日の長があったようですね」
遅れて、弾が素通りした理由に気がついた。
私と真白がいるのは三次元ではない。二十六方向に広がる次元に、それぞれの軸をもって立っている。
複数の次元を経由した弾丸がまっすぐに飛ぶわけがない。三次元的には直線のように見えた軌道は、その実複雑にねじ曲がり、銃弾は明後日の方向に飛んでいってしまっていた。
「惜しかったですよ。でも、ゲームオーバーです」
六次元、八次元、十一次元、十六次元、二十一次元、そして二十四次元方向から、同時に茨が振り下ろされた。
滅茶苦茶な方向に体が吹き飛び、衝撃が体を貫く。一瞬に視界が暗転し、即座に明転する。
意識を失うことだけは耐えた。しかし私は、逆転の手立てを手放してしまった。
私の手を離れたオートマチック・ハンドガンを、茨の一本が拾い上げる。それは真白の手に渡り、彼女は躊躇なく拳銃を握りつぶした。
「これで、チェックメイトです」
銃はもう手元にない。抗XG特殊弾という切り札は失われた。
夜兎は電力不足で倒れ、女王の命令に抗う術をもたないギルガメッシュは部屋の隅にへばりついている。そもそもあの二人が動けたところで、多次元空間からの攻撃には耐えられない。
「海音さん。選択肢をあげましょうか」
無数の茨が私の体を縛り上げる。どこの次元にも逃げられないほど、徹底的に。
「追ってこないと約束すれば、命までは取りません。だけどもし追ってくるのであれば――」
「たとえ地獄の底だろうと、必ず見つけて連れ戻す」
ほとんど反射的に答えた。
本能であり、LIEでもあった。体中のあらゆる物が、私を私として構成する物のすべてがそれを望む。
絶対に譲らない。
私はもう、そうすると決めた。
「そうですか……。それは、残念です」
無数の茨は、真白が脱ぎ捨てた茨のドレスに私の体を押し込めた。
茨の海が体を縛る。棘という棘が体中を刺し貫き、全身から血が溢れ出す。
絞め殺されるのが先か、出血多量で死ぬのが先か。
どちらもごめんだ。
「もう一度聞きます。私だって、あなたを殺したいわけじゃない。本当に諦める気はありませんか?」
「何度聞いたって、同じだ……!」
束縛が強くなる。首が絞まり、体が痺れ、意識が徐々に遠のいていく。
何か、何か手はないのか。この状況を覆す何かは。
走馬灯が頭の中を駆け抜けていく。今この時から、私が施設で目覚めたあの時まで。時間が巻き戻るように、一つ一つの出来事が脳裏を高速で巡っていく。
この施設で目覚めてから、本当にいろいろなことがあった。才羽海音が生きた十七年の記憶に負けないくらいに、いろいろなことが。
それらの一つ一つを手繰り寄せる。命の欠片を拾い集めるように、私が生きたこの時間を。
その末に、一つの可能性が脳裏をよぎり。
同時に、冷たい感触が指先をかすめた。
「どうしてですか……。私が手を緩めるとでも思ってるんですか。私は人類の敵です。今更海音さん一人を殺すくらい造作もない。本当に本当にこれが最後です。これでも諦めなかったら、今度こそ……っ!」
「どうしても何も、決まってんだろ……っ!」
指先に触れたそれをつかみ取り、最後の力を振り絞って、茨から腕を引き抜いた。
握りしめたそれは、真白の拳銃。
初めて会ったあの時、彼女が顎下に銃口を当てていた、あの拳銃だ。
「私は、真白と生きるって決めたんだ!」
真白はこれを自殺用として持っていた。自らがXG-029の女王個体であることを、最初から知っていた彼女が、だ。
つまりこれに装填されているのは、真白を殺せる弾丸。
鋼を砕く嵐の弾に他ならない。
「そんなもの……。この状況で、よく見つけられましたね」
「運命が私に味方してんだよ」
「ふふ。それは、とても羨ましい」
真白はどこか気の抜けた、自嘲気味な笑みを浮かべていた。
「海音さん、まるで選ばれし勇者みたいですね。アルファ血清にLIE、ついにはそんなものまで持ち出して抗いますか。素敵です。やはり……。私のような、悪魔の王を殺すなら、そうでなくてはならない」
私がまっすぐ向けた銃口に、彼女は自ら額を押し当てた。
「選択肢をあげます。引き金を引くか、引かないか。もちろん答えなんて決まってますけど」
「真白……。どういうつもり……?」
「どういうつもりも何も、私は最初からずっとこれを望んでたじゃないですか。どっちでもいいんですよ、私がいなくなりさえすれば。海音さん、あなたに幕を引いてもらえるなら、本望です」
この距離なら外さない。外しようがない。一度引き金を引けば、放たれた弾丸は真白の脳天を貫く。
抗XG-029特殊弾の直撃だ。いかに女王個体と言えど無事で済むはずがない。
「迷う時間はあげませんよ。殺すなら早くしてください。できないなら死んでもらいます」
「……馬鹿言うな。殺す気なんてない。何度も言ってるけど、私は真白と生きるためにここに来た」
「まだ言いますか。そんな甘い言葉がこの状況で通用するとでも?」
「引き金は引く」
結論は、それだ。
私はこの引き金を引く。彼女の脳天に銃弾を叩き込む。その一撃で、この戦いに終止符を撃つ。
「だけど私は真白を殺したくない。だから死ぬ気で生きろ。死ぬほど痛いと思うけど、絶対に死ぬな。必ず生きて返ってこい」
「……はあ? 何言ってるんですか、頭おかしくなりました?」
「弾、二発はあるんだったよね。もし真白が死んだらこの銃で私も死ぬ。私を殺したくないならお前も死ぬな。わかったか」
「やだこの人怖い……」
本気でドン引きされていたが、譲る気はない。それしか手がないと言うなら私は真白を信じる。
如月真白という女王個体を。
この信頼に、命を賭けよう。
「いいか、今から脳天ぶち抜くけど絶対に死ぬなよ。死んだら殺す。私も死んで、地獄にもっかい殺しに行く」
「言ってること無茶苦茶すぎません? 私はともかく、海音さんも地獄行きなんですか?」
「たとえ地獄の底だろうと、必ず見つけて連れ戻すと言った。二言はない」
「2040年最新のヤンデレでもそこまで気合入ったこと言いませんよ」
「好きだぞ真白」
「最低だこの人」
覚悟はある。
殺す覚悟と、救う覚悟の両方だ。
「死ぬ気で生きろ。私が、生きる理由になってやる」
「……本当に」
もうどうにでもなれと。彼女は、諦めたように微笑んだ。
「変わった人ですね」
引き金を引いた。
命を奪うには、あまりにも軽すぎる感触がして。
それで、すべてが終わった。